表紙メッセージ 成瀬 武史
「愛の貧乏脱出大作戦」というTV番組 は心を打つ。客足が遠のき、毎月つみ重 なる赤字で倒れかかっている店の主がそ の道の「達人」に紹介され、三日間ほど の特訓で立ち直る道中を見せるドキュメ ンタリーである。斜陽店の大黒柱が包丁 の使い方や接客のイロハから再教育され る。その過程で、漠然と技術やメニュー のまずさに問題があると感じていたのが、調理や来客をどんなものとして捉えるか、という心の態度を問い詰められていく。 自分と仕事の関わりについて、文字通り 汗と涙を流しつつ考え直さざるを得ない。この新たな展望のもとに自分を見つめ直 すところから、人生出直しの旅が始まる。
すいすいと旅を行くのもいい。しかし ときにつまずくのも意味がある。それま で見えなかったものが見えてくる。「私 はシオンにつまずきの石、妨げの岩を置 く。これを信じるものは失望することが ない。」多くの人生の同行者たちが避け て通ろうとするこのつまずきの石こそ、 絶えず建て直しを必要とする私の人生に は掛け替えのないいしずえである。
(なるせ たけし)
所長代行になって 小田島 太郎
田村剛研究所長が療養中であられるので、明年3月31日までに期間を限定して、私が代行を勤めさせて頂くことになりました。去る4月以来、困難な時期を乗り越えてこられた現執行部、田村所長、久山主任、岡村副手のチームワークの良さには、頭の下がる想いです。この路線を本年度末までそのままに引き継ぐのが、代行の任務だと理解していますので、執行部のなかに私も加えていただく形で、実務にあたりたいと思います。年度末に向けての時期とはいえ、去る10月21日開催の所員会議で予算案など、いくつかの重要案件はその大綱においてすでに決定をみていますので、大変に有難く思っています。
田村所長が、4月にふたたび第一線に復帰されることを楽しみにしつつ、この間、さらに充分な回復を果たされますよう、心から祈っております。
(おだしま たろう 所長代行、一般教育部教授)
公開講演会報告 インドネシア民主化の只中から
〜一日本人牧師のレポート〜 大西 晴樹
さる7月10日に、横浜校舎、白金校舎において、当研究所と国際平和研究所の共催によりインドネシア在住12年目の日本人宣教師木村公一氏による公開講演会が開かれた。周知のごとく、インドネシアでは5月21日、32年間も政権の座にあったスハルト大統領が学生や民衆の連日のデモによって、辞任を余儀なくされた事件の後ということで、講演会に参加した学生や教員、市民から鋭い質問が寄せられ、じつに時宜を得た企画であった。
さて、講師の木村氏だが、1947年生まれの戦後世代であり、日本バプテスト連盟宣教師として1986年家族と一緒にインドネシアに赴任し、セマランのバプテスト神学校で教鞭を執ってこられた。昨年任期終了したものの、現在なおインドネシアにとどまり、中部ジャワのサラティガ神学校で教えている現役の神学校教師である。その間、インドネシアの神学模様を紹介した「インドネシアの教会の宣教と神学」を『福音と世界』誌に連載するかたわら、インドネシアにおける「従軍慰安婦」の証言の発掘にも従事してきた。
講演の内容は、神学的というよりは、インドネシアの現状に人権の視点から政治経済学的にアプローチしたもので、政変の理由がどこにあるのかを明確に示唆するものであった。木村氏は、今回の危機の原因を、経済のグローバライゼーションのなかで、インドネシア固有の「スハルト・ファミリー企業」「国軍資本」「華人資本」による情報独占・人権抑圧システムが機能しなくなった点に求める。裏を返していえば、経済援助大国日本との癒着構造のなかで醸成されてきたインドネシア経済の諸特徴、すなわち「ネポティズム(縁故主義)」、「軍人財閥」、「賄賂・腐敗の横行」、「労働者・農民抑圧の資本蓄積」などが、近年日本に変わって経済進出のトップを占めるようになったアメリカの企業行動(いわゆる「グローバル・スタンダード」)との不一致を引き起こし、アメリカ資本とIMFはこのような体質を温存するスハルト政権を容赦なく見限ったということなのである。
他方、今回の政変劇の主役となった学生運動はどうかといえば、学生運動が権力抗争に利用されてきたこれまでの伝統を払拭し、人権思想・民主主義思想を打ち出している点にその特徴がある。理由として第一に、学生運動が非暴力路線を貫き、アラン・ライス氏というすぐれた指導者に恵まれたこと、第二に、学生運動がエリート層の運動にとどまらずに、農民や都市下層の人々の声に耳を貸そうとしていることである。これらの新しい方向は、1980年代後半にインドネシアの教育に導入された「ディベイト教育」の成果でないかと指摘している。
木村氏は最後に、アジアにおけるナショナリズムはこれまでの反帝国主義・反植民地主義から脱し、第二の段階に入ったことを主張した。すなわち、経済発展のために民富の蓄積を犠牲にしてきた開発独裁から、市場経済に適合的な民富の形成と女性の解放を追求する思想がアジア諸国において求められているのである。この問いは、「汚職・なれ合い・縁故」でもって日本とインドネシア関係を成立させてきた私たち日本人の姿をも問うものなのである。
(おおにし はるき 所員、経済学部教授)
ウルワのハンカチ 花田 宇秋
大関武蔵丸の後援会の一つに鹿児島県人からなるものがあって、会設立の起点は大関が郷土の英雄大西郷のそっくりさんにあるという。鹿児島県人の郷土愛には今更ながら感心するばかりである。
しかし、南洲翁の写真が発見され、それが従来の西郷さんと全く異なるご面相だったら武蔵丸鹿児島後援会の運命や如何に、気になるところである。エフタル民族のインド・アーリア系説を説かれた故榎一雄博士は、出土した一葉のエフタル人画像がトルコ系の顔立だったことに衝撃をうけられ、その研究成果を永く世に問われなかった。百聞一見に如かずとはよく言ったものである。
閑話休題。ところで、イエス様はどのような顔立だったのだろう。「ヴェロニカのハンカチ」はともかく、このことに関する信頼に足る文献資料は残念ながらないと聞く。「残念ながら」とは歴史学を専攻する私の嘆息であって、他の人々にとっては必ずしもそうではないかも知れない。芸術家にとっては、むしろ文献資料の欠如は正に天の配剤、このことが古今の大芸術家をして数多のイエス像を輩出せしめた最大の理由であろう。黒いイエス、白いイエス、幼いイエス、老けたイエス、怒のイエス、悲しむイエス、苦悶するイエス ──など、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロからルオーに到るまで、天才芸術家たちの作品がそれを物語っている。
しかし、写真は不可能としてもイエスの容貌を具体的に記した絵画・文献資料が発見されたらどうだろう。これまでの多くのイエス像は、その作者の、あるいはかれの生きた時空のキリスト信仰の証としての、あるいは宗教芸術としての価値は失わないかも知れないが、何か迫力を欠いたものになることも確かである。事実はそれほど重いものだ。
さて、七世紀のこと、あの世でイエスに会った人がいた。その人の名はイスラムの預言者ムハンマド。かれがある夜天使ガブリエルの先導でメッカのカーバ神殿から天馬ブラークに跨ってエルサレムに飛来した。いわゆるムハンマド唯一の奇跡体験“夜の旅”(イスラー)である。次いでかれは、ソロモンの神殿の廃趾の岩から天に向かって延びる光の階段を昇って天界に至り各天界で先行する諸預言者に謁し、更に天国に入って善男善女に会った。そして遂に宇宙木に到達してそこで神の声を聞いた。その後、天国・天界を経て階段を降り、その夜のうちにメッカに舞い戻った。
以上がかれの天界飛翔体験(ミーラージ)の粗筋である。諸預言者についてムハンマドは次のように語っている。「アブラハムが自分に一番よく似ていた。モーセは赤ら顔で長身痩躯、しかも鉤鼻だった。マリヤの子イエスは色白、中肉中背で髪はまっすぐ、顔はそばかすだらけだった。まるで今しがた風呂からあがったような容貌をしていた。かれの髪は濡れているように見えたが水はついていないのだ。汝らの中ではウルワ・ブン・マスウードが一番かれに似ている。」〔イブン・イスハーク(西暦767年没)著『預言者伝』〕
ムハンマドのような三界を旅した超人の語ることだから、案外このイエス像は事実なのかも。そこで一番よく似ているといわれたウルワなる人物について調べた。しかし、残念ながらウルワの経歴以外は史料は黙して語らず、「ウルワのハンカチ」中の像を鮮明にすることはできなかった。尤もキリスト教からすれば、『預言者伝』は『外典・偽典』の外のものであるから問題外の外であろう。ちなみに、ムハンマドのこのミーラージはメッカ時代のことであり、ウルワ・ブン・マスウードがムスリムになったのはメディナ時代の末期、従ってこの話もまゆつばもの、後世の産物か。そうであれば、どのようなイスラムの思想がイエスの顔に反映されているのかの考究が私の任務になるが、横着者故、未だに重い腰を据えたままである。
(はなだ なりあき 所員、一般教育部教授)
ウルムの聖堂にて 辻 泰一郎
今年の夏、私は久しぶりにドイツへ出かけ、レーゲンスブルクの学会に顔を出し久しぶりに恩師や知人達と旧交を温めることができたが、滞在中今まで行く機会のなかった所も訪れることができた。ドナウ河に面した古い帝国自由都市ウルムは今回是非とも行きたかった所で、特に壮大な大聖堂を見たかった。ゴシック様式の高い尖頭からの眺めも素晴らしかったが、聖堂内部の壮麗さ、大きさも圧巻だった。ひんやりしてほの暗い聖堂の一隅に、一冊の部厚いノートが広げられており、そこには大勢の人々の祈りの言葉が書き込まれていた。何げなく読んでいる中で簡潔だが印象深い一文が目に止った。それは、"Lieber
Herr, zeigen Sie mir bitte den richtigen Weg."とだけあった。
生きる中で私達は皆、いつも右か左かの選択を迫られ、判断に悩み、「正しい道」を探し求める。私達は自分の未来について何も知らない。しかし祈ることを通して、神から恵みと力、励ましを乞い、今までの自分と別れ、新たな自分を得る。祈りは未来に通じている。
ドイツではそのあとも幾つかの教会を訪れる機会を持ったが、祈りながら私は自分にとっての「正しい道」とは何かを自問していた。そしてそれは今も続いている。
(つじ たいいちろう 所員、法学部教授)
日本保育学会研究奨励賞を受賞して 福元 真由美
1998年5月23、24日に開催された日本保育学会第51回大会におきまして、私の口頭発表「協同組合による保育の思想と実践──志賀志那人の北市民館保育組合を手がかりに」に、学会より研究奨励賞をいただきました。この賞は、毎年、1、2名の若手研究者に贈られるもので、思いもかけない受賞に、とてもうれしく思いました。
志賀志那人(1892−1938年)は、1921年に大阪市の北市民館初代館長に就任し、1925年に同館で保育組合を組織した人物です。当時、天神橋筋にある市民館の北側には、南の釜ヶ崎にならぶ北の長柄という、大阪の代表的なスラムが広がっていました。この地でのセツルメントに、協同組合を組織していく方法をとりいれた志賀は、親たちを組合員とし、子育ての協同化をはかる目的で保育組合を設立しています。
北市民館保育組合の特徴は、(1)家族における子育ての私事化を乗りこえようとする問題認識を基盤にした点、(2)国家や経済システムの官僚制原理を制御し変革する意識を、協同組合の組織により準備した点、(3)親たちによる自由な集団の形成において、相互的な人的結合の可能性を追求した点、の3点であげることができます。これらの特徴は、これまでの保育史で言及されてきた幼児施設の2つの系譜、すなわち、文部省管轄の幼稚園、厚生省管轄の保育所の、いずれにもみられないものです。そこで、志賀による保育組合の設立を、保育の新たな中間集団を生みだした、幼児教育における第3の系譜の誕生と位置づけることはできないかと考えています。
キリスト教研究所のプロジェクトでとりあげる賀川豊彦も、1928年、東京の本所区(現墨田区)で光の園保育組合を設立しています。私の場合、賀川の保育組合の研究から、志賀の保育組合にいきあたった経緯があります。志賀が、市民館長として、保育を目的とする官民連携のあり方を提示したのに対し、賀川は、本所基督教産業青年会の宗教的基盤のうえに、保育事業を展開しました。今後は、この両者の保育組合を比較検討しながら、研究を進めていきたいと思います。
(ふくもと まゆみ キリスト教研究所研究員)
A Neglected Missionary Resource for Understanding Religion in Post-War
Japan
Richard F. Young
On a visit to my daughters at the University of Oregon (Eugene)
in 1997, I took time out to explore the Special Collections in the archives
of the university's Knight Library. My purpose was to take a quick look
at the papers of a China missionary, which turned out, for my purposes,
to be somewhat disappointing. Much to my surprise, however, the Special
Collections contains another set of papers---massive in size---that will
prove, if properly exploited, to be of substantial value to anyone interested
in post-war Japanese religion insofar as the Occupation and its policies
are concerned.
I refer to the papers of William P. Woodard (1869-1974), a long-serving
missionary in Japan and Korea in the prewar period who returned in the
uniform of a naval officer immediately after the war ended. As an "expert"
on Japanese religion and culture, Woodard was assigned to the Religious
Affairs Section of the Allied Command. As long as the Occupation lasted,
Woodard was intimately involved in the program of religious reform implemented
in that era, the effects of which, as we all know, were indeed far reaching.
What emerges from this collection is a highly-detailed insider's view of
the processes by which religion and the state were placed in separate domains,
the Yasukuni Shrine (and others) demilitarized, and the Religious Juridical
Persons Law (Shukyo-hojin-ho) enacted.
Although the Woodard collection was much too massive for me to peruse in its entirety in 1997 (and on a subsequent visit), its diversity and depth are impressive. Besides the meticulously recorded official proceedings of the Religious Affairs Section, one finds Woodard's notes on informal discussions with Shinto priests, Buddhist prelates, Christian clergy, leaders of the New Religions, and a host a secular scholars on Japanese religion. Much of the official documentation in the collection was utilized by Woodard for his work of 1972, The Allied Occupation of Japan, 1945-1952, and Japanese Religions (Leiden: E.J. Brill). This was a magisterial work; without it our knowledge of the dynamics of policy-making in the Religious Affairs Section would indeed be much poorer. In it, however, Woodard's perspective is articulated with all the "scientific" objectivity that a scholar of his caliber could muster. The private papers in the collection show us another side, the personal side---the doubts, uncertainties, principles, and values---that informed his own views as well as those of others, inside and outside the military administration. One sees shrine priests, for example, digging in their heels over the loss of state patronage; Buddhist prelates scorning equal recognition of the New Religions as religions; and much more besides. There is, it seems to me, an untold dimension of the story of post-war Japanese religion in this collection.
On top of everything just described, there are Woodard's diaries, meticulously
kept from the time of his arrival in Japan as a missionary and his return
as a naval officer. What was the process---experiential, psychological,
and spiritual---that lead to this transformation? And how did it influence
Occupation policies? With the Woodard material, one might go far in finding
the answers or at least in formulating the right questions. Along the way,
one finds intriguing stories and anecdotes, including one about a prestigious
Japanese Christian who swore in 1941, when Woodard was repatriated, that
he would kill the missionary if he ever returned to Japan. Happily, we
find them reconciled when they encounter each other after the war. All
in all, the Woodard collection seems too good to ignore.
(リチャード F.ヤング 所員・国際学部教授)
<『あんげろす』トップに戻る> <Memuに戻る>