1998年3月21日(土)

 きのう、ようやく運転免許を手に入れた。といっても写真入りのちゃんとしたやつはまだで、もらったのB6ぐらいのただの紙だけ。それでもこれで合法的にどこへでも運転していけるのだ!(たぶんちゃんとした免許証は、帰国までにとどかないだろう。免許関係の事務手続きは遅いことで有名だから。) 日本でも免許を持っていなかった(必要を感じたことがなかった)ぼくには、なかなかの達成感がある。すでに一般道も高速道路(Free Way)もむ免で走ってはいたが、やっぱり一応びくびくしてたものな。さっそく月曜日には、ワインの産地ナパ・バレー(バークレイから小一時間あまり)まで試運転の予定。
 それにしても、今回の免許取得にかかった費用は公式には$12かっきり。学科試験を受けるときに、管轄のDMVという組織にこれを払えば、1回の学科試験の合格につき実地試験が3回まで受けられる。ぼくはその2回目で受かったわけです。運転はとてもとても親切な知人(日本人)の農業経済学者の方に教えていただき、まったく不快な思いもなく、ただ同然で免許がとれた(多くの人は親とか友だちに習っているらしい)。だいたい10回ぐらい習っただろうか。まあその知人のご家族に1回夕食をふるまったが、こちらは2回ぐらいふるまわれているので、これは費用には入らない。これで、あと3ヶ月以上アメリカに滞在してから日本に帰れば、手数料3200円で日本の免許に書き換えられる。ほくほく。
 ついでだが、中古車は日本より割高だけど、車検などという制度はないので、大切に乗れば何年でも同じ車に乗っていられる。日本では2年おきに車検があって、そのたびに10数万円がかかり、しかも10年を超えた車は毎年車検を受けなければいけないそうですね。何のためにそんなことをさせているのでしょう? 人口当たりの交通事故死者数は、日本もアメリカもたいして変わらなかったと思うので、安全のためとは言えないだろうに。

 その前日の木曜日には、Robert Nozick氏の講演を聴きに出かけた。同窓会が毎年開催している「魂の不死性についてのフォースター記念講演」とかいうやつが枠組みで、テーマは「意識の場所」。
 ノージックさんはすでに『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社)と、たしか『生の螺旋』(原題The Examined Life、出版社は忘れた)の邦訳があり、つい最近『考えることを考える』(原題Philosophical Explanation、監訳者はたしか坂本百大氏、出版社は忘れた)も出たので、日本でももう広く知られていると思うが、アメリカ合州国を代表する哲学者のひとりである。1970年代半ばに『アナーキー・国家・ユートピア』でぶちあげた最小限国家の構想(Libertalianism=リバータリアニズム)のイメージがあまりに強すぎて、職業哲学者というにはあまりに政治的な存在と思われがちかもしれないが、『考えることを考える』の目次をみれば一目瞭然なように、哲学の伝統的な問題群のほとんどすべてに首を突っ込んでブリリアントな洞察をまき散らしている、怪物的な秀才である。『アナーキー……』も、たんなる市場礼賛/福祉切り捨て的反動として片づけられない可能性を持った書物であることは、たとえばその批判的な読解を通じてユートピアの相対性と絶対性について展開した稲葉振一郎『ナウシカ解読』(窓社)を読めば明らかだろう。もっとも僕はどの本も斜め読みしかしていないので、ここで突っ込んだ議論はできないのだが。。。(^^;)

 講演会場は同窓会の集会室で、細長い部屋に並べられていた椅子はたぶん300ぐらいだったが、立ち見・座り見も大勢出る盛況であった。同窓会主催なので年齢層はやはり高かったが、学生らしき若者も少なくはなかった。で、ノージック氏は身長180センチぐらい、すらっとした体格に明るい色のスーツを爽やかに着こなして、ほとんど俳優のようなカッコよさ。話し始めると、これが書いたもののイメージ通り、あくまでもにこやかな表情は保ったまま、やや甲高い声でびゅんびゅん喋くりまくる、IQ300系の秀才ぶりで聴衆を圧倒。開かれた講演としてはかなり高度な内容にもかかわらず、とにかく早口で、70分あまりの講演時間を一気に駆け抜けていた。以前、ハーバードに留学していた人から聞いた話によると、ある学生に面白い講義とつまらない講義についてたずねたところ、前者はノージックで後者はロールズと答えたというのだが、ロールズについては知らず、ノージックさんについてはさもありなんという巧みな喋りであった。当然、ぼくの英語力では微妙なところは聞き取れず、アウトラインしかわからなかったが、どうも「意識」についてのノージックの基本的な考えは意外と(そうでもないかな?)現象学(特にメルロ=ポンティ)に近く、機能主義なんかとは距離を取っているように思えた(MDに録音して、聞き直している最中です)。講演開催の主旨である「魂の不死性」については付け足しぐらいにしか喋らず、またはっきりした結論は出していなかったけれど、「もしも死後に生者との何らかの連続性があるとしても、それは生物学的な身体と結びついたわれわれの意識という作用とは別の何事かであろう」という言い回しから、およその考えはうかがえるだろう。

 これを『アナーキー……』のあの印象的な「経験機械」(experience machine)についての一節と並べてみるのも面白い(Anarchy, State, and Utopoa, Basic Books, pp.42-45)。そこでノージックは、〈人間を人工的に長期の睡眠状態において、脳を刺激することで当人の望み通りの経験を与える装置〉を望ましくないものと考える場合の理由について考察し、「こうした類の装置で最もしっくりいかないのは、それがわれわれに代わってわれわれの生を生きるということだ」(p.44)と言っている。彼は、生という現実は「経験」やまして(少なくとも教義の)「意識」などには還元され得ないことをそこで主張し、そのような意味での生を――その悲惨や挫折までも含めて――最もよく肯定する社会的仕組みとして「最小国家」を構想したのである。世界経済がもたらす圧倒的な不正・不平等の前では信じがたいほど能天気に見えるその社会哲学が、しかしいまなお一種異様に新鮮な魅力を保っているのは、社会システムには回収されきらない生の意味という次元の現実性を疑わないそのピュアな楽天性が、やはり読む者の精神に開放的な風を吹き込んでくれるからではないだろうか。それはある意味でとても軽い思想なんだけど、それもまた別の誠実さなのだ。リバータリアニズムについては、近年のノージックは考えを変えてきているようだが(僕はそこまではフォローしていないので知らない、これから勉強します)、陰鬱さ・蒼白さのかけらもないノージックさんの話しぶりを見て・聴いていて、そういう核にあるものは変わっていないのだろうなあ、などと考えたのでありました。

 とまあ、稲葉さんや川本隆史さんのような本職の哲学者も読んでくださっている(らしい)このページでいけしゃあしゃあと思いつきを書いている俺もかなり軽い人間なのだが、別にかまわんのだ。別に学会発表じゃないのだから、このページを読んで、「ノージックなんて始めて聞いたけど、そんなに面白いなら読んでみようかなあ」という人がひとりでもいればそれでいいのだ。ついでに読者諸賢にご教示いただけると嬉しいことをひとつお尋ねしてしまおう。講演のパンフレットで「consciousness」のつづりが間違って「conciousness」になっているのをとらえて、ノージック氏は「これはダニエル・デネットが意識を説明するのに持ち出すmultiple何とかの証明ですね」(「何とか」のところが聞き取れない)というジョークをかまして受けをとっていたのだが、最近邦訳も出てきているらしいデネットの本を読んだことのない私にはそれが何のことかわかりません。どの本を読めばわかるのか、どなたか教えてくださいませ。

 どうもノージック氏を見栄えも中身も「いいひと」みたいに描きすぎたので、彼の変態性についてもちゃんと書いておかなければならない。だいたい、面白い哲学者はみんな変態に決まっているのだ。ノージックのイカレぶりは、たとえば一般読者向けの哲学的エッセイThe Examined Life, Touchstone(『生の螺旋』)の最終節("A Portrait of the Philosopher as a Young Man")ににじみ出ている。彼はそこでこんなことを書いているのだ(訳は自信なし、邦訳書をご覧あれ)。
 「もしもわれわれが成長して自分の両親の親になり、また、成熟して両親の愛に代わる何かふさわしいものを見つけられるなら、その時われわれは自分自身の理想の親になるのであり、かくして円環は閉じられわれわれは完全さに到達するであろう」(p.303)。
 うーん、変態だ。まともな人はこんなことは考えないものだよ。しかもハリウッドの二枚目まがいのハーバード大教授がこんなことを書いていると思うと、なおさら含蓄があって、良いなあ。

 てなわけで、下の右の写真は記念にもらった直筆サインです。ちゃんとこちらの名前を聞いて、「加藤さん江」と入れてくれる人柄に注目。抜け目のないやつだ。(午後11時45分)