1998年2月5日(木)

 暖房がストップした後、温水ポンプのある地下室が浸水したためにお湯もでなくなって3日間。いくら東京のように寒くないとはいえ、それでもまったく火の気がない家のなかは、朝起きると華氏55度ぐらい(よくわからんが、摂氏ヒトケタだと思います)まで下がる。顔を洗うときはでかい鍋でお湯を沸かす。もちろん風呂(といってもシャワーですが)は浴びられない。これ以上この状態が続くようなら、ちょっとホテルに1泊ぐらいして身を清めねばなあ(銭湯などないもので)と思い始めた今日、ようやく暖房もお湯も直った。なんと快適なのだろう。これが文明というものか。
 高校生のころに読んだ、小田実『何でも見てやろう』(角川文庫、現在は絶版かな?)のなかに、小田氏がアメリカに留学したとき(1963年頃だったと思う)ホテルだかどこだかで水道の蛇口をひねるといきなりお湯が出て驚嘆する、という場面があった。またその当時はアメリカの物価は日本の約2倍。僕がそれを読んだ当時でさえ、へえと思ったものだが、1970年代以降の生まれの人たちには全然ピンとこないんだろうな。

 小田実という人の作品は他にはエッセイ集を2、3冊しか読んだことがないし、あとは『朝まで生テレビ』の右翼団体特集のときに少し見た程度だが、基本的に好感を持っている。吉本隆明や柄谷行人一派は彼(の活動)を馬鹿にしているが、僕はこの点に関しては共感しない。たしかに民衆というものの得体の知れなさにどこまでも徹底して「絶望」する精神にとっては、ベ平連なんて「あぶく」みたいなものだってのはわかるし、国際情勢のなかで大局的にみればソ連を延命させただけかもしれないよ。だけどいいじゃないか。とりあえず脱走兵をかくまったっていいじゃないか。少なくとも小田氏は自分で言いだして自分で動いたのだし、後に『清貧の思想』なんて欺瞞そのものの本を出してガバガバ儲けたブンガクシャの反核署名なんかと比べるのは、アメリカ人流に言えば、フェアじゃない。
 僕のまったくの思いつきだが、「ベ平連」は一種のボランティア活動の先駆みたいなものだったんじゃないかと思う。森反章夫さんがずいぶん前に『朝日』に書いていたけど、ボランティアなんて、興味が湧いたら行って、本業が忙しくなったら中断すればいい。若い人たちが、真剣になりすぎて、「ボランティアとはいかにあるべきか」なんて議論に心身をすり減らしているのを見るのは辛い。「ベ平連」が固有の意味の政治活動というよりも、むしろボランティア活動の延長なのだとすれば、そこに世界史的意味や深い思想性を求める方がナンセンスだということになる。持続性もいらない。ボランティアは「あぶく」でいいのだ。いい加減でいいじゃないか。

 今日は久しぶりに大学の中央図書館(DOE LIBRARY)に行った。地上部分は白亜の堂々たる建物で、その前の芝生には天気が良くなると多くの学生たちが寝そべって本を読んだり、ほんとうに眠ったりしている。少し離れたところに学部生向けの図書館(MOFFITT LIBRARY)があって、こちらはコンクリートの平凡な建物。両者は数年前に地下でつながって、巨大な収納スペースができあがった。
 羽仁五郎がどこかで、大学の格を決めるのは図書館だと言っていたが(南原繁るの言葉だったかな?)、実に僕もそう思う。大学の中心は学生でも教員でも職員でもなく、図書館である。図書館をみればその大学の本質がわかる。
 とくに、学生の質はまるわかり。僕は、ある大学の学生の知的能力をその大学の入試の難易度が一義的に決めるとは毛頭思わないが、学生(あるいは教員も)の自己認識が実際の行動に反映してしまう(つまり、「どうせ自分たちはこの程度」と見切った学生は知的にやる気を失ってしまう)という意味では、厳然と相関関係がある、と睨んでいる。早い話が、東京大学や早稲田大学や一橋大学の図書館では、私語をしている学生なんかほとんどいないのだが(とくに東大の本郷ではほぼ皆無)、僕が勤めている明治学院大学の図書館は、2年ほど前に改築されて入れ物はたいへん立派になったにもかかわらず、ふだんは学生の姿もまばら、試験前は満員だが、そこらじゅうでべらべらお喋りをしているために落ち着いて勉強などできたものではない、という相変わらずの惨状なのだ。これこそが二流大学のあかし。

 僕は、図書館で延々お喋りしている学生ほど嫌いなものはない。汚職で私服を肥やす大蔵官僚や、家事使用人をいたぶって鬱憤晴らしをしているアジア諸国駐在員のエリート妻や、いまでも黒人をゴキブリ以下に思っているアメリカのレッドネックどもや、平然と「倫理学」を講じるセクハラ教授と同じぐらい嫌いだ。そういう出来損ないの阿呆学生を、親が甘やかしてきたから……とかいって免罪するヤツらも嫌いだ。
 僕は自分の講義では、絶対に私語は許さない。私語は一種の病気なのだから、どうしても講義中に私語をしなければならないやつは、まず教員に申し出て、相談すればいい。(頻繁にトイレにいかなければならない病気の学生が以前いたが、かれはちゃんと教務課を通じて断りを入れてきた。)僕は一人でも二人でも私語をしている学生がいるあいだは、講義を始めない。つまらない講義なら出なければいい。そもそも来たくて大学に来たんじゃない、とか言うやつも、まったく認めない。大学生はみんな、大学に行きたくて行っているのだ。
 もちろん、自由意志なんて概念を持ち出せば、膨大な哲学的知識が必要になり、僕の手(アタマ)に余る。特に分析哲学系の議論を展開するのは別の機会にさせていただかなければならない。思い出せる範囲では、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(邦訳みすず書房)のずばり「自由」と題された最終章で、鎖で牢獄につながれているときでさえ人間は「自由」だ、という趣旨の議論を展開していたことだけだ。いまはそこまでは言わないが、現在の日本の大学進学率は約40%(女子の4年制進学率だけだと約20%)であり、大学に行かない人の方が以前多数派であって、その人たちが別にバタバタ死んでいるわけではない以上、どんな言い訳を並べようと、すべての大学生は「好きで」「自分で選んで」大学に入学したのだ。これはほとんど分析的に真なる命題である。言い換えれば、現に大学生である以上、好きで・自分で選んでそうありつづけているのである。それは言語というものが意味を持つ限り、真なる命題である。

 このあたりの議論を続けていくと際限がないし、誰に向けて憤懣をぶつけているのかわからなくなってきたので、もうやめにします(理不尽に怒りをぶつけられたと感じた方、ごめんなさい)。最後に、UCバークレイで感心するのは、さすが、授業中に絶対私語がないことだ。いや、あたりまえのことなんだけどね。カリフォルニアの学生たちの受講態度は決して良くはない。日本の基準でいったら、もっとしゃきっとせい、という感じの姿勢でリラックスしている。けれども、教員が部屋に入ってきて、ガヤガヤしたなかで“May I have your attention,please!”と一回叫べばすーっと静かになるし、あんまりお喋りに乗っていてみんなが気づかないときは、誰ともなく「しーっ!」という声が拡がって、すぐに静まる。あとは講義中、どんな大教室でも、私語なんかしているキチ○イはいない。質問などの発言は活発に出るけどね(悲しいのは、先生の話はほぼ聞き取れるのに、学生の発言は相変わらず良くて20%ぐらいしか聞き取れないことです)。
 ひとつ意外だったのは、日本と同じように、決まった時間から10分ぐらいすると先生がふらりとやってきて(その後も学生は続々教室に入ってくる)、終わりの時間のちょっと前ぐらいからざわざわしはじめ、早めに授業が終わることだ。留学関係の本なんかを読むと、アメリカの大学では、教授は時間より前に教室に来ていて、授業は正確に時間通り、遅刻するぐらいなら欠席した方がよく、アサインメントを読んでこなかった学生はどんどん置いてきぼりにされる、なんて怖ろしげなことがどれにも書いてあったのだが、嘘だったのかな。それとも、これがカリフォルニアなのだろうか。(午後10時42分)

    

  UCバークレイの図書館の内部。左は1階のフロアから下を見おろしたところ。右は、地下3階の開架式書庫です。