1998年7月3日
 
 今日は髪の毛を切りに行った。背中まで届きかけていたロングヘアーをばっさり、スポーツ刈りまではいかないけれど、かなり短くしてしまった。だいたい2年ぐらい前から伸ばし始めて、途中で2回ほど整えてもらったけれど、長さは変えなかったので、本格的に切ったのは本当に久しぶりだ。僕の個人史上、最も長い状態から最も短い状態に、一気に変化したことになる。まったくどうでもいいことだとは思いますが。

 で、最初は行きつけの日本食レストランのおばさん(と呼ぶには若々しい人なのだが)に教わった中国系の女の人たちがやっている美容院に行こうかとも思ったのだが、休日――なのかどうか、実はよくわからないのだが、独立記念日の前日ということで、大学もいろいろな店も閉まっているところが多かった――である今日の昼間、そっと店を覗いてみると、お客はいなくて、三人の美容師さんたちが腰掛けてのんびりお喋りをしていたので何だか入りにくく、「安かろう、悪かろう」で有名な「SUPER CUTS」というチェーン店に行くことにした。とにかく短く、スポーツ刈りぐらいにするつもりだったので、まあどこでも変わらないだろう、という予測を立てていって、実際、特別に失敗ということはなかったと思う。

 あちこちでよく見かける同じ体裁の店に入っていって、カウンターにいたストレートヘアーの黒人のおねえさんと話をすると、2時間後にまた来いということになり、いったんアパートに帰って時間をつぶす。約束の5時になって出かけていくと、客は少なくなっていて、5分ぐらい待っていたら、僕の順番が来た。待っているあいだに読んでいた「SPORTS ILLUSTRATED」に載っていた髪の短いサッカー選手の写真を見せて、こんな感じにしてくれというと、中国系の女性の美容師さんは驚いた様子で、「ほんとに? 一気に切っちゃうの?」みたいなことをさかんに言う。あの、床屋&美容院特有のいすに座って、首に布を巻かれて、髪の毛に霧を吹きかけられてからも、たぶん僕と同じ歳かもう少し若いぐらいの美容師さんは、きれいな髪なのにとか、あとで後悔するんじゃないとか、写真に撮っとけばいいとか、いろいろ言ってくれる。それを適当に受け流して、いやもう写真はとったし、気分転換したいし、とにかく洗うのが面倒くさいんだとか返しながら、どんどん作業を進めてもらった。実は僕は、髪の毛を褒められることには慣れているのだ。どうも自慢でも何でもないのだが、僕の髪の毛はけっこうつやつやしていてきれいなものらしいのだ。同居人が言うには、銀座あたりにもっていってかつら屋に売れば、けっこうなお金になるという。それはいいなあと思って、もしかしたらアメリカにもそういう店はあるのかもしれない、というところまでは考えたのだが、探すのが面倒くさいし、そもそもどうやって探せばいいのかわからないし(「どこか髪の毛を買ってくれる店を知っていますか?」とは、よほど親しい相手でないとなかなか訊きにくい、ちょっと妖しい感じの質問ではないでしょうか)、どうしても今日中に髪を切っておきたかったので、今回はやめておいた。

 「SUPER CUTS」の中国系の美容師さんの腕は、決して悪くなかった。中国系らしくかどうかは知らないが、なかなか丁寧な手さばきで、あっさり仕事を遂行してくれた。シャンプーもブローもつかないとはいえ、これで10ドル95セントなら十分許せる、というぐらいの仕上がりにはなったと思う。どうもアジア系の客はアジア系の美容師が受け持つらしく、僕の後にきた中国系と思われる大学生風の男の子の担当も、中国系の女の人だった。最初に予約に来たときには、金髪の白人にいちゃんや、カーリーヘアの黒人ねえちゃんの美容師さんもいたからね。髪の質は人種によって全然違うので、このあいだオークランドでたまたま前を通った、黒人のおねえさんたちが暇そうに外を眺めている、いかにも昔ながらの美容院なんかにこの僕が突然入っていっても、あっちもこっちもお互いに困ってしまうだろう。

 というわけでアパートに帰ってきて、すっきりした気分で読みかけの村上春樹『辺境・近境』(新潮社)を読む。最近、メキシコに行こうと思い立って、メキシコ旅行のことが書いてある(と人から聞いた)この本を急遽買ったのだ。
 『ノルウェイの森』以降の村上春樹の作品、特にエッセイは、昔ほどは入り込んで読むことができなくなってしまった。簡単にいえば彼の「オヤジ」性があまりに露骨に表れ始めて、白けてしまう場面が多くなってきたのだ。もちろん、村上春樹といえば説教というぐらいで、『風の歌を聴け』でさえ、読みようによっては全編これ説教小説ともいえなくはない。しかしそれはまだ若い男がとつとつとやるからまだしも可愛いのであって、実際に50歳が近づいてきてしかもアメリカの新聞に「億万長者」と紹介されるほどに社会的成功を収めた、ほんもののおやじがオヤジ風を吹かしてしまってはいただけない。それに僕は、最近の村上春樹がつるんでいる安西水丸という人が、どうも好きになれないのである。

 というようなネガティブな構えで読み始めたのだが、いやあ、やはり読んでしまいます村上春樹。何がすぐれているというのは、たいへん言いにくい。たしかに気のきいた寸言もちらほらあるのだが、それが物凄く刺激的というわけではない。とにかく読ませ方がうまいのだ、というのが最初に言うべきことだろう。どこかで故・中上健次が、村上春樹の作品を指して、「正直に言うと、ああいう小説があってもいいと俺は思うんだよね。読める。リーダビリティがある」とか言っていて、その後には当然、深みがないといった批判が続いたのだが、しかし小説家同士として中上が村上を認めたのはよくわかる気がする。村上春樹の文章は、いわゆる「自己表現」なんてものではなくて、本当に文章を書くのが好きな人が書いている文章だなあということがしっかり伝わってくるのだ。当たり前じゃないか、物書きなんだから、と言うなかれ。書く人がみんな、書くことが好きなわけではない。むしろ書くことそれ自体は、表現だのコミュニケーションだの日記猿人のカウント稼ぎだのといった別の外的な事柄の手段にすぎないということの方が、圧倒的に多いのではないだろうか。ちょうど、日本のプロ野球選手の大部分が、どうみても実は野球なんか好きそうには見えないのと同じように。(その証拠に彼らは練習嫌いが多くて、オフには野球などせず、ゴルフみたいな他のスポーツばっかりやっているじゃないか。それに比して、サッカー選手は今のところ、ほんとうのサッカー好きが多いような気がする。実際、彼らは練習の合間にみんなでミニ・サッカーを屋って遊んでいたりするもの。)
 別の言い方をすると、村上春樹の文章は、書いてある中身がたとえ局私的な体験談や感想だったとしても、村上春樹の作品は、WEBに溢れ返ってトラフィックのかなりの部分を占めるのではないかと思われる「お願い、こんな私を見て」的な閉じた「自己表現」のようなものからは遠く隔たっていて、あくまでも世界の新しい面を読者に開いてみせてくれる、という感じがするのである。むしろそれゆえにこそ、彼は淡々と「どこへ旅しても、見つかるものは自分の内部ばかり」なんて書けるのだろう。

 しかしこんな感想は二次的なことで、今度の本はメキシコの様子を知りたくて読んでみたのだった。その結果、やはりあんまり安易な気持ちでふらりと入っていかない方が賢明、ということになった。内容については読んでみてください。というわけで、同居人との旅行は、やっぱりロサンゼルス経由で国境の町ティファナまで、ということにしておこう。メキシコには8月中旬か9月になったら、最大限死んでも死者一名にしかならない一人で行こう。その前に、7月末からアルゼンチンに出かける可能性も出てきた。知り合いが、日系アルゼンチン人のお知り合いに誘われて旅行するのに便乗しようかと考えているのです。その辺のことも、いつか書けたらいいな。(26時20分)