表紙メッセージ 千葉 茂美
かつてニーチェは、キリスト教の信者 に向かって、あなたたちは、キリストに よって、罪と不安と死から解放されたこ とを、話や行為にその喜びを表現してお らず、なぜそんな沈んだ顔をしているの か、と非難したことがあったが、私たち は主にある喜びと感謝とをいつも行ない のうちにあらわしているだろうか。そし てパウロも言う、「いつも喜んでいなさ い。絶えず祈りなさい。どんなことにも 感謝しなさい。これこそ、キリスト・イ エスにおいて、神があなたがたに望んで おられることです」(テサU、5:16-18)。
そしてまたマザー・テレサの祈りにあ るように、私たちも日々こう祈りつつ生 きたく思います。「主よ、お助けくださ い。私たちがどこにいても、あなたの香 りをただよわせますように。あなたの霊 といのちで、私の心を満たしてくださ い。私のいのちがことごとく、あなたの いのちの輝きとなりますように」。
(ちば しげみ 所員・一般教育部教授)
1997年11月26日 公開講演会要旨
トルストイの生涯・著作における平和と戦争
講師 P. C. ボリ 氏 (ボローニャ大学政治学部教授) 斉藤 栄一
レフ・トルストイはその急進平和主義を露土戦争以降明確にしたとされるが、1869年に完成された『戦争と平和』に彼の戦争批判はすでに明瞭にあらわれている。1924年の伊訳の序文でギンズブルクが述べているように、この作品は戦争と平和とについてのひとつの詩学の結晶であるが、そればかりではなく、トルストイは、登場人物がたどるそれぞれの人生において、戦争の世界から平和のそれへの移行を画然ととらえており、しかも、両者の理論上・倫理上の両立不可能性もきわめて明晰に描いている。重要なのは、戦争の世界から平和のそれへの移行が「現在」にたいする批判的吟味を内包していることだ。『戦争と平和』の重要な登場人物のすべてが「現在」の批判的吟味を伴なう決定的な移行体験を持つ。たとえばピエールはさまざまな体験をとおしてみづからの存在を単純なものとすることによってひとつの結論を得るが、それは宗教を再び生き生きと甦らせるようなものだった。ナターシャ、マリア、ニコライ・ロストフにおいてもまた然りである。
物事を見慣れぬ奇異なものとして提出する方法である異化の手法をとおして、我々が通常慣れ親しんでいるのとは違った遠い視点から人間の行動が眺められると、その行動には倫理的な視点が欠けているということが見えてくるが、これは子供や動物、すなわち『戦争と平和』にあってはマラーシャや狼や犬、とりわけ馬において見られる。その極めつけがプラトン・カラタエフの場合である。ピエールは、彼の言動や存在感に民衆の知恵の深さを見るが、じつは、その異化を可能にするものこそピエールやトルストイ自身と民衆との関係であった。
登場人物が最後に到達するのは、アンドレイの宇宙論的なものであれ、ピエールの現世的なものであれ、「幸福」であるが、ピエールが抱懐する素朴な生活の重要さという感覚の裏には、「幸福」のほかに、ある宗教的体験が核として存在する。
「生を愛することは神を愛すること」であり、現実をありのままに受け入れることであるが、しかしそれは、悪にたいする、すなわち戦争にたいする反抗をも含む。それはけっして、トルストイ自身が風刺的に扱っているフリーメーソン的ピエティズムのような理想主義的なものではない。
『戦争と平和』の登場人物たちは「移行」を通じて戦争を倫理的に非とするようになる。トルストイにとって、平和は、たんに戦争がない状態なのではなく、全体としてあること、満ちあふれていること、一なるものへの再統合であった。分裂としての戦争から統一の回復としての平和へと到ること、これがトルストイの願いであった。
トルストイがその平和主義の旗幟を鮮明にしたのはたしかに露土戦争以降だったかもしれないが、すべてはすでに『戦争と平和』のなかにあったのだ。すなわち、倫理的命令の根源となるような、人生を宗教的に受け入れる態度について、初期トルストイは後期トルストイがのちに語ったことを、すでにより力強く、より美しく語っているのである。
(さいとう えいいち 主任・一般教育部教授)
1997年12月11日 公開講演会要旨
エチオピア教会の宗教画と彫像−文字を知らない人びとへの信仰の伝達−
講師 ニール W.ソベイニア氏 (ホープ・カレッヂ教授、歴史学) 加山 久夫
ソベイニア先生というと、本学の教職員・学生の多くは、ホープ・カレッヂの国際交流の先生としてよくご存知であり、実際にお世話にもなってきました。しかし、先生がどのような専門分野の方であるのか、案外知られていないのではないでしょうか。
昨年12月に京都で開かれた国際アフリカ学会に出席されるとのことを伺いましたので、それに先立って、先生をお招きし、国際交流センターとの共催で、上記テーマによりご講演いただきました。先生は特にエチオピアの歴史や文化の研究者として、自らエチオピア語を使ってしばしば現地を訪ね、研究してこられたエチオピアの宗教芸術について、スライドをとおして興味深い話をして下さいました。
エチオピア人がキリスト教に入信したことはすでに新約聖書に伝えられているが、本格的に布教され、キリスト教が広がったのは4世紀以降。すでにその頃から、エチオピア教会独特の、正面がやや円みをおびた教会建築が定着しはじめ、その内側に壁画が制作された。それらはその後、文字を読めない人々のために信仰を伝えるのに大きく寄与してきた。他方、司祭や修道士たちは、聖書の写本に絵を挿入するとともに、盛んにイコンを作成した。大きいイコンは祝祭日の行進の先頭に掲げられ、小さいものはペンダントなどとして身につけられる。イコン制作は15世紀以降盛んになり、その用途も、旅行の際の魔よけ用など多目的化する。
しかし、16世紀以降、そして近代に至ってはますます、ヨーロッパの影響を受けるようになった。また、公教育が少しづつ普及するとともに、そこで教育を受けたイコン画家たちは徐々に伝統的な表現様式を変えてきた。伝統的な題材として、新約聖書に関わるもの、聖母マリヤ、エチオピア教会の聖人たちが主要なものであり、人物描写については、目と手(長い指)にアクセントが置かれてきた。画家たちはそれらを神のために描くのであり、ほとんどの場合署名することはなかった。しかし、これらが最近では徐々に変わってきたのである。
しかし、現代のエチオピア教会はこれらの外からの影響をうけつつ、これまでのようにただ伝統を守ろうとするのではなく、自らの手で新しい伝統を創造しようとしつつある。1500年の伝統の現代的表現をイコン画家たちは意欲的に追求しようとしているのである。
(かやま ひさお 所長・一般教育部教授)
古代キリスト教の生きた姿に触れて
−古代キリスト教とヘレニズム思潮プロジェクト主催公開ワークショップ報告−
水落 健治
去る12月13日、「古代キリスト教とヘレニズム思潮」プロジェクトの主催で、アメリカ、ノートルダム大学名誉教授Charles
Kannengiesser、及び、カナダ、コンコルディア大学教授Pamela Brightご夫妻をお招きして研究ワークショップが行われた。
カンネンギーサー教授は、フランス・ストラスブール大学で学位を取られ、長年パリ大学やアメリカのノートルダム大学で教鞭を取って来られた教父学の分野での世界的権威である。氏は、正統的三位一体論の確立者といわれるアタナシオスの著書の長年にわたる研究を通じて、アタナシオスが「父・子・聖霊の本質における同一性」----いわゆる「ホモ・ウーシオス」の説----を述べたとされる著作が偽作であることを論証し、これまでのアタナシオス研究を新たな段階に導いたことで名高く、オックスフォード大学で4年毎に開催される「国際教父学会」Inter-national
Conference of Patristic Studies では指導的役割を果たしておられる。
また、ブライト教授は、教父アウグスティヌスの主著のひとつである『キリスト教の教え』De doctrina christianaに決定的な影響を与えた異端ドナトゥス派の司祭ティコニウスTychoniusの聖書解釈論に関するはじめての本格的研究によって学位を取られ、現在、英語圏での教父研究に欠かせない存在として、夫君と共に活躍しておられる。
ワークショップでは、まず、カンネンギーサー教授の「オリゲネスとプロティノスにおける三一的思惟」
Triadic Thought in Origen and Plotinusという題の講義が2時間近く行われた。「三位一体」の教えは、キリスト教の中心的教義であるが、これは単にキリスト教に固有のものではなく、類似の思想は、紀元4〜6世紀の新プラトン派の思想家(プロクロスなど)にも現れている。そこで教授は、紀元2〜3世紀にアレクサンドリアで活躍したキリスト教思想家オリゲネスと、ほぼ同じ時代にアレクサンドリアで学んだ新プラトン派の思想家プロティノスを取り上げ、両者に共通の背景として「中期プラトン派」と呼ばれる思潮が存していたこと、そしてこの思潮の不完全な部分を完成しようとする二つの動きが、キリスト教における三位一体論と新プラトン派における三一論として結実して行ったことを、詳細かつ実証的に示された。
続くブライト教授の講義は、「アントニオスとオリゲネスにおける悪霊との闘い」The
Combat of the Demons in Antony and Origenと題されて行われた。紀元3〜4世紀、国教化し堕落して行くキリスト教に抗してエジプトの荒野に隠遁したとされるアントニオスは「修道制の開始者」として名高いが、このアントニオス研究においては、アタナシオスの『アントニオス伝』とアントニオスの『書簡』との内容的齟齬、という困難な問題があり、この問題が『書簡』の真作性を疑わせる、などの様々な論争を引き起こしてきた。そこで教授は、これまで偽作ではないかと言われてきたアントニオス『第七書簡』を取り上げ、そこにあらわれる「悪霊との闘い」のモチーフを検討し、それがオリゲネスの主著『原理論』に現れる同様の主題と----その主題と論理の運び方において----平行関係にあることを示され、同書簡の真作性を明らかにされた。
講義の後、その内容をめぐって様々な質疑応答が活発に交わされたが、講義とその後の質疑応答を通じて浮かび上がって来たのは、古代キリスト教の様々な教義や新プラトン派の思想がどのような状況の中で、どのような相互交渉の中で成立して行ったのか、についての生き生きとしたイメージである。筆者は、地道な文献学的作業を突き抜けて古代人の思想・生活の生の姿に迫ろうとする、学問のひとつの理想的あり方をここに垣間見た気がした。
出席は25人ほどで教父学の研究者が多かったが、ギリシア哲学の研究者などもおられ、また、中には筑波、岡山、仙台などから駆けつけて下さった方などもあり、さらに、同時期に国際学部主催で開催されていたワークショップに招聘されていたイタリア、ボローニャ大学ボリ教授の参加などもあって、会は盛況であった。学問的に、極めてレベルの高い集まりであったことは改めて述べるまでもないであろう。
(みずおち けんじ 所員・一般教育部教授)
1997年度キリスト教文化学会大会報告 久世 了
キリスト教文化学会は加盟校持ち回りで会長校が事務局を担当することになっており、1997年度から明治学院が久しぶりに中山学院長が会長、加山キリスト教研究所長が理事長という態勢で会長校となった。したがって、同年度の大会は学会事務局を担うわがキリ研にとって大きなイヴェントであった。
97年11月7、8両日の大会の会場は沖縄キリスト教短期大学。学会の長い歴史の中でも沖縄での大会は初めてのことで、会長校とあって明治学院からは、中山、加山両先生のほか、金井学院牧師、濱野宗教部長、岡村副手に私も加わっての大部隊の参加となった。お恥ずかしいことながら私自身にとってはこれが初めての沖縄行きであった。会場校を引き受けてくださった沖縄キリスト教短大は、那覇市からさほど遠くない東海岸に面した西原町にあり、小高い丘の上に建てられた沖縄の城(ぐすく)を連想させる印象的な校舎からは間近に青い海が望まれ、天候にも恵まれたためさわやかな風を受けて、思わず「もう東京には帰りたくなーい」と口走ってしまった。
大会のテーマは、われわれにとって切実な課題である「キリスト教大学の新たなる創造」。この問題に真摯に取り組んでおられるICUの並木浩一教授による主題講演は綿密な考証の上に立って、キリスト教大学と教会の異同を論じ、前者は「キリスト者と非キリスト者が共通に認めることができる原則」、すなわち客観的で公正な判断(広い視野を持った学問的姿勢)、相対主義ではなく、相対化する精神(超越者の感覚)などいくつかの原則を基盤として、あたかも教会がそうであるように一個の「誓約共同体」でなければならない、という「アナロジーとしての教会性」という構成原理を提示された。この斬新な並木理論は、私自身にとっても全面的に納得の行くものであり、こんごの議論に強固なより所を与えられた感を持つことができた。
第2の主題講演は沖縄キリスト教短大の金城重明元学長、原喜美現学長が同短大の生成発展の過程を軸に「沖縄におけるキリスト教教育の展望と課題」について語られたが、今日にいたる沖縄の苦難を教育面から浮き彫りにしたこの講演には胸の痛む思いであった。しかし、原学長が現在、沖縄の自然を生かしたユニークな新キャンパスの実現を目指しておられることも知らされ、この明るい夢の実現のために私たちも何とかお手伝いできれば、との願いも与えられたのであった。
大会2日目には、同短大のお世話で、問題の普天間基地見学や戦跡巡りなどもさせていただき、翌9日の聖日には旧知の大久保進牧師が牧しておられる教団石川教会の礼拝に並木、加山両先生とともに出席し、この日もまた多くの経験を得ることができた。こうして、私の初めての沖縄行きは、わずか3日ながら実に収穫の多い旅となった。その中で、加山所長と岡村副手が中心となって進められた大会準備に関して、他校の多くの方々から賞賛と感謝の言葉を聞くことができたのも、とくに嬉しい記憶となっている。
(くぜ さとる 所員・経済学部教授)
対話をもとめて 新倉 俊一
別れの歌をうたうように、と所長からいわれたが、口が凍ってしまって、思うようにうたうことができない。「人は同じ河の中に足を入れることはできない」と先人の言葉にもある。私が奉職しはじめた頃の学院と現在のそれとでは、建物もすっかり変わってしまい、内容もそれ以上に変わってしまった。村田院長と面接のために最初に学院の敷地に足を踏み入れたときは、チャペルと校舎が並んでいるのを見て、これこそ私にとって理想の姿だと感動した。40年間出席したチャペル・アワーは、少くとも少数の学生や同僚の先生方と対話が成立した場所であった。
大学とは大変ふしぎな場所で、研究者の集団でありながら、殆ど互いに学問上の事柄を話すひまがなく、会議の席でしか顔を合わせない。この砂の上の植物群のような生活で、数少ないオアシスがキリ研であった。以前はキリスト教学の専門集団の「閉された庭」であったので、私たちのような素人にはまるでラピュータ島のように空中に浮遊していたが、加山先生の主任時代から地上に降りてきて、キリスト教に興味をもつ者に広く門戸が開かれた。
とはいっても、文学を専攻している私にとっては、神学や社会科学の領域に暗く、なかなか共通のテーマを見つけることが困難であり、キリ研主催の研究会や公開講座に参加することを通じて、しだいに波長を合わせられるようになった。もしそういう機会に接しなかったら、同僚たちが何を考えていられるのかわからなかったろうし、私も自分のせまい井戸を掘り続けたかもしれない。このたびフェアウェル・レクチャーをすることになったが、文学のテーマは避けて「近代の人間観−ブレイクとユング」などという羊頭狗肉のそしりを受ける演題を掲げた。これも対話をもとめてのことである。どうかいろいろとご教示を賜わりたい。お会いできない方方には、この紙面を借りて、ながい間のご交誼を感謝します。どうもありがとうございました。
(にいくら としかず 所員・文学部教授)
ヘボンと共に−研究所での二年間を振り返って− 佐々木 晃
旧本館二階の薄暗い研究室での生活は短かった。五月には竣功成った本館九階北ウイングの明るい研究室へ移転。やがて眼下に見下ろす旧二号館が取り壊されて、新しい建物の建築が始まった。地下三十数メートルと言われている基礎杭打ちから建ちあがり、早くも翌年十二月には献堂式が行われた。瓦屋根に残照を映し、西の空を茜色に染め、一日を燃え尽くして太陽が今日も沈んで行く。過ぎ去った時間の中に自らの歩んだ足跡を振り返る時が来た。今日一日、その積み重ねの果ての過去二年間を。 私のヘボン研究は遅々として捗らず、研究発表も、研究論文も、どれ一つ光彩を放たず、不完全燃焼のまま道程を終わる。キリスト教研究所の所長加山久夫教授、ヘボンプロジェクトのチーフであった久世了副学長をはじめ研究所員の方々には甲斐性のない研究員であったとの印象をのみ残して。ヘボン館の向こう側にあるチャペル、記念館、創立百二十周年を記念して修復されたインブリー館の建ち並ぶ懐旧の一角は研究所の窓からは見えない。ヘボン館を境にしてこちら側に建てられた新二号館を眺めながらふと思う。創立以来一世紀以上を経た明治学院が新しい世紀を真近に控えて試みる「素朴で住宅的な佇まいの教育環境」と言う発想は、世紀末の時代に精神革命の必要性を問い掛けようとする心の表われなのだろうかと。
古い物を残し、既存の建築群との連続性を重視しながら、新しい物を創る新旧融合の美、それは同時に苦難と栄光の歴史に、不安と期待との未来を繋げて、更に歴史を積み重ねようとする心の表われなのかと。
ヘボン胸像の背後に未来の明治学院の歴史が展開しようとしている。開国当時、福音の種を蒔くために遥々大洋を超えて来日し、宣教の先駆者としてその偉業を称えられ、明治学院初代院長の座に就き、激しい時の流れに弄ばれながら、辛くも学院の象徴として語り伝えられてきた宣教医ヘボンを過去から呼び起こし、「親しみを求めて近寄り、その内奥に潜む人間らしさに触れたい。襟を正し、正面から仰ぎ見ていた自らの位置を変えて、先人達の拵えた理想のヘボン像の後ろに廻り、視点を変えて眺めてみよう。」意気込んで始めた研究の矢は未だ的を射ないうちに吹く風は冷たくなってきた。
誤解を恐れずに敢えて言うことが許されるならば、ヘボンプロジェクトの研究員としての身分ではあったが、ヘボン研究の指導者との邂逅の機会には恵まれなかった。共同研究する仲間もいなかった。「ヘボンの明治学院なのに何故」という疑問が時折鬱勃として湧いては胸中を過ぎった。「そのための研究員さんじゃないですか」図書館の運用係の青年がぽつりと一言口にした言葉は今でも忘れられない。では「孤独で刺激のない研究生活だったか」と問われれば、「否」と答えるのに躊躇はない。四十数年の教員生活の後に、思いがけず自由に研究出来る贅沢な時間が与えられたこと、残された僅かな人生の道程に学究の標柱を立てることが出来たことへの感謝の思いに満たされているからだ。一抹の寂寥感を抱いて去ろうとする今、敬愛する加山先生を軸とするキリスト教研究所への尽きない愛着と共に、研究所での二年間を振り返って、心に刻まれた事の数々を思い返してみる。キリスト教研究所開所三十周年、学院教会の誕生、"Hepburn Family"を合い言葉に祝われた学院創立百二十周年、加山キリ研所長の交代−歴史の節目を象徴することの多かった二年間、思えば一陣の風のように吹き去った時の流れであった。心地よい雰囲気の中で思う存分研究が出来るようにと、笑顔で励まし、細かく心を配って下さった副手の岡村さん、信仰に燃え、研究熱心な同僚の三川研究員、斎藤主任をはじめ所員の先生方や図書館の方々に、感謝の思いは尽きない。明治学院と、キリスト教研究所に主の恵みが豊かにあるように祈りつつ。
(ささき あきら キリスト教研究所研究員)