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since 2002/01/23
    Eugenics and Gender 2

1901 GBR Francis Galton.「既存の法と感情の下における人種改良の可能性」
1902 GBR Pearson, Weldon, Galton. Biometrika. (jounal)刊行。
1902   この頃から、メンデル理論の正しさを立証する研究が相次ぐ。
1902 USA 中国人移民禁止法
1903 GBR Robert Reid Rentoul. Proposed Sterilization of Certain Mental and Physical Degenerates. [リヴァプールの医師による極めて煽動的な断種の主張]
1903 GBR 「ボーア戦争の最中、政府の徴兵総監部がマンチェスターで兵役志願者を身体検査したところ、実に一一人中八人は不合格だったと報告していた。一九〇三年、イギリス議会は「国民体位低下」(national deterioration)対策委員会を設立した。」(ケヴルズ、130頁) 
1903 GBR George Bernard Shaw. Man and Superman.
1903 USA 新移民法[てんかん患者、精神障害歴のある者等の移民を禁止]
1903 GER Alfred Ploetz. Heredity and Selection in the Life of People. [優生学の啓蒙書。Krupp鉄鋼主催の優生学コンテストで受賞]
1903 JPN 森鴎外『人種哲学梗概』[ゴビノーの「人種不平等論」を批判的に紹介]
1903 JPN 小栗貞雄。賀来寛一郎『社会改良実論』の前編「妊娠制限の必要及び妊娠制限の実行法」
1904 GBR Galton committed 500 pounds a year to Univerity College for a Research Fellowship in National Eugenics.
1904 GBR Galton's lecture at the Sociological Society, in London.「優生学――その定義、展望、目的」[第1回イギリス社会学会(5月)における講演]
1904 GBR 「王立精神遅滞保護抑制委員会」が設置され、精神障害(「精神薄弱」)の調査に乗り出す。
1904 GBR Benjamin Kidd. “Discussion of Galton's Paper.” American Journal of Sociology, 10. [変質者の断種の国家管理に反対]
1904 FRA Alfred Binet. フランス政府の依頼に応じ、精神障害児の判別法を考案。さらに、Theodore Simonとともに、“mental age”[精神年齢]概念を核とする知能検査法を案出。
1904 USA Charles Venedict Davenport, カーネギー財団の助成を受け、Cold Spring Harborに進化専門の研究施設「実験進化研究所」(Station for Experimental Evolution)が創設され、ダベンポートが着任する。「……彼は女性が「相手の男性の生物学・遺伝学的家系を調べることなしには」結婚しないのが当たり前になる時代が一日も早く到来することを期待した。「家畜繁殖者が子馬や子牛を産ませる種親を血統証明書なしでは選ばない」のと同じようにである。しかし、優れた子孫を増やす方法よりも、彼が決定的に重点を置いたのは、劣等者に子供を産ませないようにする方法であり、後に「禁絶的優生学」(negative eugenics)と呼ばれることになるものであった。」(『優生学の名の下に』邦訳85頁) cf. Reilly, 1991, p.18
1904 USA G. Frank Lydston. Diseases of Society. [イリノイ大学の生殖泌尿器科医師。social diseaseに対抗するために、両性の強制的断種を推奨。結婚のライセンス制、犯罪者や精神薄弱者を処刑するためのガス室を提唱するなど、アメリカにおける禁絶的優生学の嚆矢にして極限]
1904 USA Theorode R. Roosevelt. “Twisted eugenics.” Outlook, 106.
1904(M37) JPN 丘浅次郎『進化論講話』[当時一〇版以上を重ね、知識層に影響力大。獲得形質遺伝に肯定的であるなど、ダーウィン自身に徹底して忠実]
1904 JPN 大沢謙二『体質改良論』
1904-05 JPN 《日露戦争》
1905 GBR 外国人法によって、病人、犯罪者、生活能力のない者の入国を拒否する権限を政府が持つ。
1905 USA 結婚制限にかんするインディアナ州法。「州の立法の最も大きな影響を及ぼしたのは一九〇五年に成立したインディアナ州の法律である。同法は三部から成り、精神障害者、「感染性の疾病」の持ち主、過度の飲酒常習者の結婚を禁止するとともに、精神病の治療施設から退院を許可されたすべての人に健康診断書の携帯を義務づけた。また、この法律に違反するのを避けようとして他州で行なわれたインディアナ州民の結婚をすべて無効としている。」(Kevles, 1995, p.100)
1905 USA Edmund B. Wilson, Nettie M. Stevens concluded that the determination of sex, including the one-to-one male-female ratio, was caused in Mendelian fashion by the segregation and the reunion of the X and Y 'chromosomes.
1905 USA Moses Harman. The Right to Be Born Well, pamphelet.
1905 GER A・プレッツ、ドイツ優生学協会を組織。
1905 JPN 雑誌『人性』[医学者・富士川游を中心として、生物学をはじめ心理学・医学・人類学などの論文や外国のものの紹介]
1905 JPN 丘浅次郎「自然淘汰ト衛生」(『国家医学会雑誌』第二二一号→『人性』第一巻)[自然選択の原理を前提にした人種衛生学、社会衛生学を肯定]
1906 JPN 十時弥『進化論』
1906 GBR The Fellowship terminated. Galton Laoratory for National Eugenics, under Pearson's directorship.
1906 GBR Weldon dies (at the age of 46).
1906 GBR David Herdon. (Galton Laboratory) demographic study of a number of London district.
1906 JPN 勝本勘三郎(法学者)「堕胎罪と遺棄罪に付いて」『内外論叢』五巻一[堕胎罪の実効性を疑問に付し、「単純なる堕胎それ自体」を不問に付すべしと主張]
1906 JPN 呉文聰『人口政策』[国威拡張のための人口増殖の必要を説く]
1907 GBR Eugenics Education Society[優生教育協会]発足(11月)。雑誌Eugenics review刊行。
1907 GBR K. Pearson.「確率:優生学の基礎」
1907 USA 移民法の範囲拡大[精神薄弱者、結核患者等の入国を禁止]
1907 USA テキサス州で、強姦犯を去勢できる法律が下院を通過したが、上院で否決。
1907 USA インディアナ州で州法による最初の断種法が制定される(4月9日)。犯罪者、精神薄弱者、強姦犯などに対する強制断種の道を開く。以後1913年までに、16の州で断種法案は可決され、内4つの州では知事によって拒否された。断種法を成立させた12の州は、インディアナ、ワシントン、カリフォルニア、コネチカット、ネバダ、アイオワ、ニュー・ジャージー、ニューヨーク、ノースダコタ、ミシガン、カンサス、ウィスコンシンの各州。知事が拒否したのは、ペンシルヴァニア、オレゴン、ヴァーモント、ネブラスカの各州。
1907 USA シカゴの聖マリー病院の外科医A・J・オクスナーにより、公式にはアメリカ初の断種手術が報告される。
1907 USA G. Davenport. “Hereditary Crime.”
1907 JPN 呉文聰、『国家医学界雑誌』第二三九号
1907(M40) JPN 改正刑法「第二十九条 堕胎ノ罪」。[ドイツ刑法に倣い、堕胎罪がより厳密になる。概して懲役年限を延長、堕胎に介在した者は本人堕胎より重い刑となり、専門職の堕胎幇助の刑期も明確化され、不同意堕胎については未遂も処罰対象となる]
1907 JPN 「癩予防に関する件」制定。
1907 JPN 永井潜『医学と哲学』
1907-08 USA 移民にかんする日米間の紳士協定締結
1908 USA Henry H. Goddard. Training School for Feeble-Minded Boys and Girls, at the Vineland, New Jersey.[ビネー-シモン式知能テストをアメリカに導入]
1908 G. H. HardyとW.Weinberg が、安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について〈ハーディ=ワインベルクの法則〉を発見。
???? USA Galton Society, in New York.
????  (A) USA Race Betterment Foundation, in Battle Creek, Michigan.
1908(A) USA Eugenics Education Societies, in Chicago, St. Louis, Wisconsin, Minnesota, Utah, California.
????  (A)   the baby-health comopetitions spread to some forty states before the war.
1908 USA Alexander Graham Bell. 幼時より耳の聞こえない妻を持つベルは、チェスタトンの優生学批判に賛同し、優生学適不適格者においても結婚が幸福に結びつくことを主張した。National Gepgraphic, 19.
1908(M41) JPN 外山亀太郎(遺伝学者)「人類の根本的改造」『読売新聞』紙上[メンデルの法則を利用して人類改良が可能であることを指摘]
1909 GBR Galton. Essays in Eugenics. (published by Eugenics Education Society)
1909 GBR Carl Saleeby. Parenthood and Race Culture. [断種を積極的優生学のプログラム内に位置づけた穏健派]
1909 GBR Encyclopedia Britannica (11th edition)の“Civillization”の項に優生学的記述が載る。
1909 GBR W. C. D. Whetham and C. D. Whetham. The Family and the Nation: A Study in the Natural Inheritance and Social Responsibility. (addressed the issue of Britain's racial strength) [優生教育協会の中でも最も強硬な女性解放運動反対論者]「最も優れた女性たちが天から授かった光栄ある義務を放棄するような国に災いあれ!」
1909 GBR Archibald Garrod. Inborn Errors of Metabolism. (1923 2nd ed.) [生化学的異常の研究に貢献]
1909 USA Harry H. Laughlin、Davenportとともにアメリカ育種協会(American Breeder's Association=ABA)の会議に出席し、優生学推進の演説をする。(1月)
1909 USA コネチカット州で断種法制定(8月12日)。インディアナに続いて二番目。
1909 USA カリフォルニア州で断種法制定。
1909 USA Franz Boas. Changes in Bodily Form of Descendants of Immigrants. [コロンビア大学の人類学者。政府の移民委員会に委託され、ニューヨーク市の移民を2年にわたって調査。ヘブル人とシシリア人は容易にアメリカ人に同化していると結論づけ、優生学に対する実証的反対論となった]
1909 JPN 沢田順次郎『男女と自然』

1909-11 GBR Cyril Burt. オックスフォードとリヴァプールで小学生の知能検査。
1910 GBR Shaw roused a Caxton Hall audience to cheers with the suggestion that, for the eugenic good, women should be permitted to become respectable mothers without having to live with the fathers of their children.
  GBR 「明らかにショーは、「優生問題自体がすぐれて女性問題」であるというエリスの見解に賛成していた。優生問題と女性問題との関係についてリベラル派は、優生学的理由から女性は自分自身の肉体だけでなく、自分の生活そのものも自分で決定できることが必要と考えた。女性の自立を実現するには女性自身が職業を持たなければならない。自らの生活の糧がないために女性はやむなく結婚に追い込まれ、ときには病気を持った男やふしだらな男とも結婚しなければならない。その点、職業を持った女性は、結婚や親になることからまで自由になることを望まれてはいなかったが、優生学的に望ましくない結婚はしなくとも済むようになるだろう。ハヴロック・エリスは彼自身性的不能者で子供がいなかったが――おそらくはそのために――「女性解放運動を最新完璧な状態にまで発展させ母性文化を開花させなければ、優生主義の実現はあり得ない」とまで言い切った。」(Kevles[1985/1995:87=1993:155])「避妊によって性的満足は妊娠出産と切り離されねばならない。これは性行為を純粋に個人の私的な快楽とし、半面で妊娠と出産を種に対する責任ある行為とすることでもある。さらに避妊による産児制限で低所得者階級の経済的負担を軽減し、母性の健康を守り、生まれた子供を余裕を持って育てられることもエリスは指摘した。」(Kevles, op.cit.) ただし優生学の主流派ははるかに保守的で、エリスやショーとは決定的に見解を異にしていた。'Henry Fairfield Osborn, Leonard Darwin, Dean Inge, Theodore Rooseveltなど。
1910 GBR Harold Laski. “The Scope of Eugenics.” Westminster Review.
1910 USA Margaret Deland. “The Change in the Feminine Ideal.” Atlantic Monthly, March 1910. [「子供の生まれない権利」について述べる]
1910 USA 鉄道王E. H. Harriman(前年に死去)の未亡人Mrs. E. H. Harriman の支援を受け、DavenportはCold Spring Harbor の実験進化研究所に「優生学記録局」(Eugenics Record Office)を設置する(10月)。「第二次大戦以前のアメリカの基礎研究を支えたのは、このように、石油・鉄鋼・鉄道などの財閥系財団からの支援であった。アメリカには、これ以外に、アメリカ優生協会、優生研究協会、ゴルトン協会、家族関係研究所、人間改良基金など多くの優生学的組織が生まれたが、この優生学記録局は唯一、独自の建物・研究設備・専任職員を擁する研究施設で、このような本格的な機関は世界で初めてであった。」(米本昌平「イギリスからアメリカへ――優生学の起源」、米本ほか『優生学と人間社会』講談社現代新書、p. 32)
1910 USA Prince Morrow, a professor of medicine at the University of the City of New York and president of the American Society of Sanitary and Moral Prophylaxis, told “the sex problem lies at the root of eugenics.” (Morrow. “Eugenics and Venereal Deseases.” Child Conference for Research and Walfare.)
1910 USA ヴァージニア州、祖先に16分の1以上黒人の血が混じった者がいるときは黒人とみなすという法律。
1910(M43) JPN 《日韓併合》《大逆事件》
1910 JPN 海野幸徳『日本人種改造論』[皇室崇拝、祖先崇拝という社会的優位性を土台に、日本人種の身体的、精神的側面の改良を唱える]翌年改訂増補版。
1910 JPN 「平田東助内相、地方官会議において、欧米諸国に比し日本の死亡率が著しく高いことを指摘、まず衛生思想の普及を図るべく、懇話会、展覧会、衛生上の功労者の表彰などの方法を講じるように訓辞。これを受けて地方庁では衛生講話会、衛生展覧会を頻繁に開催し、産婆養成に貢献した個人や団体も表'彰されるようになった。」(藤目[1997:123])
1910 JPN 澤田順次郎『雌雄進化論』
1910 JPN 外山亀太郎「遺伝学の進歩と人生の関係」『人性』第六巻
1910 JPN 丘浅次郎「人類の将来」『中央公論』[人類が滅亡へ向かっていることを論じる]
1911 GBR Leonard Darwin、優生教育協会の会長に就任。
1911 GBR Galton死去。 Galton Eugenics Professorship. Department of Applied Statictics.[この新学科には日本からも研究者が来たとのこと。誰?]
1911 GBR Pearson’s occasional compendium The Treasury of Human Inheritance.
1911 GBR Ethel M. Elderton, the female mainstay of the staff of Galton laboratory.
1911 GBR L. T. Hobhouse. Social Evolution and Political Theory. [急進的な優生主義が女性を出産と育児役割に限定していることを批判]
1911 USA Scientific American, 104.論説で、犯罪者や障害者の結婚制限が人類にとって必要だと主張。「生きていてもよい、しかし子どもはつくってはならない」“The science of breeding better men.”
1911 USA アイオワ州の断種法。断種の対象を最大限に拡張し、薬物中毒者、性犯罪者、てんかん患者を含む。また性犯罪の再犯者、性犯罪以外の重大犯罪を三回犯したもの、さらに白人女性を強要して売春させた者を強制断種することにした。
1911 USA Davenport. Heredity in Relation to Eugenics.
1911 USA G. Stanley Hall. (psychologist, president of Clark Univ.) “Eugenics, Its Ideals and What It Is Going to Do.” raised the specter of “the yellow and Oriental peril”
1911 GBR Havelock Ellis. Studies in the Psychology of Sex. (II, part 3: Sex in relation to society)
1911 GER 国際衛生博覧会(ドレスデンで開催)において、優生学協会は優生学関係の展示を後援。
1911 GER Felix Bernstein. 血液型を膠着物質の違いによってA,B,O,ABに分類。
1911 JPN 澤田順次郎『民種改善・模範夫婦』
1911 JPN 丘浅次郎「民種改善学の実際価値」『人性』第七巻[国家、民族間の競争に勝つために優生学(民種改善学)の必要を主張しながらも、いたずらに流行を追う態度を戒め、新しい学としての優生学に対する慎重な態度を提唱している]
1911 JPN 海野幸徳『興国策としての人種改造』(博文館)
1911-12 GBR Laski. “A Mendelian View of Racial Heredity.” Biometrica.
1912 GBR Havelock Ellis. The Task of Social Hygiene. [“Feeble-mindedness is largely handed on by heredity.”][優生立法による強制的断種等の方策には断固反対、自発性を強調]
1912 GBR 第1回国際優生学会議(International Eugenics Congress)がロンドンで開催される。会長はLeonard Darwin。参加者は300人以上。イギリス代表団の団長は、内務大臣W. Churchillとロンドン大学副学長W. Collins。ドイツ代表にA. Ploetz。国際優生学常設委員会が設置された。
1912 GBR Edgar Schuster. (the first Eugenic Fellow at University College London) Eugenics.[優生学的適応の概念をダーウィン的適応と区別し、政府の介入による人為的選択を正当化][ただしアメリカで実施された優生立法の多くは「性急であり、誤っている」とした。]
1912 GBR William Bateson.オックスフォード大学ハーバート・スペンサー講座において、優生立法に反対。
1912 GBR イギリス政府、精神障害者対策法案を議会に提出、翌年圧倒的多数で可決。(Kevles [1985/1995:99 =1993:174])
1912 USA Henry H. Goddard. The Kallikak Family: A Study in the Heredity of Feeblemindedness. [カリカクとは、アメリカ独立戦争時の一人の兵士の子孫に与えられた仮名。精神薄弱が遺伝性であることを立証したとする、代表的な家系研究]
1912 USA ニューヨーク州で断種法制定。
1912 USA Nellie M. L. Nearing & Scott Nearing. “When a Girl is Asked to Marry.” Ladies Home Jounal, March. '[ジューク家、エドワーズ家の例を挙げ、女性読者に結婚相手の優生学的選択を呼びかける]
1912 USA Father Thomas J. Gerrard. The Charch and Eugenics. [優生学を「けだものの生活への完全な回帰」として非難]
1912 USA Elizabeth S. Kite. “Two Brothers.” Survey 27. [Kallikaks研究の初期のもの。著者はTraining School at Vineland, New Jersey.出身の優生学者]
1912 USA George E. Dawson. “100 Superfine Babies: What the Schience of Eugenics Found in the Babies of Our Contest.” Good Housekeeping. Feb. [この頃、KKKのメンバーElizabeth Tylerが“beteer babies”運動を始め、10年後には複数の場所でKKK主催の「赤ちゃんコンテスト」が開催されるようになった]
1912 USA Florence H. Danielson & C.Davenport. The Hill Folk: Report on a Rural Community of Hereditary Defectives.
1912 USA Arthur H. Estabrook & C. Davenport. The Nam Family: A Study in Cacogenics.
1912 USA New Jerseyでてんかん症者Alice Smithに対する断種が決定されるが、これをきっかけとする申し立てを受け、州最高裁において、断種法そのものが違憲と判断される。理由は、principle of equal protectionに反すること。
1912 USA アメリカ育種協会(ABA)、「アメリカの人口内における欠陥生殖質を除去する最良の実用的手段を研究し報告する委員会」(Committee to Study and to Report on the Best Practical Means of Cutting off the Defective Germ Plasm in the American Population)を設立。
1912 GER William Stern. (psychologist) invented the concept of “intelligence quotient”[defective personsの繁殖率が高いことを主張]
1913 USA C. B. Davenport. State Laws Limiting Marriage Selection.
1913 GBR 「精神病法」(Mental Deficiency Act)成立。
1913 USA Charles A. Boston (NYの著名な弁護士). 断種法に対する徹底した批判を、Journal of the American Institute of Criminal Laws and Criminology誌に寄稿。
1913 USA Stoddard Goodhue. “Do You Choose Your Children?” Cosmopolitan. July. [優生結婚を勧める記事](Kevles [1985/1995:67=1993:121])
1913 USA Robert M. Yerkes. Ernest E. Sauthardと協力して知能検査の実験に取りかかる。後、James W. Bridgesと共にYerkes-Bridges scaleを開発。
1913 USA Arnold L. Gesell. “The Village of a Thousand Souls.” The American Magazine 76. [精神薄弱の女性が多くの子供を産んでいる、と煽る]
1923 USA Lester Ward. “Eugenics, Euthenics, and endemics.” American Journal of Sociology, 18. [優生学をエリート主義の幻想として批判]
1913 USA 優生記録局内に優生学研究協会がつくられ、雑誌Eugenical News発刊。
1912 USA New York州で断種法制定。
1913 USA Iowa州で断種法が違憲と判断される。理由はデュープロセス条項に反すること。
1913 USA 「一九一三年の時点でも、三二州で、白人と黒人の結婚と性交渉は法律で禁止されていた。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』講談社現代新書、p. 38)
1913 JPN R.H.Rock著、阿部文夫訳『趨異遺伝及進化』大日本文明協會
1914 GER ドイツ国民衛生協会の綱領において、「帰還運動」が提唱され、ポペノーにも影響を与える。
1914 GER Goddardのカリカク家研究の最初のドイツ語版が出版される。[以後、1933年に第二版。カリカク家の研究はドイツ断種法制定に大きな影響を与える]
1914 USA Henry H. Goddard. Feeble-mindedness: Its Causes and Consequences.
1914 USA Gertrude Davenport. (Charles Davenportの妻) “Society and the Feebleminded.” The Independent, Apl. 27.[精薄者の脅威を説き、禁絶的優生学を正当化]
1914 USA 「第一回人種改良国民会議」(First National Race Betterment Conference)が Battle Creek, Michiganにて開催される。[医師John Harvey Kelloggの肝いり。正式代表406人、参加者は数千人に及び、優生学だけでなく公衆衛生や教育など多方面にわたる一大会議だった。ケロッグは後に優生学の教育機関として、Battle Creek Collegeを創設するに至る。(→Alan Parker監督の映画『ケロッグ博士』)]
 「その席上、一連の「知能と肉体の能力テスト」が全国的に宣伝された。コンテストでは身体検査と、知能テストの成績によって「優秀な赤ん坊」と「完璧な児童」を選んだ。(中略)バトルクリークのコンテストは、アメリカ優生学教会が後盾になった全国的なコンテストの出発点になった。」(ネルキン&リンディー『DNA伝説』邦訳紀伊國屋書店、43-44頁)
1914 USA F. Scott Fitzgerald. “Love or Eugenics”
1914 USA Margaret Sanger, Family Limitation
1914 USA 精神障害者の結婚を何らかの形で制限する法律を新たに制定したり、あるいは従来からの婚姻法を改正した州が約30州に達する。
1914 USA Harry Laughlin. The Legal, Legislative, and Administrative Aspects of Sterilization, Bulletin no.10B. (Eugenics Record Office)
1914 USA シカゴ地方裁首席判事Harry Olsonが生来的犯罪者のスクリーニングのための精神病質研究所を設立。所長は精神測定学者William Hickson。
1914 USA アメリカ遺伝学会(アメリカ育種家協会より改称)『遺伝学雑誌』(Journal of Heredity)発刊。
1914 JPN 山内繁雄「遺伝と人種改良学」『細胞と遺伝』[「彼がここでとりあげている人種改良は優秀なものを増やそうという積極的改良よりも劣悪な形質のものをとり除こうという消極的人種改良である。そこには断種法の萌芽も見られるのである」鈴木[1983:87-88]]
1914 JPN 氏原佐蔵『民族衛生学』(南光堂書店)[アメリカの断種法を詳しく紹介し、その必要性を説く]
1914 JPN ダベンポート『人種改良学』邦訳
1915 USA Edwin Grant Conklin. Heredity and Environment in the Development of Men. [プリンストン大学の遺伝学者。declared that the feminist movement was “a benefit to the race” insofar as it brought women greater intellectual and political freedom, but insofar as it demanded “freedom from marriage and reproduction iti is suicidal.”]
1915(T4) JPN 永井潜『生命論』初版[「人類改良学」に言及]
1915(T4) JPN 永井潜『生命論』第三版に「人間に於ける遺伝と人種改善学」を増補。
1915 JPN 永井潜「人種改善学の理論と実際」(『日本及日本人』に連載)
1915 JPN 永井潜「人種改善学の理論」『人性』第一一巻[マルサスの人口論を引用し、人口問題と食糧問題をとりあげ、また死亡率現象と異常者増加を論じ、その対策として優生学(人種改善学)の必要性を説く。翌年、『生物学と哲学の境』に再録]
1915 JPN 山内繁雄『遺伝論』[ゴールトンのバイオメトリクスを肯定的に紹介]
1915 JPN 東京都の全生病院でらい病患者に対する断種手術が始められる。「一九三八年までに同病院で断種手術を受けたのは三四六人に及び、それは決して志願者にのみおこなうのではなく強制的なものであったことや、独身の男性も対象とされたこと、あるいは手術を医師がおこなわず看護長に代わりに実施させることもあったこと、そして手術の結果、性交不能になったり腰痛などの後遺症に苦しむ者もあったことなど、光田[健輔]の回想の虚偽が明らかにされている」(藤野豊『日本ファシズムと優生思想』かもがわ出版)。
1916 USA Lewis Terman. The revised version of the Binet-Simon test at Stanford university.He introduced the term “I.Q.”, which stands for “intelligence quotient”
1916 USA The case of Esther Mayer. [ニューヨーク州最高裁で、知能が低いことを理由に保護施設に強制入所を命令されたエスターの両親が入所命令の取り消しを求めた。Justice John W. Goffは、ビネー・シモン知能テストの結果をエスターの精神障害を証明する資料として提出することを認めなかった。]
1916 USA Arthur H. Estabrook. (a field worker for the Eugenics Record Office.) The Jukes in 1915.
1916 USA William E. Castle.(Harvard Univ.) Genetics and Eugenics. [雑婚による人種混合を肯定的に評価。ダヴェンポートも賛成したが、後に立場を変える]
1916 USA Madison Grant. 『偉大な人種の消滅』(The Passing of the Great Race.) [反移民の書。“mongrelization”[雑種化]に警鐘。]
1916 USA Michael Guyer. Being Well-born. [移民制限を主張]
1916 JPN フランシス・ゴールトン『天才と遺伝』原口鶴子訳、早稲田大学出版部。
1916 JPN 永井潜『生物学と哲学の境』
1916 JPN 廓清会評議会法学博士小河滋次郎「遺伝説と婚姻法」『廓清』
1916 JPN 内務省に保健衛生調査会が設置される(第二次大隈重信内閣、6月27日)。[出産率の低下傾向への防止策という意図が背後にあった。内務次官を長とし、当初の委員には永井潜、富士川游、光田健輔など]
1916-17 USA Emma Goldman's monthly Mother Earth[避妊の実行を拒否することは「極貧者、梅毒患者、てんかん患者、アル中患者、不具者、さらには犯罪者や変質者を増やすのを合法的に奨励するに等しい」と主張][第一次世界大戦以前はサンガーは産児制限運動を女性解放運動と結びつけていたのだが、戦後はもっぱら優生学的理由から避妊の必要性を強調するようになった。イギリスでサンガーに比される産児制限論者だったマリー・ストープス(Marie Stopes)<についても同じことが言える。](ケブルズ、159頁)
1917 GBR Reginald C. Punnett. 断種が精神薄弱問題を解決しえないことを統計学的に試算。
1917 USA William J. Robinson. Eugenics, Marriage, and Birth Control (A Practical Guide).[急進的な性解放とともに強制的断種を正当化。「えせ優生主義者」たちの道徳的反動性を非難]
1917 USA The National Academy of Scienceが設立したNational Research Councilの下に、Yerkesを責任者とする心理学者の研究グループが結成され、アメリカ陸軍用の知能テスト作成に取りかかる。
1917 USA Osborn to Carrie Chapman Catt. 「人間の進化を阻害するという理由から、選挙法を改正して女性に参政権を与えるのに反対している。」
1917 USA New York州で断種法が違憲と判断される。理由は「平等の保護」条項違反。
1917(T6) JPN 全国処女会中央部設立。
1917 JPN 細胞学者の藤井健次郎によって、日本最初の遺伝学講座が開かれる。
1917 JPN 石川千代松「メンデル法則と優性論」『人間の進化』[メンデリズムに立脚した人種改良論]
1917 JPN 山内繁雄『人類の遺伝』[「人種改良と優良種の永続とは最高の倫理上の責任」とする]
1917 JPN 大日本優生学会設立。しかし「機未だ熟さず、世人の注意を惹かずに終つて了つた」(『民族衛生』1巻1号)。
1918 USA Popenoe & Johnson. Applied Eugenics. [優生学は生物学を基礎とし、社会学を上層として成り立つとして、環境の側面も重視]
1918 JPN 『廓清』「遺伝と環境号」特集。[生物学・社会学・善種学・心理学・倫理学・婦人問題・男女道徳・犯罪学・酒毒・梅毒・精神異常から観た遺伝と環境についての論説を集める]
    この頃には、「ハーヴァード、コロンビア、コーネル、ブラウン、ウィスコンシン、ノースウェスタン、カリフォルニア大学バークレー校といった有名大学をはじめ全米の大学では優生学や遺伝学の講義が開講され、人気講座になった。」(Kevles [1985/1995:69=1993:124])
1919 USA Rogers and Merrill. Dwellers in the Vale of Siddem.
1919 USA Margaret Sanger. 「適者からより多くの子供を、不適者からより少ない子供を――これが産児制限の主たる目的である」
1919 USA Yerkes et al. drew up a standard National Intelligence Test. [一年足らずで50万部以上を売る]
1919 USA Henry Goddard, gives a speech in the Vanuzem Lectures at Princeton University.
1919 USA Dr. Walter E. Fernald. 全米精神衛生員会年次総会の席上で、精神薄弱問題にかんする従来の優生学的・遺伝還元主義的発想を自己批判。
1919 USA Margaret Sanger. “Birth Control and Race Betterment.” Birth Control Review 3.[女性の自発性よりも国家的強制を重視する優生学の風潮を批判]
1919 USA Indiana州で断種法が違憲と判断される。デュープロセス違反。
1919 JPN 丘浅次郎『最新遺伝論』[優生学による人種改良の必要を認めるが、大きな期待はかけていない]
1919 JPN 五島清太郎『生物学と優生学』[動物学者。満鉄読書会の招きで行なった連続講演を集成]
1919 JPN 海野孝徳「優生学の限界に就いて」『心理研究』第八五号[]
  USA The Fitter Families contests had started in Topeka, at Kansas Free Fair.

1920 GBR Arabella Kenealy, Feminism and Sex-Extinction [母性・生命礼賛の反フェミニズム思想。著者は優生教育協会と関わりを持っていたが、断種のような手段による禁絶的優生学は自然にもとるものとして非難した。]
1920 USSR ロシア優生学会
1920 USA H. Laughlin、上院・移民同化委員会で、公立病院や慈善施設は自立生活ができない移民であふれていると証言(4月)。委員長A. Johnsonは、これを機に、ロフリンを優生学専門スタッフに任命。
1920 JPN 永井潜「最近の大戦争と人種衛生」『東洋学芸雑誌』第三七巻四二六号[戦争による逆淘汰を憂慮]
1920 JPN 「根本的癩予防策要項」が保健衛生調査会で決議され、すべての患者の隔離へ向けた動きが始まる。
1920s USA 「ダヴェンポートは移民に入国を許可するかどうかは、あくまで個人を対象として考慮すべきであって、特定の民族グループを排除するようなことがあってはならないという意見だった。ところが、一九二〇年代の初期になると、個人の生物学的、精神的素質を基礎にして入国を許可する優生学的な原則は崩れ去り、人種あるいは特定の民族の移民単位で拒否する傾向が明らかになってくる。移民に対する考え方の変化は、移民を制限せよとの世論が強まったことの表れでもある。それはまた一方では、多くの優生主義者たちが抱いていたあらわな人種的偏見、すなわちWASPが生物学的に優れ、非WASPが劣っているという偏見の反映でもあった。こうしてアメリカの優生計画の基調は東ヨーロッパおよび南ヨーロッパからの移民を制限することに置かれた。」(ケブルズ、167頁)
1920s USA 「一九二〇年代までには多くの州で、実際に結婚した日から役所に婚姻届を出すまでに一定期間を置く条項が取り入れられるようになった。これは性急で思慮の足らない結婚を当事者に再考させる余地を与えるべきだという優生主義者たちの主張に基づくものである。」(ケブルズ、邦訳175頁)(→Jesse Spaulding Smith, “Marriage, Sterilization and Commitment Laws Aimed at Decreasing Mental Deficiency,” Journal of Criminal Laws, 5(Sept. 1914)
  (W) International Federation of Eugenic Societies創設。
1921 (W) 第2回国際優生学会議(Second International Congress of Eugenics)が アメリカ自然誌博物館(American Museum of Natural History, New York)にて開催される。会期はSeptember 22-28。会長は自然誌博物館長H. F. Osborn。会議のテーマは「優生学、遺伝学、家族」(Eugenics, Genetics and the Family)。ドイツは参加せず。
1921 USA 移民制限の緊急時限立法成立。
1921 USA The National Academy of Sciences. Psychological Examining in the United States Army.
1921 USA アメリカ合州国優生委員会設立。
1921 GER ドイツ人種衛生学協会が41点にわたる優生プログラムを採択。積極的優生学を軸とし、強制断種を否定。
1921 USSR ソビエト科学アカデミー優生学局(レニングラード)
1922 GBR Galton Laboratory. The Treasury of Human Inheritance, II.
1922 GBR G. K. Chesterton. Eugenics and Other Evils. [優生学に対する痛烈な批判的随筆の集成]
1922 USA Walter Lippmann. “The Mental Age of Americans,” New Republic, Oct. 25. [アメリカ陸軍のIQテスト計画から導かれた、アメリカ人の知能低下という結論を「ナンセンス」と攻撃]
1922 USA Harry Laughlin.(アメリカ優生記録局)アメリカ国内の精神障害者収容施設に入れられている移民が異常なほど多いという報告書を米下院移民・帰化委員会に提出。これに対し、Harbert JenningsはSurveyおよびScience誌上で反論、また移民・帰化委員会にも自分の主張を提出した。
1922 USA Harvey W. Wiley. “The Rights of the Unborn.” Good Housekeeping. Octorber. [不適格者(imbeciles, eliptics, syphilitics, and tuberculines)への国家福祉を否定]
1922 USA Henry H. Goddard. “Feeblemidedness.” Jounal of Psycho-Asthenics, 33. [これまでの精神薄弱の遺伝説およびその政治的意味合いから距離をとりはじめる]
1922 USA Margaret Sanger. The Pivot of Civilization. [主流優生学の階級的偏向を批判、民主主義社会においては、適者を見分けるには精神障害の実例を膨大に集めるしかないとし、また生殖にかかわる女性自身の自律性を擁護。Ellen Chesler. Margaret Sanger and the Birth Control Movement in America. 1992.]
1922 USA Chaeles Fremont Dight. Eugenic Research Associationに加入、優生学運動を開始。
1922(T10) JPN 市川源三『性教育概論』同文館 [優生学を性教育の要と位置づける]
1922(T11) JPN Margaret Sanger来日。
1922 JPN 山本宣治訳『山峨女史家族制限法批判』(Margaret Sanger, Family Limitation第10版の翻訳)
1922 JPN 東京で日本産児調節研究会が設立される。同年から翌年にかけて、大阪・京都・神戸でも産児制限研究会がつくられた。
1922 JPN 永井潜『医学と哲学』改訂版(洛陽堂)
1923 GBR Pearson lectured that the marriage brought about merely for the desire of happiness was “born in selfishness, and is antisocial.”
1923 USA WWI以降、新たな断種立法の動きは少なく、すでに断種法を制定した州の内7つは無効になっていたが、この年にはOregon, Montana, Delaware, Michiganの各州で断種法が成立し、これ以降、再び断種立法が活気づく。
1923 USA The American Eugenics Society. (Irving Fisher)?
1923 USA C.F.Dight. AESの特別会員になるとともに、Minnesota Eugenics Societyを創立。
1923 USA Carl Campbell Brigham. (a wartime Army tester) A Study of American Intelligence. [知能の国民的衰退に警鐘]
1923 USA Albert E. Wiggam. The New Decalogue of Science.
1923 GER Barvaria州で大学にドイツ初の優生学講座が持たれる。
1923 GER プレッツ『社会人類学』
1923 JPN 《関東大震災》
1924 GBR Ronald A. Fisher. Punnettの説に反論し、精神薄弱者の断種が一代で効果を上げると主張。
1924 GBR Bartland Russel. Icarus, or the Future of Science. [優生主義の強圧性を批判]
1924 GBR J. B. S. Haldane. Daedalus, or Science and the Future. [150年後のケンブリッジ大学の学生が、生物学の発展が歴史に及ぼした影響を教授に報告するという筋立て。1951年に最初の「胎外発生児」が'生まれるとする。1年間で約1万5千部を売り、オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』にも影響を与える。]
1924 USA 東欧・南欧からの移民排撃を主目的とする新移民法発効。[1921年法では1910年に設定されていた「人種」別人口構成比に算出基準年を、まだ東欧・南欧からの移民が少なかった1890年に変更]「一九二一年の最初の制限法は、いずれの国に対しても、当時アメリカに在住する移民者数の三パーセントを年間割り当て人数とすることに決めていた。一九二四年法は、優生主義者のプロパガンダの援護射撃を受けて、一八九〇年の国民調査で記録された国の移民人数の二パーセントを割り当て人数とするよう書き換えられた。一八九〇年の数字が一九三〇年代まで用いられた。制限法が通過したのは一九二四年なのに、なぜ一九二〇年のデータではなく、一八九〇年のが用いられたのか? 一八九〇年は移民史の上で転換点を印した年であった。南部および東部ヨーロッパ人はそれまで比較的少人数であったが、この年以後際立ってくる。皮肉なことだが効果的であった。」(Gould, 1981/1996, p.262)(初版の邦訳『人間の測りまちがい』河出書房新社、291頁)
1924 USA 断種法への批判が高まり、違憲判決も出るなかで、優生主義者たちによって違憲の非難を受けないよう工夫された断種法案が3月にヴァージニア州議会を通過成立。その直後の6月、17歳の少女キャリー・バックが「道徳観念薄弱」と判定されて、ヴァージニア州リンリバーグの州立てんかん・精神薄弱者施設に強制収容されたことに端を発し、この法律の合憲性が早くも問われた(Buck vs. Bell)。巡回裁判所、州最高裁での合憲判決を経て、1927年5月2日、最終的に連邦最高裁でも合憲判決が下された。これにより、各州の優生政策にはずみがつく。
1924 USA ヴァージニア州にて「人種の統一性を保存する法律」が成立。祖先にコーカサス人種以外の血が一滴も混じっていない者のみを「白人」とみなし、異人種間の同居も違法とする。例外規定として「ポカホンタス例外」にて、インディアンの血が16分の1以下の者は白人と結婚できるとした。ジョージアとアラバマも追随。
1924 GER Adolph Hitler. Mein Kampf. (『我が闘争』)
1924 GER 「ドイツ人種衛生学協会」年次総会(10月)。
1924(T13) JPN 田中義麿「人間本質の改善が急務」『医海及人間』第二巻三号[優生学によって「優良なる大和民族の本質を築く事」が急務であるとする]
1924 JPN 後藤龍吉、日本優生学会を設立、機関誌『ユーゼニックス』創刊。
1925 USA ミシガン州で、州最高裁が断種法の正当性を認める判決(6月18日)。
1925 USA Harbert Spencer Jennings. Prometheus, or Biology and the Advancement of Man.
1925 USA Thomas Hunt Morgan. Evolution and Genetics. (2nd ed.) 「少なくともわれわれは、人種全体に対して遺伝的な優越性あるいは劣等性を決定して、それを当てはめることは避けなくてはならない。なぜなら、人種とは単に生物学的な存在ではなく、身体的な条件はじめ宗教的な感情や政治的な形態を共にして結ばれた社会的、政治的なグループだからである」
1925 USSR ソビエト科学アカデミー優生学局が、「遺伝学および優生学局」と改称される。
1925 JPN 《治安維持法》《普通選挙法》
1925 JPN 山本宣治「結婚と優生学との関係」、雑誌『女性』5月号
1925 JPN 『産児調節評論』創刊。主幹は山本宣治。
1925 JPN 田中義麿「優生学から観た排日問題」『優生学』第六号[日本民族を一律に排斥するアメリカの方針を誤りとし、「良民」を選別して移民させることを主張、そのためにも日本自身が優生学研究体制を確立することを提言]
1925 JPN 後藤、『ユーゼニックス』を『優生学』と改題。また財団法人日本優生学協会設立を提案し、専門家の協力を要請。永井、田中、海野らを含む75名が応じるが、財団法人は結局成らなかった。『優生学』は1943年4月の雑誌統合による廃刊まで続く。
1925 JPN 海野孝徳「優生学に関して我国民に告ぐ」『優生学』第一〇号[人類死滅の危機を訴える]
1925 JPN 松村松年「排日と民俗思想」『進化と思想』(大日本雄弁会)[米国の排日案を批判、民族主義意識の高揚を訴える]
1926 GBR The Eugenic Society. (The Eugenic Education Societyより改組)
1926 GBR Eugenics Review創刊
1926 GBR C. P. Blacker. Birth Control and the State: A Plea and a Forecast.
1926 USA The American Eugenics Society設立。 [921の国際会議直後から活動を開始していたが、この年、正式に発足]
1926 USA The American Eugenics Society. A Eugenics Catechism.
1926 USA Clarence Darrow. “The Eugenics Cult,” American Mercury, 8. [優生主義と権力との結びつきに警鐘。]
1926 JPN 池田林儀『応用優生学と妊娠調節』春陽堂、9月28日刊行[マルサス、新マルサス主義、サンガーの産児調節運動を高く評価しつつ、単なる量的人口調節ではない、優生学的な観点からの人口の質の向上を提言。鈴木[1983:127-]]
1926(T15) JPN 池田林儀(報知新聞記者)、「日本優生運動協会」設立、雑誌『優生運動』創刊(11月1日)。[大正9年から13年のドイツ滞在中、ドイツの民族衛生学を支持したPaul Popenoeの考えに接し、影響を受けたらしい。著書に『文明の没落』他。鈴木、114頁以下;藤野、80頁以下]
1926 JPN 池田林儀『通俗応用優生学講話』冨山房[ドイツの國民運動のひとつ「自治制度」を重視、ワンダーフォーゲルをまねた「足の会」の提唱など、単に優生学的知識の普及にとどまらない、全体的な社会改革を提唱]
1926 JPN 池田林儀『東西女性發達史』實文堂
1927 GER Harman J. Muller.ベルリンで開かれた第5回国際遺伝学会議で、ショウジョウバエの遺伝子にエックス線を照射して人工的に突然変異を起こさせる研究の全容を報告。
1927 FRA M.T.Nisot. La Question Eugenique dans Divers Pays.
1927 USSR ソビエト科学アカデミー遺伝学および優生学局が、「遺伝学局」と改称される。優生学者たちの敗北。
1927 USA インディアナ州、ノース・ダコタ州で断種法制定。
1927 USA アメリカ合州国連邦最高裁、強制断種を最終的に合憲とする。「犯罪傾向の子孫を放置し、精神遅滞の子供を餓死に追い込むのを座視するよりは、社会が、明らかな不適応者が子供を作らないようにすることは全体にとって善である。強制的な種痘の法理は、じゅうぶん輸卵管切断にまで拡大しうる。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』講談社現代新書、p. 37より)
1927 USA H. L. Mencken. Prejudices, Sixth Series. [優生主義における「優生」観念の曖昧さを批判]
1927 GER 「カイザー・ウィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝研究所」開設。ロックフェラー財団の資金援助を受ける。開所式典では、C・ダベンポートがスピーチを行なった。
1927 JPN 「花柳病予防法」可決(第一次若槻礼次郎内閣、提出2月26日、可決成立3月25日、翌9月1日一部施行)[性病の感染源を売春にのみ求め、すでに「娼妓取締規則」の管理下にある公娼のみならず芸妓・私娼の健康をも管理しようとするものだが、一般人について何ら規定がないことに対する不満も出された。藤野p.149-]
1927 JPN 人口食糧問題調査会、第1回総会(7月20日)
1927 JPN 日本医師会第6回総会にて、内務大臣鈴木喜三郎が「民族衛生の施設」に関する意見を求め、これに対し各道府県医師会で答申案を作成し、日本医師会はそれらを参考にして答申を作成することになった。大阪医師会の答申案は極めて積極的な優生施策の実施を主張、京都医師会は環境改善の重要性を主張するなど、各医師会の答申内容には幅があり、断種や結婚規制法まで主張するものは少数派であった。(藤野、p.132-)
1928 USA The American Eugenics Society. sponsored a contest for essays on the causes of decline in “Nordic.”
1928 USA The American Eugenic Society. “Fourth Report of the Committee on Selective Society,” June 30.: “Immigration should be first of all considered a long-time investment in family stocks.”
1928 USA ミシシッピ州で断種法制定。
1928 USA Franz Boas. Anthropology and Modern Life. [主流派の優生主義者の知能テスト観、人種主義を批判]
1928 USA Henry H. Goddard. “Feeblemindedness.” Journal od Psycho-Ssthenics, 33.
1928 USA Leon Whitney. The Basis of Breeding. [優生学の啓蒙書。優秀家族コンテストを提唱。Irving Fisherの誘いを受け、富裕な農場主から優生学者に転身]
1928 USA Brush Foundation設立。[Clevelandで事業に成功したCharles Francis Brushが$500,000を投じたプロジェクト]
1928 CAN アルバータ州で断種法制定。以後43年間に、2822人が断種される。
1928 SUI ウォード州で断種法制定。
1928 JPN 池田林儀の日本優生運動協会、東京都目黒に「東京生物科学研究所」設置。しかし実質的な活動が行われたか否かは不明。
1928 JPN 日本赤十字社、1927年から行っている衛生展覧会の第3回として、「民族衛生展覧会」を開催(5月1日〜21日)。その「開催趣旨」は、典型的な逆淘汰説に基づく。
1928 JPN 日本医師会第7回総会にて答申を発表。[「悪質遺伝の虞ある遺伝病者、低脳者、変質者及ひ常習犯罪者」に対する強制的断種にまで踏み込んだ内容。意見を求められた永井潜の影響力が強いと思われる。]
1928 JPN 人口食糧問題調査会、第4回総会(12月19日)「人口統制ニ関スル諸方策」決定[「青年女子の死亡率男子に比して効率を示すは誠に寒心に堪えざる所なり」とし、女子体育・母性保護・医事相談・避妊器具の流布等を主張するとともに、「優生学的見地ヨリスル諸施設ニ関スル調査研究ヲ為スコト」とする。永井潜は審議の過程で結婚禁止法や断種の実施を主張したが、最終案には残らなかった。]
1929 GBR イギリス政府「精神薄弱に関する合同委員会」報告書
1929 USA Human Betterment Foundation設立[E.S. Gosneyによる優生学普及を目的とした非営利法人]
1929 USA Eugene S. Gosney & Paul Popenoe. Sterilization for Human Betterment. [一般読者に向けた最初の包括的な断種研究。1929年までに、カリフォルニア州では6255人が州法に基づく断種手術を受けていた]
1929 USA Davenport and Morris Steggerda. Race Crossing in Jamaica. [混血による劣化を主張]
1929 USA Norman Himes. “Eugenic Thought in the American Birth Control Movement 100 years ago.” Eugenics 2, no.5.
1929 USA Ohio Race Betterment Association主催のRace Betterment ConferenceがDaytonで開催される。
1929 DEN 断種法制定。
1929 JPN 山本宣治、暗殺される。
1929 JPN USA 永井潜、ボストンで開かれた第一三回万国整理学会に参加、岐路、欧米各国を視察。特に各国の'優生学的問題を調査し、スウェーデンではウプサラにある世界最初の国立民族衛生研究所を訪問。日本における同種の研究期間の必要を痛感し、後の民族衛生学会設立への刺激を受ける。
1929 JPN ジョンソン、ポペノー『応用優生学』邦訳
1930 USA Herbert Spencer Jennings. The Biological Basis of Human Nature. [環境の重要性を指摘]
1930 GBR Haldane. 血友病患者に占める突然変異率を推定。
1930 GBR Lionel S. Penrose. 精神障害の研究にかんするダーウィン基金が定める初代のコルチェスター特別研究員となる。
1930 GBR Ronald A. Fisher. The Genetical Theory of Natural Selection.
1930 USA HBF. 各州の断種にかんする年間統計を開始。
1930 USA Carl Brigham. 「知能」テストの本質的な曖昧さを認め、自己批判。
1930 USA Herbert Jennings. (John's Hopkins Univ.) The Biological Basis of Human Nature[雑婚による人種混合を肯定的に評価][性的関係の自由について、生物学的観点から長期的な進化への影響を考えると、人間の欲求は一夫一妻制で満たされるのが最も望ましいと結論][「遺伝の科学的研究結果を人間の問題や社会改革に適用しようとする誤った考え」を批判][Fisherによる断種擁護の試算に反論]
1930 (BA) ローマ法王ピオ11世、12月31日付け「貞潔な婚姻について」の回勅にて、優生学をカトリックの狭義に反するとして公に非難。
1930 GER Gosney & Popenoe[1929]のドイツ語版が出る。
1930(S5) JPN 日本民族衛生学会発足(11月30日)。[優生学に関する初の学術団体。理事長は永井潜。科学者のみならず、政治家や医師などからも広く支持を集め、発会式会場には千人以上〔藤野,1998,は「八〇〇名」とする〕の聴衆が集まったという。常務理事として古屋芳雄(千葉医科大学教授・医学博士)、斉藤茂三郎(東京帝国大学講師)、石川千代松(東京帝国大学名誉教授・理学博士)、市川源三(府立第一高等女学校長)、池田林儀(報知新聞記者)、土岐章(貴族院議員)、牧野英一(東京帝国大学教授・法学博士)、三田定則(東京帝国大学教授・医学博士)、三宅驥一(東京帝国大学教授・理学博士)、杉田直樹(東京帝国大学助教授・医学博士)。地方理事に田中義麿(九州帝国大学教授・農学博士)、古畑種基(金沢医科大学教授・医学博士)、後藤龍吉(日本優生学会主幹)、阿部文夫(台北帝国大学農林専門部教授)。民族衛生学という名称は、永井がドイツのRassen-hygieneから想を得たもの。鈴木[1983:144-]、藤野[1998:142-144]]
1930 JPN 大阪に日本産児制限協会の優生相談所が開設される。[相談主任は産児調節運動家の柴原浦子]以後、1931年にはこの施設から無産婦人同盟優生児相談所が分かれ、1932年6月21日には優生相談所は大阪優生相談所となる。同年7月16日、柴原は新たに優生協会後援による優生相談所を開設。
1930 JPN 阿部文夫、日本優生学会創立をめざし、趣意書を公表(六月)。
1930 JPN 小泉丹『ユウゼニックス』(『岩波講座 生物学』の一冊)[民族の寿命を延ばすのがユウゼニックスであるというとらえ方]
1930 JPN 松村松年(生物学者)「生物学上より見たる産児制限」『優生運動』第五巻一号[国家の負担となる「劣性」の人間の出産は制限されるべきだと主張]
1930 JPN 古屋芳雄(医学者、民族生物学の提唱者)「新マルサス主義浸潤の危機」『優生学』[逆淘汰論]
1930 JPN 『優生運動』、一月の五巻一号をもって廃刊。日本優生運動協会の活動に終止符。
1930 JPN 8月5日〜25日、東京日本橋の三越において、内務省衛生局主催の「健康展覧会」が開催され、その展示に「遺伝と民族衛生」という部門が設けられる。