1998年6月14日(日)

 このところ、サッカーのワールドカップとNBAファイナルが重なって、TVでスポーツ中継の観戦三昧。まるっきりカウチポテトというやつになってしまっています。ちなみに、この辺りでは、「カウチポテトをやめて外に出よう!」みたいな公共CMをやっていて、前は「アメリカ人、アホや(笑)」と思っていたが、だんだん身につまされてきたなあ。

 日本代表はよく戦った。少なくとも、あるタイプの(はっきりいやぁ真の意味で「自虐」系の)サッカー・ファンがしつこく言ってきたように、「世界に出て恥をかく」ようなレベルでは決してなかった。ワールドカップ本戦に出られたことはフロックではなく、当然の権利だったのだということを十分に証明する試合だったと思う。
 だからこそ、今後はそういうレベルで――すなわち、アルゼンチンやブラジルと同じ舞台に立つというレベルであることを前提にして――僕らは日本代表の試合を見るべきだし、そうだとすれば、いくら厳しく批判してもしすぎることはない、多くの課題が丸見えの試合だったとも言える。まあスポーツ観戦好きの人なら見ていればわかったはずのことだし、そうでない人にはまるで退屈な話になってしまうと思うのであまり長くは書きませんが、誰もが指摘しているように、問題はひとえに攻撃だ。岡田監督が城を起用している理由はよくわかる。彼が最も長時間、広範囲に守備ができるFWなのだ。そして潜在的な決定力も持っている。点を取れなくても仕方がないアルゼンチン戦で城をフルに使ったのは当然だと思う。だがシュートを打たないFWにファンの批判が集まるのもまた当然のことだ。今日、途中から出場したロペスは決して悪くなかったから、クロアチア戦でも展開次第では、そして勝たねばならないジャマイカ戦では、中山、ロペスの2トップでもいいのではないか、と思った。
 そうそう、ディフェンスの方はあれで十分と評価してあげるべきではないだろうか。井原、中西は頑張っていた。バティもC・ロペスもオルテガもよく止めていたが、注文を付ければ、特に井原はせっかくクリアしても中にボールをいれるのですぐ逆襲されるのはなんとかしてもらいたいなあ。やっぱり少し膝を痛めているのかな。

 NBAの方は、なぜか昨年から、ユタ・ジャズのジョン・ストックトンを応援している。身長170センチ台の(バスケとしては)小柄な白人選手なのだが、とにかく上手いスーパースターなのである。昨年のプレーオフで、残り0秒で彼が放った3ポイント・シュートが見事に決まり、ジャズが逆転でファイナル進出を決めた場面の興奮は、一生忘れられないだろう。それまでバスケなんてほとんど観たことはなかったし、マイケル・ジョーダンは知っていても、ジョン・ストックトンなんて聞いたこともなかったが、その一撃ですっかり大ファンになってしまった。今年の2月、バークレーのお隣のオークランドまで、ユタ対オークランドの試合を観に行ったときは楽しかった(オークランドがあまりに弱すぎるので、試合としてはしょぼかったが)。今年はぜひともシカゴ・ブルズを打倒して優勝してほしかったが、またしてもそれはかなわなかった。ブルズに王手を取られて迎えた今日の試合、残り5秒で逆転された後、残り2秒で放ったストックトンの3ポイントは、あと数センチというところで決まらなかったのであった。

 ついでながら、今日はゴルフのシニア・ツアーに出ている青木功が優勝する場面も観た。他の選手がみんなキャップやサンバイザーを被っている中で、一人だけ丸い麦藁帽みたいなのを被って飄々とプレーしていて、なかなかよかった。

 先月はじめに一時帰国したとき、数冊買ってきた文庫本の中に、カート・ヴォネガット『ガラパゴスの箱船』(早川文庫)があった。しばらく放っておいて、このあいだ読んだのだが、確かに佳品でした。地球人が最終戦争を起こして100万年後になぜかただよっている霊魂の観点から、その100万年の前と後を物語る――厳密に言うと、ヴォネガットの小説には「物語」はないと思うが――という、まさにヴォネガット節。ただ、解説なんかでも紹介されているような大傑作かということになると、ちょっと疑問だな。僕にはどう考えても『猫のゆりかご』(早川文庫)の方がはるかに切れ味が良かった気がする。もっともヴォネガットの作品は、ちょっとでも鼻につきだしたらもう駄目だから、僕自身の方が変化したのかもしれないが。『猫のゆりかご』に感動してから、もう十数年が経っているのだものな。でも、あの作品に出てくる不思議な物質「アイス・ナイン」から広がるどこまでも白く凍った世界のイメージ(僕にとってはJ・G・バラードの結晶世界よりも鮮烈な)と、どんな微罪でも全部死刑という架空の国の穏やかな切なさは、ヴォネガット特有の説教臭さを包み込んで見事なヴィジョンに昇華していたとやっぱり思う。

 明日は、サン・フランシスコのクラブにCORNELIUSを観に行く予定。ワタクシゴトだけど、ワタシも明日で35歳になります。ちなみに昨日(日本時間だと一昨日)は父親の「四十九日」でした。小学五年生の頃、『ノストラダムスの大予言』を読んで、「1999年ということは、俺は37歳で死ぬのか」(これは計算違いで、本当は36歳だが)と思って怖くなり、一週間ほど眠れないことが続いたことを思い出す。その後、死ぬってこと自体はそんなに怖くなくなり、大学院生の頃に全身麻酔をかけた手術を体験してからは、決定的に怖くなくなった(痛いのとか、苦しいのはイヤ)。全身麻酔が効いている時間、それは完全な無である。暗闇とかではない。たんに「ない」のと同じなのだ。麻酔でさえそんななら、たぶん死もそんなもんだろう。そうだとすれば、死を死として恐れるには足りない、と思った。好きな人と別れるとかいう思いは悲しいけれどね。

 それ以前からのことだが、歴史に名を残したいとか、自分が存在した証として子孫を残したいとかいう気持ちは全然わからない。もしも、存在が何らかの意味で「残る」ものなら、それは有名人だろうが無名人だろうが関係なくすでにその人が存在したという事実によって残っているはずだし、そうでないのなら、何も「残る」ものなどないのだ。いま厳密に哲学的な議論をする準備はまだないのだが(つまり時間的に生成―消滅する存在者の存在という事実あるいは出来事が「残る」べき場とは何か、という点について)、直観的なことだけを言うと、それはどちらをとってもほとんど同じことではないだろうか、と僕には思える。そうだとすれば、何と爽やかなことだろう。そういう僕の感覚にとって、マクタガートによる「時間の非実在性の証明」には深いところで嫌悪を感じさせるものだ。大澤真幸『行為の代数学』(青土社)で触れられているのを読んで、その後、マイケル・ダメット『心理という謎』(勁草書房)に収められている「マクタガートによる時間の非実在性の証明の擁護」という短い論文を読んで、わかった!と一瞬思ったり、しかし次に読み返すといわゆる狐につままれたような思いにとらえられたり、を繰り返しながら、ずっと気にしてきた議論である。とても要約はできないので、興味がおありの方はさしあたり上記の書物でも読んでくださいと言うしかないのだけれど、ポイントは時間という現象の本質を、出来事のたんなる先後関係ではなく、変化すなわち「過去」「現在」「未来」という述語の相互背反性に求める場合、ある矛盾が生じるので、変化としての時間は存在し得ない、というものだ(何のことだかわからなくて当たり前です。すいません)。要するに決定論で、どう考えてもある種の詭弁にしか思えないのだが、ゼノンのパラドックスみたいなもので、よくよく議論を追っていると、反駁することが難しいのです。
 渡辺彗流に言うと、人間というものは、なんでだかはわからんが、エントロピーの増大する方向を時間軸の方向とするようにできている存在であるわけで、どんな決定論的な世界観を持ったとしても、それもまた不可逆的な時間線の内部でイメージするしかないのだから、本質的にはナンセンスである、というぐらいのことは頭でわかる。過ぎ去った世界もどこかに存在しているのかもしれない、なんてのは、「存在」ということのなかに時間を含めてしか認識できないわれわれにとってはナンセンスという意味でね。だいたい、決定論をドライブするある種のノスタルジックな感覚そのものが、時間に条件づけられているのだから。それでもマクタガート/ダメット的な決定論にはある種のまがまがしい魅力と、それゆえの不愉快さがあり、無視しておくこともできない。特に永井均さんの時間論(簡単なものだが、『<こども>のための哲学』講談社新書、で触れられていたと思う)を読んでから、かつて少しこだわって考えていた時間への疑問がまたわきあがってきて、そんなわけで、Michael Dummett, Truth and Other Enigmas.と、John McTaggart Ellis McTaggart, The Nature of Existence 2.なんて難物を図書館から引っぱり出してきては、拾い読みしたりしている今日この頃です。(24時49分)