1998年4月18日(土)

 先週末から今週の水曜日まで、ハーバード大学でVisiting Scholarをやっている友人がバークレイに来て、我が家に泊まっていった。彼女はサンディエゴの学会に出席するついでにこっちにも来て、ぼくが籍を置いているInstitute for the Study of Social Changeで研究発表をしていったのである。もともとアメリカの大学に進学しようとして、高校のときに奨学金審査であと一歩のところまで行ったという彼女の英語は大したものだった。発音はまあうまいとはいえいわゆる日本人の英語っぽさも残っているのだが、社会学の研究発表ぐらいの用途なんかには全然困らないレベルで、ペーパーを読んでいるときよりもむしろその後の質疑応答に入ってからの方が流ちょうにやりとりをしていた。当たり前すぎるけど、やっぱり外国語ができると活動範囲が広がる、という事実を嫌というほど見せつけられてしまった。あんまり才能がないといって腐らずに、もうちょっと努力せないかんなあ、などと感じた今日この頃でした。

 アメリカでは英語しか読まない、と思いきる覇気もなかったし、どうせ日本から抱えてきた仕事をこなすためにはそういうわけにも行かなかったので、日本語の本はかなり運んできた。そのなかに、『AV女優』(永沢光雄著、ビレッジセンター出版局、1996年)という分厚い本がある。出版された当時、かなり話題になったので(朝日の書評でもとりあげられていたし――森岡正博さんが書いていたんだっけ?――、神保町の『東京堂書店』なんかでもずっと平積みになっていた)、読んだことのある人も多いだろう。タイトル通り、当時アダルト・ビデオの世界で活躍していた女性たちへのインタビューを集めたもので、1991年から1996年にかけて様々なビデオ雑誌に発表された文章が収められている。

 インタビューといっても、記録としてのそれではなく、著者である永沢氏のエッセイ集というべき要素も半分ぐらい入っている。核になるのはあくまでもAV女優たちの語りなのだが、質問の仕方も読み物としてのまとめ方も、この著者でなければ決してこのような滋味のある本にはならなかっただろうと思える仕上がり方である。内容は実はばらつきがあって、生い立ちを事細かに告白している人もいれば、どこまで本気なんだか、ほとんどわけのわからないおちゃらか話に終始するときもある。ところがそういった内容の厚みのあるなしにかかわらず、ここに登場する女の子(と、あえて書くが)たちの、二人としてこんがらがりようもない、それぞれのキャラの立ちっぷりはどうだ。たぶんそれほど長時間ではないインタビューのなかで、相手の人となりがいちばん際だつセリフやしぐさ、喋り方の特徴なんかを的確につかまえ、決してしゃしゃり出ないがしかし完全に自分を殺すのでもない絶妙の「立ち位置」をつねにキープして、話の内容ではなく、そのインタビューという出来事そのものを現代社会を読むための第一級の史料に仕立て上げてしまう、この著者はただ者ではない。

 いま「内容ではなく」と書いたが、この本を、たとえば「AVに出演する種類の女性たちの生い立ち」にかんする一次資料として扱おうとすることはそもそも間違っているだろう。そもそもAVとは虚構の世界である。女性たちの本名は明かされないし、年齢でさえ本当のところはわからない。本人たちの話も、不正確なところや誇張、そしてまるっきりの嘘だって含まれているだろう。ただしそれは、ここで語られているいくつかの悲惨な家庭事情やあまりにもぶっ飛んだセックスの実態がとても現実とは信じがたい、という意味ではない。少女が包丁を構えて母親の背中に立とうが、小六で両親が蒸発して弟と妹の世話をしなければならなくなろうが、養父とその弟に強姦され続けた後に救護院に入ろうが、やおいマンガ家のマンションで集団スカトロを繰り広げようが、そうしたエピソードの数々をそのまま信じることは別に難しいことではない。そのくらいのことはその辺にごろごろしているだろう。だがそうだとしても、そこに文字通りの事実とは異なることが記述されているかもしれない以上、やはりそれはそのまま史料にはならない。

 けれども、それでもやはり、この本はぼくらの生きている「現実」のある決定的な要素をしっかりつかんでいるという意味で、重要な時代の証言になり得ているのである。インデックスとしていえば、そこに描き出されているのは人生の多様性ということなのだが、それは画一的な制度と相対立するような次元のことではなくて、政治や経済や社会に何が起ころうと、そして人々がどんな方向へ押し流されていようと、その濁流の通り過ぎた後にどうしたって残ってしまうような「滓」としての、ほとんど還元不能な多様性なのである。そういう多様性は、少しも華々しいものではない。そしてそれは、自己決定や自律性から生まれるものではなくて(それらによってしか保証され得ない水準の多様性は、また別のものとして尊重されるべきであるが)、むしろ人生を根柢で条件づける偶然性や人間の修繕不能な「どうしようもなさ」からこぼれ落ちてくるようなものなのだと思う。西原理恵子はかつて、「どんな親から生まれるかは、ギャンブルみたいなものだ」と書いていた(『サイバラ式』)。西原さん自身は自分の親が好きな人なので、『ゆんぼくん』などではどうしても親を大切にしましょう的な話の方へ流れていってしまうのだが(それでも『ゆんぼくん』の、特に第3巻、第5巻あたりは不朽の名作だが)、自分の家族ではなく他人の家族についてスケッチした『サイバラ式』では、そういう偏向を許さない、親とか家族とかいう「どうしようもない」ものへのまなざしの、ほとんど零度の地点が書き示されていて、これは日本近代文学の現代におけるひとつの極北だと思ったものだが、そのような視線だけがすくいとることのできるような、微かで弱々しい多様性。

 それにしても、ここに登場するAV女優たちの人生の、誰もかれもどこかが壊れたような様子は何なのだろう。それは「ブルセラ女子高生」たちについてかつて宮台真司氏が強調した「普通さ」や「葛藤のない家庭」の光景とはあまりにも違っているように見える(『制服少女たちの選択』ほか)。やはり下着を売ったり、目立たないように買春したりするだけの少女たちと、親や周囲の人間にバレることを深刻に考えずにAVに出演してしまう女性との間には、何らかの断層があるのだろうか。そういえば宮台氏がインタビューした少女の誰かが、AVにまで出たらオシマイ、みたいなことを言っていたかもしれない(別の何かで読んだのかもしれない)。そこには確かに、無視し得ない差異が走っているのだろう。

 だけど、と立ち止まって考える。宮台氏の本で印象的なエピソードのひとつに、深夜、宮台氏のところに電話をかけてくる少女のことがあった。これから体を売りに行くけど、あなたが迎えに来てくれるんならやめようかな、みたいなことを言うのだ。ぼくは、買春がつねにいわゆる心の「闇」みたいなものをはらんでいるとは思わないけれど、しかし逆に、そういう言葉で表すしかない何事かとまったく無縁でありうるとも信じられない。宮台氏はそこから過剰なイメージをはぎ取り、「道徳」や「規範」(の無効化)といった身も蓋もない社会学的なカテゴリーに還元して分析するわけだが(それはやはり見事な手腕だったと思う)、こんなエピソードを書きとめたときには宮台氏も、そういうカテゴリーに直結できないものの存在には気づいていて、その上でそういう要素を文章のなかに曖昧なまま溶かしておくことを禁欲したのではないだろうか。で、ぼくは彼のように有能な社会学者ではないので(これは本当にストレートな意味でとってほしい。念のため)、目の前の人間とカテゴリーとの落差ばかりについ気が向いてしまうのだ。宮台氏は「ブルセラ女子高生」の内面(とひとまずは言っておくしかない)の多様性を還元して、ある一定の形式性のレベルで分析した。だが今度はそこで得られた概念的認識を梃子にして、永沢光雄や西原理恵子がその最高の瞬間にとらえたような多様性へとまなざしを沈降させてゆくことはできないだろうか。村上春樹『アンダーグラウンド』を「退屈な日常」として一蹴した宮台氏自身にはそうした志向はないかもしれないが、そのような往還運動を一冊に封じ込めるような社会学の本が書けるなら、それこそは社会学のイデアになるだろう。

 坂口安吾の「二七歳」という作品に、意気投合したバーの若い女給についての、こんな一節がある。

 「私が連れこまれた女のアパートは、窓の外に医院があって薬品の匂いの漂う部屋であった。女はううんと背伸びをして、ふと気がついて、背伸びをしたいなと思うときでも、する気にならない時があるわね、と言った。ほかに意味も翳もない単純な笑い顔だった。お人好しで、明るくて、頭が悪くて、くったくのない女であった。朝、目をさまして、とび起きて、紙フウセンをふくらまして、小さな部屋をつきまわって、一人でキャアキャア喜んでいたり、全裸になって体操したり、そして、急に私にだきついてゲラゲラ笑いだしたり、娼家の朝の暗さがないので、私はこの可愛い女が好ましかった。」

 もちろん安吾は、その女がそんな天使のような存在であるなどと、微塵も信じてはいない。彼はただ、本当は(内面は!)どうなのかといった下劣な穿鑿や、立ち入るべきでないところに立ち入るような残酷な好奇心などとは無縁であっただけだ。だからこそ安吾には目の前の(女であれ男であれ)どうしようもない存在の真実が見えていた。安吾のそのように透徹したまなざし、しかし神の如き透徹を錯覚してはいないがゆえに、見るべきものが見えるまなざし――すべてを見通す視線には、あらゆるものが透明であるがゆえに、何ものも見えないであろうから――の最高の瞬間は、小学校教師時代の経験を描いた「風と光と二十の私と」という作品にみることができると思う。安吾は教員を辞めるとき、ここに登場する「石津」という苗字の薄幸げな少女を女中として連れていって、やがて結婚しようかと「奇妙な妄想」を浮かべたりする。
 そしてぼくには、『AV女優』に登場する女性たちの何人かは、安吾がそのいくつかの作品とは対照的に緊張を解いた筆致で描いた、そうした女たちのイメージと重なって見えるのである。もちろんそんな「女」のイメージはぼくの「妄想」にすぎない。「妄想」とは無縁の彼女たちは、楽しく暮らしているだろうか。(24時57分)