聖書の翻訳 松本 曜
世界の諸言語への聖書の翻訳は、世界へのキリスト教の拡大とともに進められてきた。18世紀末までに聖書の翻訳を持っていた68の言語のうち、50はヨーロッパの言語であった。ところが、19-20世紀には、世界宣教の波に乗って、アフリカ、アジアの諸言語へと聖書の翻訳が進んだ。世界の諸言語と聖書翻訳に関するデータを載せたEthn-logue12号によれば、1992年の時点で聖書の翻訳を持つ言語の数は1964である。
といっても、すべての言語に翻訳がなされたとはとうてい言えない。Ethnologueは世界の言語数を6528としている。これにしたがえば、翻訳を持つ言語は全体の30%ということになる。まだ全訳が出されていない言語の多くは少数民族の言語であるが、そのような言語にも聖書を翻訳しようと、現在も、1000以上の言語で作業が進んでいる。
1860-80年代にヘボン博士達が行った作業は、今も世界各地で続いている。
所長挨拶 橋本 茂
前所長の田村先生も、所長代行の小田島先生も、健康にすぐれず、結局お二人に代わって、私が1年間だけ所長としてお手伝いすることになりました。他の役職にある私にとっては、心身共に,しんどい職務であるというのが、正直な気持ちです。ただ、うれしいことは、お二人の先生の健康が回復しつつあるということです。
12年ほど前に、私はキリスト教研究所の活動に深くコミットしたことがあります。その時の所長は経済学部の工藤英一先生で、私は主任でした。その時のうれしい思い出は、アウシュヴィッツ博物館の副館長であったシマンスキー先生をお招きして、講演をしていただき、その講演を収録した本(『現代世界に生きるキリスト教』)を出版したことです。悲しい思い出は、工藤先生が所長在任中に病にたおられ、帰らぬ人となったことです。
どうも、私のキリ研との関わりと、所員の先生方の健康と関係あるようです。健康に気をつけて、職務に励むつもりでので、みなさまのご協力をお願いします。
副手の退職に伴い、その後任人事をめぐる学長との交渉が長引き、後任の教学事務アシスタントの山岸さんをお迎えしたのが5月でした。5月すぎてから、新所長の私、新主任の水落先生、そして新アシスタント山岸さんの3人がやっとそろい、99年度の本格的な研究所の活動が始まったという状況です。
さて仕事、という時になって、驚いたことは、所長の机も、主任の机もないことでした。「机は?」と聞くと、「適当なところに座れば」という有様です。また、談笑するための机と椅子はあっても、所員会議や、14〜15人で共同研究するための机がないことでした。また、研究員はといえば、研究所の隅っこにおかれ、これでは、所員との間の日常的な人間関係も結べません。
部屋のレイアウトは、人間関係のあり方に影響を与え、その結果、その組織の目標達成を大きく左右する、と言うのが社会学の常識です。
私の所長としての最初の仕事は、所長と主任の机と、14〜15人用の会議用の机を確保し、次に、研究所活動を効率的にするための、部屋のレイアウトについて再考し、模様替えすることです。
30年連れ添ってきた妻は、私が書斎をよく模様替えする性癖を見て、「あなたは社会学的な常識に基づいて部屋の模様替えすることが本当に好きね。でも模様替えして、あなたの業績がどれだけ上がったの」と、社会学者の私に大きな疑問を抱いているようです。
まあ、適当に変化を加えながら、キリ研として研究業績を地道に積み上げていきたいと思っています。ご協力とご指導をお願いします。
(はしもと しげる 所長、社会学部教授)
サバティカル・リーブ 丸山 直起
「神は天地を創造され、第七の日に安息なさった」ことがサバティカルの由来とされる。私はこの制度の資格をえて1998年度の1年をイギリスのオックスフォードで過ごした。オックスフォードというと、多くのカレッジからなる大学群を思い浮かべるであろうが、私が滞在先に選んだのは、市郊外北のヤーントンという小さな村にあるオックスフォード・ユダヤ学センター(Oxford
centure for Hebrew and Jewish Studies)である。以下はこの小さな研究所の滞在記である。
研究所は、オックスフォード市内とチャーチル生誕のブレナム宮殿のちょうど中間に位置する。17世紀のマナー・ハウスが研究所になっている。15年ほど前初めてオックスフォードを訪れたとき、この古いマナー・ハウスと周囲の田園の風景がみごとにマッチしているのに魅せられて、将来海外で研究休暇を送る機会があればこういうところに滞在したいなと考えていた。その夢が今回実現したのである。マナーの敷地にはこれまたみごとな、元は13世紀のいかめしいチャペルが建っている。長い年月の間にマナーは人の手から手へと渡ったが、16世紀にこのマナーを所有していたのが故ダイアナ妃につながるスペンサー家であった。
研究所が設立され、本格的に活動するようになるのは1972年だから、歴史はそれほど古くない。研究所は大学院レベルの学生を受け入れ、ディプロマを出すなどオックスフォードのユダヤ学のさまざまな分野の教育を引き受けている。ユダヤ学といっても文学、言語学を含め範囲は広範に及び、世界各地から研究者や作家が訪れている。近年はイスラム圏からの研究者が数週間単位で研究のために訪問するケースが増えており、私のいたときもイランからの学者が来ていた。敷地には納屋を改造した蔵書4万冊を擁する図書館、宿舎が点在する。研究の面では死海文書の編纂を含むクムラン・プロジェクトが進行中であるほか、常時15名は滞在する客員研究員が自由に研究を行い、発表している。所長を含む約5名のアカデミック・スタッフがそれぞれのホストとして研究の面倒をみ、相談にのってくれる。何のオブリゲーションもなく自由に研究できる環境がありがたい。ちなみに98年度は私を含めて12名の研究員が滞在していたが、国籍を見ると、イスラエルが5名と一番多く、ついでアメリカ4名、ポーランド、エストニア各1名で、日本人は私ひとりであった。たまたま、明学で教えたことのあるバリー・バンドストラ・ホープ・カレッジ教授が客員研究員で半年ほど在籍し偶然出会ってびっくり世界は狭いもんだと互いに実感しあった。各自の研究テーマは多岐にわたり、かならずしも共通である必要はないが、毎週夜マナー・ハウスで開催されるセミナーや講演会にはイギリス内外の著名な学者や作家が招かれ、知的刺激をたっぷりと味あわせてくれる。ユダヤ学に関してはヨーロッパ随一の研究機関であると自慢するのもうなずける。
オックスフォードは交通の要路にあり、イギリス各地どこへ行くにも便利である。ロンドンまでは終日バスが運行されており、ロンドンの同様の研究機関を利用するのに重宝した。
不景気で気力を欠く日本と比べ元気なのがいまのイギリスである。物価の高いのには閉口したが、美しく広い空と自信にあふれるイギリス人たちを眺めているだけで、活力が充満してきそうである。
*同センターの詳細については、つぎのホーム・ページで知ることができる。http://associnst.ox.ac.uk/~ochjs
(まるやま なおき 所員・法学部教授)
公開講演会「日米新ガイドライン・周辺事態法(案)と今後の日本」の報告 中山 弘正
小沢一郎氏が「戦争をするためだ」と言った標記の法案が、24日参議院通過成立と報じられている。これに3日先立つ5月21日(金)6時から国際平和研究所とキリスト教研究所の共催で上記の講演会が白金でもたれた。
弓削達氏(元フェリス女学院大学長)はこの法案が、戦後の日本の決定的な転換点であるとされ、
(1)従来よりも広い範囲で、第3国の内戦・クーデターにも、米国と共同で軍事行動をとれるようにしている。
(2)大戦後の国家のありようを、日本国憲法の平和主義ではなく、日米安保の武装平和主義・解釈改憲でやってきた勢力による総仕上げである。
(3)第9条が「押しつけられた」と彼らはいうが、この条項は、マッカーサー元帥、幣原喜重郎とくに後者の意向が実を結んだものである。
(4)仮にこれを「押しつけ」というとしても、それは日本の権力者にとっては押しつけだったかもしれないが、日本の民衆にとってはむしろ欲求であった。
(5)朝鮮戦争(1950年6月25日始まる)前後で、マッカーサーは日本の再軍備に慎重だったが、昭和天皇が、米「軍」による日本防衛をマッカーサーの頭ごしで交渉したりし、天皇は日本の軍事路線化に積極的だった,
等々の論点を、歴史家らしく、かなり詳細に論じられた。
次いで、宮地基氏(本学法学部、憲法学)が、NATOとドイツ軍の関係(NATOに参加するさい、国家主権の一部をNATO
にあずけるという形で、ドイツ政府の恣意的行動を制約しようとした)なども加えつつ、戦争が政府によって起こされたものである点が、日本国憲法では明らかにされていること、この度の法はこの点でも問題であること、今後の対応としても、政府を批判し、それを頼らず民間で直接外交を、平和的連帯をしていくしかない、等々とコメントされた。
さらに熊岡路矢氏(日本国際ボランティアセンター代表)が、20 年間ほども、市民のボランティア的平和協力をカンボジア等々で実践してきた体験をふまえ、今後の市民レベルの平和運動のあり方に関し、示唆的な発言をされた。
聴衆は約60名で、学部学生が3分の2くらい。インターネット情報で、ICUや早稲田の学生の参加者もあった。何といっても、今後のことは学生諸君の世代の若者が、担っていくしかないのであるから、その意味では、学部学生諸君には、もっともっと大勢参加してほしかった。とはいえ、昨年5月のこの種の集会(国際平和研究所の『PRIME』No.9にその時の西川重則氏の講演が載っている)には、学部生2〜3名だったことを考えると「前進」といえなくもない。
今後、こうした集会を継続的に計画していく若手・中堅の教員グループの意識的な形成がぜひとも必要だと思った。今回主催の両研究所が、そうしたネットワークの形成に一層貢献することが望ましい。
(なかやま ひろまさ 所員・経済学部教授)
公開講演会「宗教をどう教えるか」 加山 久夫
朝日新聞「こころ」編集長の菅原伸郎氏によるこの講演会は、キリスト教研究所の共同プロジェクト「キリスト教主義教育研究」の今年度活動計画の一つとして企画され、去る5月22日、研究所主催の公開講演会として実施された。
オウム真理教事件は日本で宗教をきちんと教えることの必要性をわれわれに痛感させた。確かに、宗教を「学ぶ」ことは必要であるが、宗教を「教える」ことがいま切実に求められている。ただし、菅原氏の関心は「いかに(how)」教えるかということより、「なに(what)」を教えるかにある。憲法22条や教育基本法には公教育における宗教教育の禁止が規定されているが、そこには宗教教育とは何かについて触れられていない。わが国において、1958年に道徳教育がはじまり、宗教と道徳は区別されてきた。そのうえで宗教知識教育はある程度提供されてきたが、たとえば三大世界宗教について教えていないなど、きわめて不十分。では、宗教系の私立学校では宗教をきちんと教えられてきたのであろうか。
氏によれば、これまでの(1)宗派教育、(2)宗教知識教育、(3)宗教的情操教育のほかに、(4)対宗教[カルト]安全教育および(5)宗教寛容教育が必要である。
(4)については、今日、統一原理、サイエントロジーなど、カルト的諸集団にみられるように、宗教において危険なものがあることについて安全教育をー人権教育、消費者教育としてー提供しなければならない。宗教系の私立学校でそのような努力がもっとなされてよいのではないか。その場合、自校の宗教の正統(当)性について語らねばならないあろう。しかし、(4)は(5)宗教寛容教育と関わらせておこなうことが必要である。
その意味で、キリスト教主義学校、とりわけ、プロテスタントの学校で用いられている宗教教育の教科書を見ると、他宗教についての言及が乏しい。この点では、カトリックの学校での宗教教育のほうがより広いのではないか。ともすれば、宗教科目は独善的になりやすく、宗教科の先生には同僚から浮き上がった人が多い、という。
では、何を教えるのか。細かいことは大したことではない。学校教育のなかで真に教えるべきことがあるのではないか。宗教知識はいうまでもないが、宗教的情操教育を提供すべきである。公私立をこえて。言葉では伝えにくいが、「あるひとつの真理がある」と考える。「天上天下唯我独尊」(釈迦)、「神の国はあなたがたのなかにある」(イエス)といった言葉に見られるような根源的目覚めあるいは根源的出会いがある。たとえば、ガン宣告を受けたとき、日常の細々としたことや出世といったものはつまらないものに思えてくるのではないか。静かな世界をとおして心優しい状態(慈悲、アガペー)、愛敵の思想や実践へと導かれるのではないかと思う。ほんとうの宗教教育はそこにある。
「人間は連続的に成長する。しかし、非連続的に成長することもある。」(ボルノー) 近代の学校教育は人間の挫折や絶望を避けてきたのではないか。人生には別れや死がある。大いなる悲しみから大いなる愛へと人は導かれうる。
現代の若者の宗教的関心はどうか。オカルト的なものや星占いといったものへの関心がある。しかし、より根源的なものへの深まりがもとめられる。生命の根源、すなわち、聖なるものにたいする畏敬の念、生命に対する畏敬の念、そこに真の宗教的情操がある。
菅原氏は恐らく、他の誰れよりも国内外の多くの学校を訪ね、宗教教育の現場を取材し、宗教と教育の問題を考えてこられたジャーナリストである。学校崩壊、非行の低年齢化などの現代日本の教育的状況において、文部省をはじめ多くの識者はこころの教育や道徳教育の必要性を強調するが、その根底に在るべき宗教の問題がすっぽり抜け落ちているのではないだろうか。菅原氏はこのことにわれわれの注意を喚起して下さった。因みに、氏がこれまで執筆してこられたものなどをまとめて、近く、『宗教をどう教えるか』(朝日新聞社刊)として出版されるとのことである。
(かやま ひさお 所員・一般教育学部教授)
入所にあたって 瀧 章次
このたび、プロジェクト「古代キリスト教とヘレニズム思潮」の研究員として2年間研究を進めていく機会に恵まれましたことに感謝いたします。これからの2年間どのような途が披けてくるのか、未だあしどり不確かなものですが、一切をゆだねる信仰と出発点へと倦むことなく問う志との間にあって、少しでも行く途筋が明るくなればと願っています。
今まで、ソクラテスに関わる文学、とりわけプラトンの対話篇を中心に古典学を学んできたことを顧みると、「キリスト教」を「研究する」こととさほど遠いところにはいなかったとも思われるのですが、ついぞ対象として真向かうこともなく、聖書を繙くにしても、折々の歩みにおける、稚拙な己の所感と密接になっていたと思い返されます。といって、この機会にこそと、意気込んでも、一歩離れて考えれば、質量共に古典の比ではない聖書研究に直ちに入っていけると思うのはおこがましいこと明らかです。ただ何かが違って見えてくるかも知れないと、入所が決まってから、休みの間、自分勝手な入門として、W.イェーガーの「パイデイア」という考えを手引きに、「ヘレニズム」を考えてみようと思い、「ヘレニスト」の働きを考える為に「使徒言行録」を読むことを課題としました。やってみて、早くも文献学的集積の重量感に圧倒され、実証的な貢献をしようとしたら死ぬまでかかっても何か新しいことなど言えないのではないかという気がいやましに募ってきた折り、入所の日がやってきて、早速鍵を頂いて研究所の居心地を確かめていた所、いままで使ったことのなかった聖書の電子集積資料があるのが目に止まりました。好奇心からあれやこれや使い勝手を試しているうちに、新約では懐疑派の術語は見たところ否定的な文脈におかれていることが検索から直ちに予想できたり、そればかりか、ソクラテスを故郷とする suzeteinや dialegesthai に、それぞれ「共に探究する」や「対話する」と、前4世紀の意味を単純には当てはめることがままならず、「70人訳」まで己の不明を後押しし、おまけに、「使徒言行録」では、ステファノとあるいはパウロのギリシャ、小アジアにおける宣教とのみ結びついているという新たな謎までついてきました。なぜそのような意味に変わっていったのか、どれほどセミティズムの影響があるのか言語的な興味は尽きないのですが、事柄としてどこまで内側から照らし出すことができるのか、産みの苦しみの最中です。
一方、英国のダラム大学に提出した修士 (M.Litt.) 論文に引き続いて、プラトンに関する継続的な研究としては、19世紀以降の読み方に対して、自分の読み方を位置づけるだけでなく、今度は、古代においてどのように読まれていったかを検討していきたいと考えています。プラトニズムの端緒を辿ると共にプラトンの原像を画定するという大きな課題のうち、とりわけ、ディアレクティケー(対話術あるいは弁証術)というものがどう捉えられていったかがいまの大きな関心事です。
(たき あきつぐ キリスト教研究所研究員)
はじめまして 山岸 千尋
この5月から、キリスト教研究所の教学事務アシスタントとして勤務しています。
わからないことに対して思わず考え込んでしまうことも多くあり、なかなか思うように仕事もはかどらずにいるのですが、その度ごとに先生方、職員の方々が本当に丁寧に教えてくださり、はやくもこの大学、そして『キリ研』にとても魅了されています。
横浜の大学を卒業して2年がたちましたが、その間は予備校に勤務し、生徒を大学に合格させることに必死の毎日でした。(「なにが何でも明学!」という生徒ともたくさんつき合ってきました。)『実りの喜び』は何ともいえないほど嬉しいのですが、それ以上に、受験を控え、将来のことや様々な事に悩み苦しむ浪人生を前に、ただただ企業としての『合格率・実績』に追われて文字通り叱咤激励するしかできないあり方に疑問を感じ、自分の進むべき道を祈り求めるなか、本当に偶然見つけたのがこの『キリ研』の募集広告でした。
大学のなかにチャペルがある、ということ自体がとても新鮮な毎日なのですが、久しぶりの大学の雰囲気のなか、いろいろなことを思い出しています。先生方の会話の中から、神を『否定』しようと哲学に答えを求めて必死にもがいていたこと、ひたすら教会に反発していたこと、そして苦しみの中で自分の弱さと神の愛の深さを心から感じさせられたことを、また安重根の遺墨からは、戦後責任・補償問題に一生かけていこうと決意したことを、等々…。何のために、いかに生きるのか、といつも問いかけていたことを、忙しさを理由にいつのまにか忘れていたように思います。
この遣わされた場所で、『何のために生きるのか』という思いをつねに抱きつつ、この研究所とそこに連なる方のため、前任の岡村さんのすてきな笑顔を思い出しつつ、感謝をもって毎日取り組んでいきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
(やまぎし ちひろ キリスト教研究所教学事務アシスタント)
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