表紙メッセージ 柴田 有
中世ヨーロッパの自治都市は、欧米の知識人にとって、今日もなお郷愁を誘う歴史の情景である。『文明論之概略』では
福沢も自由都市(フリ・シチ)に触れ、これを評価している。当時のギルドは、商人や職人の同業組合であると同時に、
宗教的な同志団体でもあって、市民の間に自治と相互扶助の生活を生み出す力となった。たとえば生産は伝統的な製品に限られ、新発明によって一部の人間が多大な収入を得たり逆に没落したり、といったことを防止する協定が存在したのである。また女性も親方になれた。だからこれは単なる都市だったのではなく、都市共同体と呼ぶべきものであった。しかしまたこのような都市を舞台にして、 「商業ルネッサンス」と呼ばれる初期資本主義の芽生えがあったと、経済史家は言う。するとどうなのか。資本主義の精神と相互扶助の精神、水と油のような二つのものが何とか調和を保っていた、そこに自治都市の文化を認めたいのだが、どうであろうか。
しばた ゆう(キリスト教文化論)
ご用のある故に 田村剛
『あんげろす』(21号)への原稿依頼を戴き嬉しく思います。19号に病状報告をさせて頂いたので、その後の経過や所感などを記させて頂きます。
10月上旬、それ以降の治療を湘南鎌倉総合病院に託すことにして、七沢リハビリテーション病院を退院し、我が家に戻りました。約6ヶ月ぶりの帰宅でもあり、近隣の風景がとても新鮮に思えました。在外研究に出かけるなどして、これくらいの期間家を空けることはそう珍しいことではないのですが、今回の感慨はまた格別でした。退院に当たって、直ぐに職場復帰することは無理との医師の判断もあり、これ以上キリ研所長としての任を続けることは所員の皆様にはもとより、大学にもご迷惑をおかけすることになるので、所長を辞任させて頂きたいとの考えを久山主任に申し出ましたところ、複数の所員の先生方ともご相談下さって、小田島太郎所員教授に所長代行をお願いすることが最善の途であろうとの助言を戴きました。勿論、そのような途は結論として私に伝えられたのではなく、それに至るまでには、久山主任は電話や病室まで出向いて下さってご自身のお考えも含めて所員の先生方のお考えを聞かせて下さいました。そのような皆様のご配慮に感謝しつつ所長の辞任願いを文書にして提出させて頂きました。
病に倒れ所長として何一つお役に立たないままに辞任を申し出たことは残念であり、誠に申し訳なく思っております。また、現在、久山主任、小田島所長代行ともに体調を崩しておられるのは、私が加した激務に関係がないわけではなく、お詫びのしようもありません。幾度もお訪ね下さった久山主任と語り合った夢としては、キリ研を大学教職員はもとより学生たちが出入りし易い研究所とすることでした。そのために、定期的にコーヒー・アワーを設けて、どなたかに発題をお願いして話し合いのきっかけを提供していただいてはとか、キリ研の活動内容を学内外に紹介するホーム・ページを開設してはなどがあります。病室には、岡村副手の手を経てキリ研関連の書類が随時届き、入院中でありながらもキリ研の活動に参加しているのだという臨場感(?)を味あうことができました。
転院した病院の医師から、よくここまで回復しましたねと言われ感謝致しております。このような恵みを個人的な占有物としてはならず、一人でも多くの方が私のように豊かな恵みにあずかれるようにと祈らないではおれません。麻痺による左半身不随という後遺症が残っておりますが、このようにして生かされますのも果たすべきご用があるからだということを信じ、これからの人生を歩ませて頂きたいものと願っております。
主に在って。
(たむら ごう 所長・経済学部教授)
フルベッキ召天100年記念講演会報告 中山 弘正
記念館に事務局を置く「明治学院歴史資料館」がスタートして2年。こことキリスト教研究所の主催で、1998年11月21日(土)「フルベッキ没後100年記念講演会」が開催された。資料館館長・阿満利磨氏の挨拶の後、先ず、大橋昭夫氏(静岡で弁護士、『明治維新とあるお雇い外国人──フルベッキの生涯』の著者)「フルベッキと近代日本」があり、フルベッキの生家、モラヴィアン兄弟団の学校での教育、オランダ改革派の影響から始まり、アメリカでの青年時代が詳しく語られた。オーバーン神学校への入学とS.R.ブラウンとの出会いに至る職歴も興味深い。次いで「フルベッキの日本行き」のこととして日米修好通商条約(1858年)などが話され、「長崎における教育」が済美館(長崎洋学所)での英語教育、致遠館での大隈重信、副島種臣ら「きらびやかな教え子たち」との出会いとその教育内容に移った。幕末・明治の日本からの留学生派遣におけるフルベッキの功績と明治新政府下での教育面での働き(開成学校、大学開校等)と、さらに岩倉使節団をめぐる彼の働きが明らかにされた。(この点、私自身も、例えばキリシタン禁制高札撤去に関してのフルベッキの貢献を改めて認識した次第である。『フルベッキ書簡集』も参照)
大橋氏は弁護士であられることで特に法律面に明るい方であることは当然であるが、「日本法制におけるフルベッキの貢献」が強調されたことは当然であろう。フランス刑法等の翻訳、国憲第1次草案への関与の他、大橋氏は国立公文書館等に残存するフルベッキの業績、そして、ドイツ連邦及び各国刑法比較、コードナポレオン附録目次、アメリカ合衆国特許法、アメリカ合衆国著作権法、フランス森林法、等々にも指摘された。
最後の項目として「宣教師としてのフルベッキ」が立てられていたが、時間の関係もありほとんど省略されざるを得なかったが、「日本の実状にあわせた伝道」「神とともに歩むが走らない人」といった表現がフルベッキ師の性格を示しているように思われた。
大橋氏の講演はフルベッキについてかなり全面的なもので、かつ密度も濃いものであった。
次いで、山本季司氏「フルベッキと使命観」の講演があった。山本氏は、長年三井造船にお勤めになった方だが、三井の団琢磨とMITのことからフルベッキに関心をもたれた方で、私に1998年がフルベッキ召天100年であることを教えて下さった方である。
山本氏は、現在の日本の状況が、外圧のこと、財務困窮のこと、政治の貧困などの点で幕末のそれと酷似していることを先ず指摘され、フルベッキはそうした閉塞状況を突破しようとする当時の下級武士や民間人に「光を与え、目標を与えた」のではないか、と指摘された。
他の宣教師にも或る程度共通であったが、フルベッキ師は若く(20歳台から)、人格徳性に優れ、語学力に恵まれ、強い使命観をもっていた。山本氏は、この講演ではその使命観を強調され、私ども教育の世界に居る者に、幕末的状況下の今の若者に光を与え目標を与える教育(改革)をなすことを強く迫られたといえよう。
会は約40名の参加であったが、W. E. GriffisのVerbeck of Japan(1900)を翻訳中の佐々木晃氏をはじめ、宣教師についての研究者もかなり参加しておられ、大変有益な集まりとなった。事務局の石井さん、岡村さんにも深く感謝したい。
(なかやま ひろまさ 所員・経済学部教授)
インターネットと宗教 宮田加久子
昨年末の「インターネット青酸カリ自殺事件」以来、インターネットが麻薬や銃から自殺情報まで何でも手に入る無法地帯のような印象を受けている人もいるのではないだろうか。
インターネットはもともと軍事用として開発され、研究用を経て、民間に解放されたコンピュータ・ネットワークであり、自宅や職場のパソコンを電話回線等でつなぐことで、どこにいてもいつでも電子メールが交換できたり、電子掲示板やニュースグループ、チャット、メーリングリストに匿名で意見を書き込み議論したり、ホームページに自分の写真や意見等を掲載することができる。このように、どこからでも誰でもが不特定多数の人々との間でいつでも双方向コミュニケーションができる点がインターネットの特徴であり、インターネットを通じて、今までは得にくい情報を獲得したり、不特定多数の人々に対して自己呈示をしたり、従来の地縁・血縁・職場縁を越えた新しい人々と対人関係を形成し、お互いに情報交換することでサポートしあうことができるようになったのである。
このインターネットと宗教の結びつきを私たちにはっきりと見せつけたのが、1997年に集団自殺をした米国カルト集団ヘブンズ・ゲートであろう。彼らはホームページを作成する会社を運営し、かつそれを足がかりにして勧誘活動を行っていた形跡があったという(オウム真理教も同じような行動をしている)。また、島薗進によれば、神秘的な体験を通じた癒しや自己変容の強調を特徴とし、新たな「霊性」の覚醒が新たな文明の創造に結びつくような緩やかな枠組みの「新霊性運動」が世界共通に見られると言うが、インターネットではカルト集団だけではなく、これらの運動に関連するホームページも多く見られる。
もちろん、インターネットがわけの分からない危険な新しい宗教運動を起こしていると短絡的に言うわけではない。しかしながら、カルト集団やこれらの宗教運動にとって、インターネットは魅力的なメディアであることは間違いない。
第一に、ホームページを見る場合、利用者はホームページのある場所を調べるか、リンクをたどっていくという「自分で探す」と言う主体的行為が必要になる。したがって、もともとホームページの内容に興味がある人がホームページを見る傾向が高く、興味がない人に比べて説得されやすい。たとえば、あるカルト集団を全く信じていなかった人が偶然ホームページを見たから改宗するわけではないが、もともと関心を持っている人が主体的に情報獲得する場合には、マインド・コントロールを受けるようになるきっかけを作る効果はある。
第二に、インターネットでは信じる者同士の共同体を現実のものとすることができる。たとえば、今までは社会に埋もれていて見つけだしにくかった自分と同じ神秘体験をした人やそれを信じる人がインターネット上で集まることで、リアリティを持つようになり、信じる気持ちを強めることになる。
では、これらのカルト集団や新霊性運動に対抗するためには、何ができるのだろうか。脱会信者や弁護士、さらには宗教団体などの反カルト組織が啓蒙活動やカウンセリングのために開設しているホームページにアクセスするのも一つの方法であろう。だが、最も重要なことは、インターネット利用者が、「誰がどのような意図で発している情報なのか」、「信じるに足るものなのか」を判断をするリテラシーを身につけることである。そして、学校には、単に学校でインターネットに接続できるようになることではなく、こういったリテラシーを育てる教育こそが求められるのではないだろうか。
(みやた かくこ 所員、社会学部教授)
赤煉瓦の記念館を通り過ぎながら 三川 栄二
二年間、明治学院の由緒ある赤煉瓦の記念館の横を通り過ぎながら、キリスト教主義教育について、特にその本質である人格主義教育について思いを馳せる時を与えられて、感謝でした。この2年間、特にエーミル・ブルンナーの人格主義神学を手がかりに、その問題に取り組ませていただきましたが、それとは別に、研究所主催による読書会では、C・S・ルイスについて、また明治学院人物列伝研究会では、明治学院神学部を卒業し、留学の後に神学部教授として活躍した、桑田秀延を取り上げて、学ぶ機会が与えられ、本当に感謝でした。
任期を終えようとしている今、ことさら記念館の赤煉瓦の建物を強調するのは、桑田教授について学んだ機縁もありますが、かつてそこを校舎として置かれていた、明治学院神学部に対する特別な思い入れがあるからです。「明治学院創立の趣旨からみても、学院教育の中心は神学教育であり、神学部であるべき筈であった」と「明治学院百年史」(p.138)にある通り、 様々な歴史的事情と必然性があったとはいえ、明治学院神学部が植村正久による東京神学社と合併し、その歴史の幕を引いたのは、やはり残念なことではなかったかと思わされています。明治10年の東京一致神学校開設以来、アメリカ長老教会(北長老教会)、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の伝統をくむ明治学院神学部は、明治35年には長崎にあった東山学院神学部と合併しますが、翌年には教科書問題に端を発して植村が明治学院を辞職し、明治37年に東京神学社を創立して、以後は日本基督教会に二つの神学校が並立することになります。しかしその問題で植村と対立したフルトン教授と神学部経営に協力していた米国南長老教会も、明治学院との関係を絶って神学部から手を引き、明治40年に神戸神学校を開校します。神学部はその後、昭和5年に東京神学社と合併し、日本神学校として新しい出発をすることになります。
私は、賀川豊彦らも学んだ神戸神学校と、それを引き継いだ中央神学校の伝統をくむ、神戸改革派神学校に学び、その薫陶を受けた者として、また旧日本基督教会の流れを汲む教会の一つ(日本基督改革派教会)に所属する者として、深い感慨をもって、この明治学院神学部の変遷を見つめる者です。愚問ですが、もし今でも明治学院に神学部があったら、少なくともその精神を嗣いだキリスト教学科のようなものがあったら、明治学院は今日どうであっただろうかと、赤煉瓦の記念館の横を通り過ぎる度に、そんな思いに馳せます。かつて大学に持ち上がったキリスト教学科新設問題から、このキリスト教研究所が開設されたと小野忠信教授が回顧し、このように「新しいキリスト教研究所に生まれ変わることができたことは、キリスト教主義明治学院大学にとって、まことに有意義かつ幸いなことである」と述べておられますが(紀要21号)、そのような伝統と精神の中で、キリスト教研究所がこれからも活動を続けて行かれることを心から願ってやみません。
(みかわ えいじ キリスト教研究所研究員)
出会いの場として 岡村 有希子
「一人職場で寂しくないですか」。「キリ研はあんまり人も来なくて退屈でしょう」。そんな質問をしばしば受けた。だが、私にとってキリスト教研究所での日々は、それほど平凡でつまらないものでもなかった。3年間、ここで起こったほとんど全ての出来事を見つめてきた。生意気を言うようだが、研究所として改善すべき問題は多くあると思っている。だが同時に、この研究所に連なり、愛している人たちが確かにいるということも、伝えたいと思う。
所員の先生方、研究員の方々との交わりは、知的刺激に満ちたものであったと同時に、それぞれのお人柄に触れ、豊かな栄養をいただく贅沢な時間であった。これまで手にとることの少なかった本とも親しくなった。日常の出来事や社会のさまざまな問題について、キリスト教の立場から新たな視座が与えられた。キリスト教文化学会の仕事を通して、他のキリスト教主義学校の多くの先生方、職員の方々とも知り合った。それぞれの地で、同じ願いをもって働いている人たちの存在を知ったことは励ましだった。そして、この研究所での出会いを通して、教会や神との新しい出会いに導かれた。
今、慣れ親しんだ職場を離れ、新しい生活を始めようとしている。ここで出会ったお一人おひとりへの尽きない感謝を、これからの歩みの中で表現していきたいと思っている。
ここに一人でも多くの方が足を運んでくださること、キリスト教研究所が開かれた出会いの場として存在することを願ってやまない。
(おかむら ゆきこ キリスト教研究所副手)
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