1998年5月20日(水)

 もう午後7時になるが(サマータイムなので、それをやめて考えると午後8時)、バークレーは昼下がりのように明るい。家の東側の大きな窓には、いっぱいの樹々と青空。さっきまでぽっかり浮かんでいた雲もなくなった。いつまで明るいのだろう。こんな日は、薄暗い家のなかにいても、何だかほっとする。

 前々から不思議で仕方がなかったのだが、世の中には――男であれ女であれ――妊娠がわかって「驚いた」という人がいる。知人のなかにも何人かいるのだが、いったいどういうことなのだろうか。たとえば、何年も妊娠しようと努力し続けたがどうしてもできなかった夫婦が、あきらめかけた頃にひょんとできた、というならわかる。だがここでの例は、妊娠しようとして妊娠した場合ではないのだ。

 結果として妊娠した以上、やることをやったときには、男の方がコンドームをきちんとつけていなかったということであろう。もちろんコンドームが粗悪品だったということもありうるが――例の、「ゴムじゃないやつ」の回収事件もあったことだし――、しかし世界にその高度な技術を誇る日本製品に限って言えば、10年前に買って置いたものをいきなり使ったりしなければ、その確率は極めて低いのではないだろうか。あるいは他の避妊手段を講じていて、それが失敗したのかもしれないが、どうもそういうことでもないらしい。要するにあんまりちゃんと避妊をしていなかったようなのだ。そうだとすれば、一定の確率で妊娠が発生するに決まっているのだから、いざ妊娠したからといって、なんで驚いたり、慌てたりするのだろう?

 当事者たちがまるでアホ、という仮説を一応脇にどけて考えると、どうも世の人々というのは、ある場合にはとにかくひたすら激情に駆られて――オヤジ表現ですまん――やることをやってしまうのだ、という仮説がいまのところ僕の手元にはあるのだが、しかし12歳や13歳じゃあるまいし、選挙権ももらってるようないい年した連中が、セックスの最中にちょちょっとコンドームを装着するぐらいの手間を、「望まない妊娠」と引き替えに省略するなどという非合理的な行動をするなどということが、そうそう頻繁にあるのだろうか。それとももしかして、みんな「望まない妊娠」「意外な妊娠」が実は好きなのか? それとも、避妊をすると悪い霊が取りつくとか、何かわけのわからない迷信を信じているのだろうか。残念ながら僕の実感ではまったく想像さえつかず、「世の中には私の知らんことがまだまだあんなー」と、岡崎京子『くちびるから散弾銃』に出てくる愛すべきオシャレ女・サカエのようにため息をつく日々が続いている。

 そんな疑問を晴らしてくれるわけではないのだが、そんなのは甘い、世の中にはそんなもんじゃない、わけのわからんことが溢れてますよ、という事実を、甘ちゃんな私に高密度で叩きつけてくれる名著が、斎藤美奈子『妊娠小説』(筑摩書房)である。1994年に刊行され、著者の名声を一挙に確立したこの書物をいまさら紹介するのも気が引けるのだけれど、実は僕はこの本をずっと積ん読にしっぱなしで、つい最近、UCバークレーの東アジア図書館で借りて読んだもので。その噂にたがわぬ傑作ぶりにうなったのだった。

 ここで斎藤氏は、明治以来100年間にわたる近代小説の数々を「妊娠」のモチーフに合焦して網羅的に分析し、実に見通しのよい類型化を行なっている。豊富な具体例を挙げながら、ときには特定の作品の緻密な解釈を織り込みながら進められる分析は説得力に溢れ返っていて、たぶんここ10年ぐらいの文芸批評における最高級の収穫なのではないだろうか。

 どの頁にも切れ味鋭い文章が満ち満ちているので、どこかを抜き出して紹介することは難しいのだが、とりあえず上の「人は何で避妊しない(その結果として妊娠して、驚く)のか?」という疑問に対応する最終章から、一部紹介してみる。いくつかの「妊娠小説」から、避妊をしなかった理由が書かれた部分の実例を列挙した、その後の箇所。

 ……〈不明瞭だった〉り〈自分が恥ずかしくなった〉り、やっぱりどうも大仰である。それほどのことか? たかだか避妊が。
 A彼女が大丈夫といったから。
 B彼に任せてあったから。
 Cそれが愛情の証しだから。
 D気分が萎えるから。
 これが非実行型の「避妊をしなかった理由」である。          (233頁)

 こうした分析を積み重ねた果ての、「妊娠小説の避妊感覚」にかんする結論。

 (1)原則として避妊はしない。
 (2)よっぽど強力な「理由」や「動機」があるときだけ避妊を考える。
 (3)ただし、採用するのは避妊とはいえない「民話的方法」である。
 (4)稀にまともな避妊法を選んでも、正しく使いこなせない。
 (5)そして妊娠して、大騒ぎする。
 (6)ただし、なぜ妊娠したかはわからないので反省しない。      (244頁)

 なるほどねえ〜。これは小説の分析なのだが、これを読んで思うのは、世の人々は実生活においてどうも「文学を模倣している」らしい、ということだな。ここでの「文学」には、TVドラマなんかも含めて考えている。誰もが一度ぐらいは、「ねえ、あなた。できたみたいなの」とか何とか、はにかみながら夫に「受胎告知」をする妻、なんてシーンを読んだり観たりしたことがあるのではないだろうか。そして、いつのまにかそれが呪縛となって、自分もついドラマ風に(女の場合)、「ねえ、、、」と棒読みのようなセリフを言ってしまったりしているのではないだろうか(笑)。よく考えると冗談ではすまないことなのだが。

 それにしても、その筋の愛好家以外は思わず笑って忘れるしかない類型ぶりの「妊娠小説」群のなかで、谷崎潤一郎、川端康成、大江健三郎という三人の変態ぶりは凄まじく際だっている。彼らの作品も斎藤氏によってしっかりマトリックスのなかに位置づけられてしまっているのだが、そしてその位置づけはまったくもって的確なのだが、同時に彼らの作品の紹介や引用を読んでいると、やがて笑いもひきつる過剰さが突き抜けている。そこへ行くと、量的にも質的にも「妊娠小説」の大家と認定されている三島由紀夫は、良くも悪くも理性の人であり、狂気に憧れて結局果たせなかった常識人であるということがよくわかる。そんな副産物も与えてくれる、たいへん深みのある本であった。

 岩井俊二監督の小品『PICNIC』をビデオで観た。精神病院を抜け出した三人(CHARA、浅野忠信、その他1名)が、「地球の終わり」を見に行くために、あらゆる塀の上を――なぜ塀かというと、塀を超えると脱走で規則違反ということになってしまう、と彼らが考えたから――どこまでも歩いて行くというお話。マスターピースではないが、見事なSFである。ジョージ・ルーカスの習作『THX1138』のような味わいがある。これをSF以外として評価しても、的外れにしかならないだろう。しかもこれは――岩井氏の作品は『スワロウテイル』も『打ち上げ花火』もそうだが――映画というよりは本質的にマンガの文体、文法に従った作品であり、細かい仕掛けが映画的にみて学芸会レベルであることも問題にならない。『ブラック・ジャック』の各ストーリーが、真面目に考えるとどうしようもないご都合主義に満ち満ちていながら、マンガとしての寓話性において完成した作品群であるということがわかる人なら、『PICNIC』を佳作と認めることは難しくはない。
 SFのムードというものがあり、それを直観的に感じるかどうかが、僕がその作品をSFとして観るかどうかを決定する。映像作品に限って言うと、宮崎駿のTVシリーズ『未来少年コナン』は、歌のバックでコナンが海の上を板きれで滑っている(んだったっけ?)シーンが出てきた瞬間に、強烈なSFムードにくらくらする。そこではまだ舞台が未来だとか巨大テクノロジーがどうこうだとかは何も説明されず、たとえば前世紀の秘境を舞台にした冒険ものとみることも可能なはずなのに、それがSFであることは見紛いようがないのである。それに対し、どんなに宇宙人や宇宙船が出てこようと、たとえば松本零次の作品にはあまりSFっぽさを感じない。『宇宙戦艦ヤマト』にも感じなかった。あの作品には豊田有恒も参加していたはずだが、実は豊田氏の作品(小説)にも、あまりSFっぽさを感じたことがなかった。最近のいわゆるSF映画にSFムードを感じることはほとんどない(ただし『コンタクト』と『イベント・オブ・ザ・ホライズン』は未見)。『スター・ウォーズ』は、全体的にはそこそこ感じた程度だが、さまざまな宇宙人が集まるあのバーのシーンだけは素晴らしかった。『スター・トレック』劇場版の少なくとも第一作は、全編メロメロのSFムードに満ちあふれた傑作だった。タルコフスキーの『ソラリス』『ストーカー』は素晴らしいSFだが、これらに限らず、タルコフスキーの全作品が濃密なSFだと思う。他の映画についていえば、テレビで少し観ただけだが、僕にとってはソクーロフの作品もSF(それも最良の)である。アンジェイ・ワイダは、『地下水道』でさえ、微塵もSFではない。ゴダールもアラン・レネも違う。『去年マリエンバードで』でさえ、SFではない。ビクトル・エリセの作品には、きわめて微妙だが芳醇なSFムードを感じる。特に、『エル・スール』が素晴らしい。タランティーノなんてやつにはSFのかけらもない(ついでだが、僕には彼の作品はまったくつまらなくてどうしようもないのだが、一体何が受けているのだろう)。オーストラリア製の『ラスト・ウエーブ』ってのを昔観たけど、あれはかなりSFだった。『ピクニック・アット・ザ・ハンギングロック』もちょっとだけSF。以下略。

 ほんとうはここで、これらの具体的な直観を通約する僕なりのSFの定義を提出しておくべきなのかもしれないけど、そんなの誰も面白くないだろうからやめておこう。前回の流れで付け加えておくと、H・G・ウェルズの『タイム・マシン』は現在でもなおそのSFムードの濃厚さにおいて並び立つものがないほどの作品なのだが、僕がウェルズで一番好きなのは、「くぐり戸」あるいは「塀の上のドア」と訳されている短編です。ここにはウェルズお得意の新発明やマッド・サイエンティストは出てこない。日常のなかの亀裂が淡々と語られて行くだけなのだが、主人公が経験する「別の世界」の手触りが、他のどんな作品以上にSFなのだ。量子力学を陳腐にビジュアル化して、多様な世界を実体化して描くなんてのは下品なまねだ。SFは「現実」の意味そのものをいつのまにか揺るがしてしまう、というところまで届いていなくっちゃ。

 ようやく空の色が濃くなって、樹々の蔭が暗くなってきた。今日は結局、まったく外には出なかったな。 (午後8時10分)