世論に見る「価値の分裂と統合」

 

日本では、安全保障など個別の争点について、「社会的亀裂」が間接的に世論に影響し、都市労働者の社会党支持対地方の自営業者・農林漁業従事者の自民党支持といった世論の分裂に結びついたことことはあったが、ヨーロッパやアメリカの世論において顕著な「社会的亀裂」(階層的亀裂、宗教的亀裂、地域的亀裂など)の影響が、日本においては、これまでさほど顕在化してこなかった。

それは、成長の果実をまがりなりにも国民全体が享受してきた成果でもある。高度経済成長期においては、社会全体が豊かになっていく過程で、政治家が自分の選挙区に、採算がとれない鉄道を建設したり、実効性に疑問があるような道路などの公共事業を引っ張ってきて、自分を後援してくれる企業にそれを受注させるようなことがあっても、大目に見られたような部分もあった。顕在化するかもしれなかったであろう亀裂を、社会全体の豊かさが塞いでくれてきたのである。

一方で、社会的亀裂と多少リンクしていたイデオロギー対立も、東西冷戦構造の崩壊が押し流していった。結果として、資本主義対社会主義という対立軸の中に、保守-革新を位置付けることすら困難になりつつある。世論調査で「あなたの政治的立場は、保守ですか、革新ですか」という質問項目で尋ねた際、それをイデオロギー的対立としてよりも、むしろ現状維持-現状打破の改革志向で捉えていると解釈したほうがあてはまるのではないかと思われるような結果も出てきている。

 だが、国全体がデフレ傾向で、不良債権処理に喘ぎ、失業率も増え、税収も伸び悩んでいる中で、アカウンタビリティを果たして、それが公的に必要な事業であるという理解が得られないまま、税金を投入して、特定の政治家と結びついた企業や団体だけが潤うというようなことがあっては、世論が納得できるはずはない。しかも、有権者の側でも、情報公開・アカウンタビリティの意識が高まっている中で、そういった行為に対しては、厳しく監視していこうという意識が生まれてきている。

 有権者に判断基準を公開した上で、アカウンタビリティを果たしながら政治を行っていくという透明性が高いプロセスが未だに確立されていないがために、未だに有権者の側では、「自分たちの知らないところで、今までどおりの利益配分が行われているのではないか」という疑念が常につきまとい、結果的に、既成勢力そのものに対する不信となって跳ね返ってきている。

 

 だが、それだけではない、より底流的な内的亀裂が、日本を覆おうとしているのではないだろうか。それは、社会的属性による個人間の亀裂というよりも、むしろ、個人の内部での価値の分裂である。それがここ10年の日本社会において、避けがたい亀裂・混乱に至る要因として作用する危険性を持っている。

 その価値の分裂とは、ひとことでいえば、「伝統的な集団主義」と「台頭する個人主義」との分裂であるということができよう。

 日本は、明治期の「富国強兵」、高度経済成長期の「所得倍増計画」など、集団の利益に資する行動が、結果的に個人の幸福にも結びつくという理念が社会全体のエンジンとなってきた。

 だが、そういった理念は、特にこの「失われた10年」の中で、個人の内部でも揺らぎ、混乱している。高速道路の整備についての世論も、総論では「凍結」を支持するものの、自分の地元には道路をつけてほしいという両面価値が現れており、環境問題でも、「持続可能な成長を達成するための環境政策が必要」ではあるが、環境にいい商品を積極的に買うかは、値段しだいということになる。年金改革は将来の財政再建に必要とは思うが、自分の年金が減らされることには抵抗がある。構造改革を支持はするが、自分自身が失業することになるような構造改革は困る。小泉改革に対する態度も、これまで通りのやり方が日本社会の空洞化を招くことから、小泉改革を推進していくことを望む多くの世論が支持率に結びついているものの、自立した個人としてそれを評価する軸を持っていないがために、属集団的な価値判断の呪縛から抜け出せずに、個人の内側にも「内なる抵抗勢力」を抱え込むことになる。

 こういった、個人の内部での集団的価値と個人主義との相克は、自立した個人が確立されていない日本において、社会状況の悪化とともに、一層の混乱を引き起こす危険がある。若い世代を中心に、極端な個人主義が台頭することによる社会的混乱を引き起こすか、集団主義による、経済問題を中心とする問題解決を図ろうとする政治勢力が台頭するか、個人の中の亀裂が社会的亀裂に投影され、分裂・混乱を引き起こすか、いずれにしても、何らかの大きな事件が、こういった混乱のトリガーとなる可能性を持っている。

 トリガーになる局面としては、第一に経済状況の一層の悪化、第二に高齢化社会への対応における、世代間や地域間の調整の破綻、第三にIT社会への適応など、テクノロジーへの適応、第四に、北朝鮮や中国など、対外的な軍事的経済的台頭への対応において起こりえると考えられる。極端な個人主義、その両極の集団主義による解決を図ろうとする奔流は、あらゆる政治的調整能力を麻痺させ、たとえそれが一時的に大衆のカタルシスを得られるとしても、やがて来る破滅への序曲となって、さらなる混乱のレクイエムを聞くことになる。

 現状の政治は、「抵抗勢力」を破壊する「改革勢力」という、危険な善悪二元論に落とし込まれ、こういった価値の分裂を、公的に解決していこうとする装置を持ちえていない。

 伝統的な集団主義と、台頭しつつある個人主義を、破壊的に一方に拠らしめるのではなく、この分裂した価値を統合していけるような政治的アクションがない限り、表層的な改革や破壊は、混乱の芽を内包したまま、さらに「失われた10年」を次の10年に引きずっていくことになりかねない。

 集団的価値と個人主義とを「統合」するような政治哲学がいかに構築され、機能するかが、日本の生き残りのひとつの鍵となるのではなかろうか。