表紙メッセージ  水落健治


 キリスト教、とくにカルヴァン派を中心とするプロテスタンティズムが、近代自然科学の成立に大きな役割を果たしたことは広く知られている。「超越神以外の何者をも絶対化しない」という世界観がわれわれの住むこの世界の相対化・対象化を促し、それが観察・実験に基づく自然科学を成立させる基本的要因になった、というのである。

 だが、今回の一連のオウム報道に接して以来、私にはこのような説明が何か空空しい表層的なものに思えてならない。それは、この教団に多くの自然科学の研究者が関与していたから、というのではない。むしろ、この一連の出来事が、宗教というものが本来もちながら、ともすると見落としがちなある<危険な>側面を改めて垣間見させてくれたからだ。

 およそ「宗教」なるもののもつこの側面に眼をつぶっては、「キリスト教研究」も名ばかりのものとなろう。

(みずおち けんじ 一般教育部教授)


1995年5月24日開催公開講演会 村上陽一郎氏講演要旨

斉藤 栄一


  ホワイトの論文集『機械と神』(Machina Ex Deo)所収の「生態学的危機の歴史的根源」に私は衝撃を受けた。それが、キリスト教と科学とは敵対的であったという啓蒙主義的科学史観を排し、後者が前者を子宮として生まれたと説いていたからである。彼は、われわれの生態学的危機をもたらしたのは近代科学技術であり近代科学技術はキリスト教の子どもなのだから、「危機」を招いた

 歴史的根源はキリスト教にあるという見方に立ったうえ、神が自然を支配する力を人間に託することさえなければ近代の科学文明は生まれなかっただろうと主張する(キリスト教があまりに男性中心的であったために自然破壊が起きたとするフェミニズムの立場からの立論もある)。

 このホワイトの発想はかなり短縮的である。16,17世紀のいわゆる「科学者」たちは一人の例外もなくキリスト教的思考の枠組みのなかでものを考えていた。たとえばニュートンはこの宇宙空間は神の感覚体であり、万有宇宙は神の力の現前であると考えていた。こういったものを「科学」と呼ぶのなら、彼らは、キリスト教信仰から科学理論を生み出したということになるが、私はそうは思わない。

 そもそも、scientistという言葉はヒューウェルが1840年ごろに使い始めたものだが、ハクスレーはこれに反発し、a man of scienceという言い方が適切であると主張した。これはscienceという概念の違いによるもので、ヒューウェルはscienceを現在のわれわれと同じように科学という意味で用いたが、ハクスレーはscientia(知識)の意味で理解していたのだ。狭い範囲のことをあつかう人につける語尾と考えられるistをscienceに用いることをハクスレーは嫌ったのである。

 16,17世紀の「科学者」たちがやったことがそのままわれわれの科学と呼んでいるものになったのではない。たとえばニュートンの著作から、いわゆる力学に関する部分だけを取り出して考察の対象としてみるならば、それは彼が本来考えていたものと似ても似つかぬものになってしまう。ニュートンのような、ある事柄を説明するときにどこかで神に言及しなければ理解が完結しない思考法(聖)から、神に言及しないでも説明が完結するという態度(俗)への移行が、すなわち聖から俗への知識革命であり、これをなしとげたのが18世紀の啓蒙主義である。ナポレオンがラプラスの書物を読んで神が一度もでてこないといって不平をならしたとき、ラプラスはむしろ神なしでも説明の体系が成立しうることを誇ったと伝えられている。 
 
 19世紀後半に大学に理学部が置かれるようになるが、その時点で工学部はまだ設置されていない。scienceにたずさわる場としてのuniversityの理念にそぐわないからである(工学部を世界で最初に設置したのは東京大学である。またエコル・ポリテクニク(仏)、テヒニッシェ・ホホシュレー(独)、ラングラント・カレッジ(米)の例があるがこれらはみなuniversityではない)。

 技術、あるいは工学は大学とは全く違う世界から生まれてきた。エジソン、カーネギー、イーストマン、ロックフェラーといった起業家(entrepreneur)たちによって生み出された近代の産業技術は、いわゆる知的伝統のなかから生まれてきたものではない。現代では「科学技術」という言い方をするが、10世紀の技術は科学とはまったく無関係に同時代の産業から生まれてきたものだ。彼ら起業家たちのエトスの中に「科学」はなかった。

 ホワイトによれば、17世紀にある種の「科学」の原型がキリスト教の中にできあがり、それがキリスト教と訣別することによって近代科学としてのアイデンティティを明らかにした。また、この考えを受け継ぐJ.ドレイパー(『宗教と科学の闘争史』の著者)は宗教を科学に敵対するものとみなしていた。近代科学はキリスト教を敵とみることによって自らのアイデンティティを確立したが、19世紀の技術はそういう知的営みに結びついていなかったので、そのレヴェルで問題にされることはなかった。

 18世紀に文明(civilisation)という概念が成立する。文明化する
(civil-ise)という発想は、wildな自然は非効率的であるとする聖俗革命の価値観を前提してはじめて成立するものであるが、それは本来、自然に対して、および他の文化にたいして二重の攻撃性をもっている。文明は、自分の文化をおし広げ征服しようという意志と制度とをもっている。18世紀以降の近代ヨーロッパ文明も他の文化に自分の文化をおし広げようとしてきたし、現在もそうである。これこそが実は「生態学的危機の歴史的根源」にほかならない。

(さいとう えいいち 主任・一般教育部教授)


1995年6月6日 李仁夏氏講演主旨
「アジアの人々との和解−戦後50年を迎えて−」


加山 久夫


 明治学院では去る6月、学院長名による戦争責任・戦後責任の告白、元アジア人留学生を迎えてのシンポジウム、60余名の有志教員による関連テーマの授業などいくつかのプログラムが集中的にもたれたが、キリスト教研究所主催の上記講演会はその一環として企画されたものであった。

 李仁夏氏は15歳の時、植民地化されていた母国で勉学を続けられなくなり、来日、戦時下で皇民化教育の洗礼を受けた。氏は模範生として日本人以上に日本人になろうとしたという。そのような中で、ひとりのクリスチャン教師に出会い、キリスト教に入信。もうひとつの洗礼を受けたわけである。しかし、戦後、これまでの生き方に挫折を感じた氏は牧師になる道を選び、その後、36年間の長さにわたり、在日大韓基督教川崎教会の牧師として、地域社会における民族差別と闘いつつ、やがて川崎市を日本人と在日の共生の一つのモデル市にするうえで実に大きな働きをしてこられたのであった。それだけでなく日韓両キリスト教会の橋渡しとして指導的な役割を果たすとともに、在日韓国人・挑戦人の声を日本人に伝える働きもしてこられた。
 
 「戦前・戦中、日本は何をしてきたか」、そして「戦後、日本は何をしてこなかったか」について、李先生はこの日も率直かつ具体的に語られるとともに、まだ手にしていないアジアの人々との和解こそが日本にとって不可避の課題であることを語られた。そのために、まず詫び、相手に若いを求めなければならない。「あなたが祭壇に供え物を献えようとし、兄弟が自分に反感をもっているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前におき、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を献げなさい」(マタイ5:23,24)と語ったイエスの言葉をわれわれは想起しなければならない。日韓両基督教会や川崎市における日韓両民族の出会いの場を形成する中で、実際に若いの出来事を目撃してこられた李先生の言葉は、われわれにはげましと希望を与えるものである。
 
 戦後50年を迎えてこれからいかにアジアの人々とともに生きるのか、日本(人)は今問われている。

(かやま ひさお 所長・一般教育部教授)


1995年6月24日公開研究会報告 「医師としてのヘボン」

久世 了


 本研究所の共同研究プロジェクト「ヘボンの研究」の第一回公開研究会が6月24日(土)午後、本館会議室で開かれ、学内外から約30名の参加者を迎え、大滝紀雄氏の報告「医師としてのヘボン」を中心に有意義な討論が行われた。報告者の大滝紀雄氏は、日本医史学会理事で、ヘボン博士顕彰会設立者、世話人でもあり、主題に関しては最も造詣の深い方である。以下は当日の報告の要旨である。

 ヘボン博士は日本で、医者として肉体の眼を開き、語学を通して知識の眼を開き、聖書によって霊性の眼を開いた、と言われるが、その働きの出発点は医療伝道にある。1815年にペンシルバニアで生まれた彼は、プリンストン大学で語学と化学を学んだ後、ペンシルバニア大学で医学を専攻したが、1836年に学位を得たときの論文のテーマは「脳卒中」であった。
 早くから海外伝道への熱意を抱き、1841年にシンガポールへ赴き、44年2月から45年7月まで約1年半、中国のアモイでカミング博士と協力して施療を行った。これまでこの時期のことについてはあまり広く知られていないが、ヘボン博士自身による報告Report of the Dispensary at Amoy がChinese Repositoryにあることを高谷道男先生が発見しておられる。これによると、この間の施療患者の統計は1862任で、うち眼科疾患が最も多くて571人、ついで消化器疾患244人などとなっている。このアモイでの経験が医師ヘボンのその後に非常に役立ったのではないかと思われる。

 クララ夫人の健康問題などで帰国した博士は、ニューヨーク42番街で開業し、特に眼科医として非常な成功を収めたが、日本開国の報に接すると13年間経営した病院を1万ドルで売却し、1859年10月28日(安政6年9月23日)、開港間もない神奈川に到着、成仏寺に住居を得たが、まだ禁教時代のことであり日本人との接触は困難だった。しかし、たまたま、眼病に悩む猟師を治療する機会があり、その評判から、1861年に近くの宗興寺で施療所を開くことができた。幕府の妨害もあって、この施療所は5ヶ月だけにとどまったが、この間に、3,500人が治療を受けている。先の1万ドルもあり、患者からはいっさい治療費を受け取らなかった。

 この後博士は63年に横浜居留地に移されたが、居留地39番の新築家屋でも施療をおこなったが、このころから他の仕事も忙しくなり、1876年に山手に移転してからは、診療は原則として行わないことになった。しかし、居留地での診療でも、とくに眼科で名医の名を馳せたほか、人気役者沢村田之助の下腿切断・義足装着は錦絵にもなるなどして、ドクトル・ヘボンの名は全国に知られた。

 こうした直接の診療のほか、順天堂の佐藤泰然との交友関係、現慈恵医大の看護学校開設への協力などの働きもあり、医師ヘボンは日本の医の歴史に大きな足跡を残しているのである。

(くぜ さとる 所員・経済学部教授)


ヤースナヤ・パリャーナを訪れて  小田島 太郎


 1994年度は特別研究休暇(サバティカル・リーブ)をいただいて、休暇でもなければ不可能な旅行をいくつか、楽しむことができた。またこれを通して、幾人かの新しい知己を得る幸いにも恵まれた。このような体験が、これから先の人生にどうゆう意味を持つか、それは時間が経過しなければ私自身にもわからないことだ。

 年が改まって、5度目のロシア旅行が実現した。さんざん迷った末のことだった。1月7日の深夜、正教会のクリスマス礼拝に参加した翌朝、―それは滞在一週間の最後の日であったがー思いつくようにして、ヤースナヤ・パリャーナへと、雪のなか、車をとばして貰った。トルストイが先祖から受け継いだ広大な領地であり、彼はここで人生の大半を、そして最晩年を過ごした。私は、降ったりやんだりする雪の中を、思いにくれながら何時間も歩き回った。

 ヤースナヤ・パリャーナは壮大で、その自然はあまりにも美しい。この自然の中で、その美しさに抵抗するようにして、人間だけが持ちうる魂の葛藤を、死に至るまで持ち続けたトルストイを思うと、深い緊張が体内を走った。ドストエフスキーゆかりの場所はそれまでに幾度となく訪れたが、その時時に覚えた感慨とは、全く別のものだ。いったいなぜなのか。美しい自然は妖しい誘惑者だ、という印象を私は、以前から捨てることができない。自然の美しさは、倫理的問題のしがらみから私たちの魂を、まるで悪夢から覚めたことを喜ぶよきのように、解き放ってしまう。トルストイが圧倒するような自然の美しさに囲まれながら、人間の根元敵問題を手放さなかったということに、私は驚嘆した。ドストエフスキーはどうだろうか。彼はムイシュキンに「美は世界を救済する」と言わしめる。もちろんここでは「女性の美」を言うのであり、また背後には、正教会の讃歌が隠れているのであるが、とにかく「美が世界を救済する」のである。もちろんこれはたくみな世界が作品に加えて、読者を喜ばせる甘味料なのであって、ドストエフスキー自身の意見ではなかろうが、ドストエフスキーはしかしこの感覚を理解できたのである。トルストイの倫理主義とヤースナヤ・パリャーナの美しさ、この両者が相互に他を際立たせながら、私の心の鏡に鮮やかな印象を残した。

 諸条件が許せばのことだが、この地を再訪するであろうという予感を、私が自分で打ち消すのに、些か困難を感じている。

(おだしま たろう 所員・一般教育部教授)


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