1998年9月10日(木)

 御世話になった人たちへの挨拶も済ませた。オフィスの鍵も忘れずに返した。明日の夜は、受け入れ担当の教授と軽く会うかもしれないが、長居することはできないだろう。明日の昼には、運送会社が荷物を取りに来る。もうだいたいの荷造りは終わった。あと3時間もしたら、このパソコンもしまうことになる。そしていよいよ明後日の朝には、1年半近く住んだバークレーを離れて、東京に帰らなければならない。

 それほど長い滞在ではなかったし、途中でいろいろあって何度か帰国したこともあり、ため息をつくような感慨はない。けれども、昨年の11月、日本の社会学会に出席して、1週間ぶりにバークレーの我が家に戻ってきたとき、雨に濡れる木々に抱かれた早朝の町並みが、どれほど美しく見えたものか。東京と比べてもしかたがないのだろうけれど、あの瞬間以来、ああ早く刺激のある東京に戻りたい、という気持ちは、スーッと消えてしまっていた。

 今回の滞在は、すべてが中途半端だったと思う。日本から仕事を持って来すぎたし、英語力も準備不足だった。いちいちドキドキせずに人と話せるようになったのは、つい最近のことだ。さあこれから、というときに帰らなければならない、たぶんこれはひとつの典型的なパターンなのだろう。最後の2ヶ月は、本を読むというよりも、来る日も来る日もコピー取りにあけくれてしまった。やったことのある人はわかると思うが、あれは正常な神経で、毎日3時間以上はやり続けられるものではない。たいていは英会話のテープを聴きながらやっていたが、だんだんそれも苦痛になってきて、かえって何もしない方がよくなってくる。たまには、隣で同じように退屈顔でコピーをしている女の人と話をしたりすることもあるし。そんなこんなで、留学生のように、めきめきと成果をあげた、ということはできない。

 でも最近は、まあ前向きに考えようと思っている。論文集はまとめられたし、文献のコピーまでしかできなかったけれど、新しい研究テーマもかたちをなしてきた。どんなに英語が駄目といっても、来た当初と比べれば、遥か〜にimproveしていると思うしね。そして、この1年でこれくらいできたのなら、次の1年でどれくらいできるかも見えてくる。おそらく死を意識していた晩年のフーコーは、『性の歴史』第二巻のまえがきに、「旅は人を若返らせる」というようなことを書いていたが、あそこでのフーコーのような軽み(かろみ)に到達しているわけではない僕でさえ、この1年あまりの体験によって、確かに少し若返えらされた気がする。

 僕は、歳をとることが嫌だと思ったことはない。しばしば、老いが哀しみや失笑をさそうことがある。頭のしっかりした、仕事盛りの若者からみれば、老人はみじめなものだ。しかし、そんなみじめさなんか小さなことにすぎないという気持ちが僕にはある。晩年のアインシュタインは、まったく不毛の方向へただひとり執念深く歩き続け、結局は不毛な時間を費やすことになったと言われている。アインシュタインが認めなかった量子力学のその後の成功をみれば、そうした見方は完全に正しいのだろう。けれども、小さい声で言うならば、そんなことは、どちらだっていいことだ。僕は、フェミニズムについてさえ、またどんな社会的問題についてさえ、同じように言えると思っている。差別、奴隷制度、虐殺、戦争、、、それらは、よくよく考えてみれば、どっちが正しかろうが、間違っていようが、どっちが勝とうが負けようが、どうでもいいことではないか。宇宙の片隅の、いずれは消えてなくなる星の、ほんの一時期に多少数が増えた生物のあいだでのちょっとしたいざこざなど、宇宙全体からみれば、小さなことに過ぎない、とまずは言えるだろう。けれども、もしも地球だけが宇宙の歴史上唯一生命の存在する天体であっても、いや、宇宙などというものはなく、人間だけが存在するものだったとしても、同じことは言いうるだろう。もしもこの世界に存在している者がこの僕だけだったとしても、僕の存在などとるに足らない、と言うことはできる。ましてや、男が優位か女が優位か、いや平等であるべきなのかなどということは、厳密な意味でどちらでもいいではないか。
 そう、どっちでもいいことなのだ。そして僕は、どっちでもいい選択肢のなかで、反・性差別を絶対的にとる。フェミニズムを、インターナショナリズムを、ロックンロールを、とる。どっちだっていいんなら、やってみよう。このことについては、いままでうまく書けたためしはないのだけれど、これは俗流ハイデガー主義みたいな決断主義ではない。だって、存在なんて、そんな大層なもんじゃないんだから。ちょっと水準を変えて、こう言ってみたい気もする。100年後には、僕自身はもちろん、僕の好きな人たちの誰一人、この世界に存在していないだろう。だったら、そんな世界のことなんて、しったこっちゃないよ。僕は、環境倫理gかうにおいて、未来世代に対する責任というような概念の下に言われる具体的な事柄に、あまり反対したいとは思わない。節エネ、環境保護は、素朴に大切なことだと思う(だって水や空気がきれいな方が気持ちいいのは確かだもん)。ただ、それを未来世代への責任という名において語ることには、いつも強い違和感を感じている。何か別の、まったく違う論理があるはずだ。まったく異質でありながら、僕らにとって大切なものの多くを、やはり肯定することになるような言葉が。そう考えている僕は、ある程度までは、民俗的なものや民衆知みたいなものを、肯定的にとらえているのかもしれない。

 いつもにもまして、今日はまとまらない文章だと思うけれど、お許しください。日本に帰るのも、また別の旅に出かけるような気がする。そして旅行の前夜は、興奮や面倒くささが入り混じって、なんだか慌ただしくまとまりのない気持ちになるものではないですか。
 東京に戻ってからも、ホームページそのものは続けるつもりです。データベースとして、より一層の充実を計画しています。「旅する読書日記」はしばらくお休みしますが、少し違った装いで、より一層無節操に、復活するつもりです。
 それでは、みなさん、ひとまずさようなら。(午後11時21分) 
                                               「バイバイ」