表紙メッセージ 久世 了
過日、アメリカのクリスチャンたちと、われわれのいうキリスト教主義学校について話し合う機会があったが、彼らは、Christian
schoolというほかにchurch-related schoolという言葉も用いていた。私はこのchurch-relatedという表現にドキッとさせられた。
日本のキリスト教主義学校のほとんどはもともと教会の働きとして創られたものであるから、その限りでは確かにchurch-relatedであるが、現状においては、とくに日本の教会は学校教育にどのように関わっているのかを考えてみると、学校教育が教会の働きの一つをなしている、といえるほどの貢献は見出せないように思われる。
これからの明治学院を考えるに当たっても、教会との関係を一つの重要なポイントにしなければならない、と思うのである。
(くぜ さとる 所員)
1995年10月20日開催 山形和美氏公開講演会要旨
「私の文学とキリスト信仰」
新倉 俊一
私の若い頃からの専攻のテーマは、「文学とキリスト教」ということで、これをどういうふうに考えるかということを年頭におきながら、実際の批評・学問をやってきました。今日はキリスト教と文学の関係について、一般に見られる対立とか矛盾をどのように解決しようとしてきたか、その状況の一端を披瀝しながらキリスト教的な文学の可能性と、またその在り方というものをキリスト教信仰の問題と絡ませて考えてみたいと思います。
C.S.ルイスはエリオットの「宗教と文学」と同じようなエッセイを二つ書いています。一つは1939年の「キリスト教と文学」、もう一つは1940年の「キリスト教と文化」です。彼はいろいろな苦悩の果てにキリスト教徒になった人ですが、キリスト教徒に改宗したときに新たに問題を意識し始めたといっております。そして、自分が、今まで文学を救いだと思ってきた姿勢が完全に覆されたというように理解するにいたりました。概して新約聖書は文化、文学に冷淡であること、それらを積極的に認めないということが分かったのです。そこで、ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉に出会うわけです。
−「あらゆる文学は一つである。それらはみな自然の次元にある人間の発した声である。もし、文学というものが人間性の研究であるとされるべきであれば、私たちはキリスト教的な文学は持つことはできないことになる。罪ある人間についての罪なき文学を試みるということは言葉の矛盾である」。
この言葉に出会ってショックを感じ、まさにがんじがらめに手も足もでなくなったんです。
文学の価値というものは最高のものではなくて、キリスト教の信仰の下にあり、キリスト教に奉仕するという二元論です。
すべてのキリスト教徒がルイスの論理を全面的に受け入れることができるだろうか。この問題を非常に誠実な形で、また、はっきりした形で悩んで生き抜いた最もたる20世紀の文学者は、モーリャック以外にないのではないかと思われます。彼は「深く徳のある人間は、最初から小説など書きはしないのではなかろうか。なぜなら、もし彼が真の芸術家であるならば、およそ人間的真実味を欠いた教訓的な無味乾燥な物語などをつくり上げることは自分にはできないと感じるであろうし、また、一方では生ける作品はいきおい読者の心を惑わすものになることを知っているからである」(「カトリック小説」)。こういうふうにいわない限り、モーリャックは作家であることをやめざるをえないわけです。
「罪ある人間について、罪なき作品を試みるのは言葉の矛盾である」という先ほどの言葉とこのモーリャックの言葉を重ね合わせる時に、私が何十年か考えてきた問題の中核が浮かびあがってくるような気がします。(*紙面の都合で後半部は省略しました)
(にいくら としかず 所員・文学部教授)
1995年11月18日 高安伸子氏公開研究会要旨
「プロテスタント医療伝道について−幕末から明治中期まで−」
高安 伸子
日本におけるプロテスタントミッションの医療伝道は、1859(安政6)年に来日したヘボンが施療を行ったときに始まる。このヘボンの医療伝道開始からキリスト教禁令の高札が撤去されるまで、宣教医の活動は多くの制約を受けた。キリスト教禁令の高札が撤去されるとベリー、ラニングなど多数の宣教医が来日し、日本各地で医療を通じてのキリスト教伝道を行った。1859年から1889年までの来日宣教医数は28名にのぼる。
これら宣教医がなすべき本来の働きは「病人を治療すべきことと非キリスト教国において医療を知らないものを訓練して同国人の病人を救うことができるようにすること、伝道者と協力して神の隣みを説き、福音を聞こうとしないものの偏見を打ち破ること」(C.H.Robinson)であった。横浜・ヘボン施療所、京都・同志社病院、大阪・聖バルナバ病院、新潟・パーム病院などが医療伝道の行われた代表的な施療所や病院である。しかし、来日した宣教医個々の活動を見ると病院・施療所を開設し医療を行ったものの比率より、英語塾などから発展したミッション系学校の設立・運営に寄与したものが多い。この理由は、明治政府の政策が多様に変化したからであろう。明治政府は維新直後より積極的な西洋文化の摂取をはじめ、各分野で多くの外国人教師を雇い、キリスト教禁止の高札も撤廃した。けれども、明治中期になると神道保護に向かい、御雇外国人教師からの西洋文化の摂取もだんだんと下火になった。こうした日本の政策方針の変化が、宣教医たちの働きにどのような影響をもたらしたかは今後の研究課題である。
(たかやす のぶこ 日本医史学会会員・順天堂大学医学部医史学研究室研究生)
1995年11月28日 金井新二氏公開講演会要旨
「日本のキリスト教と賀川豊彦」
田村 剛
日本のキリスト教の現状に対し、賀川豊彦はどのような示唆を与えるか。キリスト教宣教が公認されて100年mになるが、日本のキリスト教はふるわない。それについて大木英夫は、明治以来の国民的スローガン「和魂洋才」によって、日本のキリスト教は、良い意味での日本のナショナリズムと結合しえなかったからだという。古谷安雄は日本のキリスト教では「量より質」が強調され、エリート意識で凝り固まり、独善的になったと分析する。また、梅棹忠夫