書評            



       

『バス車掌の時代』
        現代書館
        正木鞆彦 著
        
▼加藤秀一

 バスの女性車掌――それを歴史の「裏面」とか「暗部」とか呼ぶには、彼女たちの労働はあまりにも露骨に、白日の下に曝されていたようにみえる。揺れるバスの中に両足で立ち、大声で案内を連呼する力強い車掌たちの奮闘ぶりに、どんな謎があるというのか。だが本書を読み進みながら読者は、何事かを隠し通す最良の方法はそれをあらいざらい見せてしまうことだというあの逆説を、苦い思いとともに想起せずにはいられないことだろう。衆目の只中で堪え忍ばれなければならない労働は、その苛酷な実態を、「バスガール」という(当人たちが嫌い抜いた)言葉が喚起するイメージの明るさと揶揄的な響きのあいだに沈めてしまう。本当はそこに、現在の女子労働にもそっくり受け継がれる、陰湿な闇が隠されていたにも関わらず。

 正木鞆彦氏がこの質素だが手ごたえのある労作で発掘し、私たちにそれを生き直すことを強いているのは、月並みな言い方だけれども、私たちの歴史の襞にひそめられた闇であり、あるいはもう少し限定してみるならば、急速に高度化する日本資本主義がまだ疲れを知らないようにみえたある一時期に、日々私たちの目の前で繰り返されていた、そしてそれゆえにこそ私たちの慌ただしい視線にとって見失われ続けてきた、若い女性たちによる苛酷な労働の経験である。繰り返すが、これは決して終わったことではない。今も形を変えながら続く「性差別の原点がここに見える」という著者の言葉は完全に正確なものだ。

 例えば「チャージ」(車掌が集めた運賃をごまかすこと)防止のためと称して慣行化していた「身検制度」。ほとんどが若く、経済的にはあまり恵まれていない女性であった車掌たちは、会社側から徹頭徹尾「泥棒扱い」され、生理中の下着の中まで有無を言わさず取り調べられるという、明らかに違法な、「日本の労働史上、特筆すべき人権侵害を受けていた」。あるいは男性運転手に対する女性車掌の従属的な関係。本来は運転手の仕事であるはずの早朝のバス清掃は弱い立場の車掌に押しつけられ、近年やっとセクシュアル・ハラスメントあるいは性暴力として正当に問題化されるようになった性的関係の強制が、そこでは剥き出しになっていた。ただでさえ途轍もない重労働を担うバス車掌たちは、こうした悪条件からくる強度のストレスも重なって、他のあらゆる職種をしのぎ大正年間の炭坑労働にも匹敵する(!)健康破壊に蝕まれていたのである。

 もちろん本書は同情に塗り込められた独りよがりな本ではない。ユーモラスな酔っぱらいとの邂逅を描いた車掌の詩を紹介する筆致は暖かく、公平である。しかしそれゆえに、バス車掌の辛苦はいっそう際立ってくる。

 異色の著者の、異形の情熱の結晶である本書を、私たちは最大限の謙虚さをもって受けとめるべきだ。ここには近代史の重要な問題が集約されている。


『科学史から消された女性たち:アカデミー下の知と創造性』
         ロンダ・シービンガー 著
         小川眞理子
         藤岡伸子  訳
         家田貴子

         社会評論社

▼加藤秀一

 一九九三年に至ってもなお、女性科学者の地位は十分には確立していない。最近もアメリカで、自然科学分野の女性研究者をとりまく厳しい現実について報告がなされたが(一九九三年四月一六日付け『サイエンス』)、いまだに性別役割を「自然」という空疎な言葉で正当化し、何かにつけて脳の重さがどうこう言いたがる怠惰な運命論者がはびこるこの日本では、事情は推して知るべしというほかない。

 大学生のレポートなどに接していると、未だに「男は理性的、女は感情的」といった常套句に出くわすことがある。そういった言葉で何かを分かったつもりになりたがる己の「感情」はまるで問われることがないのだ。女に大科学者がいるかといった空疎な詰問を、したり顔で口にする馬鹿も後を絶たない。もちろんそういった連中自身は天才でも何でもなく、ただアインシュタインと性別が同じというだけの理由で自分は女性より優れていると勘違いし(たがっ)ている弱者に過ぎないのだが。

  ……などとゲキしている場合ではない。性別や人種の生物学的決定論、より広範には「本質主義」(essencialism)をめぐる問題群は、近年の科学史や文化研究において極めて注目されてきた領域であり、「知能」の問題を扱ったグールド『人間の測りまちがい−−差別の科学史』(河出書房新社)という重要な研究が日本でもすでに紹介されているが、それはジェンダーについては簡単にしか触れていなかった。気鋭の科学史家シービンガーによる本書が邦訳されたことは、こうした空白を埋めるための大きな一歩となるだろう。

  本書が扱うテーマは多様である。最初のいくつかの章では、自然哲学者マーガレット・キャベンディッシュをはじめとする、いわば女性であるがゆえに埋もれた非凡な科学者たちの業績が、魅力的な人間像とともに掘り起こされている。だが例外的な個人の名を書き記すことが著者の目的なのではない。発掘の焦点は、女性科学者をかろうじて産みだした社会的背景に合わされている。そこから制度としての近代科学がいかにして女性を排斥していったかが逆照される。近代科学は、何か前近代的な要素を引きずっていたがゆえに女性蔑視を病んできたのではなく、むしろ女性を家内性(domesticity)に閉じこめる近代社会の成立と初めから密接に結びつき、それを支えるようなやり方で発展してきたのである。

  とりわけ興味深く読めるのは、近代の解剖学者たちがいかにして性差の本質論を確立しようとしたかを跡づけた二つの章である。重要なのは、そこで女性が単なる自然の欠陥品としてではなく、男性とは異なる存在(=ボーヴォワールの言う「他者」)として位置づけられたことだ。このような女性性観念こそ、厄介極まりない現代の「差異と平等」論争の源流なのである。

 本書の邦訳を機に、新しいフェミニスト科学史がさらに活性化することを願いたい。


『代理母』
     フィリス・チェスラー 著
     佐藤雅彦 訳
     平凡社・一八九三円

▼加藤秀一

 P・ウィンチは「誕生・性別・死」の三つを我々の生における「限界概念」と呼び、それらは生の一要素ではなく生そのものの境界を画定する、言い換えれば我々の経験の対象ではなく経験そのものを条件づける出来事だと言っている。もちろんそのことを指摘するだけなら容易い。本質的な思考はもう一歩踏み込み、こうした「限界」の限界性そのものをめぐって織りなされてきた。死の不可能性を媒介として明るみに出される本源的な生の在処が(ハイデッガー)、あるいは性別の成立と社会の存立との等根源性が(精神分析)語られ、またそれらに対する批判的な直観が、別の拠点を求めて苦闘を続けてきた。

  だが奇妙なことに、「誕生」だけが無視されてはこなかったか。人がつねに存在するのではなく此の世に産み来たらされるということについて、我々は何を・どのように問えばよいのかすらわからないままに過ごしてきた(例外的な接近もあったとはいえ)。それはおそらく、哲学者や社会科学者の怠慢だけに帰せられる問題ではないだろう。例えばM・ウエーバーに死を主題とすることを強いたあの変容が、「誕生」に関しては未だ訪れてはいなかったのだと言うこともできるだろう。だがそうであればこそ、この現在において我々が、これまで死をめぐってなされてきたのと同等の密度で「誕生」を問うことを強いられつつあるということ、このことから目を背けることはもはやできないはずである。

 それは単に死を裏返してみればすむというような話ではない。「誕生」における「産むもの/産まれるもの」という対は、「死にゆくもの/死を見送るもの」(ウエーバー/デュルケーム)という対と平行をなすのではない。このことを忘却するとき、「誕生」という問題はその固有性を喪失して「生命」一般というこの上なく欺瞞的な問いに回収されてしまう。新たな生命の誕生と、それを迎える社会。こうした図式によって圧殺される「産むもの」の具体性――見かけの自明性とは裏腹に、つねに過剰な意味とそれに絡め取られた否認との間で引き裂かれてきた女性=母親という存在者の位相を見極めるところから再開されるとき、「誕生」をめぐる真に新しい問いが見い出されるに違いない。そしてそれこそは、現代の生殖技術をめぐる問題群が指し示す深みなのである。

 本書『代理母』は、産みの母親から赤ん坊を引き離すことの暴力性と、その背後にある家父長制(父親の養育権の優先)および階級・人種主義の問題に焦点を合わせた告発の書であり、合州国における代理母産業の実態を伝えて生々しいが、提出される問題そのものは単なる法律論や行政批判を超えて、否応なく右のような水準まで突き詰められることを読者に要求している。なお、レナーテ・クライン編『不妊』(晶文社、一九九一年)と併せて読むことによって、さらに認識を深められるだろう。


 『フェミニズムと表現の自由』
        キャサリン・A・マッキノン  著
        奥田暁子・加藤春恵子・鈴木みどり・山崎美佳子 訳
        明石書店

▼加藤秀一

 フェミニズムが行き詰まっている。その見かけの隆盛を裏打ちするのはむしろ「フェミニズムはもう飽きた」という気分であり、若い女性たちのフェミニズムに対する反発であるという。このことから、フェミニズムに対し、それがより一層の勢力拡大を実現できない原因はその言説や運動スタイルの独善性にあるとするリベラリスト的な批判がしばしば聞かれるようになってきた。そこでは女性はすでに多様性をもつ個々人であり、女性解放という観念を立てること自体が、究極的には「女性」たちを一括りにする発想であるとして批判される。

 すでにフェミニズムの役目が終わったということならばそれでいい。しかしフェミニズムは本当に勝利したのだろうか。私にはそうは思えない。確かに得られたものは無ではないが、しかしそれはフェミニズムにとって、それを得ることによってかえって性差別の狡知の中により深くはまりこんでしまうような、そうした達成にすぎなかったのではないか。たとえば「ポルノ批判」一つとってみても、ポルノグラフィは性差別的表現であるという紛う方なき「発見」は、次の瞬間にはルーティーンな反差別運動として類型化され、フェミニズム・イコール・性の抑圧という図式にたちまち組み込まれてしまう。あらゆる反差別運動を飲み込んできたあの循環、すなわち反差別運動をも自らの一部にネガティヴ・フィードバックしつつ組み込んで身を膨らませてゆく差別というものの得体の知れない生命力がここにもかいま見える。

 ここでフェミニズムは、そのラディカルな要素を削ぎ落とすことによって拡散し、右のような情況を回避することもできる。主体的な選択、個人の自由という理想を、あたかもすでに条件の整った現実であるかのように見せかけながら。リベラル・フェミニズムがやろうとしているのは、要するにそういうことだ。C・マッキノンはそれを根底から批判する。マッキノンのラディカル・フェミニズムは、平等という理想を悪い冗談にとどめている条件を見据え、その積極的な変革を求める。しかもそれは浮ついた理想論や文化革命の大言壮語としてではなく、「不可能を可能にする技法」としての「法律」という足場に基づいて語られるのである。

  本書には、先鋭的でかつ柔軟な、フェミニスト・ラディカリズムの最良の成果がぎっしりと詰め込まれている。考察は強姦や雇用からスポーツまで、性差別のあらゆる局面に及び、その意味では邦題はいささか限定がきつすぎる。著者が賭けるのは、あの悪循環を回避せず、そのただ中に飛び込み、それを内部から壊乱するという、真に命がけの作業なのだから。ここに書きとめられた数々のブリリアントな洞察を引き継ぎ発展させつつ、我々は同時に、フェミニズムの言葉がこうした苛酷さを失ってきたことの意味を、繰り返し自らに問わねばならないだろう。


『怪獣使いと少年』
          切通理作・著
          宝島社・千五百円
 
▼加藤秀一

  一九六三年前後に生まれた僕らは、語るべき〈現実〉というものを持ったことがない、たぶん初めての世代だ。「闘争」であれアニメであれ、その中に自己を仮託し、緊密で直接的な関係をとり結ぶことができるような対象=〈現実〉は、僕らには無縁のものだった。しかもその反対物である〈空虚〉の確信さえ、持ち合わせてはいないのだ。

 もしも「書く」ことの倫理が時代の証言にあるのだとすれば、出来事の手触りを知らず、自己と世界と言葉のあいだで立ちすくんできた僕らが書き遺すべきことは何だろうか。この問いに解答を与えるわけではないが、少なくとも僕らにそれを問うことを命じ鼓舞しつづける表現、それが他ならぬウルトラ・シリーズ(正確には『ウルトラマン』から『ウルトラマンA』に至る作品群)である。たとえば、万国旗を背景に泥の中で断末魔の叫びを上げる、かつては人間であった怪獣ジャミラの凄惨な最期は、僕らの心象風景を暴力的に規定してしまった。ここ一・二年、ウルトラマンや「怪獣もの」関係の出版が目立っているのは、だから単なる偶然ではない。子どもの時に(再放送を通じて)繰り返しそれを無意識に刻み込んだ僕らの世代が、今、書き手として歴史の証言台に立とうとするとき、ウルトラ・シリーズが自分に与えたものを検証することはほとんど責務であるとさえ言える。

 しかしながら、これまで実際に我々が手に取ることができたのは、愚にもつかないオタクぶりっこ本や、怪獣ものを道具立てに利用しただけの政治的宣伝本などだった。そんなものではなく、誠実に素材そのものに内在し、そこから状況を逆照する本格的な「ウルトラマン論」が渇望されていた。本書こそはその渇きを癒す、まさに待望の力作である。かつて『怪獣宝島』に掲載された著者・切通氏の文章によって僕は、ウルトラマンと怪獣との関係が支配民族たる日本人と被抑圧民族たる沖縄人や朝鮮人との関係そのものであることを教えられ、ほとんど精神分析的な衝撃を受けたのだったが、本書では四人のシナリオ作家へのインタビューと映像作品の分析を交錯させながら、さらに厚みのある叙述が展開されている。

 著者の本質的な正しさは、たとえばあの輝けるウルトラの星が「皆、戦いに出てしまって誰もいない星」と捉えられている箇所に読むことができる。こうした〈絶望〉の感覚こそが、ウルトラ・シリーズの基底をなす。しかしまたそれは、未来という廃墟の物語であると同時に、廃墟における未来の物語でもあった。それは此処がかつてどこかへ通じていたという記憶の残骸だけを僕らに与え、それを断念して出口の外を建設することを、僕らに遺したのである。



『日本近代文学と〈差別〉』
      渡部直己 著
      太田出版 一八〇〇円

▼加藤秀一

 差別を主題として「書く」ことは不可避的に「差別とは何か」を理解することを要求するが、他方おそらく多くの差別論が主観的には志向しているはずの反差別の運動は、そうした「理解」を徹底して拒否すること、すなわち「糾弾」においてのみなされうる。ここに差別論特有のジレンマが巣くう余地がある。言うまでもなく硬直した糾弾はしばしば差別の沈潜と陰湿化へと帰結し、したがって実践的意義からも前者の意味における「論」が必要なのだが、しかしそれが定義上差別の「魅惑」を知る者にしか可能ではなく、したがって差別を論じる言葉がしばしばどこかしら嬉々としてみえるとしたら? そこから差別と「書くこと」をめぐるニヒリズムを引きだすのはたやすいことだろう。

 だが「書くこと」の固有性において差別との闘争を真に意志するならば、まず右の如き粗雑なジレンマこそが粉砕されなければなるまい。差別のメカニズムの分析=理解をつねに志向しつつ、「差別とは何か」という過剰なまでに観念論的な問いを拒絶する必要があるのだ。この問いを掲げるときわれわれは、無根拠を本質とする差別現象の背後にいつのまにか根源を捏造し、その陳腐な「イメージ」に呪縛されてしまう。だから差別論と糾弾とは徹底して融和しがたい二つの「運動」でありつつ、こうした差別の観念論化・非歴史化に対して共に抗しなければならないだろう。

 雑誌『批評空間』に「差別とエクリチュール」と題して連載された文章を新たにまとめなおした本書の優位性は、右の事態にあくまで自覚的であることに支えられている。現在の「言葉狩り」騒動にまで至る部落解放運動の歴史性を細部において注視しながら、「行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ」という言葉をあえて第一章の扉語として選ぶ本書は、差別論と糾弾との緊張を全編に貫流させている。本書によれば、藤村『破戒』から諸々のとるに足らぬ作品に至るまで、部落問題をとりあげた日本近代文学は、そこに描かれる被差別者を極端で恣意的な「イメージ」に還元しつづけてきた。それに対し、『水平社宣言』に噴出した「不均衡なもの」は次第に鋭角を削り取られ、差別者の同一性を相補する相対的差異に回収されてきた。こうした分析を経て本書最終章で展開される中上健次論は、したがって同一性/差異の構造そのものの転覆を、荒々しい差異による日常性の亀裂を、語ることになるだろう。ここにあるのは文字通り糾弾の擁護であるが、ただしそれは、静態的な制度に堕することを拒否した厳密な「運動」としての、したがって著者が中上の作品世界にみた「終わることのない何か」としての〈糾弾〉なのである。



『ジェンダーと権力』
       R・W・コンネル 著
                 訳
       三交社

▼加藤秀一

 本書をひとことで紹介するならば、「オーストラリア出身の男性社会学者による、ジェンダー/セクシュアリティ現象の網羅的・体系的分析」ということになるだろう。だが急いでつけ加えておかねばならない。まず何よりも、これは単なるジェンダー論ではなく、紛れもなくフェミニズムを擁護しつつ更新しようとする、透徹した「女性解放理論」の書である。序文から最終章まで一貫して男女間の「権力関係」に合焦する著者の視線は鋭く、潔い。ただし注意してほしいのは、「新たな社会理論の構築をめざす」という帯の謳い文句を鵜呑みにして、ハードに構築された「理論」を本書に期待してはならないということだ。ここで著者が試みているのは、特定の理論枠組みそのものの精緻な彫琢といったことではなく、サルトルやブルデューが発展させてきた「日常行動(プラクティス)の理論」を「男女間の政治関係に折り合わせてゆく」ことを通じて、ジェンダーとセクシュアリティをめぐる複雑極まりない諸現象の内的連関を明らかにすることなのだから。

 このことを見誤るならば、理論枠組みそのものが議論の主題とされる本書の前半部(第T部・第二部)はかなり退屈な読み物になってしまうことだろう。ここでは、@「ジェンダー関係」を、その外部にある規定因(例えば階級関係や生物学)に還元する「外部理論」を排し、それ自身を相対的に独立した一つの社会現象として内在的に分析すること、Aジェンダー関係を平板な「慣習」に還元してしまうことなく、「権力」のモメントに焦点を合わせること、Bさらにそれを日常的諸実践(プラクティス)の総体によって生み出され構造化される動態的な現象としてとらえること、という認識の公準に照らして従来のジェンダー/セクシュアリティ論が批判的に検討され、それをふまえて著者自身の三構造モデル(分業−権力−カセクシスから成る)が提示されるのであるが、そしてその行き方の基本的な正しさを評者も認めるものではあるが、一歩踏み込んでみれば、構造主義や再生産論に対する批判は常套的な水準(静態的である、変動を説明できない、等々)にとどまっていると言わざるを得ないし、著者自身の三構造モデルにしても、それ自体としては、スマートではあるが厳密さを欠いた折衷的な枠組みに過ぎないように思われるのである。

 ところがそこを乗り切って第V部に入り、ジェンダー関係の歴史的分析に焦点が移ってゆくと叙述は俄然活気を帯びはじめ、さらに第W部で展開されるフェミニズム運動の現状分析と未来の展望においては、随所に切れ味のいい洞察を見出すことができる。したがって読者は、本書を決して途中で投げ出してはならない。とりわけ示唆的なのは、最後の二つの章で展開される女性解放運動、ゲイ解放運動、男性解放運動それぞれの位置に関する分析であろう。ランダムにとりあげてみるが、例えば、「ゲイ産業」が「ゲイ解放」に先だって、それとは全く異なった仕方でゲイの利害を明確化し、そのアイデンティティを固定化したことに対する批判。また、ジェンダーを乗り越えるべくしばしば提示される「両性具有」モデルが、男性性/女性性両者間の緊張を解決するどころか、むしろパーソナリティの内部矛盾を強化するかもしれないことの指摘。あるいは「男性解放」運動の理論に関して、男性解放と女性解放の利害が一致するという観念の欺瞞性を暴露しつつ、他方で男らしさなるものによる疎外経験の現実的な意味を軽んじない公平な視線。これらは一つ一つをとれば衝撃的ということはないが、それらが著者のラフではあるが的確な視野の中に収められ整理されてゆく過程を追跡していくのは十分に愉しい体験である。ここに至って、本書の圧倒的に膨大な情報量は理論モデルを正当化するためにアドホックにしつらえられた類のものではなく、全く反対に著者の鋭利な直観と好奇心の下にまず呼び集められ、次にそれら自身が分析のための理論を召喚したのだということが納得される。確かにその意味で、やはり帯にある「ジェンダー論のすべてがこの一冊に」というコピーはダテではない。全くの入門書としては無理があるが、これから専門的にフェミニズム社会理論を勉強してみたいという覚悟を決めた読者であれば本書を見逃すべきではない、と思う。

  最後に翻訳について一言。全体として社会科学書特有の直訳調ではあるが、その範囲では丁寧で好感の持てる訳になっている。ただ、明らかな誤訳ではないものの、「まだ産まれていない子供」としなければ筋の通らないところを「水子」とする類の勇み足は散見される。または多くの訳注が本文中に挿入されており便利だが、フロイトの「圧縮」概念について「無意識による意識の」と補足するなど(これは「夢の潜在内容が顕在内容に翻訳されるメカニズム」とすべき)、いくつかの箇所で説明が不正確なのが気になった。



『アンチ・ヘテロセクシズム』
        平野広朗 著
        現代書館

▼加藤秀一

 激しい怒りが疾走する本だ。「男」という名の弱者を庇護するために、すなわちその弱さと卑屈さとを隠蔽するためだけに、男性同性愛者――そして女性――という危険な他者を抑圧し、囲い込み、そこから逸脱する者にはあからさまな暴力で応じてきたこの男性優位の異性愛社会に対する、容赦も甘えもない怒り。だが誤解してはならない、「感情的」とか「実感に基づいた」とかいう類のふやけた形容詞が悪意をもって塗り込めようとするイメージとは全く反対に、真にそう呼ばれるにふさわしい〈怒り〉だけが、真に〈思考〉の名に値する明晰さを保証するのだ。そのことを本書ほど適切に証明する本はそうあるものではない。

 そうした〈怒り〉をうねるように反復しながら、本書は「同性愛」を手前勝手なイメージの中に監禁してきた強制的異性愛社会の悪意を繊細かつ強靭に暴き立ててゆく。近年の〈ゲイ・ブーム〉がひとつの焦点になってはいるが、それだけでなく、エイズ予防という旗印の下で性の二重基準を維持しようと企てる日本政府の動き、あるいは男性抜きのシスターフッドを構想できない上野千鶴子のセクシュアリティ論に対する批判なども含めて、同性愛嫌悪と女性蔑視という二つの(密接に絡まり合った)構造を追認・強化するものすべてが、著者による徹底した批判の対象とされてゆく。そのような構造を、〈ゲイ・ブーム〉は少しも揺るがしはしなかった。同性愛者はまたしても、異性愛者=家族主義者の機嫌を損ねない範囲で、好奇心の慰み物にされただけだった。だから、著者は繰り返し要求する――「われわれはなぜ同性愛者を差別するのか」を自ら問えと、異性愛者たちに。かつてギィー・オッカンガムが書きつけた言葉、「問題なのは、ホモセクシュアルな欲望ではなく、ホモセクシュアリティへの不安なのだ」(『ホモセクシュアルな欲望』学陽書房)は、いま著者によってはっきりと、異性愛者自身の問題として「われわれ」に突きつけられている(しかも同時に著者は、同性愛者たち自身の内部にある差別への迎合――「オネエ」「オカマ」の背後に沈澱する心性――をも決して見逃しはしないのだ)。
 
 ぼくもまたそのような「われわれ」の、すなわちありふれた男性異性愛者の一人に過ぎない。著者の言葉はぼくを追いつめ、問うことを強いる。フェミニズムから学び、「自らのセクシュアリティの歪みにフタをしたまま、他者のセクシュアリティを踏みにじる」男たちの醜悪さに吐き気をおぼえながら、どこかで自分自身への問いを回避してはこなかったか。たとえば、ぼくは強姦を憎悪する。強姦男などはなぶり殺しにして釣り堀の魚のエサにでもすればいいと思う。しかしそのような衝動の底にさえ、何か女に対する「所有」めいた心性、女たちの他者性を消去する最も陰湿なウーマン・ヘイティングの心性が蠢いてはいないか。そしてそれは、同性愛者嫌悪へと密かにつながってはいないか。これはつらい問いだ。誰だって、「おまえは何者か」などという鬱陶しい詰問からは逃げたいに決まっている。そして異性愛者たちはつねにそうしてきたのだ、この問いをマイノリティだけに押しつけることによって。だから今は「われわれ」が自らの(異性愛という)セクシュアリティを問うべき時だ。本書によって退路は断たれた。そして、新しい義務が読者に課せられた――異性愛と同性愛、男らしさと女らしさという拘束服から自由になること、「われわれ」そのものの解体を夢見るという、嬉しいほどにリアルな義務が。



『ポルノグラフィ』
       C・A・マッキノン 著
       明石書店

▼加藤秀一

 すでに『フェミニズムと表現の自由』(明石書店)の邦訳があり、先頃来日して精力的にいくつもの講演をこなしていった著者キャサリン・マッキノンは、北米の最もラディカルなフェミニスト法学者であり、セクシュアル・ハラスメントという概念の構築に成果を挙げるとともに、北米の反ポルノグラフィ運動を主導してきた人として知られている。夥しい具体例と、いくらか扇情的ではあるが比類なく鋭利な分析に満ち、しばしば混乱をも孕んだ本書の内容を要約することは困難だが、これまで最も論議を呼んできたのは、マッキノンがポルノを無力な「表現」ではなく「行為」として、女性に対する差別・暴力の(再)生産装置としてとらえ、それが女性の「平等権」を侵害しているという観点から、ポルノに一定の法的規制をかけようとしてきたことだ(カナダでは最高裁の判例として実を結んでいる)。こうした活動が、フェミニズムとは本質的に敵対するはずの道徳的保守勢力との連携を呼び込んだこともあり、性をめぐる表現に対する「検閲」への道を開くものであると警戒する他の(主にイギリスの)フェミニストたちによって反・反ポルノ運動が展開されてきたことについても、すでに紹介が始められている(『インパクション84』を参照)。

 相対立する両者が〈性差別の解体〉という目標を共有しているとすれば、争点はポルノ規制という方法の戦略的有効性をどう評価するかということになるだろう。この点ではおそらく反・反ポルノ派のフェミニストたちに分がある。マッキノンの切迫したフェミニスト的情熱にも関わらず、彼女の活動が「性差別的な性表現」ではなく「保守的な性道徳に反する性表現」一般(同性愛の表現を含む)の抑圧をもくろむ勢力に利用されてしまったことについて、本書のなかに説得的な釈明を見出すことはできない。ポルノは一種のファンタジーである、公的な規制を正当化するほどポルノと実際の性行動の因果的連関は明確でない、規制は長期的には女性の利益にならない、といった諸論点についても、概ね反マッキノン派の方が優勢であるように思われる(とりわけ、日本のように表現の自由が脆弱な根しか生やしていない空間においては)。

 だがそれでもなお、それはマッキノンの主張が根本的かつ包括的に反論せられ、転覆させられたことを意味しない。セクハラで用いられる性的発話が単なる「表現=言葉」ではなく、脅迫やいやがらせという差別的・他者侵害的(したがって違法な)「行為」であることを喝破したマッキノンの言語行為論的法理論が、職場や学校という限定された空間だけでなく、われわれの文化そのものに適用されたとき何が起きるのか。この核心をなす論点を真正面から考え抜いた反論はまだ存在しない。これまでわれわれは、差別と「表現の自由」との関係を論じるにあたって、良い表現/悪い表現というどうでもいい対立にばかり拘泥し、表現/行為(脅迫・恐喝・暴力の扇動……)という本質的な対を不当に看過してきた。だが例えば「女は強姦されることを望んでいる」とか「朝鮮人を追い出せ!」とかいう扇動的なメッセージを映像や言論で「表現」することと、女性や在日朝鮮人を直接に脅迫することとはどう異なるのか。なぜ前者は法で守られ、後者は犯罪になるのか。この全く自明でない問題を、焦点のズレた性道徳論などとは別次元の議論へ向けて開くこと。そうして「表現の自由」を鍛え直すための鉄槌として、マッキノンの本書はある。性差別だけでなく、すべての差別問題を考えるための必読書である。



『クィア・パラダイス』
       伏見憲明 編

▼加藤秀一

 「正常」を解体する「変態」の万華鏡

 伏見憲明はゲイ・ムーブメントの、いや、「クィア」界の淀川長治である。容赦ない批評眼と快刀乱麻の切れ味で、問題の急所をバシバシ突いていくが、どんなに激しくチンポやマンコを論じていても、なぜか漂う上品さと優しさ(それはオネエ言葉の効果でもあるのだろう)。実際、本書の「あとがき」で伏見氏は言っている。「嘘偽りなく、僕はここで出会った人たちの全員を好きになった。出会う前よりもずっと」――多種多様な人々と縦横無尽に「性」を語り合った本書『クィア・パラダイス』において伏見氏は、淀川さんが映画というジャンルそのものを擁護するように、「クィア」という生き方のジャンル=技法そのものを擁護しているのである。

 クィア(queer)という英語はもともとは「変態、オカマ」という意味の蔑称であるが、いまや誇り高く自己を肯定するゲイ、レズビアン、性転換者、異性装者etc.がこの言葉を積極的に引き受け、その価値を反転させようとしている。本書はこの最先端の言葉を冠した、おそらく日本で最初の書物だろう。「トランスセクシュアル(♀→♂+バイセクシャル/♂→♀+レズビアン)、半陰陽、女装者、障害者のゲイ、レズピアンマザー、トランスジェンダー(♂性器+乳房)、HIVポジティブ、やおいetc……」(帯の謳い文句より)といった多種多様な「クィア」たちが、自身の「性」の遍歴(狭義の性体験ということではない)を深く真摯に語り、時には伏見氏の怒濤の問いかけに「うーん」と考え込む姿は、感動的なだけでなく、読者にも自分の「性」を見つめ直すことを強いる迫力に満ちている。それは、不安を隠しながら「正常」にしがみついてきた(特に男性の)非クィアたちにとっては恐怖であるかもしれない。実際ぼくは、対話者たちのぶっ飛んだ下ネタに爆笑しながらも、あちこちでヒヤリとさせられた。だがそうした読者にこそ、あわてて逃げださずに、本書と組んずほぐれつしてほしいと思う。自分だけは塀の外にいるつもりで、「変態」たちに身分証明書の提示を強いてきた、そんな醜い茶番劇をそろそろおしまいにするために。

  ただし付け加えておけば、ぼくも本書に登場する人の話すべてに同感するわけではない。一部に見られる、性別役割の枠組みを不動の前提とするような考えには断固反対する。だがそれでも、本書の登場には全面的に拍手を送りたいと思う。伏見氏も強調するように、何でも認め合うという遠慮がちな相対主義ではなく、緊張を孕みながら組めるところは組んでマジョリティと闘うという姿勢こそが真に現実的なのだから。本書の最後に登場する掛札悠子さんの、真摯に変転しつづける闘いざまは、そのことを他の誰よりもよく教えてくれる。  クィア研究/運動の現状について包括的に知るには、雑誌『imago 特集*ゲイ・リベレーション』1995年11月号が今のところ最良の参考書だろう。その理論的・歴史的成果の豊穣さは、事情に疎い者にめまいを引き起こすほどだ。


『クィア・スタディーズ’97』
        クィア・スタディーズ編集委員会編
        七つ森書館 2600円

▼加藤秀一

 現代日本で、婚姻を行なう権利が特別に制限されている人々は、近親者および姻族同士、離婚後六ヶ月以内の女性、皇族、同性愛者同士である(重婚の禁止や年齢上の制限はひとまず別とする)。最後の制限はこの中でも異質である。なぜなら前三者については、関連する民法や皇室典範の規定が憲法第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという規定に違反しているのではないかという問題が立てられるのに対し、
同性愛者間の婚姻は、そもそも憲法そのもの(「両性の合意」)によって排除されているからだ。すなわち同性愛者の婚姻の禁止は、他のいかなる婚姻規制よりも、一段深いレベルに置かれているのである。逆に言えば、「婚姻(結婚)とは異性間のもの」という発想は、婚姻をめぐる他のすべてのルールの前提をなす、最も基本的なルールなのである。

 理由は明白だ。これまでの結婚制度の本質は、子孫の生産およびそれを通じた家族制度の再生産にあったので、子孫を生産できない同性愛者カップルはあらかじめそこから排除されてきたのである。しかし近代以降、人々の結婚をめぐる意識は変化してきた。結婚は家同士の結合としてよりも、個人としての男女のパートナーシップを中心として解釈されるようになった(戸籍制度の問題は残っているが)。そうだとすれば、現在の状況のなかで明らかになりつつあるのは、憲法24条に実は最初から内包されていた矛盾であると言えるだろう。この条文が、個人間の愛情と信頼に基づく永続的結合を結婚の本質とみなしているのだとすれば、それを異性間に限定する必然性などそもそもありはしないのだ。

  『クィア・スタディーズ'97』の特集「婚姻法/ドメスティック・パートナーシップ制度」は、およそこうした歴史的状況の中から生まれ、また状況に新たな問いを投げかける画期的な企画である。ここで紹介されている諸外国のドメスティック・パートナーシップ制度(配偶者に準じる特権を同性にも認める)が興味深いのは、それがむしろ(憲法第24条に具現された)近代的結婚の理念を異性間の場合よりも純粋に表現しているように思われることだ。すなわち、個人間の共同関係にかんする社会的承認・保護としての結婚という理念。ただしその意味は両義的である。それは同性愛者への差別撤廃
になる一方で、結婚という束縛のシステムそのものの延命にもつながるからである(本書中でも上野千鶴子氏がこの点にこだわっている)。

 だがこのような議論も、本書の問題提起の後ではじめて成り立つということを忘れてはなるまい。同性愛者差別の問題とともに、結婚や家族の意味全般をも問い直すきっかけを与えてくれる本書の登場の意義は大きい。特集以外にも数々の興味深い論考が収められていることも付け加えておこう。また参考文献として、社会制度としての結婚/家族についての基本的な知識を具体的な事例に沿ってわかりやすく解説してくれる、二宮周平『家族をめぐる法の常識』(講談社現代新書)を推薦しておきたい。