ハンブルク大学滞在記  田村 剛


 特別研究休暇を利用してドイツに滞在し、昨年8月から今年2月までハンブルク大学日本学研究科(Seminar fur Sprache und Kultur Japans Hamburg Universitat) の客員教授(Gastprofessor) として在外研究をする機会を得た。

 1994年春、ハンブルク大学学長Dr. J. Luthje とそのご家族が鎌倉を訪れる際に、ラルフ夫妻とご案内することにした。その折りに、学長からハンブルク大学にいらっしゃいませんかとのお話があり、1996年度には特別研究休暇がとれるので是非お邪魔したいと申し上げた。同年の夏休み明け頃、ハンブルク大学経済学部の Professor Dr.M. J. Holler から論文数篇が送られてきたのである。ホラー教授とは面識はないけれども、同封の書面からルーチェ学長からの紹介であることがわかった。帰国した学長は専門分野が同じ労働経済学である教授に、私とコンタクトをとるように勧めて下さったのである。早速、履歴書と業績リストとを教授宛に送った。翌1995年の初冬、今度はルーチェ学長ご自身からの便りが届いた。特別研究休暇が近づいているけれどもお待ちしていますとのことであった。一年以上も前の約束を覚えていて下さったのである。

 いよいよハンブルク大学行きの準備をすることになった。ホラー教授のいらっしゃる経済学部にするか、それともラルフ夫人の指導教授Professor Dr. R.Schneiderが研究科長をしておられる日本学研究科にお世話になるかと思案していた頃のことである。シュナイダー教授からお便りを戴き、それはハンブルク滞在中の住まいは大学のゲストハウスにし、部屋の広さや家賃はこれでいいかとの問い合わせの手紙であった。あちらでは、当然、日本学研究科に来るものとして準備していて下さったのである。

 大学では日本学研究科図書室の一室に机を与えられた。そこは日本語を流暢に話す日本留学経験者たちが、図書の受け入れや整理にやってくる部屋でもある。ドイツ語の不自由な私への配慮であろう、大変に居心地がよく、心安らぐ場所であった。彼や彼女たちから大学のこと、街のこと、催し物のことなどいろいろな情報を得ることができたし、Lubeckのクリスマス市(Weihnachtmarkt) 見物に一緒に出かけたり、ホームパーティに招待してくれるなどの心遣いを受けた。単身滞在の私には有り難いことであり、賜った細やかな配慮に、感謝しないではおられない。

 研究科の諸先生方にも大層お世話になったことは記すまでもない。10月上旬ミュヘン大学(Ludgwig-Maximilians-Universitat Munchen) で行われたドイツ語圏日本学学会第10回大会 (10.Deutschsprachiger Japanologentag)に出席した。2年から3年に1回開催されるためか、5日間にわたるこの大会には400人を超える日本研究者たちが集まり、報告者だけでも100人を上まわり、政治、宗教、歴史、文学、芸術、演劇、経営、言語、芸術/マンガ、文化/思想などの分科会会場で研究報告が行われた。報告は総じて若手研究者たちが中心で、日本研究者がドイツ語圏だけでもかくも大勢いるのかと驚かされ、また心強さを覚えた。学会出席を勧めて下さった30年近く日本語を教えておられる山守雄教授のところには、目や髪の色が様々な若手研究者たちが次々と挨拶に来る。聞けば教え子達とのこと。ハンブルク大学日本学研究科はドイツで教授席がはじめて置かれた研究科で、その席に就任したのは草創期の東京帝国大学で教鞭をとったあのカール・フローレンツ (Karl Florenz) である。ドイツにおける大学水準の日本学はハンブルク大学から始まり、現在でもドイツ語圏で日本学をリードしているのは、わがハンブルク大学である。

 また、ハンブルク大学との提携について国際交流担当副学長Professor Dr. W. Hartman にお話したところ快諾され、久世了副学長との間でその話が進んでいると聞いている。

 個人的には、ワイマール憲法時代に遡ることのできる「従業員代表制」(Betriebsrat) について実態調査を行うことができたのは大きな収穫であった。ドイツ企業3社、日系企業4社、労働組合4組織での聞き取り調査ができた。これには、日本学研究科を初めとするハンブルク大学、日本大使館、それに明治学院大学産業経済研究所と労働組合役員の教育講座を30年来共催しているIMF-JCからの支援を得た。感謝である。キリスト教研究所研究員であったラルフ夫人はこの聞き取り調査全てに参加し、特に、昨年12月20日にはめでたく賀川豊彦に関する博士論文の審査に合格した。このことを付け加えて、滞在記の結びとしたい。

(たむら ごう  所員・経済学部教授)


ジャンクとしての物語  新倉 俊一


 四年間の役職を終えて、気がついてみると本の上に埃がたまっている。サバティカルの日課はそれを拭うことであった。専門書ばかりでなく、ふだん手にすることができなかった小説などに目を通して、埃の下から自分の人生がよみがえってくるのを感じた。その一冊に、フィクションではないが、村上春樹編の『アンダーグラウンド』がある。これは二年前の三月二十日に起った地下鉄サリン事件について、被害者たちのインタビューを集めた記録だが、私にとってインタビューに劣らず感銘が深かったのは、編者の「あとがき」であった。この一年間の裁判の進行につれて、オウムの宗教がいかにちゃちなものであったかが明らかにされ、われわれの心の中では事件そのものも忘れられかけている。だが、これにたいして編者は、麻原の差し出した物語はたしかに「ジャンクとしての物語」だが、「こちら側」の私たちは「いったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう? 麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力をもつ物語を───」と、反問している。

 たまたま今年のイースターの時期に、アメリカのあるカルト集団が39名の集団自殺者を出した。報道によると、かれらはヘール=ボップ彗星の接近が自分たちを他界へ運ぶために迎えにきてくれたと信じて、一緒に薬物を飲んで死に就いたらしい。SFまがいのこの出来事はたしかに荒唐無稽な物語であるが、オウムの事件の本質を再考せざるをえない。「天国の門」と呼ばれるこの集団の成員たちは、みな現実の生活に絶望して、教祖の説く終末の「物語」を信じ、従容として死を迎えたらしい(ビデオが残っているという)。

 オウムの説いた世界終末戦争も、それ自体はノンセンスに近いが、日本の戦後社会が与えてくれない生の緊張を若者たちに味わせた。そうでなければ教育も才能もある多くの若者たちがこぞってオウムに入会するはずがない。村上春樹が指摘するように、われわれの社会がそれよりも勝った「物語」を提示できないかぎり、今後も第二、第三のカルト集団に若者が入信することはあとを絶たないだろう。今回の教訓は、既成の宗教集団が、たとえどんなにすぐれた「教義」を所有していたにしろ、それらの若者たちに今を生きるのに有効な、「物語」を欠いていた事態にあろう。私たちキリスト教主義の看板を掲げる大学も同罪である。イエスの時代にも、悩める人たちは学者・ファリサイびとたちに耳をかさなかった。

 新学期が始まってまもなく、私はシアトルの上空を飛んでケンタッキー州ルイヴィルまで校務で出かけた。1953年から85年まで、三十年間近く本学の宣教師であられた故ヴァンワイク先生の葬儀に参加するためだった。葬儀は郊外の閑静なカルヴィン長老派教会で行われた。司式の牧師は故人の愛誦句としてエペソ人への手紙第三章二十節以下の「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」を引用した。これこそはヴァンワイク先生が生涯を賭けて信じ、実践した「物語」であった。まだ膚寒い早春の午後、白いドグウッドの花が咲きはじめていた教会で執り行われたこの葬儀は、私にとっていつまでも忘れられないだろう。それは先生の最後の「石の説教」であった。

(にいくら としかず  所員・文学部教授)


マ ナ  橋本 茂


 最近、私は猫を飼い始めました(あるいは、猫と一緒に生活し始めました)。その名をマナと言います。私は小さいときからいろいろな動物を飼ってきました。小鳥では、めじろ、うぐいす、しじゅうがら、ひばり、すずめ、かなりや、いんこ等です。魚は、めだか、どじょう、ふな、ナマズ、こい、金魚(特にらんちゅう)などです。しかし、猫は初めてでした。ある日突然、娘が「はい、あげる」と、物のようにくれたのがこの猫でした。

 毛のフサフサしたとてもかわいい小猫(チンチラ)です。何の心の準備もなしに飼い始めたものですから、私たちも猫も大変でした。お風呂に入れるのはいいのですが、十分に乾かしてあげなかったために、風邪を引かし、病院に駆け込んだり、また、気が付いたら、体中、蚤でいっぱいとなり、それがジュウタンに落ち、私と下の娘が50ヶ所以上喰われ、そのかゆさに一か月以上悩まされたりしました。(なぜ妻と息子が蚤に喰われなかったのか不思議ですが)。すべてが初めてですから、ハラハラドキドキの連続でした。今では、そんなこともなくなりました。

 こんなに面倒を見ているのに、猫は呼んでも、少し耳をぴくと動かして、知らんぷりしています。かと思うと、ワープロで仕事をしていると、好奇心まるだしで目を輝かして、キーボードを叩く手にジャレ付いて邪魔します。電話をかけていると突然切れたので見たら、電話機のボタンの上に腰掛けてすましています。昼寝をしていると、ヤスリのような舌で私の広いおでこ(頭?)を舐めます。本当にやりたい放題の勝手な動物です。

 しかし、多くの場合、私が書斎に入ると、いつのまにか、1.5 メートル圏内に来て座ったり、寝転んだりして、私の行動をじっと眺めています。着かず離れずの関係を保って、猫は私たちをじっと見ています。猫を飼って初めて、夏目漱石が『我輩は猫である』を書いた動機が分かったような気がしました。

 ところで、猫以外のペットと言えば、それは犬です。この犬と猫ほど対照的なペットはいないと思います。ある牧師は犬と猫を比較して次のようなことを説教しています。(「春名牧師マンガ説法:犬に学ぶな、猫に学べ」『信徒の友』1994.12.)。

 犬は人間に本当に役に立ってい ます。忠犬ハチ公、買物犬、盲 導犬、警察犬、麻薬捜査犬、番 犬等。それと比べると、猫は何 の役にも立ちません。猫は何も しないでゴロ寝ばかりしていま す。かと思うと、襖に爪を立てたり、机からわざと物を落としたり、好奇心まるだしで、いたずらをします。にもかかわらず、猫はかわいがられています。なにもしないのに、ご主人様のフトンの中にもぐりこんできて、まるで子供のようにかわいがられています。それと比べ、忠実に働いても働いても、外の犬小屋で寝なければならないのは犬です。これは不公平です。それなのになお、猫がかわいがられるのはなぜでしょうか。

 スージー・ベッカー著(谷川俊太郎訳)『大事なことはみーんな猫に教わった』(飛鳥新社)という小さな絵本がそれに答えています。その訳者である詩人の谷川俊太郎さんが「訳者まえがき」でとてもおもしろいことを言っています。谷川さんは猫の身勝手さに手を焼き、悩まされながらも、それでも、その猫がかわいらしくて堪らないことを告白しながら、次のように述べています。

 「猫は人間以上に自分勝手だと いうことがよく分かります。私たちが猫から学ぶのは自分勝手に生きる方法です。自分勝手に生きて許されるにはどうすればいいのか、猫はそれを私たちに教えてくれます。簡単です。ただ純粋に無目的に自分勝手にしておればいいのです。権力や富や名誉や愛や正義を追求してはいけません。考えたり反省したりするのも禁物、過去も未来もなくただ一瞬一瞬をしたいようにする、それが秘訣です」。

 その著者ベッカーが猫から何を学んだかを紹介しましょう。

 「毎日おんなじものを着たって  大丈夫」

 「眠ることをバカにしてはいけない。伸びも」

 「少しは権威を示すこと」

 「ひとりで楽しむこと」

 「好奇心に富むこと」

 「みともないことなんかすぐ忘れて、過去にあんまりこだわらないこと」

 「呼ばれるたびに、行かなくてもいい」

 「恥ずかしがらずに見つめる」

 「寛容であれ──でもあまり言いなりになってもいけない」

 「踏まれたら怒れ、踏まれたことを忘れよ」

 「弱みを見せろ。しかし、食べ物をくれる手を噛みつくことを忘れぬこと」

 「毎日運動せよ」

 「愛情は態度で示せ」

 「自立を失わず人に頼るべし」

 「自分自身を楽しむべし」

 「そこにいるだけで、誰かをいい気持ちにできるようになるべし」

 先の春名牧師は説教でこの意味を敷衍して次のように言っています。

 「それにしても、私たちはあまりにも自分を殺して、他人に気を使って、役に立つ人間になろうと苦労しすぎているのではないでしょうか(それは犬のような行き方です。そのため、息苦しくなり、腹が立ってきて、最後には、ウーワンと吠えたくなる)。神様は私たちが欠点があるがままで、その人らしい行き方をし、人生を楽しんでほしいと思っていらっしゃるのではないでしょうか。・・・・自分の立派さ、完全さを打ち立てようと考えるのではなく、神様の愛と導きに人生の基盤をおいて、もう少し気楽に、猫に学びつつ生きてゆきましょう(なんでもいいニャーオと、ゆとりをおいて行くと、自分らしさが見えてきて、息しやすくなるのではないでしょうか」。

 この《マナ》との生活は2年間でしたが、《マナ》はそこにいるだけで、いつも私たちをとてもいい気持ちにしてくれました。しかし、去年の7月、《マナ》を白血病で失いました。それは、私の96年度の特別研究休暇中の最大の悲しい出来事でした。
(はしもと しげる  所員・社会学部教授)


はじめまして  宮田加久子


 昨年の春から明治学院大に勤務し始め、チャペルや賛美歌に何となく懐かしさと心地よさを感じながら1年を過ごした頃、はからずも同じ社会学部の濱野先生から「もう明治学院大学にも慣れたことでしょうから」とキリスト教研究所の所員へのお誘いを受けた。

 幼稚園のころから教会学校に通い、キリスト教主義の学校で長い年月を過ごしてきたものの、正直に言って戸惑いを隠せなかった。自分の研究(社会心理学)とキリスト教の関わりについては全くと言っていいほど考えてこなかったし、今や毎日曜日に教会へ出かける娘を見送ることの方が多くなっている私に、所員の資格があるのかと悩んでしまった。

 生活の中で聖書を読み祈ることで信仰を持ち続けてきたと自分では思っているものの、反面、礼拝を守りキリスト教と真剣に向き合っていつも生活をしているキリスト者と比較して、いい加減な自分にいつも後ろめたさを感じていた。自分の意志で手に入れた信仰とちがって、すでに環境として備わっていたため何となくいつの間にか自分の中にしみこんでいるような気がしているだけの信仰は本当の信仰ではないのではないかと、劣等感を感じることも多かった。

 でも、心のどこかでは、「幼いときからの信仰は柳の木のようなもの。樫の木のように強くたくましいものではないが、どんなに強い嵐が来て枝が揺れようとも決して倒れない」と中学校の先生に言っていただいた言葉をうれしく思って、いつまでも覚えている。

 そんな私が所員として加えていただき何ができるのか、不安と心配の気持ちでいっぱいである。「優等生」のキリスト者の所員の方々の中で、「劣等生」の私は、身の置き所がないような感じもする。しかしながら、キリスト教主義教育の中で悩む私のような生徒がたくさんいることを覚え、教員というより生徒の立場からキリスト教主義教育の在り方をみなさんとご一緒に考えて行くことができるかもしれないと思うようになった。

 こんな「劣等生」の所員だが、今後ともよろしくご指導いただきたくお願いするしだいである。

(みやた かくこ  所員・社会学部教授)


響き合いとしての響育  三川 栄二


 「母の日」を前に、二人の女子中学生が自殺し、若い女優の自殺も報道されていました。様々な理由があったでしょうが、残念でなりません。5月11日の主日礼拝は、「母の日」感謝礼拝として、教会学校の生徒たちに自分の母親と教会の婦人たちへの感謝を表す時を持ちました。その礼拝では「母の教えをおろそかにするな」(箴言6章20節)をテキストに、「母の教え」とは何かを一緒に考えました。私たちは多くのことを「母」から教えられてきました。言葉で教えられたこともあれば、無言のうちに背中を見て教えられたこともあります。しかし一番大事な「母の教え」とは、この母が自分を「産んでくれた事実」そのものではないかと。難産の末、産まれた子もいましょう。場合によっては自分の生命と引き換えになるのを覚悟しながら産むこともあります。(私の兄がそうでした。)そうして生きた母を知らずに育ったとしても、「母の教え」は厳然とした事実として残されます。「母」は自分の生命と引き換えにして自分を産んでくれたと、自分という人間をそこまで愛して、自分という存在をそのように肯定してくれたと。だから自分の生命を軽々しく扱ってはならないのです。自分の生命は自分のものではないからです。自分の好き勝手にしてはならないのです。「母」が自分の生命を賭けて、この地上に産み出してくれたかけがえのないものだからです。しかしその自分の生命は、「母」のものでもありません。私たちにこの素晴らしい「母」をくださった神のものです。

「母」がその生命を賭けて教えてくれたこと、それは私の生命は私自身のものでなく、神のものであり、おろそかにしたり好き勝手に扱ってはならないということだと、そんな主旨の話をしました。

 大学4年の時、教育大学生だった私は進路に悩んでいました。友人の多くは教員採用試験を受験して当然のように教師の道に進みました。学校教育とそこで教えられる教科が、児童にとってそれから先の人生において重要なものに違いないことは確かです。しかしそれは生きる力を持っていて、「生きる」ということを当たり前のように受け止めることが出来る、強い子には意味があるかもしれない、しかし「生きる」ということ自体に悩み、苦しみ、それを放棄しようとしている子にとって、どれだけの意味があるだろうか、「生きる」力を持たない弱い子にとっては、そもそも「生きる」ことを教える必要があるのではないか、当時の私はそう痛感し、同じ教師でも、教科教育ではなく、「生きる」ことを教える教師として、牧師となる道を選んだ、いや選ばされたのでした。以来15年、今でも「生きる」とは何かを自ら問い続けながら、人生の試練にぶちあたり思い悩む若者、真夜中にかかってくる自殺志望の電話、自分がどう生きたらよいか分からずに相談にくる青年、心の弱さや病を抱えながら闘っている者、そういった人々との対話の中で、自らも「生きる」ということを教えられ、学ばせられています。「教育とは、響き合うこと」、自分の人格の中にある生きることの響きを、相手の人格へと響かせ、共鳴させ、生きることの喜びや感動を「共響」しあっていくことだと信じています。そのことについて多少なりとも紹介するつもりで書き始めましたが、紙数が尽きてしまいました。これまでは「教会」という場を中心に実践してきた、「生きることの響育」を、学校教育という場で考え直し、理論的に発展し構築していくことが出来たらと願っております。2年間の短いお付き合いですが、どうぞよろしくお願いします。

(みかわ えいじ  キリスト教研究所研究員)


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