1998年6月12日(金)

 自分の論文集の校正、優生学関係の資料のコピーで忙しく、なかなかまとまった本が読めないでいたら、サッカーのワールドカップまで始まってしまった。アメリカで観られるのか?と心配していたが、どうやらちゃんと全試合TV放映があるようだ。

 初日はAグループのブラジル/スコットランド戦(2―1)とモロッコ/ノルウェー戦(2―2)。いやあ、やっぱりロナウドは凄まじいですね。ちょっと持ちすぎ?という場面もあったけれど、それを差し引いても限りなくスピーディでクリエイティヴでシュアーな個人プレー。もちろん流れの中で巧みなスルーなんかも見せて、にわかサッカー・ファンの僕が観た範囲では、あの90年のマラドーナに迫るかという切れ味だった。それでも1点差しかつかなかったのは、全体のつながりにまだ雑さが残ったのと、対するスコットランドのプレーも素晴らしかったから。中盤でブラジルに球を奪われながらも素早く戻ってよく守っていた。ただ、FWのギャラハーがいい動きで切り込んでも、「もう一人」がいなくてシュートに結びつかない、という場面が目立った気がする。
 モロッコのハッジも凄かった。縦のロングパス中心のちょっと大味なサッカーのなかで、胸のすくようなスピードでサイドからボールを持ち上げ、1対1でも軽やかにかわす動きはビューティフル。この大会中にもっとスーパースターになるのではないだろうか。

 2日目の昨日はイタリア/チリ戦(2―2)を観た。この試合で驚いたのは、チリの強さだ。個々の選手が力強いし、連携はイタリアに比べればちょっと雑だけど(イタリアの流れるような連携は群を抜いてビューティフルだから仕方がない)、それでも中盤ではよくボールを奪っていた。得点したサラス以外の攻撃陣も、決して後ろへは引かない、といった構えで、イタリアに貫禄負けしていなかった。試合は全般的に押しぎみだったと思う。それを何とか同点で切り抜けた動因は、あのR・バッジョの巧さに尽きる。スピードは往年より明らかに落ちていたものの、パスやコーナーキックの正確さと的確なポジション取りは、とても代表をはずれていたとは信じられない。圧巻は、残り5分を切って1―2で負けていたイタリアが、PKをとって同点に追いついた場面だ。そのときバッジョは相手ゴールエリア内に持ち込んでいたのだが、彼はふつうならそこからゴール直前の味方にパスを出すべきところをそうせずに、明らかに相手のハンドを狙って蹴ったのだ。そして、4年前のワールドカップで失敗したPKを自分で決めて、負けを免れた。あの状況で冷静にそんなことができるとは。TVで観ていても、ゾクッとしたものだ。これが円熟というものなのだろうか。穏やかに、丸くなるのではなく、より研ぎ澄まされるという意味での。
 ちなみに今現在は、フランス/南アフリカ戦をやっているが、どうみてもすでに1点を取ったフランスに分がある。南アフリカはボールがつながらず、困るとすぐにバックパスで、相手のミス以外では得点できるようには見えない。

 TV放映はESPNというスポーツ専門のケーブル・チャンネルがすべてやっているのだが、思わずうなってしまうのは、HONDA、CANNON、MASTER CARD、NIKE、BUDWISER、FEDEXに混じって、「ARMY」がスポンサーになっていることだ。もちろん軍隊生活の感動的に仕立てられたビデオ(いかにも「愛と青春の旅立ち」という感じの)を流して、兵役の志願者を募っているのだ。普段から、スポットのCMは頻繁にやっていて、「♪ゆ〜え〜す、あ〜みぃ〜」というCMソングもいつのまにか憶えてしまったほどだが、ホンダやナイキと何気なく並んで出てこられると、やっぱりちょっと違和感がある。試合中はCMはなく、画面の右上に得点経過といっしょにスポンサーのロゴが出ているだけなのだが、さっきまでHONDAと出ていたところに何気なくARMYという文字が出ているのである。アメリカでは、郵便局も「いかにUSメールがFEDEXやUPSよりお得か」というCMを流しているし、全体に公共事業と私企業との区別がつかないのだが(これは頭ではわかっていても、やはり実際に生活してみないと実感はできないことの一つだった)、軍隊も要するにひとつの「企業」として、他の企業と競争しながら、優秀な人材をなんとか確保するのに躍起になっている、という感じなのだ。いまやっているのは違うが、普段のCMでは「ARMYで4万ドルを手に入れて、大学へ行こう」みたいなメッセージも流していて、観ていると、おお、そりゃいいや、俺もやってみようかな、という気になってしまう。まあ実際には一日で寝込んで除隊させられるだろうが。

 ワールドカップなんかに入れ込んでいると、左派の友人たちからは、「そんなナショナリスティックな……」という意味のことを言われることがある(もっともそういう人はそもそもスポーツにあまり興味がないのだが)。WEBでも知人がそういうことを書いていた。自分はいかなる意味でも国家なんてものを肯定したくないと思ってきたのに、つい「日本代表」に特殊な感情を抱いているのに気づいてショックだった、というような話だ。
 僕はある面ではリバータリアンに近いが、日本は曖昧な立憲君主国をやめて「日本民主主義共和国」(内実もなかみにふさわしく)なるべきだと思うし、妙な(でっちあげの)伝統意識と(劣等感丸出しの)拝外主義に塗り込められた大国志向をやめて、特色のあるエレクトロニクス産業をもつ「アジアの一員」で全然良いと思うし、福田和也や宮崎ナントカみたいな「若手の保守」派には微塵のシンパシーも感じない。外国に出たこともない「庶民」が、「やっぱり日本がいちばんいいだろ」みたいなことを言ってるのも観てうんざりしたことも多い。ついでに言っておくと、スポーツが人民の不満を社会改革への志向から逸らす「体制の安全弁」として機能するなんてことも十分承知しているつもりだ。
 そういうことは承知した上で、しかし僕は「日本代表」を応援することに何の矛盾も感じない。僕はハイレベルのスポーツを観戦することがとてもとても好きなので、ナショナリズムのない代わりにワールドカップやF1グランプリやオリンピックのないユートピアなんかには住みたくない。もちろん本当は、そんな取り引きをでっちあげる必要などないのだ。両者はまったく別の事柄なのだから。僕は明日の韓国/メキシコ戦では韓国を応援するだろう。しかしもしも韓国と日本が決勝リーグに進んで対戦したら、何の躊躇もなく日本代表チームを応援するだろう。それと同時に、いわゆる従軍慰安婦に対する日本政府や上坂冬子みたいな「日本国民」どもの対応を決して認めないし、むしろ韓国人の友人と話をするときには、つねに微妙な緊張を忘れないだろう。国家などというものは実在しないが、日本代表チームはそこに実在する。これが決定的なポイントであり、日本なるものがまず先行して存在したから代表が選ばれて、ワールドカップに行けたのではない。岡田や中山や中田や川口や……がいて、彼らのプレーがあって、ある種の人々はそこから「日本」などという観念をでっちあげることができる、というだけのことなのである。

 それにしても、ブラジル人の若者と話をしたとき、やっぱり彼はサッカーが大好きで、「カズー」(ズにアクセントね)は自分のチームにいたんだ(サントスFC)とキラキラ興奮しながら喋っていたのを思い出す。僕はサッカーの専門的なことはわからない、たんなる彼のミーハー・ファンにすぎないが、やはり三浦和良がワールドカップのピットに立つ姿を見たかったな。特に「帰ってきたR・バッジョ」の活躍を観た後では。
 カズは、「日の丸と君が代のために」と言い続けてきた。日本代表としての試合の前に「君が代」を斉唱するのは彼ぐらいのものだ。けれども彼は別に日本主義者でもなんでもない。ブラジルにいるときには「ブラジル人として頑張る」と言っていたのだ。それを矛盾しているじゃないかなどとしたり顔でいえる馬鹿には、抜きんでた才能を武器にある世界を極めようとすることの孤独さなど決してわかりはしないのだ。(午後1時43分)