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    Eugenics and Gender


1931 GBR イギリス優生協会、自発的断種を認める法案を議会に上程する運動を起こす(翌年も)が不発。
1931 GBR Lancelot Hogben. Genetic Principles in Medicine and Social Science. [主流優生学に断固として反対][ベルンシュタインによる遺伝子連鎖の研究を肯定的に評価]
1931 GBR Penrose. コルチェスターにある王立東部イングランド協会の精神障害者治療病院にて調査を開始。
1931 GBR 7月、Haldane, Huxley, Hogben等をはじめとして、イギリスの遺伝学、医学、心理学の研究者がロンドンで一堂に会し、人類遺伝学の研究を妨げている障害を除去するため何らかの手段を講ずるよう訴える。
1931 JPN 日本民族衛生学会、機関誌として『民族衛生』創刊。
1931 JPN 「癩予防法」成立
1932 GBR The Medical Research Council会長Walter Morley Fletcher卿、Hogbenの要請に応え、Haldaneを委員長とするCommittee on Human Geneticsを設置。Fisher, Hogben, Penrose, Julia Bell等も参加。
1932 GBR スコットランドで大規模な児童のIQテストが実施される。
1932 GBR 血液型検査がイギリスの裁判所で初めて採用される。
1932 GBR Osborn. 道徳主義的な産児制限批判を展開。
1932 GBR J. B. S. Haldane. The enequality of Man and Other Essays.
1932 USA この年、全米の断種手術数が最高を記録する(3921件、但し施設収容者について報告された者のみ)。
1932 USA Halden. 第3回国際遺伝学会議(コーネル大学)にて演説。人類の遺伝的多様性の尊重を訴える。[この時期にはすでに主流の優生運動は支持を失いつつあり、この会議の出席者は100人に満たなかった。]
1932 USA(W) 第3回国際優生学会議(The Third International Congress of Eugenics)が、前回に続いてアメリカ自然史博物館(American musuem of 'natural history, New York)にて開催される。会期は August 21-23。テーマは「優生学における進歩の十年間」(A decade of progress in eugenics)。H. J. Mullerは、講演「優生学に優先する経済」で、人間の進化において遺伝よりも社会経済体制が重要であることを強調した。
1932 JPN 建部遯吾『優生学と社会生活』雄山閣[環境を重視する優境学的立場]
1933 GBR Ronald FIsher、Pearsonの跡を継いで、ユニヴァーシティ・カレッジのゴールトン記念優生学講座教授に就任。
1933 GBR Haldane. ユニヴァーシティ・カレッジ遺伝学教授に就任。
1933 GBR E. J. Lidbetter. Heredity and the Social Problem Group. [イーストエンドにおける貧民の家系の調査'に基づき、「貧民はかなりの精神障害者を抱えた彼ら独自の生物学的階層を形成し、貧民同士で結婚することでいつまでも同じ階層にとどまり続けるのではないかとの結論」を導く。ケブルズ、199頁]
1933 GBR Rionel S. Penrose. Mental Defect. [精神薄弱者に対する断種推進派の心理にかんする批判的分析を含む。]
1933 GBR Lancelot Hogben. Nature and Nurture.
1933 USA Thomas Hunt Mogan wins Nobel Prize in physiology or medicine by the research identifing the chromosome as the seat of the gene, worked out the intricate mechanics of hromosomal determination of 'heredity, and joined cytological to breeding genetics .
1933 USA Paul Popenoe, the founder of the southern Californian branch of the American Eugenics Society, and the head of the Institute of Family Relations, in Los Angels. 「離婚する人間は優生学的に見て平均以下のタイプに属し、精神病にかかる確率が普通人より高い。平均余命も短くて、不妊症である度合いも高い。これらはたとえ長い結婚生活を送った後に離婚したとしたとしても変わらない」(ケブルズ、117頁)in American Eugenics Societies Papers. - 19世紀後半からの“social purity movement”[社会浄化運動]的な考え方の典型。
1933 USA GER PopenoeらのHuman Betterment Foundation、「一九三三年の後半から一九三四年のはじめにかけて人間改良財団は、(……)カリフォルニア州の経験について詳述したパンフレット(Human Sterilization)を、ドイツの人種衛生学者やナチ政権の行政担当者に郵送した。この小冊子は、断種は不妊手術を受けた当人とその家族、および社会一般を保護するのに役立ったと主張している。結びの部分には、国家が能力のある市民に対して戦時にその生命を賭けることを求めるように、平和時に能力のない市民に対してはるかに小さな犠牲を要求するのは当然の権利であると、人々はますます確信するようになっていると書かれていた。ドイツ・プロテスタント協会の社会福祉組織で、とくに優生学的問題で熱心に活動していた「キリスト教社会事業団」の責任者にあてたカバー書簡の中で、ゴスニーは、「ドイツが優生法を採用したことによって、いまやそうした法のもとに暮らしている文明化された人間は一億五千万人以上にもなった」という事実を賞賛している」(Kuhl, ch.4)
1933 USA Popenoe & Johnson. Applied Eugenics. (新版)
1933 USA ナチス断種法の英訳。Eugenic News, 18.
1933 USA S. J. Holmes. Eugenic Predicament. [Berkeleyの著名な遺伝学者。後にAES会長に就任]
1933 GER 包括的な優生断種法「遺伝病の子孫の出生を予防する法律」が制定される(7月14日、施行は翌年1月1日)。[「未来の世代への愛情」としての優生断種(ケブルズ、203頁)。合州国、特にカリフォルニアでの経験と、Sterilization for Human Bettermentの独訳が大きな影響力を持った]1934年の1年間だけで、205の遺伝健康裁判所が84525の断種の申請を受け、内56244件に断種を命じた。上級裁判所はその内約半数の異議申請を認めたので、合計約52000人が断種の最終段階に置かれたわけである。(Reilly, 107-108)
1933 GER 「危険性常習犯罪者法」公布(11月24日)。性犯罪者に対する去勢が行なわれる。
1933 FRA Henri-Jean Marchaud. L'Evolution de l'Idee Eugenique.
1933 MEX ベラクルーズ州で断種法制定。
1933 JPN 小泉丹『進化学序講』[ラマルク説に傾斜、前進的進化説を評価し、Orthogenesisに「定向進化」の訳語を与える]
1933 JPN 日本民族衛生学会と日本赤十字社の共同で「結婚衛生展覧会」(於赤十字博物館)開催(11月4日〜12月7日)
1933 JPN 小泉丹「進化学的戦争論」『中央公論』一二月号[戦争の必然性を「社会遺伝=社会惰力」によって説明し、それを生物進化における定向進化に比する]
1933 JPN 日本民族衛生学会、東京日本橋の白木屋百貨店に優生結婚相談所を開設(6月20日)。[東京の各高等女学校長が賛助員に名を連ね、東京女子医学専門学校長・吉岡弥生、日本女子大学校長・井上秀子らの名も見える。しかし開所1年間の相談者の総数は136人にすぎず、3年後には閉鎖された。以上を含め、藤野1998,p.171-に詳しい記述がある]
1933 JPN 日本民族衛生学会広島支部、結婚衛生講座をラジオ放送(1933.12.20-1934.1)
1933 JPN 永井潜『結婚の衛生と配偶者の選択』(民族衛生叢書第1巻、日本民族衛生学会)
1933 JPN 日本民族衛生学会、映画「結婚十字街」製作
1934 GBR Lionel S. Penrose. The Influence of Heredity on Disease.
1934 GBR イギリス政府の断種問題検討委員会(委員長Laurence G. Brock)が報告書を公表(Report of the Departmental Committee on Sterilization. 通称Brock Report)。当人の自発的な断種を留保付きで認めるが、強制断種は否定。イギリス医師会の精神障害委員会やAlfred Turnerらの研究を支持し、精神薄弱や精神病の遺伝性を留保]
1934 USA Samuel J. Holmes. (biology professor at the Univ. of California at Berkeley) 白人と黒人の混血により黒人の人種改良を示唆。(The Commonwealth, 10)
1934 USA Leon Whitney. The Case for Sterilisation.
1934 USA Ellisworth Huntington. Henry Perkinsに代わって、アメリカ優生学協会の会長に就任。これ以後、Frederic Osbornと共に、禁絶的優生学への変更を見直し、公衆衛生や教育や産児制限などを包括した大きな積極的優生学の構想へとシフトしていく。LaughlinやDavenportら優生記録局に拠るラディカル派はこれに反発した。
1934 USA HBF、精神薄弱者あるいは狂人を断種するのにどのような同意がとられているかについて調査。近親者の同意の効力は州によってまちまちであることが判明。
1934 USA GER Paul Popenoe. “The German Sterilization Law.”[ドイツ断種法を、カリフォルニアの運動によって展開された原則を成就させたものと見る]、 “The Progress of Eugenic Sterilization”[ドイツ断種法を、「ドイツの最高の専門家たちの何年にもわたる熟慮の産物」として支持]いずれも Jounal of Heredity, 25.
1934 USA GER アメリカ公衆衛生協会の年次大会中に、ロサンジェルス郡博物館において、ナチ帝国の優生計画を紹介する展覧会を組織。
1934 USA GER Eugenic News, 19. 「アメリカのいくつかの州の断種法とドイツの国家断種法は、おそらく人間の生殖管理の主要な局面に対する世界の最も進んだ国々による管理が実現したことを示す、法制史上の画期的出来事となるであろう。その重要性において比肩しうるのは、州法による結婚の管理のみである」
1934 USA GER Paul Popenoe. “The German Sterilization Law.” Jounal of Heredity, 25.
1934 GER 断種法をドイツ在住外国人にも拡大。
1934 SUI 「国際優生学協会連盟」(IFEO)会議。チューリヒで開催。ドイツの人種衛生学者とナチの人種政治家は、この会議の決議案が承認されたことをもって、ドイツ遺伝病子孫出生防止法が国際的に支持されたのだと解釈した(S・キュール『ナチ・コネクション』邦訳60頁)。
1934 NOR Ivar Asbjorn Folling. フェニルケトン尿症を発見。Penroseも追試し、この疾患による幼児期の肝機能障害が精神遅滞の原因となることを突き止める。
1934 SWE 断種法
1934 NOR 断種法
1934 JPN 「民族優生保護法案」(断種法案)が、荒川五郎(立憲民政党)らによる議員立法案として、2月の第65回帝国議会に提出され、衆議院で審議されるが、審議未了となる。(内閣は斉藤実「挙国一致」内閣)翌年の第67回議会にも提出されるが、再び法案の不十分さが指摘され、審議未了。
1934 JPN 民族衛生学会、断種法案を起草し、八木逸郎代議士を通じ、内務省衛生局長らと会合を持ったが(5月30日)、法制化は実現せず。(この断種法案は上の「民族優生保護法案」とは全く別物)
1935 GBR Julian Huxley & A. C. Haddon. We Europeans: A Study of ‘Racial’ Problems. [Madison Grant's The Passing of the Great Race. の人種主義を批判、「人種」概念は生物学的に無意味であるとし、「民族集'団」(ethnic group)で置き換えることを主張]
1935 GBR Herbert Brewer. “Eutelegenesis,” Eugenics Review, 27.
1935 USA Harmann J. Muller. Out of the Night: A Biologist's View of the Future. [優生学の「堕落」(人種差別、階級差別、規制権力との癒着、ファシズムやナチズムの支持)を批判][当時は1000部も売れなかったが、翌年イギリスで出版すると評判になり、1万3千部売れた]
1935 USA Otto Klineberg. Negro Intelligence and Selective Migration. [知能の環境影響説を確立]
1935 USA Ellsworth Huntington. Tomorrow's Children. [アメリカ優生学協会が発行した小冊子。積極的優生学を主眼とし、初年度で2000部を売り上げ、協会のイメージ向上と会員数増加に貢献]
1935 USA ロックフェラー財団年次報告書:「人類遺伝の知識をさらに深め、活用することは人類にとって疑いのない必要課題である」
1935 GER(W) ベルリンで国際人学会議が開催される。アメリカ代表C・G・キャンベルは「人口学の生物学的状況」と題された講演で、ヒトラー率いるナチスの優生政策を賛美した。
1935 GER 「ドイツ公民法」(ニュールンベルク法)公布(9月15日)。異人種間の結婚が禁止される。
1935 USA GER アメリカ母性保険委員会代表、ナチ・ドイツを訪問し、ドイツの遺伝病子孫予防法にカリフォルニア州の経験が影響を与えていることを発見。報告として、Marie E. Kopp. “Legal and Medical Aspects of Eugenic Sterilization in Germany.” American Sociological Review, 1, 1936. (→Kuhl[1994:ch.4])
1935 GER 「遺伝管理にかんするドイツ博覧会」
1935 GER 「国際人口科学学会」ベルリンで開催。126の研究発表の内、59をドイツ人学者が行なう。
1935 (W) Latin International Federation of Eugenics Societies. (Italy, France, Belgium, Latin American countries)
1935 FIN 断種法
1935(S10) JPN 民族衛生学会、「学会」を「協会」に改称。以後、研究活動は同協会学術部にて行なわれる。
1935 JPN 日本優生結婚普及会(日本民族衛生協会の姉妹団体)設立。[正会員は女子、賛助会員は男子。会長は永井潜、副会長は永井の妻・永井花江と竹内茂代、顧問・幹事は鳩山薫子、吉岡弥生以下すべて女性]
1935 JPN 「日本民族優生保護法案」が二月の第六七議会に荒川五郎代議士が中心となって上程されるが審議'未了となる。[草案は『優生学』第一四年一六三号、一九三七年に掲載]。
1936 GBR Haldane. 新設されたウェルドン記念生物測定学講座の教授になる。
1936 GBR Julia Bell. 血友病と色盲との関連を解明。
1936 GBR The Bureau of Human Heredity、ロンドンに設立。 (The Medical Research Council on Human Geneticsの付属機関)
1936 GBR David Glass. Struggle for the Population. (commissioned by the Eugenic Society)
1936 USA Gregory Pincus. The Egg of Mammals. [体外受精、避妊ピルの開発者]
1936 USA アメリカ神経学会の委員会(委員長Abraham Myerson)が優生的断種問題にかんする報告書をまとめる。イギリスのブロック報告書の内容を支持。
1936 USA GER Harry Laughlin.[アメリカにおける断種運動の主唱者でロングアイランドのコールドスプリングハーバーにある優生記録局副所長] ワシントンのカーネギー協会で上映するために、ナチスの人種制作局の重要な断種プロパガンダ映画である『遺伝病』の英語版を購入。
1936 USA GER Laughlin、他の数人と共に、ハイデルベルク大学から名誉博士号を授与される。
1936 GER ヒムラー、「生命の泉」と呼ばれる施設を設立。親衛隊員の子供を宿した女性たちを優遇。
1936 GER 「結婚保健法」公布(10月18日)。伝染性疾患者・遺伝性疾患者・精神障害者・禁治産者の結婚を禁止。
1936 JPN 日本民族衛生協会、優生学団体国際連盟より加入賛成の通知
1936 JPN 「民族衛生振興の建議」(日本民族衛生協会、『優生』1巻7号)[→下のものと同内容?要チェック]
1936 JPN 「日本民族衛生協会の建議」『優生学』第一三年一五一号。[「日本民族衛生」のために以下の政策実行を提言。1、日本民族衛生研究機関の設立。2、断種法の制定。3、結婚相談所の設置。4、民族衛生学(優生学)思想の普及徹底。5、各種社会政策の民族衛生学的統制]
1936 JPN 阿部文夫『優生講話』雄山閣。
1937 GBR C. P. Blacker. (ed.) A Social Problem Group?
1937 GBR Herbert Brewer. Eugenics and Politics.[イギリス優生協会による小冊子]
1937 USA Paul Popenoe. “Trends in Human Sterilization.” Eugenic News, 22. [ドイツ断種法施行後の三年間の変化を肯定的に評価]
1937 USA Fortune Magazine誌の調査において、アメリカ国民の多数が断種の拡大を支持していることが判明。66%が常習的犯罪者の強制断種に賛成。
1937 JPN 「民族優生保護法案」が対象者、強制断種の規定、罰則規定などについて整備され、第70回議会の衆議院に(民族優生協会の協力を経た)荒川らによって提出される(広田弘毅内閣)が、林銑十郎内閣の議会解散により、議事日程には上ったものの議題とはならず。
1937 JPN 日本学術振興会のなかに「国民体力問題考査委員会優生学部委員会」設置。委員長は永井潜。優生学的機構の設置を求める建議案を内閣に提出し、その結果、社会保健省の中に優生課が設置された。
1937 JPN 川上理一『優生学と遺伝病学』
1938 GBR J. B. S. Haldane. Heredity and Politics. New York: W.W.Norton and Co.
1938 USA S. J. Holmes. Huntingtonに代わり、アメリカ優生学協会会長に就任。
1938 USA Lionel Penrose. A Clinical and Genetical Study of 1280 Cases of Mental Defect. [精神障害の原因は環境的要因、病理的要因、遺伝的要因の複合であるとする。「精神障害は複合した原因で起こる。患者の症状を先天性とか後天性とか安易に分類するのは、調査データの持つ真の問題を簡略化して偽りの結論を引き出すだけだ。]
1938 USA Eugenic Babies Foundation設立。[カンサス・シティの実業家J.H.Pile]
1938 JPN 厚生省設置(1月)
1938 JPN 牧野千代蔵「断種法反対論」『優生学』第一五年四号[神国日本の歴史的秩序を尊重、断種法のような人為的介入は、人間を動物視するものだと批判。→フェルスター的?]
1939 GBR USA Geneticist' Manifesto. 「現在はびこっている性と生殖に関する俗信を排し、科学的かつ社会的な立場を確立すべきである。既婚未婚を問わず、母親さらには子どもをつくり得る立場にある男女は、できるだけ優秀な子供を産むことを義務とまでいかずとも名誉もしくは特権と自覚して、子供たちの優れた遺伝的素質を伸ばすことに全力を注ぐべきである」[Mullerが起草し、22人の遺伝学者が署名]
1939 GBR Raymond Pearl. Natural History of Population. [低所得層の高出生率の原因は性的放縦ではないとする。]
1939 GER ドイツで「安楽死」が開始される。
1939 USA 優生記録局責任者Harry Laughlin、カーネギー財団より引退を勧告される。翌年、優生記録局は閉鎖。[Reilly, 1991, はこの年としている]
1939 USA Paul Popenoe & Eugene S. Gosney. Twenty-eight Years of Sterilization in California. Human Betterment Foundation.
1939 USA Human Betterment Foundation. Human Sterilization Today.
1939 JPN 永井潜『結婚讀本』
1940 GBR John Fraser Roberts. An Introduction to Medical Genetics.
1940 USA Frederic Osborn. Preface to Eugenics. [改革派優生学の信条を集成、「個性の尊重」を強調。「民主主義社会における優生学は人間を単一の型に改造するものではなく、貧しい健康状態、低い知能、反社会的性格を改善して個人の平均的水準を高め、個人の活動をそれぞれ最高度に発揮させることを目的とするものである」]
1940 USA 首都ワシントンを管轄するコロンビア特別区連邦高裁が、血液型検査を認めた下級審判決を支持する判決。
1940 USA ミシガン大学に遺伝病クリニック開設。
1940 USA George W. Beadle. Edward L. Tatumを協力者とし、アカパンカビを用いて、代謝過程と遺伝子との関係を探る研究を開始。後に「一遺伝子・一酵素仮説」としてまとまる。
1940(S15) JPN 「国民優生法」成立。[任意申請による断種を合法化。翌年から昭和20年までのあいだにこの法律によって手術を受けた人数は、男性192人、女性243人]
1941 GBR J. S. B. Haldane. New Paths in Genetics. [遺伝学における統計的手法の意義を強調]
1941 USA ミネソタ大学の遺伝病相談施設として、Dite Institute.が設立される。
1941 USA 全米で断種手術を受けた者の数は約3万6千に達し、その3分の1をカリフォルニア州が占めた。
1942 USA E.S. Gosney死去。同時にHBFも解体。
1942 USA Julian Huxley. Evolution, The Modern synthesis.
1942 JPN 安井洋『結婚新道』[著者は「厚生省優生結婚相談所長陸軍軍醫少将 醫学博士」。大東亜共栄圏の確立のために優生結婚と不良者の一掃を訴える、典型的な差別的優生主義]
1942 JPN 池田林儀『指導者民族の優生学的維新』日本出版社。[レオナルド・ダーウィンの所説を中心に解説。明治大学厚生科における講義内容の一部。なお池田は1939年に報知新聞編集局長に復帰後、ヒトラーやナチス関連の著書を多数出版している。]
1944 JPN 駒井卓『遺伝学叢話』
1945 GBR C. P. Blacker. Eugenics in Prospect and Retrospect.
1945 GBR Lionel Penrose. Fisherに代わって、ユニヴァーシティ・カレッジのゴールトン記念優生学講座教授に就任。