1998年7月22日(水)

 サンディエゴで日本食のレストラン(「LITTLE TOKYO」という名前だった……)に入ったら、大きなレインボー・フラッグが店内に掲げてあった。ご存じない方のために説明すると、レインボー・フラッグはゲイやレズビアンなどの性的マイノリティの解放運動にとってのシンボルで、毎年6月末に行なわれるサンフランシスコのレズビアン&ゲイ・パレードでは、当日の一週間も前から、サンフランシスコで一番大きな通り沿いに、たくさんのレインボー・フラッグが掲げられる。

 日本ではほとんどお目にかからないかもしれないが、バークレーの住宅地を歩いていると、ときどき小さなフラッグを窓から掲げている家がある。僕はそんなもんかと思っていたが、このあいだ、ゲイ・パレードを取材にやってきたゲイである知人を案内して歩いたら、彼はそれを見てとても感心していたものだ。日本ではやはり、いろいろなリスクがあって、なかなかできることではないと言う。バークレーはやっぱり特別なのかな、などと思ったりした。

 ところがサンディエゴは特別だった! 夕暮れ過ぎになると、通り過ぎるカップルのなかに、男性どうしの比率がぐんと増えてくる。というか、行くカップル行くカップル、7割ぐらいはゲイの男性カップルじゃないかと思うほどだった。バディ系の筋トレ男子もいれば、歩き方からしてべったらおネエ(by 伏見憲明)の人もいる。そして町の至る所にレインボー・フラッグが掲げてある。サンディエゴってそういう都市だったのかな。それとも、僕らが泊まっていたモーテルはHill Crestという、いろいろなお店の多い地域にあったのだが、ここはサンフランシスコのCastroみたいな、レズビアンとゲイの町だったのだろうか。道行く人に訊いてみようかとも思ったが、いきなり「ここってゲイの町?」と話しかけるわけにもいかず、真相は今もわからん。

 セクシュアリティにかんする理論家で、現在の日本で最も優れた書き手は、伏見憲明だと思う。最近、文庫になった『スーパーラヴ!――ゲイだから見える恋愛テク』(祥伝社ノンポシェット)を読むと、全編、その切れ味の鋭さにうなってしまう。いわゆる堅い術語や難しい言い回しはほとんど使っていないので、「理論家」という表現はそぐわないように思われるかもしれないが、しかし本質的な理論性とは、現象の核心をとらえ、それを過不足なく抽象化する手さばきの的確さを指すものだとすれば、やはり伏見氏は優れた理論家だと言いたい(誤解してほしくないのだが、専門用語を使うのがよくない、などという浅薄な主張をしたいわけではない。念のため)。

 ただし「堅く」ないスタイルにはもちろん限界もあって、「理論」の称号の下に必ず備えられているべき網羅性や厳密性にはどうしても欠けてしまう。その分、広い範囲の読者に読みやすくなるので、功罪相半ばではあるのだが。しかし、同じように「柔らかい」文章でも、対象をあらゆる角度から、あらゆる水準で考え抜いた文章とそうでない文章とは、一読して違いは歴然としているものだ。そして伏見氏の文章は、あえてそれをさらに網羅的で厳密な表現に置き直そうと思えばいくらでもできてしまう、懐の深さがある。

 たとえば「セックスレスは当然のこと」という章では、「セックスレス」なんて観念は、またしてもどっかのバカ心理学者が余計な病気をつくりたがっているだけ、と喝破されるのだが、そこまでだったら、そこら辺に掃いて捨てるほどいる「スルドイぶりっこ」のくされ知識人男でも言えることにすぎない。けれども、「義務感を排すれば、夫婦なんてそんなにセックスしたい関係じゃなかったりもするもんね。それは、長い間いっしょに暮らしていればしたくなくなる、っているネガティブな意味ばかりではなくて、しなくても十分仲良くいられるって面もある」というケレン味のない、しかし視野の広さをさりげなく感じさせる言い回しになると、一見誰にでも書けそうで、実はなかなかお目にかかることはできないと思う。そして、「ぼくには、このセックスレスの問題の取り上げ方を見ていると、どーも、みんなセックスというものに過剰な期待があるように見えるのよ。セックスから、なんだか想像以上にスッバラシイものが得られるように勘違いしているんじゃない?」という箇所は、もうミシェル・フーコー『性の歴史』(新潮社)から得られる「実践的」な水準の認識をコンパクトに要約し、世間に振りまいているようでさえある。だがおそらく伏見氏は、フーコーなんかを読む前から(今は読んだ後だとは思うけど)、ほとんど自分の知性と経験だけで、こうした「セックスなんてそんな大層なものじゃないんだから、もっと本当の意味で自由に考えてもいいんじゃない?」という命題に到達していたのだ。そこが本物なのだと思う。

 セックスレスと言えば、THE YELLOW MONKEYの最近作『PUNCH DRUNKER』には「セックスレスデス」という妙な題名の曲が入っている。イエロー・モンキーの曲は昔も今も一貫してセックス・ソングばっかりなのだが、ロックンロールの伝統的(?)な「オマンコ・ソング」(by 渋谷陽一)とはどうも肌合いが違っている。「楽しいことしようよ、子猫ちゃん」みたいな歌でも、なんとなくセックスに対して醒めた感じがあって、大人っぽい距離感が感じられるのだ。「セックスレスデス」には「何がセックスレスだ、タコ」という、題名以上に強力なリックがあって、ここには伏見氏と同じように「セックスレスなんちゅう言葉をでっちあげて大騒ぎしている連中」に対する批判と同時に、「なんかテンションが下がって、いわゆるセックスレスになってだらだらしている30代の夫婦」に対する批判、言い換えるとセックス批判とセックスレス批判が重層的に凝縮されているように思えるのだ。そこまでわかっているイエロー・モンキー(吉井和哉君)こそは、いまや押しも押されもせぬセックス・ロックの最高峰だと言えるだろう。「女の子はやっぱり清純じゃないと」とか未だにほざいてる若い男、また卒論でゲイのことを調べたいとか言いながら自分自身はばりばりの処女、なんていうやつらは、みんな一日5回はイエロー・モンキーのアルバムを聴いて、人格改造するべきだ。(24時20分)