性現象論プリント 2003.10.16
1 現代日本社会におけるジェンダー役割と性差別
はじめに◆「労働」を問うことの意義――女性の経済的自立の重要性
1・1 賃労働における性別分業・性別格差の現状
1・1・1 男女間の賃金格差をめぐって
◆賃金格差の現状
ø労働省女性局編『平成10年版 女性労働白書 ――働く女性の実状』(財団法人 21世紀職業財団)
「このような男女間の賃金の差は、勤続年数、学歴、就業分野、職階、労働時間等の諸要因によってもたらされている。そこで、年齢、学歴、勤続年数について条件を同一にした標準労働者(学校卒業後直ちに企業に就職して同一企業に継続勤務している労働者)の所定内給与額をみると、……」(p.21)
→《同年齢・学歴・勤続年数の男女間にも賃金格差はある。それはむしろ勤続年数が長く、年齢が高くなるにつれて大きくなる。》
◆こうした現象を生み出す背景要因(=職場だけでなく、それを含む社会的要因)は何か?
◆まとめ:《男女間の賃金格差は、学歴・勤続年数・労働時間における性差からもたらされているというよりも、そうした性差を生み出す社会的な諸条件の違いそのものから生じている。》
賃金格差
↑
「勤続年数、学歴、就業分野、職階、労働時間」等の男女差
↑
機会の不平等=性差別
↑
性別役割規範
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1・1・2 男女間の賃金格差をもたらす直接的要因
◆いわゆる雇用機会均等法に規定された「労働の五段階」に即して:
(「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」)
@募集・採用 性別に基づく採用(「女子のみ」も含む)を禁止(例外あり) 努力義務規定→義務規定
☆男女の就職率[→プリントA]
☆男女別の待遇を維持しようとした企業の対応:「コース別人事管理」システム〜「専門職」と「一般職」を、事実上男性と 女性に振り分ける。
A配置・昇進 努力義務規定→義務規定 ☆男女の昇進格差[→プリントA:女性管理職比率]
B教育訓練 一部禁止規定→すべての教育訓練について義務規定
C福利厚生 一部禁止規定
D定年・退職・解雇 全面禁止 ☆女子のみの早期定年制度、結婚・出産退職への有形無形の圧力など
◆性別職務分離 ø熊沢誠『女性労働と企業社会』岩波書店
◆こうしたジェンダーによる分離は、一企業・組織内だけでなく、社会規模でもみられる。
1・1・3 ジェンダーによる職務分離
1・1・4 ジェンダー化された就労形態:パートタイム労働
1・2 格差の背景にあるジェンダー役割規範
1・2・1 賃金格差を生み出す構造
◆結果として男女間の賃金格差を生み出す、こうした状況はなぜ解消されないのか?
賃労働領域の性別格差を支える構造:3つの要因
@家庭における性別役割期待 A企業における性別役割期待 [構造的要因]
社会全体
B女性自身による性別役割取得 [主体的要因]
1・2・2 女性と「主婦/母親役割」
1・2・3 母性イデオロギーと「三歳児神話」
1・3 改革の方向性を探る
資料◆賃金や昇進などの直接的差別に対する闘い
ø「男性と同等賃金」命令 女性元社員が勝訴 塩野義製薬差別訴訟(『朝日新聞』夕刊1999年07月28日)
男性社員と質・量ともに同等の労働をしたのに給与や昇進面で著しい格差をつけられたのは、憲法の定めた「法の下の平等」や労働基準法が定めた「同一労働同一賃金」の原則に反するとして、塩野義製薬(本社・大阪市)元社員の中寿美さん(五六)=広島県尾道市=が同社に約四千六百七十万円の損害賠償を求めた訴訟で、大阪地裁は二十八日午前、塩野義製薬に約三千万円の支払いを命じる判決を言い渡した。松本哲泓裁判長は「男性と同じ職種を同じ質・量で担当させる以上、同等の賃金を払うべきだ」と述べた。
性差をめぐる賃金格差を原因とする裁判は現在、この訴訟を含め全国で十八件が係争中。これまでに労働者側勝訴の判決が積み重ねられているが、今回の訴訟は、中さんの労働条件が一時期、同期入社の男性とまったく同じだったため、差別的待遇がよりはっきりと浮き出ていた。原告代理人の弁護士は「女性社員だというだけで差別される典型例。長期間の是正義務違反を認めており、画期的な判決だ」と評価している。
判決は、塩野義製薬の賃金制度に、同じ学歴でも初任給から男女格差がある▽格差は勤続年数とともに増大するものだった▽中さんが男性と同じ技術職の仕事を担当するようになってからも、補助職の賃金が適用された▽昇格が男性と比べて著しく遅れた、などと認定。中さんが技術職の仕事をするようになった一九七九年以降は男性と同等の賃金を払うべきで、会社側は格差を是正する義務を果たさなかった、と指摘した。そのうえで「会社側が格差を温存した。差別がなけれ
ば、少なくとも八五年以降は同期の男性の九割程度の能力給が支払われたはずだ」と判断した。
→「ペイ・エクイティ」または「コンパラブル・ワース」 ø女性だけの労働組合「女性ユニオン東京」の取り組み
資料◆「三歳児神話」をめぐって ø大日向雅美『母性愛神話の罠』日本評論社、2000年
性現象論B プリント
2 近代日本社会におけるジェンダー役割の再編成
2・1 近代家族とは何か
◆「男は会社、女は家事・育児、(子どもは学校)」という性別役割分業にもとづく家族形態は、歴史的に特殊な〈近代家族〉 である。
◆女性の処女性の偏重や「良妻賢母主義」は近代に特有の現象である。
◆〈近代家族〉は近代国家の基盤である。
2・1・1 前近代の家族と男女関係
◆明治政府は、家族制度の位置づけを根本的に組み替えた。
〜独立性の高い経営体としての「家」から、国家装置としての「家庭」へ。
2・1・2 「近代家族」という概念
ø落合恵美子『21世紀家族へ[新版]』有斐閣 (同『近代家族の曲がり角』角川書店も参照)
@家内領域と公共領域との分離
A家族構成員相互の強い情緒的関係
B子ども中心主義
C男は公共領域・女は家内領域という性別分業
D家族の集団性の強化
E社交の衰退とプライバシーの成立
F非親族の排除
(G核家族)
2・2 セクシュアリティの変容:〈恋愛〉と〈廃娼〉
2・2・1 蓄妾制と一夫一婦制
「蓄妾制」:妾は「男性の性欲処理」と「子孫の保証」という二つの機能を持っていた。
◆徳川期:「色」「粋(いき)」の賛美
◆明治初期:明治三(一八七〇)年の刑法典「新律綱領」は、妾を妻と同じく二親等と認めることで、実質的な一夫多妻制 を追認・強化。
◆福澤諭吉による批判: すでに明治維新前夜、若き福沢諭吉は蓄妾制を痛烈に批判し、「一夫一婦」がお互いを対等に 尊重しあう家族こそ「天の道」にかなうものであると主張していた(『西洋事情外編』明治一年)。
◆江藤新平の廃妾建議:法改正を訴えた早い時期の動きとしては、明治五(一九七二)年十一月、司法卿の江藤新平が 司法大輔の福岡孝弟との連名で政府に提出した「夫婦ノ儀ニ付伺」という文書がある。
◆森有礼「妻妾論」: 森有礼が明治七(一八七四)年に発表した『妻妾論』、そしてその翌年の広瀬阿常との「契約結婚」 はとりわけ大きな話題を集め、「世間をアッと言わせ」たという(石井研堂『明治事物起源1』ちくま学芸文庫、二〇七頁)。
◆法改正への動き:それでも、明らかに女性差別的な蓄妾の規定が永久に温存されうるはずもなく、法改正が進められてい った。刑法では明治一三(一八八〇)年、戸籍法では明治一九年に、ついに「妾」は廃止された。
なかでも大きな動きは、明治二一(一八八八)年、矢島楫子を会頭とする東京婦人矯風会が元老院に提出した一夫 一婦の建白である。さらに明治二五(一八九二)年には、その後進団体の日本基督教婦人矯風会も貴族両院に一夫一 婦の請願を提出。
2・2・2 近代的恋愛の「発見」
◆西欧近代社会の「恋愛」(ロマンティック・ラヴ)
近代社会に開花するロマン主義的な恋愛の源流は、中世のトゥルヴァドゥール(吟遊詩人)たちがうたいあげた騎士と貴婦人との「宮廷風恋愛」に見出されるという。その特徴は、
1 結婚への反抗、2 肉欲に対する精神性の優越、3 男女の相愛性。
(ドニ・ド・ルージュモン『愛について』平凡社ライブラリー)
◆前近代の日本社会に「恋愛」はなかった?
ø古代の「恋=乞(こひ)」(『古事記』より)
――下どひに 我がとふ妹(いも)を 下泣きに 我が泣く妻を こぞこそは 安く肌触れ
――笹葉に 打つや霰(あられ)の たしだしに 率(ゐ)寝てむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 狩薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
(現代語訳)妹=妻への人目を忍んだ恋慕に苦しむ私だが、今夜こそは心安らかにその肌に触れる事ができる。そして笹の葉にうちかかる霰の音のように、思う存分いっしょに寝た後ならば、あなたと離れ離れになってもかまわない。……
(次田真幸『古事記 全訳注』講談社学芸文庫)
ø「二人は流謫の地に抱き合い、恋人がなければ、家も、国も、何の意味もなかろう、という意味の歌を唱って、死ぬのである。その最後はほとんどヴァークナァの「愛の死」の管弦楽を想出させるだろう。あるいは近松の道行きの三味線を。(……)死において完成する恋という考え方は、『古事記』から『曽根崎心中』まで、脈々と流れてきたようである」(加藤周一『日本文学史序説 上』、ちくま学芸文庫、七四―七五頁)。
◆「恋愛」という言葉の誕生から定着まで
徳川期末にメドハーストの『英華字典』(一八四七〜一八四八年)に登場したのが最も早い用法(惣郷正明・飛田良文『明治のことば辞典』)。
いくつかの例:
明治一九(一八八六)年、坪内逍遙の『当世書生気質』:「一旦愛(ラブ)した位なら、飽くまでラブするがいゝぢゃないか」というキメのフレーズでも、「ラブ」は動詞であり、また「愛」と訳されている。なお坪内は「ラブ」を「意中人」「恋情」「いろ」などと訳し分けているが、いずれにせよ「恋愛」は出てこない。
日本初の文明史的歴史書として名高い『日本開化小史』の田口卯吉(鼎軒)は、明治一九(一八八六)年の著作『日本之意匠及情交』で封建的な男女関係を批判し、「男女真性の愛は全く平等なるものなり」というすぐれて近代的な主張を展開しているが、男女関係を表すのに「情交」「愛」「愛情」「恋着」といった古くからある語彙を用いており、やはり「恋愛」は一度も登場しない。
のちに恋愛至上主義の頂点として新しい世代に衝撃を与えた北村透谷でさえも、明治二〇(一八八七)年の手記ではまだ「恋愛」とは言わず、「最も恐るべきラブの餓鬼道」というもの凄い言葉で自らの苦悶を表していた(「《北村門太郎の》一生中最も惨凄たる一週間」)。
その後、明治二〇年代に「恋愛」は流行語になり、急速に一般化した。現時点で最大の日本語辞典である『日本国語大辞典第二版』(小学館)によれば、「愛恋」「恋慕」といった他の訳語候補を退けて「恋愛」が優勢になったのは明治二二年頃からだという。しかし英和辞典でLOVEを「恋愛」と訳したのは大正四(一九一五)年の斉藤秀三郎編『熟語本位英和中辞典』が最初だし、大正期末になってもなお、大ベストセラー『近代の恋愛観』の著者・厨川白村(くりやがわはくそん)は、有名な女性歌人の白蓮(びゃくれん)が夫を捨てて恋人の下に走った事件を論評する際、「人としての自覚ある者に取ってラブなき結婚生活を続けてゐることはインフェルノだ」と、現在のJポップも顔負けの英語混じり日本語で書いていた(『朝日新聞』大正十[一九二〇]年十月三〇日)。
◆北村透谷「厭世詩家と女性」(明治25=1892年)
「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり」
「男女既に合して一となりたる暁には、空行く雲にも顔あるが如く、森に鳴く鳥の声にも悉く調子あるが如く、昨日といふ過去は幾十年を経たる昔日の如く、今日といふ現在は幾代にもわたるべき実存の如くに感じ(……)」(『北村透谷選集』岩波文庫、八七頁)。
◆巌本善治〜『女學雑誌』
明治一八(一八八五)年、キリスト教的理念に基づく女子教育の普及と向上をめざして『女學雑誌』を創刊したとき、まだ二三歳だった巌本善治は、その二ヶ月後には明治女学校の教頭に就任し、明治期後半の思想・教育
「家庭」という言葉そのものをつくり出したのは巌本ではないが、それが欧米流の「ホーム」という観念と重ねられて広まったのは、明治一八(一八八五)年の『女学雑誌』第五号(「婦人の地位」下)で、巌本が「ハッピー、ホーム」という表現を用いた頃からだったと思われる。ただし、そのときはまだ「幸(さち)なる家族」と訳されていた。「家庭」という語が定着するのは、明治二一年の社説「日本の家族」からのようだ。
想は、男女別の特性論にもとづく良妻賢母主義、「家庭」主義であった。さらに時代が下るにつれて、国家のための家庭であることを強調してゆく。それは〈近代家族〉の観念そのものだった。
→現在も根強い「幸せな結婚」「幸せな家庭」のイメージ。〈恋愛結婚〉の原型。
性現象論プリント
2 近代日本社会におけるジェンダー役割の再編成
2・2 セクシュアリティの変容:〈恋愛〉と〈廃娼〉
2・2・1 蓄妾制と一夫一婦制/2・2・2 近代的恋愛の「発見」 (以上前回まで)
2・3 売買春の歴史・概観
◆「家庭」の称揚と売買春の否定
2・3・1 「売春」という言葉の歴史
◆第二次大戦前までは、売淫、売笑、売女、等々の言葉が使われていた。
◆1948(昭和23)年「売春等処罰法案」:「売春」が登場
1956(昭和31)年「売春防止法」によって定着。
2・3・2 日本における売買春:近世以前
ø網野善彦『日本社会と天皇制』岩波ブックレットNO.108
◆古代〜「遊行女婦」(あそびめ、うかれめ):準女官的性格をもち、性を売る女性ではなかった。
9世紀ごろまでは、性を売る女性そのものが存在しなかった。
10世紀〜12世紀
◆「性を売る女性=夜発(やほち)」と「性を売ると同時に芸能を行なう女性=遊女(あそび)」とが同時に成立。
◆婚姻制度:「対偶婚」(一対一の配偶関係が男女双方の気の向く間だけつづく緩やかな婚姻関係であり、夫婦が配偶者以外の異性と性関係をもつことがそれほど非難されない)典型的には「妻問婚」。
→「単婚」(排他的・持続的な一夫多妻/一夫一婦の婚姻制度)への変化の時期と重なる。
12世紀
◆平安時代後期:自立した芸能集団の中の「遊女」〜「女性の長者にひきいられ、西国では船にのって、津・泊などの港で、東国では宿を根拠地にして客を呼んでいた」
◆婚姻制度の面では、妻が夫以外の男性と性交渉を結ぶことは、「密懐」(みっかい)=姦通として非難され、夫が姦夫を殺害する志向性が広まってくる。
ø曽根ひろみ『娼婦と近世社会』吉川弘文館、14頁
「単婚と姦通の成立は、女性の性が夫以外の男性に閉ざされることであると同時に、男性にとっても、ひとたび人の妻となった女性との性が閉ざされることでもあった。そして、その限りにおいては、男性にとっても、もはや「合意さえあれば比較的自由に性関係を結ぶこと」が許されないことを意味していた。このような段階において初めて、性は代価を支払っても手に入れる価値をもつようになる。売春はこうした段階の歴史的産物だった。」
13世紀
◆鎌倉初期:遊女・傀儡女・白拍子といった芸能者の芸能に付随して、性の売買が行なわれる。
この人びと、遊女・白拍子は「公庭」(こうてい)=朝廷に所属するもの。
13世紀後半〜16世紀
◆鎌倉後期:遊女をいやしめる風潮が出てくる。
◆南北朝の動乱期〜室町期:遊女に対する差別の浸透
◆室町時代には、こうした遊女屋は天皇の直属官庁である検非違使庁のもとに統括され、公事(税金)をとられていた。
◆婚姻制度としては「家父長の財産の純父系的な相続」を目的にした「嫁取婚」が、武士と上層庶民を中心に行なわれるようになった。
2・3・3 近世日本における遊女と公娼制
◆近世になると、遊女たちは権力によって特定の場所、遊郭に集住させられてしまうようになり、遊郭は「悪所」などと呼ばれ、遊女に対する差別ははっきりしてくる。
→「売春」の大衆化
@芸能やその他の商売に付随して行なわれる売春とは別に、まさに「性行為のみ」に代価が支払われるようになり、
A「恒常的に性を売る」こと以外に成業を持たない「売女」と呼ばれる娼婦が大量に登場し、
B第三者が娼婦を「商品=客体」として利潤獲得を目指す営業行為が大規模に登場する、という特徴。
◆公娼制の沿革
天正一七年(1589年)、秀吉は、京都「二条柳町」に傾城屋を集め営業を許す。後1602年(慶長七年)「六条柳町」に移転。1640年(寛永一七年)、「島原」に再移転。
秀忠の元和三年(1617年)、幕府は江戸「吉原」に遊郭の地を区画し、翌年営業を開始する。
〜江戸市中に散在していた娼家を今の中央区掘留二丁目に二町四方の土地を与えて収容したのが、「元吉原」。これが明暦三年(1657年)正月の江戸大火で焼亡し、同年八月に浅草の日本堤に移転した「新吉原」となる。
1657年(明暦三年)「風呂屋遊女引払之事」にはじまり、1670年(寛文十年)には私娼はすべて吉原へ送るとの触が出された。1720年(享保五年)には、吉原へ送られた私娼の年季を三年とすることが定められた。
「吉原は単なる遊所から、いわゆる人足寄場の強制労働と同様に、罰則として強制的に売春行為を行なわせる仕置きの場所としての役割も受け持つようになってくるのである。」
(ø小林雅子「公娼制の成立と展開」、女性誌総合研究会編『日本女性史 第3巻 近世』東京大学出版会)
2・3・4 近代国家と公娼制・売買春産業の発展 (フランス/日本)
◆西欧諸国の近代的公娼制度=強制性病検診/娼婦登録制度
明治初期、日本政府は、それらをモデルとして、江戸時代以来の公娼制を近代的に再編成した。
その本質は、「軍隊の戦力温存のために女性を犠牲にする」ことにあると言われる。
◆近代公娼制度の特質:
ø藤目ゆき「近代日本の公娼制度と廃娼運動」、『ジェンダーの日本史(上)』東京大学出版会
@その機軸たる強制性病検診制度。
A人身売買否定の名目にたって、娼妓の自由意志による賤業を国家が救貧のために特に許容するという欺瞞的偽善的 なコンセプト。
「公娼制度は、売淫によってしか生活できない膨大な窮民層の存在を前提とし、売淫を犯罪化した上に、その例外として国家管理の売春を合法化して売買春から国家が収奪するという、女性の身体的自由の権利に対する三重の侵害の制度であった。」(藤目、467頁)
◆1872(明治5)年、いわゆる「娼妓解放令」〜形式上、公娼制は終焉。実態は異なる。
2・3・5 廃娼運動と〈家庭〉の思想
◆「恋愛」と「廃娼」→「女の二分法」体制
ø牟田和恵『戦略としての家族』新曜社、諫山陽太郎『家・愛・姓』勁草書房
性道徳の二重基準
〈性の二重基準の第1の水準:性道徳の男女別基準〉
〈性の二重基準の第2の水準:女たちの主婦/娼婦への分割〉
◆大正期(1911-25年)〜男性優位と性別役割分業にもとづく「家庭」が一般に広がった時代。
同時に、買売春(男性が買い、女性が売る)産業が発展し、主婦/娼婦という「女の分類」が強化された。
演歌「奈良丸くずし」:「僕の未来は法学士、君の未来は文学士、よかろ吉原交際(つきあ)はう 親たちやお国で
芋を掘る」〜男性同士が〈社会的〉つきあいとして一緒に女を買うという〈性的〉行為をする。
2・3・6 第二次大戦後
◆敗戦直後、RAA(特殊慰安婦施設協会Recreation and Amusement Association)を結成→1946年1月、GHQの指令により廃止→「パンパン」と呼ばれる街娼の増加。
◆1946年11月、吉田茂内閣「特殊飲食店街」(通称「赤線」)に娼家を集め、営業を許可〜公娼制度の再確立
る。
1956年、「売春防止法」によって、赤線廃止。しかしこれも売る側の女性に対する一方的な犯罪者化であり、買う側に対する刑事処罰は規定されていない。
◆現代〜1980年代の「買春ツアー」〜「女の二分法」の解体? だが同時に、女性の〈全般的セックス商品化〉では?
性現象論プリント
2 近代日本社会におけるジェンダー役割の再編成 (承前)
【ここまでの整理】
仕事〜 男性
(近代的)性別役割分業
恋愛→結婚=家庭〜 主婦/娼婦 〜売買春産業
廃娼運動 ‖
女の二分法
2・4 〈家庭〉と〈主婦〉の変遷
2・4・1 近代国家の基盤としての〈家庭〉
◆近世までの性別役割
◆近代の発明としての「良妻賢母」主義
M初期〜10年代:自由民権運動、社会改良運動→男女同権論、婦人参政権論、女子教育論
M20年代:良妻賢母論への傾斜〜女性の母親役割の強調〜「家庭教育」という言葉をタイトルに含む書物が増加する。housewifeの翻訳語としての「主婦」という言葉も、明治20年代に定着。
→M32年:高等女学校令による確立
ø小山静子『良妻賢母という規範』勁草書房
『家庭の生成と女性の国民化』勁草書房
◆近代国家の基盤としての〈家庭〉理念がどのように広まられ、具体化されていったのか。
ø牟田和恵『戦略としての家族』新曜社
明治期の雑誌の分析から:M20年頃をピークとして、家庭の団らんや家族員の心的交流に高い価値を付与する新しい家族のあり方、雑誌に表れる表現をそのまま使えば、「家庭(ホーム)」的な家族を理想とする記事が多く現れる。その特徴は下記の通り。
@拝西洋・廃東洋:西洋の家庭を見ならい、「男女相愛の情」にもとづく夫婦と親子別居を勧める。
A産業化:伝統的直系家族制度の下での家督相続は、自主独立・事業振興・社会進歩を妨げる。
B「家」に優先する国家:特にM30以降。「家長」への服従よりも「社会国家」に対する徳を。
C「家庭」と国家の連続:
◆「修身」教科書に見られる新しい「家庭」のイメージ [→OHP]
◆こうして、大正期には、「近代主婦=専業主婦」という女性の存在形態が一般化してゆく。
3 ジェンダー役割の構造 (まとめ)
【女性役割の三角形】
[非女性役割] 領域:職場(労働市場)
(=男性役割) 役割:賃労働者(「働く女性」)
身体の意味:〈生産する身体〉
主婦・母親的労働 娼婦的労働
(補助的業務) (セクシュアリティの商品化)
〜再生産する身体の 〜性的身体の生産 ・流通への組み込み
生産・流通への組み込み
[女性役割] 家庭 《性の二重基準》 寝室/「風俗」/メディア
主婦・母親役割 娼婦役割
〈再生産する身体〉 〈性的身体〉