1998年3月6日(金) 

 きのうの日記への補遺。どうして「他者の享受」という感覚の尊重が自己決定権の擁護を支えるのか?という肝心のところを飛ばしてしまった。その点を含めて、もう少し書き足しておきたい。

 「他者の享受」という感覚は、それ自体として強固に実在している、というわけではない。それどころか、「他人を思うままにしたい」という「他者の制御」という感覚の方が、はるかに日常的に実感できることだろう。そして制御への欲望は、私的所有の欲望ともうまくマッチする。要するにそれは、「私のものは私のもの、他人のものも私のもの」という私たちの願望そのものであるわけだ。

 では「他者の享受」をひとつの欲望として立てることはおとぎ話にすぎないのかというと、そうではない。それもまた確かに私たちのものとして実在するのだが、それ自体としてとりだせるのではなく、「制御」の欲望における矛盾として、それを突き詰めたときにネガティブなかたちで見いだされるほかにないようなあり方で実在しているのである。

 確かに私たちは「他人を思うままにしたい」。では実際にそれが実現できたらどうだろうか。きっと楽しいに違いない? 異性愛者の男の立場からいえば、すべて(でなくてもいいんですが、、、)の女を自分の好きにできるということは、広く共有された強力な願望だろう(え、アンタだけだけだって?)。だがここで、たとえば女を「思いのままにできる」ということは、強姦といったことではない。強姦には潜在的にであれ抵抗があり(そうでなければ強姦ではない)、それにもかかわらず男の暴力が貫徹されるのである。ここでいう「制御」とは、そのような抵抗の可能性そのものをあらかじめ奪うような、より根柢的な権能のことである。すべてが文字通り思い通りになる力のことだ。だからそれは、たとえば強姦という概念そのものをあらかじめ不可能にしてしまう。

 それだけではない。性愛関係ということでいえば、そこには恋愛の可能性もないだろう。少なくとも私たちが知っているような形態における恋愛の実際は存在しないだろう。自分が欲望する相手が、必ず自分をも欲望してくれることが完全に保証されているような世界では、どうやって相手の気を引くかとか、相手は自分を嫌っているのではないかとかいった問題は無意味なのだから。そしてもしも性という現象が、トマス・ネーゲルの論じるように(「性的倒錯」、永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房)「二人のあいだで生じる、お互いのお互いに対する欲望の重層的な相互認知」という関係をその本質とするのだとすれば、そういうコンティンジェンシーがそもそも存在しないこの世界には、少なくとも人間的な意味での性もまた存在しないということになる。

 もはや明らかだろう。「他者の制御」という欲望が貫徹されるときに起こることは、固有の意味における「他者」そのものの消去なのである。考えてみれば当然のことで、自己の世界をはみ出した、思うままにならない存在を私たちは他者と呼ぶのだから。したがって他者を制御したいという欲望は、それ自体が、制御しえない他者という存在を前提にしてはじめて意味をもつのである。だからそれは貫徹されてはならない。制御への欲望それ自身もまた、「他者の享受」という前段階によって条件づけられている。

 こうして、『私的所有論』では、「他者を制御しないこと」が、根源的な欲望であり、それゆえに倫理を基礎づけうる共通の土台として位置づけられる。そしてこれが自己決定権の擁護につなげられるわけなのだが、重要なポイントは、ここで立岩氏が自己決定という言葉を用いるときの「自己」とは実は「他者」である、ということだ。つまり「他者を享受する」という欲望を保障するために、そこで「他者」と呼ばれる存在における「自己」を擁護する、という構えになっているのである。おそらくこれを反転して、いまこれを書いている私の「自己」もまた「他者の享受」という倫理的公準によって擁護されるだろう。だがそれはあくまで先の構図の反転であって、それ自体が出発点にはならない。大ざっぱに言うと、「他者」はつねに「自己」に先立つということだ。このとき「他者」は、よくあるように「自己」と対立し、それを消去してしまうような位置を占めるのではなくて、むしろ「自己」という存在の条件として考えられているのである。私にとって制御しえないものとは、私にとっての他者であるが、そのようなものだけが自己として想定されうるのであり、かれが特権的に近しい領域をいたずらに侵犯してはならないということが、立岩氏の提出する「自己決定権の擁護」の構図である。

 再構成しすぎで、うまく書けていなかったらごめんなさい。立岩氏はこうしたことを、できるかぎり日常語の範囲で書ききろうとしているが、この発想そのもの(僕の解釈が的を得ていればの話だけれど)はいうまでもなく精神分析の自我論、とりわけジャック・ラカンのナルシシズム論の構えに似ている。そこでは、(小文字の)他者という存在が、それ自身の欲動を持っている限り、私の与えたイメージに回収され得ない、「穴」のあいたものとしてとらえられているのだから(例の「対象a」というやつですね。J.Lacan, Le Seminaire XX, Encore. Seuil. 1975. 解説書として、J・D・ナシオ『精神分析7つのキーワード』新曜社)。実は立岩氏は「欲望」という言葉を慎重に避けて、「感覚」というもっと日常的な言葉で押し切っているのだが、立岩氏の議論をその本来の方向とは別に、人間の関係性にかんする分析として読み、その理論的射程を測るには、精神分析を参照することは面白いと思う。それをやっていくと、たぶん最終的には、フロイトの「快感原則の彼岸」における生の欲動/死の欲動という、あの実によくわからん議論に行き着くと思うんだけど、それはまた別の機会に。
 ついでだが、「他者の制御」がちっとも望ましくないもんだ、というイメージは、ドラえもんの「どくさいスイッチ」という話が見事に示していると思う。実は以前、その話をつかって中島梓『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)の書評を書いたことがあるんだけど、どうしてもファイルが見つからないのでお見せできません。また、この話は、小泉義之『弔いの哲学』(河出書房新社)におけるレヴィナス解釈とも重なるはずなのだが、それもまたいずれ。

 今日のバークレイはとても気持ちのいい青空だった。これからずっとこうならいいのだが。
右の写真はバークレイの北側、エル・セリート市に入った辺り。画面中央は、ベイエリアが誇るBART(Bay Area Rapid Transfer System)、高速地下鉄みたいなやつの線路です。(午後8時57分)