表紙メッセージ 濱野 一郎
この夏宗教部主催『平和を考える旅』で学生十数名と台湾を訪問した。「霧社」では先住民の方々と日本語で話し合い、日本語が、お互いに言葉の通じ合わない当地部族の人々同士の共通言語にもなっていると聞いて、大変複雑な気持ちを懐かされた。 先住民といえば、歴史的に日本人をはじめとする植民地支配者、そして漢民族という二重三重の支配の最底辺にあって、その人権と生存権を剥奪されてきた人々である台湾は日本で考えるよりはるかに政治的に緊迫しており、平和に対する危機意識も強いが、これら先住民の人々の人権が深く考えられ、実現されてはじめて平和が訪れるであろう。人権は平和の基礎である。 第二次大戦中台湾に住んだことのあるあるひとが、会話のなかでごく自然に先住民の人々を『蛮族』といっているのを聞くにつけても、われわれ日本人が台湾についてより深く知り、日本人としてのあり方を自ら問うことが必要であろう。
(はまの いちろう 所員・社会学部教授)
キリスト教研究所についての随想 澁谷 浩
私は明治学院大学に丁度30年勤務し、一昨年の四月以来聖学院大学(埼玉県上尾市)に勤めている。そろそろ定年まであと何年とかいう類の話にリアルな関心をもって耳を傾ける年齢になった。まことに単純な来し方で、約30年教室で黒板に向って席に就いており、次の30年は向きを変えて黒板を背にして教壇に立っただけの生涯である(これは西田幾多郎から拝借した名言)。
キリスト教研究所には、30年の勤務期間の後半に所員として在籍していた(と思われる)。元来この研究所はキリスト教学担当の教員諸氏の研究機関だったのが、いつだったかキリスト教研究に関心を持つ教員全体に解放したのである。私もその時参加した者の一人である。(こういう年表に類する記事はこの号のどこかに載っているだろう。)以後明治学院を辞するまで私は所員であり、所長を二期勤めたこともあった。所員としても所長としても、私は積極性に乏しい事なかれ主義をモットーにしていたことを今更ながら恐縮に存ずる次第である。
とは言うものの、どんな消極人間もこんなに長い間一つ所に勤めていれば、多少とも経験の積み重ねも出来てくるものである。その経験をもとにして若干のお願いを研究所に呈上したい。
私が去って間もなく、明治学院大学では重要な制度改革が行われた。学長クリスチャン・コード廃止である。この種の改革はとかくドミノ効果を産み出しやすい。しかし、そのような予測は、すでに門外漢たる私の為すべきことではないだろう。
私が門外漢として言いたいことは、研究所の共同研究(つねに複数あるはずだが)のうち少なくとも一本は日本研究をテーマとするものであってほしい。政治や経済や社会福祉やとキリスト教をからめたもののことを言っているのではない。『キリスト教「と」日本』、『キリスト教「の」日本』というような、キリスト教研究所の研究に馴染むテーマを指す。なぜそんなに日本に拘わるのか。歴史的宗教としてのキリスト教は真空の中で純粋培養できるものではない。ところが、われわれは欧米のキリスト教が普遍的───ということは真空的───な正真正銘のキリスト教だと思って・・・。いや、ここで神学的議論を上下させることは適当ではあるまい。もっと具体的なことを論ずべきである。
日本のキリスト教の過去・現在・未来を理解する仕事。こんな研究を共同で進めている研究所が今の日本にあるとは思えない。欧米諸国のさまざまな施設でキリスト教研究が行われるとき、かれらがやっていることはイギリスならイギリスのキリスト教の研究、ドイツならドイツのキリスト教の研究・・・以下同様。われわれ日本人だけが、「日本研究をやっている」と政治学・経済学・歴史学そしてキリスト教学について言うのである。東京などの大きな書店に行くと、「日本研究コーナー」という特別の売場が設けられている。そしてそこでヴァン・ウォルフレンや山本七平などの本が並べられている。ところが、たとえばロンドンなどの大きな書店に行っても「イギリス研究コーナー」などありはしない。それはイギリス人が自分の国の研究をしないからではない。実はその反対で、その書店の本棚全体がイギリス研究コーナーだからである。したがってイギリス研究コーナーなど馬鹿馬鹿しくて設置することはできない。わが国の学者はあなたも私も、ネコもシャクシも外国のことばかりやっているから、日本研究書という風変りな珍本のために特別のコーナーを設けるのである。
明学のキリスト教研究所も紀伊国屋や八重洲ブックセンターのまねをしていないか。日本のことは何も知らないアメリカ学者やドイツ学者の集団に成り下ってはいないか。われわれの置かれた状況の正確な把握のためには、日本キリスト教史やそこに登場する指導的立場にある人びとの個別研究こそ共同研究の重要な、おそらく最重要なテーマの一つでなければならない。そういうテーマと真剣に取り組む研究所であれば、明学のキリスト教はわが国の同じような研究所の中で最も注目に値いする存在となるであろう。
(しぶや ひろし 元キリスト教研究所所長・法学部非常勤講師)
キリスト教研究所創設30周年によせて 加山 久夫
「新しい時代の内容は新しい皮袋に盛られねばならない。ノスタルジアはこの聖句に帰って行き、再び新しい意志となって燃えあがった。明治学院大学キリスト教研究所は、かくして一九六六年四月に、大学附属の研究所として新しい出発をした。敬愛する村田四郎前学長を名誉所長に、所長園部不二夫教授以下所員一同日夜真剣な祈りと努力をもって研究・調査に当たっておられる。」これは、若林龍夫学長(当時)が研究所紀要創刊号に寄せられた序のなかの一文です。
文中の「ノスタルジア」とは、「1930年日本神学校(今の東京神学大学)の創設の際、これと合体するために、永久に学院を離れていった明治学院神学部に対する郷愁である。」と、序文に述べられています。もし可能ならば、新たにそれに代わる「基督教学科」の創設をと希いつつ、果たしえなかった夢をキリスト教研究所という「新しい皮袋」として実現したのでした。したがって、当初、所員はキリスト教学担当教員のみによって構成されていました。しかし、実際には、それ以外の多くの諸先生方が紀要に寄稿され、研究活動に参加してくださっていました。定年により引退されたり、永眠された先生方が当時、専任講師や助教授として寄稿されているのを拝見しますと、深い感慨を覚えます。
1985年4月、本学が横浜キャンパスを開設するに際して、研究所は所員構成を全学的に開かれたものとし、文字通り大学付属に相応しい形となりました。それは、研究所創設の翌年、紀要1号に創刊の辞として、村田四郎先生が述べておられるつぎのようなお考えとも軌を一にすることであったと思います。「此の研究所が基督教神学の中核をなす、聖書学、教義学、教会史学等の研究に力をつくしてゆく事がのぞましいのであります。今や明治学院大学には文学科、経済学科、社会学科、社会福祉学科、法学科等、文化の諸学を持つ総合大学である現状を思うと、此の研究所が、ただ狭義の基督教神学だけにとぢこもらないで、恰く文化事象に関連をもって基督教の学的検討に入ってゆく事に、此の上なきよき共同研究者をもつ事が可能である、と信ずるのであります。と同時に日本の基督教運動の過去、現在の歩みに正確な理解と深い洞察をあたえられて、それによって未来えの妥当な見通しをもつ事ができるような役目をはたし得たならば、真に有意義であると考えます。」
果たしてこのような付託にどの程度応え得ているのか忸怩たるものがありますが、専門分野を異にする所員各位をはじめ、学内外の多くの方々のご協力を得て、課題をになってゆきたく願っています。皆様のご支援をおねがい申しあげます。
キリスト教研究所創設30周年を記念して、来る11月30日(土)午後2時より本館1255教室にて、森井眞先生による公開講演会を予定しています。多くの方々がご出席下さり、明治学院大学キリスト教研究所30才をお祝いくださいますよう、併せお願い申しあげます。
(かやま ひさお 所長・一般教育部教授)
1996年6月21日 公開講演会要旨
『日本の花嫁』事件をめぐって ナショナリズムの風圧のもとに
講師 武田清子氏 (国際基督教大学名誉教授)
斉藤 栄一
1886年(明治20年)、数寄屋橋教会の牧師であった田村直臣は『米国の婦人』を出版し、米国女性の開明性の基盤がキリスト教にあることを説いた。これが多くの読者を獲得したことに意を得た田村は、1892年に米国に渡り、翌年(明治26年)に“The
Japanese Bride” を彼地にて出版する。これは日本女性の地位の低さを米国人に説いたもので、たとえば、女性は子供のときから男性よりも劣っているものと教え込まれること、結婚は愛のゆえではなく家系を継ぐために行なわれること、したがって女性は結婚の際、父親の所有物から夫の所有物に変わるだけであること、夫への服従は絶対であり、離婚の自由も夫のみにあることなどが記されていた。
日本女性の地位の低さについては、つとに福沢諭吉が1887年(明治20年)に著した『日本婦人論』の中で、日本女性にとって家庭は地獄だという言い回しさえ用いて明快に述べているにもかかわらず、そのときには見られなかった激越な反応が田村の著書にたいして、おもに『万朝報』をはじめとするジャーナリズムからおこった。
しかも、田村の著書にたいする逆風は一般ジャーナリズムからのみならず、キリスト教界内部からも吹き荒れた。そのもっとも代表的なものとして、植村正久が発行していた『福音新報』に載った「『日本の花嫁』と題して」を挙げることができる。このほか、キリスト者の政治家として人望を集め、また青年時代には植村正久の下で青年会のリーダー格でもあった田川大吉郎が、田村の誅殺をほのめかしたり、矢島楫子本人の意図するところではなかったにもかかわらず、矯風会からの非難の手紙が山積するなど、田村は四面楚歌の状態となった。晩年の田村夫人の述懐によれば、このとき田村を支持してくれたのは、自らも不敬事件に苦しんでいた内村鑑三のみであった。
田村は日本キリスト教会の大会上で宗教裁判にかけられ(このときの告訴委員会の委員長を務めたのが、ほかならぬ井深梶之助であった)、教職を剥奪されてしまった(田村はそれを無視して独立の牧師として生涯をまっとうした)。
田村を裁いたのは日本の福音主義キリスト教会、なかでも横浜バンドや熊本バンドの流れをくむ人々のもつリゴリズム(たとえば植村正久は“The
Whole Duty of Man”(1878年)を熟読している)と、日本文化にたいする誇りや愛情と両立しうる日本独自のキリスト教の樹立への志向であった。植村はその武士階級の出自から、日本人としてのアイデンティティの根幹を揺るがすような日本文化批判を容認することができなかった。
植村自身はその妻にたいしてけっして抑圧的でありはしなかった。たとえば、彼は自分の妻を賢妻と呼び、愚妻という呼称を用いた弟子を譴責している。しかるに、そのような植村と懸隔のない意見を抱いていた田村に過剰なまでの拒否反応を植村が示したのは、田村の著書の内容が、福音主義キリスト教運動のリーダーであった植村が挺身していた日本文化の伝統と融和的なキリスト教の伝道の妨げとなると彼の眼に映ったからではないか。
我々は、植村正久ら初期福音主義キリスト教伝道者の姿をいたづらに美化することなく、その影の部分をも明確に見据えたうえで彼らの運動を評価し継承していかなければならない。
(さいとう えいいち 主任・一般教育部教授)
アルザス語 真崎 隆治
20数年前にストラスブールを訪れたのは、この町が宗教改革時代に寛容の精神をかかげて大きな役割を果たしていたことへの関心と、ここの大学にカルヴァン研究の大家ヴァンデル先生がおられたからである。残念ながら先生は私の到着を待たずに世を去られ、ついにお目にかかれなかったのだが、そのかわりにアルザスという土地とそこの人々に深く関わることになり、以来アルザスは私の第二の故郷のようになった。
アルザスはフランスの東端、ライン川とヴォージュ山脈にはさまれる美しく肥沃な平野だ。ヴォージュの山から見おろすと、はるかに広がる緑の畑の海原のところどころに村落が島のように点在し、教会の尖塔が灯台のように立っている。山の麓あたりはブドウ畑だ。東西50キロ、南北200キロ、川向こうはドイツである。
この土地の豊かさが大国の関心をそそった。それと、東側の大河と西側の山脈という、いずれも国境とするのに恰好な地理的条件が災いした。1648年の神聖ローマ帝国崩壊から第2次世界大戦にいたる 300年間、アルザスはフランスとドイツの間での争奪の的となる。国が変わると支配国の言語が強制される。ドーデの『最後の授業』はこのあたりを描いて有名だ。もっとも彼の観点はフランス中心にすぎて、アルザス理解としては正当なものといえない。アルザスの人々がこの作品をさして評価していない事実がそのことを雄弁に語っている。だいたいアルザスの人々はフランス語を禁止されても痛痒をおぼえなかった。なぜならアルザスにはアルザス語という固有の言語があったからである。これは4・5世紀のゲルマン民族の移動のさいにこの地に住んだいくつかの民族の言語が複合的に定着したもので、中世ドイツ語の化石のようなものだ。たとえばドイツ語のグーテン・モールゲンはギュアタ・モーリアであり、そのアクセントは歌のようにうねり、可憐である。
アルザスの人々はいかに言語を強制されようとも、アルザス語のあるかぎり困ることはなかった。ドイツにしてもフランスにしても自国語を強制しようとしたのは同じであったが、アルザス語を敵対語として禁止するいわれはなく、公文書における自国語使用と日常生活における学習の奨励ぐらいがせいぜいであった。アルザスの人々はアルザス語によって自らの独自性を守ってきた。アルザス語こそは彼らのアイデンティティーを形成する核であった。
ところが、このアルザス語がいま歴史から消滅しようとしている。
40代から上の人たちはアルザス語を母国語として育ち、フランス語は小学校に入ってからの習得言語である。それが20代の若者になるとフランス語が母国語であり、アルザス語はもはや知らないのである。家庭で話されなくなったからだ。交通の発達により夫婦がアルザスの人とはかぎらなくなった。またアルザス人同士の家庭でも、子供の将来のためにフランス語重視が徹底してきた。この土地がこれからの世界に生き抜くためにも、個々人がフランスという国で生きていくためにも、アルザス語はあまりに特殊でありすぎるからだ。それと同時に、今後はこの土地が大国の争奪の対象とならないという民族本能的嗅覚が働いてのこともあろう。役立たないものを苦労して身につける必要はないのである。
かくして、次の世代とは言わないまでも、2世代後にはアルザス語は確実に姿を消す運命にある。ひとつの言語が歴史から消えていくのはなにも珍しいことではない。しかしその歴史的瞬間に立ち会うことはそうあるものではなく、粛然とならざるを得ない。そして、文化の根源に言語があるとすれば、アルザス語を失うアルザスの文化は変質していくしかない。伝統を重んじながらも伝統を越えて力強く生きるために、彼らはいま根源的な問を自らに課しているのだ。21世紀はアルザスにとってまさに真に新しい世紀となるであろう。
(まざき たかはる 所員・文学部教授)
ご挨拶にかえて 太田 孝子
岐阜の地に来て、大学を取り囲む山々を見上げ、詩篇 121篇を口ずさみながら、あわただしかったこの半年を思い起こしています。 キリ研との出会いは、「キリスト教教育研究所の研究員を募集している」と教えられたはずなのに、宛て先が「キリスト教研究所」となっていることに驚いて問い合わせたものの、「副手が休みで分かりません」という答えに、えいやっと応募してしまったことから始まったのでした。それでも、面接に行けるか心配されるほど熱があり、声も出なかったのに、何とか答えられたこと、山手線が止まっていて、あわてて地下鉄に乗換え、走って走って間に合ったこと、などに私は密かに導きを感じていました。
それなのに、前号で新任の挨拶を書いたばかりなのに、こんなにも早く辞任の挨拶を書くことになってしまいました。明学には、まだまだ見たい資料や卒論などがたくさん残っています。伺いたいお話もたくさんあります。すべて夏休み明けから・・と考えていたのでしたが、面接の時に走った勢いで、そのまま走り抜けてしまったような気がします。今後ともご指導とお交わりをいただけるようお願いいたす次第です。そして、初めに私が間違えたように、キリスト教教育の専門機関が置かれる日の近いことを祈ってやみません。 短い間でしたが大変お世話さまになり有り難うございました。
(おおた たかこ 元キリスト教研究所研究員)