1998年6月21日(日)

 高校生のころ、少し短歌(っぽいもの)をつくってみたのだが、ぜんぜんモノにならなかった。あるとき現国の教師に作品をみせて、「これは何百回もうたわれてきた叙情なんだよなあ」(=要するにありふれてる、ちゅうことですね)といわれたときはけっこう傷ついたりしたが、いま思うとまったく正当な評価であった(笑)。俳句に至っては、つくろうとしてもできたことがない。そんなわけで僕は、いわゆる韻文をつくるのは早い時期にあきらめてしまった。いまでも、曲はそれなりにつくっても歌詞がなかなか書けないので行き詰まってしまう。

 読む方でも、俳句についてはほとんど知らない。いくらかは読んだはずなのだが、作品を憶えているのは結局、松尾芭蕉と小林一茶ぐらいだろうか。芭蕉があまりにも群を抜いていて、様式の工夫を越えた絶対的な作品の力において彼を超えるものがないような気がする、というのも、あまり俳句に興味を持てない理由かもしれない。ほんと、芭蕉は凄すぎる。あれほどわかりやすく、しかしどのような傾向の作品もすべて洗練の極致を示していて、しかも何か「向こう側」を感じさせるというのは、まるで後期ビートルズのようだ。現代の作家では、数年前に大西巨人『神聖喜劇』(筑摩文庫)に引用されていた金子兜太の句(いまどうしても思い出せないのだが、「刑死の丘」という文言の入ったやつ)には衝撃を受け、人に教えられて金子氏が選者をやっている朝日新聞の「朝日俳壇」は書かさず読むようになったが、他の作家については何も知らない。ただし、つくった量よりは(なにしろほとんど零なのだから)、読んできた量の方が多いとは思う。なぜわざわざこんなことを付け加えるかというとですね、俳句というものは、日本全国(どころか世界中に)に素人俳人が溢れているわりに「売れない」、すなわち読まれない分野らしいからです。つくるのは好まれるが、読まれない。音楽なんかとは正反対だ。なぜなのだろう、という話は、たいして面白くなさそうなのでやめとこう。

 それに比べれば短歌にはいくらかは親しんできたと言える。中学生のころは若山牧水が好きだった。どんな「国語」の教科書にも載っている、「幾山河越え去りゆかば……」という歌とかね。まあ子どもというものは、ビートルズなら「レット・イット・ビー」や「ヘイ・ジュード」が好きで、「ヤー・ブルーズ」とか「ディア・プルーデンス」とかには拒絶反応を示すものなんじゃないかと思うけれど、もちろん「ヘイ・ジュード」が単にお子さま向けではない不朽の名曲であるように、いまでも若山牧水は好きだ。
 その次は石川啄木。有名な句はどれもいいのだけれど、スゲエ!と思ったのは、「痛む歯を押さえつつ 朝靄の中に赤い陽が昇るを見たり」(たぶん漢字使いは違います)だったかな、何か唯物論的とでもいいたくなるような、目の前のコップを語ることがそのまま哲学になるのだという命題の別のかたちにおける実現というか、くだらぬ自意識だの花鳥風月だのの呪縛を軽々と乗り越えた、存在の賛歌を感じた。ただ、さすがの啄木も、このレベルに達した作品はそれほど多くはなく、もう少し引いたところでぐちゃぐちゃした書き物がやはり多い。それはそれで僕も好きなのだが、その線では短歌よりも『ローマ字日記』(岩波文庫)だな。遊郭に行って、くたびれた娼婦の膣に指を入れてみたらいくらでも入って、とうとう握り拳がすっぽりはいってしまい、なんだか切なくなった、みたいな箇所も、啄木の場合は、得体の知れない感情にもだえ苦しんでみせているというわけでもなく、また別に読者にショックを与えることを狙って書いているわけではなく(いや本人はそういうことも考えていたのだろうが)、一種淡々としてしまっている。評論「時代閉塞の現状」なんかを考えてみても、それはやはり知性というものの作用なのだろう。あのどうしようもないエゴイスティックな生活破綻者を何となく許してやりたい気がするのはそのためかもしれない。

 でも短歌によって真に決定的な戦慄を強いられたのは、数年前に塚本邦雄のこんな歌を知ったときだった。

     炎天の縄跳びの少女永遠に縄跳びの圓駆け抜けられぬ

 あくまでも現実の枠の中にあって、ふだんは見慣れない細部や光景にちょっと目を向けてみるといった風情の作品が多い短歌のなかで、塚本邦雄の作品は水際だって異質なものだ。彼の歌はもっと暴力的に、安定した現実そのものをたじろがせ、読む者をどこともわからない別の光景のなかに立ち尽くさせてしまう。彼の作品に頻出する「炎天」という語句は、そうした力を集約しているだろう。そこには内面だの叙情だの、「文芸」という名の、ただ現実の得体の知れなさを隠蔽するという機能しかもたない、愚にもつかぬ暇つぶしは一切ない。道徳もない。それらは方法的に排除されているのだが、言うまでもなくそうした方法を支える何事かは単に方法に還元されはしないだろう。
 塚本の作品群に、その強度において見合うライバルは寺山修司しかいないと思うが、塚本には寺山のような、本質的な素直さというか、可愛らしさ(ああ親の愛を受けて育ったのだなあ、という感じの)はまるでない。もっともっと悪意が徹底していて、それゆえ塚本は寺山のように、「地獄」などという甘やかな言葉を使うことはしなかった。現実が怖ろしいものであるためには、何か怖ろしい怪物のようなものに襲いかかられる必要などない。何かが少しだけ、誰も気づかないうちにズレてしまうなら、少女はもう「縄跳びの圓」から駆け抜けることはできないだろう。何が起きたのかも、いやそれが起きたということそのものさえも、わからぬうちに。そうだとすれば、いったい誰が、ほんとうに先へ進んでいるだなどと断言できるだろうか?

 先週の月曜日(15日)は、観てきましたよCORNELIUS! サンフランシスコのまんなかの、JUSTICE LEAGUEという中規模(キャパ300人ぐらい)のクラブで、僕らが駐車スペースを見つけるのに散々苦労してたどりついた8時半ごろにはまだすいていたが、セッティングにてまどった後、やっと小山田氏一行が登場した10時45分には満員。客はみんながみんなCORNELIUSのCDを聴いてきたという様子ではなかったが、しかし、1曲目でうならせて、2曲目からはたいへん盛り上がった。ビデオと演奏のシンクロ、ネタをしこんだROLANDのポータブル・サンプラーをステージ前の客にさわらせるパフォーマンス(もちろん私も参加)、そして「ラブ・ミー・テンダー」まで決めてしまうテルミン・プレイなど、ギミックもたくさんあって楽しかったのだが、何といっても盛り上がりを喚んだのは、ギブソン・フライングVとマーシャルでガンガン攻めまくる、まるでフー・ファイターズのようなハードでタイトな演奏と、もちろん曲の良さだったと思う。そこには確かに、紛れもなく音楽があった。そしてよい音楽は人を幸せにするのだ。それは、明るい曲だろうが暗い曲だろうが関係ない。HAYDENのあの情けない楽曲の数々を聴いて、しかし嫌な気持ちになる人がいたとしたら、たぶん音楽を僕とはまるでちがうものとして経験しているのだろう。コーネリアスに話を戻すと、アメリカでのデビュー作『FANTASMA』からの曲を中心に、僕の推薦作『69/96』からの曲もちょっと混ぜて、ステージは約1時間。小山田氏は、最初はちょっと緊張している感じだったけど、客の反応に気を良くしてか、後半はリラックスして笑顔も見せていた。ぼくの隣で、最初はぼんやり眺めていた馬づらの白人にいちゃんも、後半では縦ノリ、叫びまくり、指でコーネリアス・サイン出しまくりで盛り上がっていた。
 日本ではもう、こんな2メートル以内の距離で小山田氏のステージを観ることなどできないだろう。とっても得した気がする。

 バークレーは6月になって2,3日だけ暑い日が続いたが、昨日、今日はまた暖房をつけたりしている。晴れ渡った青空と秋のような涼しい空気。一年以上前に、僕がここに来たころの、あの天気にもどった。下の写真は何日か前に家の東側の窓から外を撮ったものなんだけど、これで午後7時半なんだよ。(サマータイムを抜きにして考えれば8時半。)夜が来るのが遅いので、明るいうちに夕飯を食べることになって、どうも調子がでないのだ。
(午後5時48分)