表紙メッセージ 成瀬 武史


 今年も自然界では着実に衣替えが進んでいる。古いからだに新しい命が芽吹き、日々深みをます草木の緑に、地表をおおう花々の彩りの中に、変わり映えの喜びを万人が実感する。その変化に目を見はる私たちの内側にも、永遠を思う心と共に変わり映えを願う気持ちが潜んでいるのを知る。でも何を、どのように変えたらいいのか?

 私(たち)は「心は燃えても肉体が弱い」だけではない。漠とした変わり映え願望はあっても、いざ何をと思い定めようにも心はふらつき、実行する力も乏しい。ラインホールド・ニーバーの祈りの切実さが偲ばれる:「変えることのできないものを受け入れる潔さ、変えるべきものを変える勇気、その二つを見分ける知恵をお与えください。」のどけからまし春の心を満たすには、何はさておき、潔さ(serenity)を願わずにはおれない。

(なるせ たけし 所員・文学部教授)


キリスト教研究所をよろしく  橋本 茂


 ご承知のように、私たちの大学はキリスト教に基づく人格教育を建学の精神とし、「醒めた目と暖かい心」を持った若者を世に送り出すという使命をもつ大学であります。私たちの研究所は、その性格からして、建学の精神と深く関わっています。私たちの使命は大きいと自覚しています。

 私たちは、移り変わる時代状況の中にあって、いかに建学の精神が大学の研究と教育の中に生かされているかを常に検証し、また、時代に即した可能なあり方を探求しなければなりません。この使命に応えるために、私たちはプロジェクト・チームを組み「古代キリスト教とヘレニズム思潮」、「キリスト教主義教育研究」、「日本におけるキリスト教研究」、「キリスト教文化−音楽・絵画・文学−の研究」が行われています。また、創立以来、建学の精神がいかに具体的に生かされてきたかを、「明治学院と宣教師たち」、「賀川豊彦研究」、「田川大吉郎研究」によって、多面的に明らかにしようとしてきています。

 また、私たちの研究所は、キリスト教に関する知識を広く提供する義務をも負っています。そのために、キリスト教に関する基礎的な参考文献・資料の案内を行うとともに、近年著しく進歩したキリスト教古典テキストのCD・ROM版を購入し、整備充実に努力しています。

 これらの研究活動は、一般教育部、文学部、経済学部、社会学部、法学部、国際学部に所属する26名の所員と大学外からお招きした2人の研究員と11名の協力研究員によって行われています。当研究所の諸活動における、このような異なる専門知識と問題関心を持つ者の間での自由な交流は、問題を全体的な視点から捉えることを可能とさせるという利点を持っています。この利点を積極的に生かして、大学の問題を広い視野から考える研究会を必要に応じて開催し、その成果を機関誌にて公表をしています。

 これらの活動を通して、いかなる人も、キリスト教的文化をエンジョイできる大学作りに貢献したいと願っています。みなさまからのご指導とご助言をいただければうれしく思います。

(はしもと しげる 所長・社会学部教授)


2001年4月25日『紀要』第33号合評会報告
成瀬武史「福音と問いかける心の対話−神谷美恵子に学ぶ−」 手塚 奈々子
 


 神谷美恵子は生涯を通じて「価値ある人生」の意味・理由を求める人であった。彼女は 「クリスチャンは他の人々をうんざりさせる、自分達だけが関心を持つことを話している連中なのではないか?」という挑戦的な問いを投げかける。キリスト教は果たして今日の人々と対話し得るのだろうか?成瀬氏は神谷の書き物に基づいて彼女の生涯を振り返り、彼女をキリスト教から遠ざけた状況を探る。成瀬氏によれば、神谷は永遠の「汝」を祈りと観照で常に意識していた人間である。成瀬氏の目的は、神谷が「何故」「どのように」クリスチャンの対話恐怖症に憤慨しているのかを明らかにし、また、神谷が霊的無気力に落ちるのを防いだのは同時代の書物また古典との接触であったということを論じる点にある。結論として成瀬氏は、神谷美恵子が「キリスト教の福音は今日の人々とも対話が可能でありその広さがある」という事実を示す逆説的な警告・反面教師であるということを示す。

合評会では、神谷美恵子の生涯を通して特に成瀬氏が主張しているクリスチャンの閉鎖性について議論が集中した。特に成瀬氏の論文から、「一般の人々に反発を呼ぶクリスチャンの言葉使いの根底には、他者への配慮の欠如が潜んでいる。」「対話する相手が考えを刺激され、やがて自分の手に負えないことを問いかけ始めるかもしれないという不安を先取りしているから(自分を守る)。」「危険を避けるには、天国の鍵は自家薬篭中の神学用語で覆い隠しておくにしくはない。しかしそれはパリサイ主義の独善以外のなにものでもない。」「対話を求める心への気遣いは、人間への関心と人間性への洞察から始まる。人は自分の中にある人間の実相に真剣に向き合う時、初めて福音が『ものを言い出す』のを聞く。それには聖書の内側だけを指差すのではなく、空の鳥、野の花の麗しさを説明する人間の言葉も書かせない。」「それに至る道を彼女(神谷)の心に開示したのはキリストの中の神に他ならなかったと推測せざるを得ないだろう。」「キリスト者がたいくつを寄せつけないためには、求める者への心遣いと日常の言葉による対話が不可欠である。それらを通してのみ生きがいの根拠となる福音はその意味を生き生きと開示するはずである。」

 以上の成瀬氏の見解から、合評会では社会に対するクリスチャンの閉鎖的な在り方が再意識された。また、評者がカトリックで洗礼を受けたクリスチャンであることもあり、カトリックとプロテスタントの世界観の違いについても広く議論された。成瀬氏の論文からの以上の問題提起は、今日の具体的なキリスト教活動にも示唆を与えるものである。宗派を問わずキリスト者は普遍的な福音宣教を目指したイエスと使徒たちに倣い、自分たちだけに通じる狭い枠を突破し、常に他者との対話の姿勢を持たなければならないということを再認識させてくれた有意義なものであった。

(てづか ななこ 所員・社会学部助教授)


生誕90年いま椎名麟三を見直す
−東京では“邂逅忌”、関西では“自由忌”が毎年語り継がれている−
 田靡 新


 椎名麟三(1911〜73)のことを聞いても戦後文学の旗手であったと、まともにこたえられる人が少なくなった。特に若い人たちは椎名誠は知っているが、麟三のことは知らないという。

 若い人たちの親の時代、つまり敗戦の混乱期に活字に飢えた青年達にさかんに読まれたのが『深夜の酒宴』や『重き流れのなかに』つづき『永遠なる序章』の作品があげられる。さらに『自由の彼方で』や『美しい女』を思い出してもらえる人は、まぎれもない椎名文学の熱烈なるファンだったといえる。

 それでも思い出せない人がいると、関西では同時代の作家の野間宏をあげ、さらに武田泰淳、中村真一郎とか埴谷雄高の名前を連ねてみる。

 それら同時代の作家を戦後第一の新人と呼んでいたころ、戦後文学を語る時に欠かせない。そして発表された作品について議論をたたかわせ、新しい実存主義文学の構築を果敢に語りあっていた。その連帯する意味から“あさって会”なる会は共通の場をもっていた。その6人からなるメンバーもいまは全員亡くなった。ちなみに、鬼籍入りを順にたどると梅崎春生、武田泰淳、椎名麟三、中村真一郎、埴谷雄高そして堀田善衛が思い出せる。

 そのメンバーらと同時に大岡昇平、三島由紀夫に福永武彦らも記憶のなかに存在している。戦後文学は、そののち第三の新人たちが迎いいれられるが、毎年2回発表される芥川賞の受賞作家がその時代の風俗とかかわって、今日につながっている。

 話が横道にそれたがひとりの作家が紡ぎだした作品は、彼らの体験であったり、育った環境や家庭の事情であってもそのリアリティーを浮き彫りにすることによって、作家と読者との親密性がうみだされる。そしてその作品の背景や思想性が作家自身とあたかもメルビスの輪のごとく読者を包み込んでしまう。

 その一例として椎名と三島の生い立ちを比較するのも読者側の創造性を刺激し、いっそうその虜にするのではないかと思う。

 椎名は生涯、自分は私生児だったという脅迫感に捉われていた。というのも、母親は播磨いまの姫路の山奥に生まれ、13歳で大阪に奉公にでる。花嫁修業とは名ばかりで、子たくさんの口べらしだった。だが、村ではこんな習慣は当たり前。20すぎて、知り合った警官となさぬ仲に。正規の婚姻届けのないまま母親は椎名を出産する。

 明治の終わり封建社会の田舎では、奉公さきでの妊娠は笑い者に。古里に引き戻されても祝福されぬであってみれば、出産3日後に赤子を抱いて鉄道線路の上をさまよっている。それだけに決意のほどがうかがえるが、幸いなるかな、村の巡査に助けられる。椎名は成人してその話を聞くたびに「あのとき列車に撥ねられていたら、一巻のおわり」だったとエッセイにも書いている。

 一方三島は産湯に浸かったたらい桶に反射しているかげろうの記憶があると。この話は繰り返されて有名だが、三島の感受性の豊かさを象徴しているとして、あえて否定するものがいない。

 また、椎名は生まれた場所が、母屋でなく牛小屋だったことを長らく背負い込んでいて、39歳のクリスマスに洗礼を受けるが、馬小屋で生まれたキリストにおもいを重ねるのだった。

 ふたりの作家の家庭環境の違いはあきらかで、椎名は父と別居した母親の汚辱にまみれた姿を何度も見聞きするばかりか、仕送りの断たれた母子家庭の貧困からくる母のスキャンダラスな暮らしを思い出し、せきららに書き止めている。母親に見捨てられ、自ら家出をする。そして母親の何度にもわたる自殺未遂があっても、なおその母親が最後まで愛しくて仕方がないのだ。

 片や三島はまず裕福といえる両親とともに樺太庁の長官にまで出世した官僚の祖父母とも同居している。播磨出身で百姓の血筋をもつ祖父のことが一切ふれられず、何故か祖母が仕えた宮家での躾を身にまといあたかも公家の血筋である家系に塗り替える自由に固守する。

 作家はその生み出した作品が生命であることは議論の余地を与えないが、椎名は家出ののち出前持ち、コック見習いの職を代わりながら、不良仲間とも一線を敷き、勉学する心は捨てなかった。のちに山陽電鉄(いまの)の車掌につき、共産党員になる。わずか18の時である。2年ほどで全国で一斉検挙のさい捕まったのち、留置所をたらい回しのはて、拷問による転向。2年足らずで出所。そののちも特高の尾行のなか上京して、運送業やコックに。留置所で読んだニイチェの『この人を見よ』からドストエフスキーにめぐりあい小説を書きはじめる。

 簡単に椎名の経歴をたどったが彼の作品が重く暗いという世評は、過去の体験から生み出されている。しかし、そうした一面のほかに滑稽でつねにユーモラスな哀歓にみちた主人公の人生模様の評価が少ない。

 三島は王朝文学につながる華麗な美の世界を、もてる才能のすべてを駆使して、独特の物語作家との違いがある。


 椎名が亡くなって、姫路の古里の山の上に文学碑を建立したあと姫路にも文学館が開館するのだが、その映像的な展示準備のひとつに「椎名麟三と戦後文学」なる鼎談のVTR撮りをしたときに、参加者の野間宏、中村真一郎、埴谷雄高それぞれに椎名の代表作をお聞きした。

 野間さんは最後の長編作『懲役人の告白』をあげ、中村さんは、代表作をあげるのでなくてその変貌していく、変貌そのものがかれの文学だと。埴谷さんも同作品の評価を喜びながら、この変貌を成熟の一つとして見るか。変貌自体が流転の経過と見れば上昇でなく下降と語っている。椎名が洗礼を受けるまでの『邂逅』を選びたかったのか。三人三様の評価を司会をつとめていたわたしが感銘したことを思い出している。

 TV嫌いの埴谷さんを呼び出し、最後には色紙に寄せ書きを頼んだときも「われわれは文学者で文士でないから、嫌だ」と、そこを「椎名のことだから仕方がない」とあきらめてもらい埴谷さんの色紙を手にした。

 この鼎談は埴谷雄高全集の第17巻に収録されている(講談社)。

 椎名の没後27年、全国の書店でいま椎名の作品を手にすることは困難。わずか『私の聖書物語』(中公文庫)がただ一つ。大手の書店で「新潮日本文学」64巻中、「近代日本文学大系」筑摩書房97巻中、「昭和文学全集」小学館35巻中、にお目にかかれるかも知れないが。その小説の他にエッセイ、評論に演劇をはじめラジオ・ドラマ、テレビから映画も3本残している。「煙突の見える場所」、新潟の柏崎の油田地帯でロケした「鶏は再び鳴く」なども懐かしい。

 わたしが椎名と知り合ったのは、学生のころで椎名の初めての自叙伝ともいわれる『自由の彼方で』が出版された後だった。椎名さんは同郷の青年からの便りに30年をふりかえり、文通をはじめる。古里にたいして犯罪感を背負っていた椎名は長すぎた不在、不義理を修復するかのように、その家族とのつきあいに専念する。

 文学で名をなし、原稿依頼の多忙にもかかわらずに。几帳面すぎた椎名の下坂がつづき、その2年ののちに心筋梗塞で倒れる。医者から就筆を禁止されるが、その死の宣告を無視。生活のために懐にニトロールをしのばせ作家活動が15年つづく。椎名麟三全集は24巻(冬樹社)に及ぶ。

 いま少年の犯罪が野放しに増え、学校で職場でいじめや差別が集団的に凶悪化しエスカレートしているが、椎名が描いてきた弱者の文学、抵抗の証しを少しでも感じてほしいものだと思う。

 どつかれても、どつかれても、耐え忍ぶ精神のありようを学んでほしい。ひとくちにいっても、集団のなかでの孤立無援は自殺に追い込まれやすいが、その選ぶみちをただひとつだと決めないでとどまってほしい。

「わしには、信頼している仲間がいる」「尊敬できる親がいる」「生きていれば、やがてはここちよい空間を探し出せるんや」と大空を見上げて一息ついてほしい。

 こうした弱虫の叫び、助けてくれと訴えることで椎名の文学が成り立っている。

 まもなく椎名の命日3月28日がやってくる。冬の間に耐えてきた木々の樹液が活発になる。ほそい梢になんとなくあかみがさし、かたいつぼみがふくらみ、ぼんやりと、ものうげにかすむ開花の予感。椎名はそんな寒い早朝の刻に脳内出血で昇天した。62歳。

 わたしはその訃報を夕刊で知る。大阪の事務所の窓に夕立の通り雨が見えた。椎名は生まれた日もあの納屋も雨にまみれいたので「わたしの死ぬ日も多分雨が」と生前にきいていた通りになった。キリストが昇天したゴルゴタの丘も嵐であったこととに重ねていたのだろうか、その通りになった。

 そののちから東京では、椎名が創設したプロテスタントの文学集団「たねの会」や演劇関係者、文芸評論家らによる「邂逅忌」が開催されるが今年から会場が変更になった。毎年ミニ講演とミニ・ドラマも見られる。問い合わせ03-5684-3059.

 関西では姫路文学館で「自由忌」が開かれている。

(たなびき しん・作家)


研究員の任期を終えて 瀧 章次 


 2年間キリスト教研究所でお世話になり心より感謝申し上げます。この2年、偶然、教会で募集が目に止まったとはいえ、「キリスト教とヘレニズム思潮」というプロジェクトに参加させて戴き、静かな研究施設を自由に使いながら、今まで足を踏み入れなかった領域に、自己流ながら踏み込んでみたことは、実りの多いものでした。文学研究において、コンピューターの能力を生かして、いまなお人間に与えられている課題に取り組む手掛かりを得、更に、「内容」を理解することに比べて一段低く軽んぜられる「文体」を論ずることの可能性について、まだ考えてみるべきことも、試みてみるべきことも残されているということを自分なりに掴むことが出来ました。今年の一月に発行された『紀要』に寄稿した論文では、最後まで正体が掴めぬまま脚注に課題として留めておいたことに一区切りつけることを現在進めています。コンピューターを古典テキストの解釈に結びつけることなど思いもつかなかった時代に、出所は忘れましたが、キケロのetを数えて、D.Litt. に引っ掛けてLittle Doctorになる輩と古典学者を揶揄する面白譚を読み、その当時はそんな見たところつまらない、一生かかっても終わりそうもないことに労力をかけて、それが学問だろうかという感想を覚えましたが,今は何とこともあろうに、自分が古典ギリシャ語の teを数えている始末です。et 同様、「そして」とか「かつ」という等位接続詞で、正に無内容です。大方この2年間私の仕事が周囲に与えた印象もそんなところにあろうかと存じますが、なんとこうしたことばを数え、どの作品のどの箇所にでてくるか出典を示し、作品ごとに何回出てくるか示し、それを全体の語数あたりの頻度で表しグラフで視覚的に表すということも、当然のことながら、内容を読まずにひたすら数え、文脈を無差別に均一化し、数値化し、図式化するコンピューターにとっては朝飯前な訳です。人の力に比べ、コンピューターの量的な飛躍には単純に驚かされますが、以前も今も、もちろん文献学的な事実を解釈することが課題だということに変りはありません。進行中の課題というのも、一見無内容な言葉teを、先ずつなぎ言葉を必ず要求する古典ギリシャ語における散文の様式として比較し特徴付け、更に、この言葉を、物語を語り進めていく為に語り手が用いる、「すると何某は斯く斯く云々した」という言い回しの「すると」などにあたる道具立ての一つというところから見直すと、どうも「伝記物語」、「歴史物語」という伝統において、マルコとルカとでは、またルカと使徒言行録では、道具立てが異なっているという事実が見えて来るということです。勿論この論争は20世紀前半に始まりその後の論争などで、福音書記者ルカは、文体を変えたとか、読まれる社会的文脈の違いを考慮したとか、資料や人物描写ごとに文体を変えたとか論ずる形で、ルカ福音書記者と使徒言行録記者との同一説は、内的外的証拠にも支えられて動かぬように考えられてきましたが、コンピューターの力を借りて総浚いすれば、揺らぐようにも見えてきます。この一年は、協力研究員という場で、この問題を前論文の補遺補訂としてもう少し明るくしたいと思っています。

(たき あきつぐ 元キリスト教研究所研究員)


The pleasure of a sabbatical  A. Hamish Ion


 I am most grateful to the Christian Studies Institute for giving me the wonderful opportunity to be a kenkyuin at Meiji Gakuin during my sabbatical from the History Department at the Royal Military College of Canada in Kingston, Ontario. It is, indeed, a joy to be back in Japan. I am here to participate in the Christianity in Japan Handbook Project and to do research for a book that I am writing on American missionaries in Bakumatsu and early Meiji Japan. Meiji Gakuin is an excellent place for me to be because so much work is currently being done here on American missionaries and Japanese Christianity. Its propinquity to so many research archives and libraries is an added bonus. As well as Christian things, I am also deeply involved in doing research on Canadian prisoners of war and internees in Japan during the Pacific War. If there is time, I will continue, simply for fun, my investigations into the history of mountain climbing and skiing in Japan. There is never a shortage of interesting research topics or archives to visit.

Research has its rewards. One of these was in 1974 when Matsudaira Itaro, a Nippon Seikokai clergyman, kindly gave me a copy of a letter from Christians in Nagasaki to members of the Kumamoto Christian Band. Later I showed the letter to Sugii Mutsuro and it opened the way for me to spend a very fruitful year in 1979 at the Jinbun Kagaku Kenkyujo at Doshisha University. The materials that I collected, the kenkyukai notes I made and the wise advice I received at Doshisha has had an enormous influence on my approach to the history of Japanese and Korean Christianity. As I continue to learn my craft and develop as a historian the greatest help that Japanese scholars can usually give me is in the form of suggestions about books that I should read. In the past, I have greatly benefited from the excellent connections that the Center of Japanese Studies at Sheffield University in England, where I took my Ph.d, had with leading Japanese academics. They have helped to define what authors I read in terms of modern Japanese history or political science. If, in doubt, always go with Fujita Shozo. As Japanese Christian history is a specialized area outside the mainstream of modern Japanese history, I have always been much more on my own in terms of whom to read. My stay at Meiji Gakuin is particularly important for it is an opportunity to find out about new research materials, new trends in the writing of Japanese Christian history, and what publications of the new generation of scholars writing on Japanese Christianity are worthwhile. I look to my colleagues at this famous university for help with this.

(A. Hamish. Ion  キリスト教研究所研究員・国際学部付属研究所招へい研究員)


研究員就任にあたって  中島 耕二


 学窓を巣立って31年が経過致します。その間、実業界にあって利潤と効率の追求の日々を過ごしてきた(現在も継続中ですが)訳ですが、それでもエクセス・タイムは学究的な関心を持ち続けたいと考え、比較的身近なテーマであった「近代経営史」と「日本プロテスタント史」、中でも「来日宣教師」を中心に研究を続けて参りました。

 話は飛びますが、私が育ちましたのは東京・世田谷で、少年の頃、私共の家の近くに「先生」と慕われていたアメリカ人が住んでおりました。この先生は、リチャード・A・メリット(Rev. Richard Allen Merritt)という米国監督教会(聖公会)の宣教師で、戦後すぐに来日し当時すでに10年近く同地に住み、福祉や教育分野で活躍し、マスコミにもしばしば登場する著名な先生でした。しかし、私共子どもにとってはその価値は当然判らず、その先生の住むお屋敷が日本人のそれと違って、いつも門扉を開け、玄関にカギを掛けていないことから、このお屋敷に自由に出入りし、その広い庭や母屋を遊び場として、それこそ毎日精一杯楽しんでおりました。ただその中にも幾つかの決まり事があって、特に大切なことは、先生からイエス様のお話を聞き、イエス様の歌を覚えることでした。またクリスマス等には先生の運転するシボレーに乗って、覚えたての歌を携えて、病院や母子寮或いは老人ホーム等の施設を訪ねることも重要なことでした。勿論参加は自由でしたが、賛美歌のレッスンは結構厳しく、合唱、輪唱等を喉が涸れるまで練習させられました。先生は、背の高い骨太の体格をしていましたが、柔らかな美しい声の持ち主で、いつも我々と一緒に歌い、熱心に教えてくれました。

 先生は当時40歳を幾つか越えていましたが独身で、そのため我々を自分の子どものように扱ってくれました。当時の平均的日本人である私の父などには照れ臭くて出来ないような愛情表現を、その父に代わって示してくれました。又、先生はアメリカ人特有のユーモアもあって、当時流行していたプロレスの真似をして遊んでくれたりもしました。こうして、小・中・高と成長期を先生の元に日参致しましたが、丁度私が大学に進学する頃、先生は我々の「葡萄畑」であったお屋敷を売って、一人アメリカに帰って行かれました。

 話が少し長くなりましたが、私の宣教師研究の原点はこのメリット先生にあります。従って、その研究は当然肯定の立場をとります。しかし、研究である以上批判的視座も不可欠です。この度母校のキリスト教研究所研究員という、格好の場を与えていただきましたので、これを機会に「肯定」と「批判」の立場から従来の研究を更に掘り下げていきたいと思っています。どうぞ宜敷く御願い致します。

(なかじま こうじ キリスト教研究所研究員)


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