1998年3月5日(木)

 立岩真也『私的所有論』(勁草書房)。この斬新で驚くほど豊かな内容を秘めた書物を「何々学の本」というように分類することは難しい。主に取り上げられている問題群は、いわゆる「生命倫理学」(bioethics)に含まれる脳死・臓器移植や妊娠中絶における自己決定権などである。議論の進め方は極めて哲学的である(先日、偶然バークレーでお会いした倫理学者の土屋貴志さんも、very philosoficalと評していた)。しかし、「我々自身が抱いているある感覚を徹底して尊重していくなら、さまざまな具体的問題がどのように見えてくるか」という構えがとられているところからは、これを紛う方なき社会学の傑作であると言いたくなったりもする。それは、市野川容孝さんが『週刊読書人』の書評で書いていたように、デュルケーム以来の社会学的伝統の延長上に位置づけられるという意味でも言えるのだが、ここでは、あくまでもわれわれの「現実」から議論を立ち上げているというより素朴な意味でそう言っておきたいと思う。

 タイトルは『私的所有論』だが、「私的所有」という概念についての解説本ではない。むしろ議論の開始早々、「私的所有」の自明性は解体され、それを倫理学的議論の前提に置くことは棄却される。このように紹介すると、「ははん、近代の〈個人主義〉の行き過ぎを批判して、京都学派っぽい〈関係主義〉をもっともらしく語るのね」という予想を立てる気の早い人がいるかもしれないが、必ずしもそうではない。なぜなら結論だけを取り出すなら、著者は妊娠中絶や延命治療などにおける当事者の「自己決定権」を肯定しているのだから。私的所有の否定と自己決定権の肯定、これら、一見すると相反するように見える二つの事柄をどのように結びつけるのか? これが本書の企ての核心をなす点である。

 「私的所有」の否定はそう簡単ではない。「私がつくったものは私のもの」という感覚は確かに私たちの奥深いところに根ざしてしまっているからだ(それが自然すなわち本能的なものなのか、それとも慣習的なものなのかという起源の詮索はどうでもいいことである)。だがこれは、突き詰めて考えてみるとそれほど一貫した論理でもないことがわかる。なぜなら誰かがつくったとは言えないのに誰かのものとされているものはたくさんあるのだから。それが最も明白にあらわれるのは「身体」をめぐってである。私の身体は私がつくったものではない。それにもかかわらず、「私の身体」――このように表記することがすでに論点先取を犯すことになるのだが――が「私のもの」であるという感覚は、私的所有の基本とされてきた。だがそれは論証されたわけではなく、一種の信仰として、近代におけるすべての哲学的・倫理学的議論の前提とされてきたのである。

 むしろ、それを問われない前提とするということ自体が、近代思想であるということ(の少なくともひとつの要素)だったのだろう。だが歴史的状況が変われば思考の条件も変わる。ロックやミルたちは、人間の臓器をその持ち主の死後どのように用いるべきかといった問題と格闘する必要はなかった。それを、本人の意志=遺志だけにもとづいて決めるべきだという一方の判断が、しかしそれではすまないのではないかという他方の逡巡とせめぎあうような状況を生きる必要はなかった。私の生の限界を定める封建的また王権的な権力から身を――文字通り――引き剥がすことが問題のほとんどすべてであったとき、自己決定におけるパターナリズムの落とし穴なんていう屈折した問題は存在しなかった。したがってこれは明視する力の高低の問題ではない。ジョン・ロックJ・S・ミルは、それを問わないことにおいてもたらされうる思考を最大限に展開した人たちだった。(おそらく労働価値説に固執したマルクスもまた。)だがわれわれは、今もなお近代的な諸原理・諸価値に条件づけられているとしても、それらを何段かの屈折ぬきに受け取ることはできない、そのような状況によっても条件づけられているのである(これは、いわゆる反近代的な諸価値――関係だとか、共同体だとか――を持ち出すということとは違う。自己、自己決定、自由といった近代的諸価値そのものの屈折である)。
 こうしたことは別に新しい発見ではないが、しかしいざそれを目前の諸問題に適用するとどうなるかと言うことを、単に「考えることが大切だ」と繰り返すだけではなく、実際に考え、「答え」を探し求めた人は、実は少ない。それをやってみせたのがこの立岩氏の著書なのである。

 とは言っても、著者は「私的所有」なんて乗り越えなきゃだめだ、などとアジっているわけではない。そうではなくて、それは絶対の根拠にはなりえないこと、それを振り回すだけでは錯綜した議論をときほぐすことはできないこと、先に進めないことを指摘しているのである。それではどうすればよいのか? そのように「私的所有」を相対化するだけでもまた、なにも解決しないはずだろうから。
 そこで立岩氏が立ち上げるのは、「他者を享受する」という、われわれに深く根ざした、もうひとつの感覚である。これは慎重につかまなくてはならない。まず、これは第一義的には「倫理」ではなく「欲望」なのである。著者は、たとえば優生学に否定的な感じをいだくわれわれのその未分化な感覚そのものを分析して、その核心をとりだすのであり、ある種のポストモダン系物書きたちのように、とにかく他者他者と言っているのではないのだ。(私見では、おそらくこれはレヴィナスの「顔」をめぐる神話的な議論を支える姿勢と重なっているのだが、立岩氏はいっさいそうした他人の議論を参照しない。すばらしいゴーマニズムである。)要するに、「自分のものは自分のもの」と同じ程度にはわれわれが理解することのできるであろう、「よーく考えてみなよ、すべてが完全に自分の思い通りになったら、つまらないでしょ」というもう一方の、たしかに実在する感覚から一切を演繹し、「生命倫理」的諸問題に関してわれわれがつまづいている理由を明らかにし、さらにはそれを超え出て、いままで難しい難しいと繰り返されてきただけのいくつかの問題に、「こう考えるべきだ」(たとえば、積極的優生は禁止されるべきだ)と、「答え」を出しているのである。

 長くなってきたのでこの辺にしておくが、これはコロンブスの卵的でありながら実はたいへん地に足のついた立論であり、そこから展開される議論の手続きも極めて周到なものである。少なくとも、僕自身の仕事も含めて、僕が知っている限りの「生命倫理学」的議論としてはベストであり、しかも狭い意味でのそれを超えた射程を秘めた著作であることは疑いようがない。もちろんそうであるがゆえにこそ、いくつもの疑問が噴出してくる。まず、「私のつくったものは私のもの」「私の身体はわたしのもの」という感覚は、いかに両者が矛盾しており、またいずれも絶対的な根拠などないことがその通りだとしても、やはりそれはわれわれに浸透した感覚なのであって、放棄しようがないという事実を、『私的所有論』の議論にもう一度どう組み込んでいけるかということ。次に、「すべてが思い通りになったらつまらない」という感覚、すなわち最も深い意味での他者への欲望は、ほんとうにそれほど信頼するにたる出発点になるのか、ということだ。卑近な例で申し訳ないが、高校生のころ同じクラスのやつと交わした会話を思い出す。そいつは、父親が羽振りのいいテニスクラブを経営していて将来はバラ色の友だちの話をし、「いいよなあ、未来が開けていて」とため息をついたものだ。僕にはそんな決まった将来なんか吐き気がしたけれども。

 もうひとつ、p.412に出てくる「救命ボートの問題」について。「例えば大海上で幾人かがボートに乗っており、誰かが降りて死ななければそのボートが沈んでしまう。くじ引きでその者を決めることと、誰かをその者の属性ゆえに降ろすこととの間に違いがあるか。ここで、違いはあり、後者を認め難いと考えるとする。……」というように議論が進められていくのだが、この場合、例えば老人と子どもが入り交じっていて、僕が老人ならば、子どもを生かすために自らボートを降りるような気がする。それはそんなに英雄的でも絶望的な所作でもなく、「いいから、いいから」という感じの振る舞いにすぎないような気もする。したがって、「違い」はあるが、直ちに「後者を認め難い」とすることはできないと思う。何か、どっちの方向へ向けてか、議論の土台をずらす必要があるのではないか。ここでは「属性」が持ち出されるか否かだけが抽象的にとりあげられているわけだが、同じことをやっても、それを誰がやるかで是非が変わる、ということがあるだろう。また「属性」の内部分布も一様ではなく、これは許されるがこれは許されない、というものもあるに違いない。このような議論の余地は本書のそこかしこにあり、したがって倫理学的諸問題を論じる者はみな、本書を批判的に酷使して、さらに前進する権利を持っているわけだ。(午後9時49分)