1998年3月28日(金)

 G・W・F・ヘーゲル『精神の現象学序論――学問的認識について』(三浦和男訳、未知谷)を読んだ。予想していたよりはるかに、ほとんど爆発的に面白かった。三浦氏の訳は懇切丁寧で、ただこだわりすぎてかえって古い樫山欽四郎訳(いまは補訂されて、平凡社ライブラリーに入っている)
よりわかりにくい箇所もあったりするが、訳者の序文や注釈によって与えられる補助的情報の豊富さも含め、全体としてはたいへん読みやすい。ドイツ語ができない僕には訳の正確さを云々する資格はまったくないが、なによりも日本語としてのリズムがいい。したがって難所が連続しても、文章の魅力で読み続けられるのだ。

 僕はヘーゲルには挫折し続けている。大学のときは『小論理学』の講読に出席していたが落ちこぼれていたし、『精神現象学』も何度も挑戦して断片的には読んでいるが、「わかった!」という気がしたためしがない。『哲学史』や『美学』は長期にわたる積ん読状態。まあ『法哲学』だけは、わかりやすい解説書が比較的多いおかげもあって、いちおう大まかな全体像はつかんでいるつもりだが、それも心もとない。というわけでまったくの入門者レベルなので、今度は思いっきり謙虚に、ヘーゲル先生のお書きになられていることをできるだけ丹念に筋道立てて理解しようとしている。いまは続けて樫山訳で「意識」の章へ入ったところ(実は英訳も持っていて、最初はそれで読んでいこうと挑戦したのだが、2ページぐらいで挫折しました)。

 『序論』から感じたのは、とにかく著者の沸き立つような若々しさだった。ヘーゲルが無味乾燥で静態的な「体系的」哲学者などではないということは、加藤尚武氏の著作(『ヘーゲルの「法哲学」』だったっけ?)なんかでも強調されていることで、そんなもんかなと思っていたが、確かにこのヘーゲル30代前半の著作には、いわゆる体系性や完成度などという観念とは縁遠い、渦巻く思考の軌跡が定着されている。同時代の思想家たちに対するお下劣すれすれの罵倒も、非常に親しみがもてるし(もちろんそれはマルクスにも受け継がれている)。精神の「運動」をひたすら強調する主張内容が、実際の「運動」のなかから迸るようだ。もちろん、ただ単に未整理な書物はたくさんあるのだが、そういうものとは違う。『序論』は『精神現象学』の本体が書かれた後に書かれたにもかかわらず、本体を要領よくまとめるどころか、その先へ行こうとしてしまっていて、やはりそれもまた「すでにあるもの」ではない「未だないもの」へ向かっての運動になっているのだ。行っては戻り、戻っては進み、おなじところをリングワンデリングしているかのように見えながら、しかし振り返ると確実に、以前とはわずかに違う場所に出ている、そうした運動においてしか書くことができないものをヘーゲルさんが書こうとしていることがよくわかる。
 もちろんこんな風に言うことは、「意識」がすべてを経巡った後に「絶対知」という地平において自己自身へと最終的に回帰する、その循環のなかにすべてを閉じこめようとしたヘーゲル哲学の本質に反している。彼にとって「いまだない」ものは、実は「すでにあるもの」の視点から懐古的=回顧的に見いだされるだけなのだ。それはそうなのだけれど、どうも僕には、少なくとも『精神現象学』の不安定な構成と線条性に欠ける叙述のなかには、そうしたヘーゲル自身の目論みをも裏切るような要素がぐつぐつ煮えたぎっているような気がしたのだな。というか、ヘーゲルがこの著作を新カント派的なきれいな体系にまとめきれなかったという事実そのものが、「絶対的な現実態についての認識の営みが自らの本性を完全に明確に知り抜く」(p.129)という境地の永遠に訪れないこと、したがって認識の運動はつねに運動として運動し続けるしかないことを予示している、というか。

 かつてある研究会で、永井均さんが、「自分で哲学が終わるかのように語る哲学者よりも、自分から哲学が始まるかのように語る哲学者の方が好きだ」という意味のことをおっしゃっていて、なるほどと思ったものだが、その時にも、また常識的にも明らかに前者に分類されるヘーゲルの『序論』は、どうも実はそういう分類を許さないもののように思えたのだな。いえ、単なる感じですけど。

 印象に残った箇所をいくつか、ランダムに紹介してみます。
 ぼくは子どもの時から、世界と言葉とはどのような関係にあるのかが不思議だった。たとえば、世界のすべてを言葉で表すことは簡単だ。「すべて」と言いさえすればいいのだ。でも、それはどう考えても空しい。なぜなんだろう?……というようなことだ。この疑問に対するヘーゲルの答えは、シェリングらの哲学を「形式主義」として批判する文脈のなかで展開されている。こんな風に。

 「始まり、原理、あるいは絶対的事態は、それがはじめて、しかも媒介抜きでいきなり言明されたにとどまるとすれば、単に一般態の域を出ない。私が「すべての動物」と述べたからといって、この言葉が動物学として通用するわけはない。同様に「神的なもの」「絶対的事態」「永遠不滅のもの」等々といった言葉が、それらに含意されている事柄をいい表していないことも明白である。ちなみにこうした言葉だけでは、事実上、直観されるものが媒介抜きの直接の事態として表現されているにすぎない。こうした言葉以上の事柄、例えば一個の文章への移行ですらが、いずれは撤回されざるをえない他の物に成る運動を織りなしているのである。この言葉以上の事柄は媒介運動なのだ。」(p.141)

 ただしこの分析は、こうした「媒介運動」がすべてその機能をまっとうして捨て去られるところでは、言葉は事物そのものと「概念」として一致するという考えに基づいているわけで、いわばヘーゲルは〈言葉と事物が一致する〉ことを前提にしているのだが、その辺をめぐって考えるべきことはたくさんあるのだろう。ここから先は、今回は省略しておくが。

 シェリングらに対する批判は次のように展開される。不動の絶対的なカテゴリーに現実のさまざまな現象を当てはめるのではダメだ、という主張だ。

 「何しろ、「同一の事態」が種々異なる材料に外部から当てはめられているにすぎず、こうしてあたかも種々の差異が見られるかのような退屈な見てくれを呈しているのだから。それだけ独自[対自的]に見ればおそらく真実な理念も、展開運動が同一の公式のこのような反復運動以外の何ものでもないとすれば、事実上はいつも、理念の始まりから一歩も出ていないことになる。」(p.124)
 「要求されているのは、さまざまの形姿が自分のうちからほとばしり出て、豊かさをくり広げ、自分自身を限定する区別を設けることだからである。……それなのに、この形式主義はこの単調さと抽象的な一般態とを絶対的事態だと主張してやまない。」(p.124-125)

 これと同じ主張は、『序論』のほぼ全編にわたって繰り広げられていて、ヘーゲルが何と差異化をはかろうとしていたかが嫌でもよくわかるようになっている。この点はとても面白い。最近でも、蓮見重彦の言った「出来事性」なんかの残響か、ある種の社会理論に対して「何にでもよく当てはまりすぎる理論は出来事の個別性を消してしまうのでいかん」といった種類の批判がなされることがあるが(『朝日新聞』書評欄における、大澤真幸に対する上野俊哉による批判、『図書新聞』における、S・ジジェクに対する東浩紀による批判など)、それらはヘーゲルによるシェリング批判と似ている。ところが、ヘーゲル/ラカン主義者を自認するジジェクはもちろん、大澤真幸さんも、大ざっぱに言ってヘーゲル的な理論家と目されるのではないだろうか。つまり上野氏や東氏の主張は、ヘーゲルによってヘーゲルを批判するというあり方をしているようにも思われるのだ。もちろん、こんなまとめに対しては当然、「いや、ヘーゲルこそが出来事の個別性を抹消してしまうのだ」という反論が直ちに寄せられ得るだろう。でもその場合、そうした批判はヘーゲルのシェリング批判とはどのような関係にあり、どう違うことになるのだろうか。うーん、もうちょっと考えてみます。

 ヘーゲルにおける「終わり」とはいわば僕らの目の前の平凡な「現実」のことであって、「始まり」はむしろ探求されるべきものだ。いま世界が在るというこの平凡かつ驚異的な事実に、いかに「知」が迫りうるかが彼の課題であった。そこにおいて「始まり」は「終わり」と一致し、「意識の経験」の円環は閉じられるというのがヘーゲルの夢想である。だがそれを具体的な世界史に対応させるのは本当は間違っている。ましてや歴史の運動は終わって、もはや未来らしい未来は存在しないなどとのたまうことは。それこそ「世界史」とか「理性」とかいうヘーゲル的概念の形式主義的な簒奪であり、むしろヘーゲルが批判してやまなかった「精神」の頽落形態ではないのだろうか。何が言いたいかというと、「未来」を真に救済するのは、実はすべてをいったん終わらせようとする哲学の方なんじゃないのかな、ということですね。本当に新しい世界を見いだそうとしていたのは、実はとてもそうは見えないヘーゲルさんの方だったりして……。

 ヨーコオノのコンピレーション・アルバム(1992年にアメリカで制作されたもの)を聴いている。サン・フランシスコにあるTower Recordのアウトレット店で買ったものだ。『オノ・ボックス』も持っているので、入っている曲はすべて知っているが、いつ聴いてもめちゃくちゃ格好いい。僕としてのベスト・トラックは「凧」という曲で、元は『ほぼ無限大の宇宙』という超名盤に収められたもの。ライナーにゆかりの人々が一言を寄せているのだが、シンディ・ローパーさんの言葉が泣かせる。「17歳で家を出たとき、紙袋に3つのものを入れて持って出たの。an art pad(何のこと?)と、ソックスを一足と、ヨーコ・オノの本『グレープ・フルーツ』ね。あと、犬のスパークルも連れてったんだけど、彼女は紙袋には入らなかったから。スパークルは死んじゃったけど、『グレープ・フルーツ』は今でも持ってるよ。」ほんとうの意味で育ちがいい人ならではの、余裕とユーモア、そしてそれらを包み込んだ真剣さ。僕がトリビュート・アルバムをプロデュースするとしたら、瞬間的にヨーコを選ぶけど、彼女に影響を受けた若手あーちすとなんて少ないんだろうなあ。シンニード・オコナー、ビヨーク、カウボーイ・ジャンキーズ、マイ・ブラディ・ヴァレンタイン、プロディジー、ゴールディー、オアシス、ナイン・インチ・ネイルズ、ブランキー・ジェット・シティ、エイフェックス・ツイン、プライマル・スクリーム、U2、マッシヴ・アタックなんかを揃えて、ヨーコの曲をやらせてみたいもんだな。ペイジ&プラントもいいな(笑)。(午後4時01分)