1998年3月10日(火)

 きょう(正確にはきのう)は快晴、久しぶりの素晴らしい陽気だった。セーターを着て歩いていると汗をかくほどで、キャンパスにはTシャツ&短パン姿の学生もちらほら。日本からバークレーの付属ELP(English Language Program)にやってきた人と昼飯(レタスとトマトのサラダ)を食い、メールでいろいろアドバイスしてあげたお礼の「きんつば(栗入り)」をいただいた。夕方まで研究室で原稿の直し。同室の、アメリカ出身・UCBで博士号をとり、いまはイングランドのエセックス大学で教えているColin Samson氏に、「僕が知っている唯一のイギリス料理はフィッシュ・アンド・チップスだ」と言ったら爆笑していた。その後で、ここ数年はイギリス料理も改善されているんだと言っていたが。
 夜、アパートに帰って、先週録り貯めた日本製番組のビデオをつらつらと観ながら、ステーキ(ここは牛肉が実に安い、罪悪感なんだけど)の夕食、そして「きんつば」を食す。これがたいへんうまく、愉悦に浸る。ちなみに僕は「栗」が大好きで、モンブラン、栗蒸し羊羹、天津甘栗、マロン・グラッセなどは毎日でも食べたい。昔、たぶん明治製菓から出ていたその名も「栗」というチョコレートも大好きだったのだけど、いつのまにかなくなってしまったなあ。美味しいモンブランは、人類が数百万年の時を費やした果てに遂に到達した、究極の食べ物ではないだろうか。関係ないけど、きょう観た『料理の鉄人』は「牛のほっぺた肉対決」で、審査員の一人は景山民夫だった。なんか痩せてたな。僕は彼の審査員ぶりが好きだったのだが。

 いま読んでいる本は、G・W・F・ヘーゲル『精神の現象学序論』(三浦和男訳、未知谷)をゆっくり、フランツ・ファノン『アフリカ革命に向けて』(北山晴一訳、みすず書房)をあちこち、Judith Butler, Excitable Speech: A Politics of the Performative, Routledge.のイントロダクションを再読、オフィスでは優生学関係の論文をぱらぱら、そして寝床のなかでは、手塚治虫『海のトリトン』(秋田文庫)。
 ヘーゲルは以前、別の訳で斜め読みしたときはほとんど理解できなかったので(訳のせいじゃないです)、今度はあわてず、1日に数ページずつ読んでいます。ファノンの本は、まとまった著作以外の文章を集めたもので、『黒い皮膚・白い仮面』や『地に呪われたる者』とはまたちがったおもしろさがある。何というか、彼はやはり完成度の高い作品は残さなかったのだと思うのだけど、その眼力の鋭さとほとばしる文章は誰にもまねできないものであるということも確かなのだ。乱暴に言ってしまうと、物書きとしてのファノンは、一種のアフォリズム作家なんじゃないだろうか。そう思って読むと、彼の議論における論証の少なさは気にならず、その輝くような断定の濁流だけがページから溢れてくるように感じられる。バトラーの文章は、『ジェンダー・トラブル』(邦訳が遅れているようですね)の頃よりもさらにぐるぐると、同じような、しかし微妙にずれた文をひたすら重ねてゆくスタイルを押し進めている。かといって、ただ考えている頭のなかをそのまま吐き出したというのではなく、練り上げられた思考であることも十分に伝わってくるような、スタイリッシュさも備えているのだ。「侮蔑表現(hate speech)」の法的規制の是非を具体的な論題としつつ、言語行為と主体化の関係をしぶとく探ったこの本もいずれ邦訳されるようだ。
 そして『海のトリトン1』。これを読み出したら、眠るのがまた遅くなってしまった。手塚治虫については、いずれにまとまったことを書くつもりだが、とりあえず面白いのは、この巻の解説を書いている里中満智子にしても、中島梓にしても、女性作家が手塚について語るとき、申し合わせたように彼の作品のエロティシズムに言及していることだな。特に中島梓は、手塚を主題としては短いものしか書いていないけど、そこでは決定的なことを言っていて、いまのところ僕も彼女が提示した枠組みそのものからはみだすことは書けそうにない。もう遙か昔、まだ僕が少年だった頃(笑)、TOKONZでお見かけした中島氏の浴衣姿を思い出します。(午前2時39分)