1998年7月8日(水)

 オランダ対ブラジル戦は見応えがあった。いや、サッカーのワールドカップの話です。ブラジルの主将ドゥンガがそう思っているように、今回のブラジルには4年前に優勝したチームほどの力はないので、そのぶん、最高の試合だったとまでは言えないのだけれど、それでも両チーム、特にオランダの、(少なくとも後半は)期待通りのスピーディな連携には、クラクラするような快感を覚えた。今日のフランス対クロアチアもいい試合だった。主軸のジダンが惜しいシュートを続けてはずし、苛立たしい感じが次第に高まりかけるなか、後半開始早々クロアチアに先取点を奪われたフランスを救ったのは、その1分後に炸裂したテュラムの同点弾。その後のテュラムの動きはほんとうに良かった。それが決勝の2点目につながったのだ。前半はそれほど目立たなかったのに。1点を取ったことが、すくなくともこの試合の残りの時間帯におけるテュラムを、それまでの水準を超える偉大な選手にしたのだ。いわば、得点は実力に先立つ。それは、単に活躍できて自信をもてた、というような心理学的命題などには回収できない何事かである。というか、そのような(それ自体は別に間違ってはいない)表層的な分析を可能にする条件そのもののことを、僕は言いたいのだ。それを、「現実」(realityではなく、the real)というものの本質と呼ぶこともできる。すなわち、ここには、アルチュセールが定式化し、ラカンがフロイト理論を展開する中で縦横に駆使した「構造論的因果性」があらわれているのだ。別の局面に置き換えて言うと、もちろんスポーツにおいては練習を積まなければ本番(試合)で活躍することはできないのだが、これを日常的な時間的順序において固定してとらえるのは観念論で、現実(real)には試合こそが厳密な意味で最高の練習である以上、ここでも試合は練習(=試合のやり方をおぼえること)に先立つのである。

 泳ぎ方がわからなければ泳げるはずがないと、日常生活を支配する観念論はわれわれに告げるけれども、しかし泳ぎ方をおぼえるには泳いでみるしかないということを、ほんとうは誰もが知っているのではないか。子どもが、自転車の乗り方をおぼえたと言えるのは、かれ/かのじょが現実に自転車を大人の手を借りずに乗りこなすことができるようになったときではないか。「現実」は、それに先立つ何ものも持たない。この基本原則さえおさえておけば――それは実はけっして易しいことではないのだが――いろいろなことがわかる。たとえば、「現実」を、いわゆる「本当の自分」に置き換えてみよ。いまの自分はつまらない存在だが、本当の自分はこうではないのだ、いつか・どこか別のところにそれはあるのだと言って、いわば練習(をしているフリ)ばかりして「試合」には決して出ない人たちに出会うことは、予備校や大学の教師なんかをやっていると、それほど珍しいことではない。けれどもマルクス―アルチュセールの線を読んでいけばわかる。そのような「本当の自分」などというものは、言うまでもなくありはしないのだ。それは、理想に到達することは難しい、というような俗な意味ではない。恵まれた才能と努力とによって、多くの人がうらやむような理想や夢を実現している人など、たくさんいるのだから(「夢はすでにかなえられた」と歌う友部正人の「夢がかなう十月」は痛快だ)。そんなことではなくて、むしろ「本当の自分」が存在し得ないのは、それと区別されるものとしての、それに先立つ自分などというものがそもそも存在しないからだと言うべきだろう。これを圧縮して言えば、とてもとても簡単だが、ある種の人々にとってはなかなか認めがたいらしい命題が得られる。すなわち、本当の自分とはいま・ここの自分だ、ということである。(ついでだが、”みんなの前で下手なスキーで恥をかくのが嫌なので、ドラえもんにスキーの練習機械を出してもらうがなかなかうまくならず、「うまくなってから練習する」と駄々をこねるのび太”をギャグとして描いた故・藤子F不二雄は、たしかにこのことを理解しつくしていたはずだ。)

 こんなことを考えているとき、いつも思い出す若い男の友人がいる。彼はビートニクスを気取って、洋服や女にしか興味がない男たちや、反対に真面目に淡々と職業に従事する男たち(要するに、彼が「平凡な」とみなしているであろう男たち全般)と自分とをやたら差別化したがるのだが、しかし実際には、彼自身はとりたてて才能のない、そして(彼なりの)お洒落と音楽(ロック)にしか関心のない、そしてひとつの仕事を長期間きちんとやりつづけることのできない、ただのデクノぼうにすぎないのだ。けれども、いつまでたっても「駄目な周囲から脱出し続ける自分」にそこはかとなく酔っているばかりで、そんなくだらない酔いを醒ましてくれるかもしれないまともな忠告(それを与えてくれる人の数も少しずつ減ってきているようだ)に、真剣に向き合おうとはしない。そうこうしているうちに、もう彼は「若い」とも言えない年齢になってしまった。僕はいつも不思議でしょうがない。なぜそんな風にして、貴重な、ただ1回限りの生を、たいしておもしろくもない「本当の自分」探しに浪費してしまうのだろうか。それでいいんならいいんだけどさ。ほんとうにいいんだろうか。

 ところで、上のようにサッカー観戦に熱中している人に対して、「どうして他人のことにそんなに熱中できるのだ」などと問う人がいる。村上春樹のホームページを見たら、彼も(まあいつもの村上春樹流のひねった悪意を漂わしながらだが)そんなことを書いていた。僕にはそういう問いがどこから生じるかの方がわからない。そういう人って、他人の書いた本や、他人のつくった映画、他人の描いた絵、もっと広く言って他人の言動なんかに感動したり、夢中になったりすることはないのだろうか。自分の給料とか評判とかにしか興味がないということなのだろうか。自分の作品になら熱中できるのだろうか。僕はほんのちょっとだが、ギターを弾いたり、作詞・作曲したりする。それはもちろん楽しいことだが、だからといって「他人の弾いたギターには興味がない」ということはまったくない。もっとも、音楽制作者のなかには、他人の作品はほとんど聴かないと言い切る人もたまにいるけどね。サッカーでも中田なんかは、あまりサッカー観戦はしないみたいなことを言っていたっけな。そういう人たちが、そういうことを言うのはまだわかる気がする。ある道のプロが、同業者のことを気にしない、ということは、あってもおかしくない気がする。(それがあるべき姿だとは毛頭思わないけれども。)でも、他人が試合に勝とうが負けようが、自分に関係ない――からプロ野球なんて観てるやつは馬鹿だ、とほざいている男が、高校の同級生にいた。受験にしか関心のない、たいへんくだらない嫌な野郎だった――というのは、たぶんそれとは別のことなのだろう。でも、いったいどういうことなのかは、僕にはわからないや。

 このあいだの7月4日は、アメリカ合州国の「独立記念日」というやつだった。巨大宇宙船はやってこなかったが、例年通り、あちこちで花火大会(?)が開かれていた。僕らも対岸にサンフランシスコを望む、バークレーの埠頭まで出かけて見物したのだが、とにかく寒くて寒くて、日本で身体化してきたあの「夏の花火大会」という感じには全然ならなかったです。花火自体も、きれいだったけど、やはり日本のやつにはかなわない。でも屋台で買って食べたケイバブー・チキンとホットドッグはおいしかった。
 (26時00分)