Amor et Pax voviscum sint.
(愛と平和があなた方と共にありますように) 千葉 茂美
もう20年ほど前になりますが、はじめてギリシアに留学したとき、折を見て念願のバチカン市国のサン・ピエトロ寺院を訪ねました。その日は偶然大きなミサが行われていて、私もこれに参加できました。ミサが終わると法王は上記のメッセージを告げられ、「これを全世界に伝えましょう、まずは会堂から」と、法王から司教たちへ、そしてまた一般参加者へと、愛と平和の祈りと願いを固く手を握りしめ合いながら、次から次へと伝えていきました。私の左はイギリス女性、右はドイツ男性でした。会堂いっぱいにその輪が広がり、その祈りは感動のるつぼと化し、今でも私の手は熱く燃えています。
ミレニアムの年を迎えましたが、2000年を経た今も、民族問題や地域紛争、テロ、殺人、貧困、飢餓、憎悪、争いが絶えません。イエスの教えはまだまだ遠く、世界の現状は惨たんとし目を覆いたくなります。私たちキリスト者はこの期に声を大きくし、マザー・テレサの祈りと共にこう強く強く訴えかけてゆかねばなりません。
”主よ、私たちの心が
たがいに愛し合うことを学びますように
あなたが私たちを愛されたその同じ愛で。
あなたの名において
私たちが一つの心
一つの魂となれますように。 アーメン。”
(ちば しげみ 所員・一般教育部教授)
あるクリスマス 真崎 隆治
クリスマスの思い出はいくつもいくつもある。クリスマスにはそれだけ深く心になにかをおよぼすものがあるのだろう。その中の一つ。
初めてフランスに渡ったのは、もう25年前で、ストラズブール大学の留学生として学寮に寄宿していたのだが、クリスマスが近づくと、5・60人いた寮生たちは一人去り二人去りして、ついにアフリカから来た一人と私だけになり、食堂は閉まり、寮は閑散どころか寒々として、ヨーロッパの冬のひたすらに低く垂れこめる陰鬱な空の毎日にただでさえ気の滅入るところを、ほんとうは浮き足立つはずのクリスマスを前にして、まったくの一人ぼっちとは、これはもうたまったものではなかった。
イヴの町はイリュミネーションも華やかに、まさにこれぞ夢に見たヨーロッパの本物のクリスマスの風景なのだが、通りには人っ子一人いない。日本のお盆と同じに、すべての人が家庭に戻ってしまうからだ。美しく、暖かそうに飾られたショーウィンドウを横目に、凍てつく町を靴音ばかりがコツコツと、うつむき加減に歩いていると、ああ、これがマッチ売りの少女の世界なのだ、と妙に納得された。
クリスマスが過ぎて数日たつと、学生たちもおおむね戻り、寮は活気を取り戻したのであるが、親しくしていた友人の一人がやってきて、「君、大晦日にぼくんちに来ないか」といった。クリスマスはおミソにしての大晦日、どこか少し拗ねながらも、やはり嬉しく、31日はいそいそとローカル線に乗っていた。
アルザスの観光スポットの一つであるコルマールから西に、ヴォージュ山脈に向かう谷間を2両連結の気動車で20分ほど入ったマンステールという小さな町が彼の故郷で、そこにはもう一人の親友の家族も住んでおり、すでに何度か訪れたことがある。
「日本人は正月のほうが大事だと思ったから」というこのパーティーは、二人の友人の家族合同で私のために開かれたものだった。心づくしの料理の数々、土地のワイン、強烈な匂いだが実になめらかな舌ざわりのマンステール・チーズ。そして、食後、皆が改まった雰囲気となり、ジャーン、といった感じで、マンステールの谷の農民夫婦の人形をプレゼントされたとき、私は何も見えなくなっていた。涙があふれたのである。気恥ずかしかったけれど仕方がない。それはあのクリスマスの孤独感への反動であり、逆に言えば、クリスマスはそれほどに人との温かいふれあいを期待させるものなのであった。
昔見た映画で、題名も何も忘れてしまったが、激しい戦争のさなかにクリスマスとなり、両軍の申し合わせで休戦が実現する。敵味方が肩を抱き合ってしみじみとクリスマスを祝い、互いの無事を祈り合ううちに時間切れとなり再び凄惨な殺しあいがはじまる、という場面があった。
今私は神学的な意味でのクリスマスを語るのではない。体験的なクリスマスといおうか。あるいは人々の心の願いの中にあるクリスマス。それは平和であり、幸せであり、人との温かい交わりであり、憎しみ、恨み、孤独の対極に位置するものである。主義主張も国境も、時代さえもこえて、愛する喜びを実感し、愛しあうことの大切さに思いをいたす共通の瞬間があるとすれば、クリスマスをおいてほかにないであろう。たとえ年1回限りのほんの瞬間の時間にすぎないにしても、それはたえず新たに人間を励まし、希望をかきたててくれる炎としての共通の時間なのである。
(まざき たかはる 所員・文学部教授)
講演会「祖父マハトマ・ガンディーの非暴力思想と21世紀の世界」の報告 中山 弘正
12月7日午後、アルン・ガンディー氏をお迎えし、上記のテーマで講演会が行われた。
氏は23日から日本各地で講演され、この日は朝、沖縄から飛んでこられたのである。
マハトマ・ガンディーから「非暴力」思想のことを最初に教えられたのは、短くなった鉛筆を自分が捨てたらば、それを長い時間かかって探させられたときのことだった。資源の無駄使いは「自然に対する暴力」、そしてそれさえも使えない貧しい人々に対しての社会的暴力でもある、といわれた。物理的暴力と非物理的暴力(差別等々)の系統図を書いて教えられたので、以後、自分はよくその日に犯したことをその図上のどこにあるのか考えつつ反省した。
南アフリカの政変後、非暴力ワークショップの開催を依頼され、訪れたところ、武装グループが話したいという。緊張したが、銃を脇に置いてもらってよくよく話し合うと、彼らはふつうのちゃんとした生活ができないので、社会に対し怒っていたのだ。後に彼らは武器を捨て、非暴力運動に加わったという。
ソマリアには軍事介入で100億ドルも使ったが、それだけお金があれば、もっと前に生活面、産業面に出して上げていれば、戦争という手段に訴えずにすんだかもしれないのだ。
いずれにしろ、他の人々が何を望んでいるのかということへの共感、愛、理解といったものが「怒り」ですら(ちょうど電気のように統御すれば)有効な力に転じうるのだ。差別し、差異を強調し、相手との間に壁を築いていく限り、暴力は、個人でも国家でも無くならない。宗教も差異を強調するのではなく、どの宗教にもある愛とか理解などで、人間が一つになる方向でなければならない。
質疑では、M.ガンディーへのキリスト教の影響のこと、また、カースト制に対するガンディーの考え(法律を作っただけでは差別は無くせない等)などが問題になった。
学部生、院生など70〜80名くらいが参加し、とても良い学びができたと思う。アルン氏の深くもの思わしげな相貌は忘れ得ぬ印象を与えたことであろう。国際平和研の竹中先生(通訳の労をとられた)、涌井先生(司会)、勝俣先生(挨拶)、また両事務局のご尽力に深く感謝したい。
なお、アルン・ガンディー氏に関しては、塩田純著『ガンディーを継いで』(NHK出版)がある。
(なかやま ひろまさ 所員・経済学部教授)
ゴスペルについて 金井 創
ここ近年ゴスペルミュージックが流行っているという。特に若い女性たちの間で静かな人気が持続しており、しかもただ聴くだけでなく実際にコーラスグループを作って歌う人たちもずいぶんいるという。私は20年余り前、神学生のときにゴスペルと出会い、その魅力にひかれて以来聴き続けているが、こんなに流行するときが来るとは思っていなかった。当時はレコードを手に入れるのも困難で、限られた曲を毎日毎日聴いていたことを思い出す。それが今では多くのCDが簡単に手に入るようになった。
この流行の要因の一つは数年前に上映された「天使にラブソングを」1、2であろう。ウーピー・ゴールドバーグが主演したこの映画は要所にゴスペルがちりばめられ、なかでもゴスペルによって教会の礼拝が変わっていく様子が印象的だった。今でも本学の多くの学生が、「天使にラブソングを」のような礼拝なら参加したい、自分たちも歌いたいと言うぐらい、あの映画が与えた影響は大きい。
ゴスペルが生まれたのは19世紀後半だが、一つの音楽スタイルとして姿を明確にし出すのは1930年代といわれる。アメリカ合衆国の黒人音楽、スピリチュアルやブルース、また白人のカントリー&ウエスタンをもとにしてゴスペルは作られていった。その歴史を語る上で忘れてならないのはトーマス・A・ドーシー、いわゆるトミー・ドーシーの名であろう。当時売れっ子のブルース歌手、ピアニストだったドーシーはそういう生活のさなか「生き方を変えろ」という神の語りかけを聞く。その時から彼は神を讚える歌をもって各地を巡回し始めるのである。
教会は彼らに対して最初のうちは扉を閉ざしていた。彼らが教会に世俗音楽、ブルースを持ち込んだといって嫌ったのである。しかし、彼らの賛美集会は多くの悩む人、悲しむ人、苦しむ人に慰めを与えていった。「ここに来れば救われる」と。
ドーシーのもとで育った人にはマヘリア・ジャクソンやロバート・マーティンなどがいるし、ドーシーと共に賛美集会を催し後進も育てていったウィリィ・メイ・フォード・スミス「マザー・スミス」などもおり、彼らの働きによってやがて黒人のバプテスト教
会を中心に、ゴスペルは教会の音楽としても礼拝に欠かせないものになっていったのである。
ドーシーが「ゴスペルの父」と呼ばれたのはこのような開拓的な働き、後進の育成によるばかりでなく、最も有名なゴスペル「プレシャス・ロード」を作ったことにもよる。苦しみと絶望の淵から神を呼び求めるこの歌は、ドーシー自身を襲った苦難を契機に生み出された。
巡回伝道に飛び回る彼のもとに、生まれたばかりの彼の子と、妻とが急死したという電報が届く。急ぎ帰郷してそれがまぎれもない事実であることに打ちのめされたドーシー。彼のもとに友人が入れ替わり訪れては慰め、話を聞いてくれた。そのうちの一人が、ドーシーにはもうただ「主よ」という言葉しかないのを聞いて、「そうではない、プレシャス・ロードと呼びなさい」と言ってくれた。その言葉をきっかけにこの歌が作られたのである。いまやこの歌を知らない黒人はいないほどの名曲で、どれだけの人がこの歌によって癒されたかわからないという大きな存在になっている。
このようなゴスペルの内容に心を揺さぶられる人が多くなるとすると、それはやがて日本の教会の音楽を変えていく新しい力になるかもしれない。
(かない はじめ 学院牧師)
評価大作戦 Mission Possible? 鍛冶 智也
ミッションは何か?目標はミッションに沿ったものとなっているか?この実現によってミッションは達成できているのか?
宣教や伝道の話ではありません。私の専門としている「行政」で,日本のみならず今世界中で流行っている執行と評価の手法の話です。ゴミの収集,介護サービスの提供や違法駐車の取締りといった日常的な行政は,法治主義の今日では法律を執行することそのものなので,行政の担当者は法律に則っているかどうかを,適正であるかどうかの判断基準にしています。「合法的」であることが,「正当な」ことであるという理解です。
しかし,なぜこの行政事務を行っているのか?と問われた時に,「法律にそう書いてあるから」ということだけでは,そもそも行政が提供される側の立場(つまり国民・住民)からみて不充分なのではないかという素朴な疑問が沸いてきます。なぜ,法律にそう書いてあるのか,なぜ?なぜ?と繰り返していくと,そもそも「その行政事務」の担当部署がなぜ設立されたのか,という組織のミッションが明らかになるはずです。そして,組織(建設省だとか東京都福祉局だとか)本来のミッションの実現のために,個々の事務や事業が有効に機能しているかどうか,今一度,数値化・客観化して点検し,評価して,洗い直すという作業が重要になってきます。これを業績評価(Performance Measurement) とよんでいます。
この業績評価を行政改革の基準にしようといういうことで,日本の中央省庁はもとより,全国3,300 の自治体のほとんどで,「うちのミッションは何だ?」と,考え始め,「行政を評価」しようとしています。そのときの評価は,サービスの提供者側(ここでは行政です)の論理ではなく,サービスの受け手側(もちろん住民です)の論理で行っているかどうかが,本物の「評価」(お手盛り評価ではなく)であることの試金石です。
こうした行政の業績評価は,あと5年もすればブームは下火になり,定着のプロセスを辿ることになりそうですが,その後にブームになるのは,特殊法人の業績評価だと私は確信しています。学校法人である大学の業績評価は,その大きな柱の一つとなるに違いありません。
さて,今こうして書いている文章は,怪獣の名前のようですが,メッセンジャーという意味をもつ「あんげろす」の目標に沿っているのでしょうか?そして,キリスト教研究所の「ミッション」に叶っているのでしょうか?その「ミッション」は,「住民」に共有されているのでしょうか?ミッション・スクール=明治学院大学というコミュニティの一住民(サービスの提供者側ですが..)として,気になって仕方がないことの一つです。
(かじ ともや 所員・法学部助教授)
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