1998年5月29日(金)

 エル・ニーニョの影響で異常気象が続いている。ここ数日はまたしても雨。昨年の今頃はこんなではなかった。気温は低いものの、毎日「おおカリフォルニア〜」という感じの青空が広がっていたのに、今年の5月はぐずぐずした天気の日ばかりだ。外に出るのが面倒で、オフィスにも行かず、ついつい家のなかで本を読んだりビデオを観たり、ぼけーっとWEBを眺めたりすることが多い一週間だった。

 バークレーに来るとき、一応立てた研究テーマは、「20世紀初頭のアメリカにおける優生学と女性」というようなものだった。とはいうものの、この日記にも書いていたとおり、日本から持ってきた仕事ばかりやっていたので、こちらはあまり進んでいない。在外研究もあと4ヶ月あまりとなったところで、あわてて史料のコピーをはじめたら、急遽一時帰国しなければならなくなり、借りていた本の延滞手続きができなかったために、戻ってきてみたら借り出しがブロックされてしまっていた。まだちゃんと問い合わせていないのだが、というか現実を直視するのがいやでずるずると先延ばしにしているのだが、どうも1冊あたり$10の罰金を何冊分か払わなければならない様子。あ〜あ。つい先日もクルマのブレーキがおかしくなって修理したら$600近くかかってしまったし、アメリカに来てから円は下がり続けているし、この4年ばかり、金銭面ではいいことが何にもない。

 とまあ、つい話がそれてしまったが、問題は優生学。あの「優生保護法」も「母体保護法」に改正されてしまったし、たぶん多くの人にとっては耳慣れない言葉かもしれないが、これは洋の東西を問わず、19世紀後半以降、現在に至る社会思想そして現実の諸政策の底流に潜む極めて注意すべき発想なのである。

 大まかに定義すれば、「優生」とはすなわち「人間の遺伝(学)的改良」という観念のことである。必ずしも問題は遺伝に限定されないとみることもできるが、ポイントはやはりそこにある。すなわち、優生学、もう少し広く言って優生主義・優生思想にとって、人間という存在を形づくる決定的な力は遺伝にあり、環境の影響などは小さなものである。だから人間の質を高めるには、遺伝の次元に介入しなければならない。ここからより具体的には、すぐれた遺伝的素質を持つ者どうしをかけあわせて優秀な子孫を得ようという「積極的優生学」(positive eugenics)と、欠陥のある遺伝子の持ち主たちが子孫を残さないようにして、人類の中から劣等遺伝子を殲滅していこうとする「禁絶的優生学」(negative eugenics)という二つの方向が分かれる。

 こうした発想はすでにプラトンにあったとされ、また世界各地の民俗思想のなかにもそんなような話は多く見つかるだろうが、それが現代的な意味での優生学(eugenics)として誕生したのは、社会の混乱とか文明の衰退といった19世紀的な危機意識と、そして急激に発展しつつあった生物学と結びついたときだ。それはドイツで生まれ、イギリスで学問的に興隆し、アメリカで性急に実行に移され、ナチスにも影響を与え、日本でも摂取された。と、過去形でかいているが、もちろん優生学は過去のものではない。先天的(必ずしも遺伝的とは限らない)異常のある胎児だけを中絶するという選別的中絶や、体外受精の過程において「よい精子」や「よい受精卵」を選別するという、今まさに発展しつつある先端技術は、まさに100年前の優生学者たちの夢の実現である。これは禁絶的優生学だが、数年前に日本にも斡旋業者が登場して話題になった「精子銀行」は積極的優生学の発想に基づくものだ。最近では、ジョディ・フォスターが精子銀行の凍結精子を使って人工授精し、妊娠したそうだ。かつてのように、精子銀行への精子提供者はノーベル賞受賞者に限るというわけでもなくなっているようだが、いずれにしても、優生学が今現在の、そして未来の問題であることがわかるだろう。

 話を20世紀初頭に戻すと、特にカリフォルニア州は精神薄弱者や精神異常者(とみなされた者たち)に対する「断種法」の制定と実行に熱心で、Stefan Kuhl, The Nazi Connection, Oxford, 1994.によれば、ナチスの優生政策責任者たちはカリフォルニア州での経験を非常に参考にし、また人的交流も密接だったようである。いまやアメリカを「自由の天地」として単純に憧れているようなお馬鹿さんはどこにもいないだろうが(もっともアメリカから学ぶものなんて何もないと吐き捨てる類の日本ナショナリストも同じくらいくだらないと思うが)、それにしても、学問・思想としての優生学の可能性とその政策としての現実化とを慎重に峻別したイギリスの学者たちに対して、本人の同意を得ない強制断種を含む数万件の断種手術を20世紀初頭の30年ばかりのあいだにいきなり実行してしまったアメリカという社会の極端さはすごい。

 アメリカ合州国のそうした優生政策は移民(特に東欧・南欧からの)排斥政策と深く結びついており、それがナチス(後期)の人種政策とも呼応したわけだが、日本では一見すると優生学と「人種/民族」との結びつきは明瞭ではない。というのは、日本では少なくとも1940年頃すなわち第二次大戦末期までは「八紘一宇」の名の下に民族政策としてはあからさまな排斥ではなく「同化政策」(という名の下の現実における差別)が主流だったからであり、「混血」への恐怖はむしろ敗戦後に浮かび上がってくるようである(この辺はまだちゃんと調べていません。帰国後の課題です)。ではこれをもって、日本の優生学は人種/民族を焦点化しなかったといえるかというと、そう簡単ではない。日本の優生学者はあくまでも日本民族という種の改良を唱えたが、そこではむしろ日本人イコール人類とイメージされるまでに、異質な民族のことはあらかじめ視野から落とされていただけではないのか。たとえば日本では、黄色人と黒人といった異人種間結婚が大規模な社会問題になったことはないが、そのことが示すのは、アメリカのように優生学の支持などを借りなくても、人種的多様性をこの国土から排除することが達成されてきたからにすぎないのではないか。ある意味で、日本の優生学は、人間の質という発想を、人種差別と結びつけるという、優生学そのものからすると邪道である迂回路をそれほど経る必要さえなしに、安んじて抽象的な「種の改良」という幻想に専心してくることができた、といえるのではないか。だが今後はそうはいかないだろう。今後、日本においても現在のシンガポールのように、人種/民族が優生学的テーマとして新しいかたちでせり上がってくる可能性は十分にあると思う。

 優生学についての文献としては、やはりダニエル・ケブルズ『優生学の名のもとに』(西俣総平訳、朝日新聞社)を第一に挙げるべきだろう。英米の優生学史についての広範なサーヴェイで、まずこれを読んで、後は自分の関心のあるところを漁っていけばいい。原書についている膨大な文献註は邦訳書ではカットされているが、これは仕方がないと思う。訳文も、もちろんいくつかの誤訳はあるものの、全体としてはたいへん読みやすい。日本については鈴木善次『日本の優生学』(三共出版)がいまなお唯一のまとまった書物。ケブルズの本に比べるとちょっと物足りないので、はやくこれを超える本をワシらが書かないとな。あとは、上に挙げたキュール『ナチ・コネクション』も邦訳が出るらしい。これ以上参考文献を知りたい人は、メールをくださればお教えします。

 ただし、僕は「優生学」に少しでも親和性のある発想(たとえば「五体満足であってほしい」とか)をイコール「悪魔の技術」「凶悪な差別」みたいにひたすら全面否定するある種の論調には同調しない。共感するのは、立岩真也『私的所有論』(勁草書房)のように、それが何であるのかを丹念に見極めようとする姿勢である。前にも似たようなことを書いたが、たとえばナチズムが何かを見極められるのは、ナチズムに何らかの魅力を見いだし、それに引き寄せられる人だけではないだろうか。ただ単にそれを「悪い」というためだけに、自分がそういうポジションにいる人間であることを証明するためだけに対象を利用しているような種類のやつらに、その対象の核心をつかまえることなんてできるのだろうか。『男がさばく』的スタイルの(反)フェミニズム本が、そろいもそろって馬鹿づら・間抜けづら丸出しなことを思い出してもよいだろう。H・G・ウェルズの名作『タイムマシン』の魅力の一端が、圧倒的に衰退していく遠未来の人類という――それがどれほど類型的な19世紀的階級イメージに侵食されているとしても――強烈なヴィジョンから生み出されていることを否定することが出来るだろうか(ウェルズの作品が優生思想を内包しているために、単純に面白がって読むことはできないという種類の論調には好感を持つけれども、それは、それにもかかわらずそのこと自体から湧いて出てくる面白さを否定しないという態度と並んであるのでなければ無意味だと思う)。人類という種の運命――向上であれ衰退であれ――という観念に目眩をおぼえないSFファンがいるだろうか。それとももうそんなのは古いのだろうか。その可能性は否定できないな。僕のSF観はしょせん、『果しなき流れの果に』から外には出ていないからな。もっとも、オールタイムベストとしては、レム『砂漠の惑星』を選びますが。

 英語(リスニング)の勉強という言い訳つきで、何本かビデオを観た。『メン・イン・ブラック』はたいへん面白かった。やっぱりスピルバーグはプロデューサーにとどまって、自分は監督とか演出とかしないほうがいい。本人の監督作は、特撮以外はまるっきりつまらないもん。なぜか『炎のランナー』も観たが、これも良かった。「青春映画」とはイギリス映画に固有のジャンルであるというのが僕の持論だが、この作品もそれを立証してくれている。なんてことない話なのだがね。何回目かの『アマデウス』も楽しめた。これは英語がたいへんわかりやすいので、リスニング初心者にお勧め。近所のタワーレコードで、『ブレードランナー』と『スローターハウス5』のDVDを買った。Reelというネット・ストアでは、『ブレードランナー』、ニコラス・ローグの『ウォークアバウト』、昨年公開された近未来SF『ガタカ』(優生学的に選別された人間しか宇宙飛行士になれない社会で、遺伝的に選ばれていないことを隠して宇宙飛行士になろうとする青年の物語らしい)のDVDを注文中。『ザルドス』『ラスト・ウエーブ』『THX1138』『ソイレント・グリーン』はまだLDまでしかないようなので、DVD待ち。『ピクニック・アット・ハンギングロック』はまだVHSしかないようだ。  (午後1時6分)