2002年度「性現象論」プリント 《テーマT 「性現象論」は何を・どのように問うのか》  2003/5/8
 
1A 性現象とは何だろう
1B 性別という〈現実〉
1C 二つの基礎概念:ジェンダーとセクシュアリティ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 1・7 ジェンダーの3つの水準:性別・性差・性役割 
1・7・1 ジェンダーのシステムを構成する三つの水準 
 @「性別」それ自体
 A事実の記述としての「性差」(〜である、認知判断)
 B社会的規範としての「性役割」(〜べき、価値判断)
1・7・2 性差とは何か 
〈性差:性別に基づいて分類された二つの集団間の統計的差異〉
1・7・3 性別・性差・性役割の関係
「女なのだから、女らしくするべきだ
@A事実   A規範
男と女はそもそもつくりが違うのだから、社会的にも違って当然だ
@A事実               A規範
これらの命題は論理的に正しいか?
★「自然主義的誤謬」について

【練習問題】A「子供を産むのは女性である」という事実命題と、下記の事実命題群とを、「しかし」または「だから」のいずれかの接続詞を使って結びつけてみよ。
B1 「女性が育児をするべきだ」
B2 「男性が育児をするべきだ」

øN・ルーマンによる二種類の「予期」の区別
 認知的予期:違背された予期を変更して、予期に反した現実に適応する方法
 規範的予期:予期を固持し、予期に反した現実にさからってそのままやってゆく方法
「違背に出あった場合に現実に順応せしめられる予期は、認知的なものとして体験され、扱われる。規範的予期についてはこれと逆のことがあてはまる、すなわち、誰かが予期に反して行動しても、人はその予期を棄てないのである。たとえば、ある人が新任の女性秘書にはじめて会うことになっているとしよう。この状況には、規範的予期の要素も認知的予期の要素も含まれている。その秘書が若く、美しく、金髪であるというようなことは、せいぜい認知的に予期しうるにすぎない。このような点については、結果が幻滅であってもそれに従わなければならない。つまり、金髪に固執したり、髪を染めるように要求したりすることはできない[加藤註:本当か? これに類することは、あちらこちらにあるのではないか?]。これに対して、秘書が一定の仕事ができるということは、規範的に予期される。この点について期待はずれに終ったならば、人は自分の予期が誤っていたという感じをもたない。この場合、予期は堅持され、現実との開きは相手方の責めに帰せられる。したがって、認知的予期の特徴は、必ずしも意識されているとは限らないが、学習の用意ができていることにあり、規範的予期の特徴は、違背から学ばないという決意にある。(……)このような立場からすると、規範とは、抗事実的に安定化された行動予期である、といえる。」(N・ルーマン『法社会学』邦訳岩波書店、49-50頁)
 
1・7・4 「性差」の否定と「性差と性役割の結びつけ」の否定
ø江原由美子「差別の論理とその批判」(『女性解放という思想』勁草書房、所収)
 1・8 ジェンダー・アイデンティティと他者の視線 
1・8・1 アイデンティティと社会的役割 
@社会的役割としてのジェンダー
Aアイデンティティとしてのジェンダー:いくつかの層:肉体/言語/振る舞い/服装/趣味/……
1・8・2 自我形成における「他者の視線」の根源性 
 
 
                      認知
 
 
                      内化
 
                    他者の視線への意識
 
 
                視線            競争(→エディプス・コンプレックス)
 
 
 
 
 
 
 
ø「鏡像段階」の理論(J・ラカン)〜自己の外部に映し出された鏡像=身体像が内化され自我に発展する
「子供は完全な感覚-運動的調和を持って生まれて来るわけではなく、二才になるまで手足の主要な神経経路は成熟……を遂げない。……また子供は外からの世話に大きく依存している。だから子供は調和がとれておらず、無力で、依存的であり、この最初の数ヶ月間は不安に満ちた、くつろげない不協和の時期である。(……)六ヶ月頃のある時期に……子供は鏡の中の自分の像を見ることを通して、自身の身体の纏まり、全体の形態、「ゲシュタルト」に気付くようになる。わずかに動くと像が消えたり出現したりするので、子供は鏡像が自分と繋がっており、像を自分が支配していることに気付く。それによって子供は勝ち誇ったような喜びを感じる。鏡像は、子供がまだ客観的には獲得していない身体支配を先取りしているわけである。(……)このように、自己の身体に対する子供の「想像的」支配が生物学的支配を先取りしているのである。……だからこの行為には根本的な「疎外」がある。子供の支配は鏡像の中に、つまり彼自身の外部にあり、それに対して現実には子供は運動の主人ではないのである。子供はただ自分の姿を外部の像において、すなわち実際には触れることのできない虚の、疎外された、理想的な纏まりの中に多少とも全体的で統一されたものとして見ているにすぎない。疎外とはこの存在欠如であり、そのために子供は自身とは異なる、実際のあるいは(想)像上の空間に存在することになる。(……)
 ラカンの見方では、自我の形成は自身の像(イマージュ)によって疎外され魅惑される時点で始まる。この像は最初の組織立った形態であり、個人は自身をそれに同一化する。したがって自我は、この像の持つ組織立て構成する特性からその形態を得ており、またこの特性によって形作られている。鏡像が主体の世界観を組織立て構成しているのである。」
(B・ベンヴェヌート、R・ケネディ『ラカンの仕事』邦訳岩波書店、62-64頁)
1・8・3 他者に対して演じられ、つくられてゆくものとしてのジェンダー 
1)ガーフィンケル「アグネス論文」の事例: 
アグネスは、女という正当な性的地位にふさわしい扱いを求めた。また同様に、そうした正当な地位にふさわしい他者の扱いも求めた。しかしまたその一方で、そこにはある深くて暗い秘密がともなっていた。しかもその秘密は、彼女が女という地位を演じる際の技量や適切さにかかわるものではなく、まさに彼女が女という地位を占めることの正当性にかかわるものだった。アグネスは女という新しい地位を演じあげた。その演技は、アグネスにとって、他人が知らないことを自分は知っているという感覚をともなうものだった。しかも、自分の知っていることが他人に露見すれば、自分の身の破滅を招くということを彼女自身確信もし、恐れてもいたのである。彼女にとって、性別の移動は、正当な性的地位についての、こうした仮定をも含むものだった。しかもその移動が露呈すれば、大きなリスクや地位の降格や心理的なショックや物理的な利益の損失が必然的におこることもわかっていた。こうした種類の通過作業は、政治的地下活動や秘密結社、政治的迫害からの亡命者あるいは白人となって暮らしている黒人に見られる通過作業とまったく同じ種類のものである。アグネスのケースの場合には、通過作業は特に重要である。というのは、アグネスは性別を変える時、自分の新しいアイデンティティーを過去の経験から予想できる出来事やさらには思いもしたかった偶発事に対して確保することに、特に慎重な注意を払っていたからである。アグネスのそうした作業は、他者の眼前で自分の外見を一つの対象として積極的に操作していくことによってなされた。(……)
 社会生活を織り成すさまざまな条件のなかで生ずるやもしれない露見や破滅の危険に備えながら、自分が選択した性別で生きていく権利を達成し、それを確保していく作業を、私はアグネスの「通過作業」(パッシング)と呼ぶことにしよう。」
(H・ガーフィンケル「アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか」『エスノメソドロジー』邦訳せりか書房、244-246頁)
 
2)J・バトラーによる「パフォーマンスとしてのジェンダー」 
「だがそもそも同一化は、演じられる幻想であり体内化であるという理解によれば、首尾一貫性は欲望され、希求され、理想化されるものであって、この理想化は、身体的な意味づけの結果であることは明らかである。換言すれば、行為や身ぶりや欲望によって内なる核とか実体とかいう結果が生みだされるが、生みだされる場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじてである。一般的に解釈すれば、そのような行為や身ぶりや演技は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造され保持されている偽造物にすぎないという意味で、パフォーマティヴなものである。ジェンダー化された身体がパフォーマティヴだということは、身体が、身体の現実をつくりだしている多様な行為と無関係な存在論的な位置をもつものではないということである。」
(J・バトラー『ジェンダー・トラブル』邦訳青土社、239-240頁)