1998年4月1日(水)

 前回の日記を書き終わった直後、いきなり雹が降り始めて、小さく白い氷のつぶつぶが、激しい勢いで窓ガラスを叩いてた。十数分間の出来事だったけれど、一時は視界が真っ白になるほどで、ビデオカメラを手に持って戸外に飛び出してきた住民もいたところからみると、この辺りでも珍しいことだったに違いない。
 ここ二週間ばかりのバークレイは暑かったり寒かったり、やたらに晴れたり雹が降ったり、不安定な天候が続いている。でもそんなときは、暗くオレンジ色を帯びた雲の切れ間に、コバルト色の空がさっと見えたりして、なんだか美しい瞬間が見えたりもするのだ。
 

 誰もが述べ何千回も書いている話だと思うけれど、僕が小学生(上級生)のころの『週刊少年チャンピオン』は強力だった。ぼくのまわりでは「ドカベン」はそれほど人気がなくて、人気を集めていた双璧は何といっても山上たつひこの『がきデカ』手塚治虫の『ブラック・ジャック』だった。

 『がきデカ』の革命性はまだ誰もきちんと論じてはいないように思われる。確かにそれ以前にも、「ギャグマンガ」と称されるものは存在していた。ぼくも小学1年生の時習っていたヤマハ・エレクトーンの教室でもらった「ニャロメ」の人形を大切に持っていた。しかし、ページを開いた瞬間に文字通り「爆笑」し、終わりまで腹を抱えて息も絶え絶えに笑い続けるしかない、本当のギャグマンガは、『がきデカ』が初めてだった。ライバルの『マカロニほうれん荘』も面白かったし笑えたが、結局『がきデカ』の比ではなかったし、ピークも短かった。ぼくの学校では、『チャンピオン』の『がきデカ』のページを切り抜いて、給食中に牛乳を飲んでいるやつの目の前にいきなりにゅっと突き出し、牛乳を吹き出させるという儀式が確立し、それを避けて廊下を走りまわりながら牛乳を飲んでいるやつさえいた。『がきデカ』は確かに僕らを何かから解放してくれた。ちょうどビートルズが、叫びとともに少女たちを解放したように。その後も『がきデカ』に匹敵する、本当に呼吸困難に陥るほどに「爆笑」させられるギャグ・メーカーは、ダウンタウンの松本仁志しかいない。マンガにはそれを超えるものは登場していない。相原コージや吉田戦車は偉かったが、かれらの方法論では、結局は悲しくもその域には達することができなかった。

 そして『ブラック・ジャック』。ぼくの仲間たちにとって、手塚治虫は完全に現役バリバリの、それどころか絶頂期をいままさに迎えているマンガ家だった。虫プロの倒産についての新聞報道はおぼろげにおぼえているが、ぼくらにとって彼は復活してきた過去の人などではまったくなく、つねに先頭を走り続けてきた別格的な天才であり、何らのうんちく抜きに最高の人気を誇っていた。もちろんぼくにとっても同じだったし、それはいまでも変わらない。ただぼくの場合は、その後の『三つ目がとおる』等にはそれほど関心がなく、むしろ『ブラック・ジャック』から遡って過去の作品を読んでいき、その過程で繰り返し驚愕を味わうことになったのだったが。

 手塚についてはいつかある程度まとまったかたちで書かなければならないのだが、短く散発的にながら、そこでほとんど決定的なことを言ってしまっているのはやはり中島梓だ。たとえば、秋田文庫版『白縫』の「解説」や、『コミュニケーション不全症候群』の一部に彼女の考察は書きとめられている。いまのところぼくは彼女の読み方の枠組みから外に出ることはないし、別に出なくてもいいと思っている。基本的な認識を共有しながら、彼女よりもある部分については鋭く深く切り込んで行ければそれでいいと思う。

 つい先日も、一週間にわたって、日本から運んできた『ブラック・ジャック』文庫版全巻やその他のいくつかの作品を読み耽っていた。ときどきそういう時期がある。そのたびに確信を深めるのだが、手塚は自ら自嘲的に提唱した(そして大塚英治がそのまま無思慮に手塚の限界を言う際に持ち出す)「マンガ=記号」論を、自らの作品においてしばしば裏切っている。だがそれは、彼の絵が図抜けて描写力があるということではない。ポスト手塚のマンガ家たちのなかで、「絵」描きとして最も優れた才能を持ち、自らもそれを自覚的に利用した作家は言うまでもなく石森章太郎だが(『リュウの道』等の絵はやはり驚異だ)、絵の力だけによって何か得体の知れないものを表現してしまう力量においては、やはり手塚よりも石森の方に分があったと思う。ぼくが言いたいのは、たとえば「カノン」という小品にかいま見えているような部分だ。これは一種オーソドックスな怪談で、主人公の平凡な男が、すでに戦争で死んだはずの小学校時代の友人から同窓会の通知をもらい、懐かしい学校で、みな子どもの姿をしたままの級友や先生たちとつかのまの時を過ごす、という話である。そのなかで印象的なのは、かつて主人公が淡い恋心を抱いていた若い女性の先生が、子どもをかばって機銃掃射を受け、「スイカの割れたような顔」になって死んでいくシーンである。それは回想シーンとして示されているのだが、その瞬間だけは、主人公による回想の語りが途切れ、歴史的現在の話法によって、先生の一瞬の死が「絵」として提示されるのである。
 その絵は、やばいときに顔に斜線が入ったり、汗が一滴垂れたりする、あのマンガ的「記号」のストックとはまったく無縁に、ザクロのように砕け散る若い女の顔、いままさに飛び出ようとする眼球を、わずかなインクで的確に描いている。その意味でもそれは狭い意味での「マンガ=記号」の枠を十分にはみ出しているのだが、そんなことは本当は手塚にとっては自明なことだっただろう。むしろ手塚が「マンガ=記号」という粗雑な定式に込めた意味は、もしも「あの瞬間」を、どれほど達者な劇画的リアリストが完璧に描いたとしても、いや写真に撮りさえしたところで、そんなものは所詮は生き残った者どもが殺された者にあてはめる「記号」にすぎないではないかという、悪意と絶望に満ちたものだったのではないだろうか。

 手塚治虫は戦争と革命と性のマンガ家である。マックス・ウェーバーは『世界宗教の経済倫理序論』の「中間考察」(みすず書房)で、人間をして生命そのものを賭けるところまで熱狂させる出来事として宗教と戦争と性を挙げたが、手塚は宗教をそのものとして描くことなく、つねに国家や戦争と不可分のものとしてとらえた。彼の作品に登場するやばい国家の権力者たちはみな怪しげだ。そして宗教と戦争をなんのはばかりもなく一体のものとしてしか示さなかった手塚の正しさは、現在、日々証明されている。いや、むしろ手塚は戦争と革命と性をすべて不可分のものとして示したと言うべきなのかもしれない。このことを範例的に表しているのは中期の名作『人間ども集まれ!』である。そこでは人間における理性の野蛮への転化が、そこに生じる陶酔の空虚さが、余すところなく描き出されている。『アポロの歌』に登場するクローンの女王も印象的だ。これは『ブラック・ジャック』と同様に短編(中編だが)連作という、手塚の本領が最もよく発揮される形式が見事に生かされて、ドラマツルギー的にも映像的にも極めて完成度の高い作品群なのだが、話そのものも凄まじい。「愛」という感情がどんなものかを知りたいために人間の青年を利用しようとする独裁者の女王が、何度殺されてもクローンとして甦ってくる、というところまでは許せるが、ラスト間近で、広い部屋にだーっと並べられた数十個のカプセルのなかで今まさにクローンとして生育しつつある女王たちが、できかけの不完全なものも含めて、次々に惨殺されるシーンのグロさは、どんな猟奇マンガも及びもつかないものだ(最近の「鬼畜系」もので、これほどものすごいものにお目にかかったことはない)。

 たしかに手塚の作品は、しばしば覆いようもなく、差別的な想像力の方へ引き寄せられている。だがフリークスへの欲望を知らない者に、そもそも差別が何かということがわかるのだろうか。ファシズムの魅惑を感じたことがないものに、ファシズムを根柢から否定することができるのだろうか。よく知られているように、晩年の手塚は自分に対して「ヒューマニズム」というレッテルが貼られることを極度に嫌った。渋谷陽一も『黒沢明・宮崎駿・北野武――日本の三人の演出家』(ロッキング・オン社)の序文か後書きかで書いていたが、ぼくもTVでそんな光景を観たことがある。水野晴郎(笑)の司会で、『火の鳥2771』だったかの宣伝番組だったと思うのだが、水野が「ヒューマニズムうんぬん……」と手塚に振ると、かれは「いや、ヒューマニズムとかなんとかじゃなくて、ぼくは要するにロマンが好きなんだよ」と、TVとしてはちょっとドキッとするような強い口調で返したのだ。「ロマン」という言葉を、手塚は他の場所でも繰り返し使っていたと思う。それは、革命も反革命も、ファシズムもアナーキズムも、差別も反差別も、高揚も諦念も、深さも低俗さも、手塚の作品世界には「すべて」があると言った中島氏のとらえかたを、本人がすでに控えめに、さりげなく陳腐な言葉で先取りしていたようにも思われるのである。

 生前の手塚治虫さんとお話をする機会はなかったが、一度だけ間近で実物を見たことはある。TOKON7で、当時は幻の作品と化していた映画『盗まれた街』の上映会があったのだが、友だちといっしょにそれを観ていたぼくのすぐ斜め前に、恰幅のいい、ベレー帽をかぶった男性が、にこやかに誰かと微笑を交わしながら座ったのだ。それが手塚治虫だと気づいて、ぼくたちは緊張した。後でサインをもらおうと心に決めているうちに、20分かそこらすると、まだ映画の途中なのに手塚氏はさっさと出て行ってしまい、ぼくらは茫然と取り残された。手塚さんが、それぞれの映画の見所をあらかじめチェックしておいて、そこだけ見て回るというやり方で、忙しいときにも年間300本以上の映画を観て(?)いたということを知ったのは、ずっと後のことだった。(25時16分)