表紙メッセージ  久山 道彦


「ほしがかがやくよる

 てんしさまが おりてくる

 てんしさまは ふくろうをきよめる

 きよめられたふくろうは きつねをきよめる

 きよめられたきつねは くまをきよめる

 きよめられたくまは おじいさんをきよめる

 あ、きょうは クリスマス

 きよめられたおじいさんは こどもをきよめる

 そして おくりものをきよめる

 きよめられたひかりのあさ

 ねがわくはかぎりなく メリークリスマス」


  五味太郎さんの絵本
『てんしさまが おりてくる』から

 自分を超えたものに浄められたものが、まわりのものを浄めていく。その限りない連鎖の内に在ることは、自らが浄められたというだけに留まることを許さない。他を浄めていく生き方へと創りかえられる。このことの意味は深い。

 てんしさま(アンゲロス)が おりてくる

しかし、その連鎖の何と霊妙なことか。

(くやま みちひこ 所員・一般教育部教授)


消費の嵐と聖なるロシア  中山 弘正


《消費の嵐》

 2年ぶりのモスクワの初秋。ソ連邦崩壊、「市場移行」10年を期して、若い専門家達と『現代ロシア経済論』(岩波書店)を上梓したばかりである。2年前、連続爆破事件のため入りそこなったマネージナヤ広場(クレムリン西わき)の地下商店街には目を疑った。地下3階までピカピカの高級商店。ティファニーなども無論入っている。横浜のみなとみらい地区とそっくり。いわゆる西側の高級商品は(お金さえあれば)何でも買える。
 
 有名なアルバート街の外れのホテルに泊まったので、すぐ近くの「第7の大陸」という24時間営業のチェーンのスーパーに入って、これまた仰天した。沢山の種類のハム、ソーセージは無論、乳製品、魚、冷凍食品、調理済みの惣菜とともに、日本の寿司のパックまでも並んでいる。かつては、外国人専用のドルショップ「ベリョースカ(白樺)」でしか買えなかった生活用品も所狭しと並んでいる。もちろん、モスクワ市全体のベリョースカ化は、今に始まったことではなく、ペレストロイカ期に遡り、ソ連邦崩壊でどっと広がった。今回の驚きはその質量の顕著な飛躍ぶりである。庶民の衣服の質が全体に著しく向上し、テレビを含め激しい広告合戦が消費をあおっている。道を歩きながらの携帯電話、という若者は(幸い)未だそれほど多くはないが、超ミニやロング、車内でのお化粧…と生活様相のグローバル化は著しい。

 ソ連邦期に各区ごとにはあったコルホーズ自由市場(ルイノック。近郊の集団農場や個人副業の農産物売場)も、周辺に新たな沢山のブティックや小間物店の街路が発達している。モスクワ大学への地下鉄出口なども、ちょっとした商店街である。個人商店は名札を出し、12桁の納税番号を表示している。市民・市場社会への秩序化ともいうのであろう。

 こうしたモスクワの消費生活は、単に西側に追いついたとか同じ、という以上の熱気、或いは迫力、いや、何かすさまじい執念をさえ感じさせる。ソビエト時代に押え込まれ、抑圧されていた消費への欲望は解き放たれ、今や嵐となってモスクワの街を吹きまくっている、とでもいおうか。軍需用工作機を作っていた工場が、今は「ほら、家具のお店ですよ。」先掲の本で私は「軍産複合体の民需転換」の問題も書いているのであるが、民需品を作ることさえ止めて、直接商店になるケースもあるとは思いもよらなかった。長い間、「軍事に動員された経済」、他の領域は「その宵で生きている」と改革派の論客が嘆いていたものだが、今や、ついに消費の欲望は解き放たれ、嵐となったのである。

《集団農場の再訪》

1977年度に交換留学で10ヶ月ほど家族でソ連邦に滞在した。集団農場の研究で来たのに、学者には会えても農場を見せてもらえない。岡田裕之氏(法政大学名誉教授)が郊外バス終点が国営農場、と発見され、一緒にいってみた。そのときは監視塔だと思い驚いたガラス窓のある給水塔を、グリム童話にちなんでラプンツェルの塔と名付けたりした(拙著『ソビエト農業事情』NHKブックス、1981年)。4半世紀ぶりにその農場を再訪した。あの時もすでに歴史の遺物であったその塔は今も未だ残っていたが、当時の国営農場は、今は一つの株式会社(ただし株式は非公開)に転換していた。当時の女性の所長は替り、今は男性の若いやり手の社長。乳製品加工部門が増えたが、労働者は当時の約1000人が今700人(いずれも半数が女性であるが、「当時も今も本当の『労働』者は女性だけョ」と活発そうな女性理事が微笑する)、牝牛も3500頭から2800頭に減っていたが、平均賃金は200ドルとドルで言われたのも新しいロシアらしい。とはいえ、農場の基本構造は余り変わっていないところを見ると、やはり『ロシア 擬似資本主義の構造』(岩波書店刊の拙著、1993年)は今もか、とも思う。
 
通りかかった労働者風の男性が実はこの奥のダーチャ(別荘)の施工主の一人で、「見に来ないか。」あの時、岡田氏とすぐ追い返された道を今度はどんどん進み、農場も出て森を抜け、林を抜け別荘地に着く。日本の二世帯住宅の2倍以上もあろうかという別荘が沢山建てられつつあった。

《聖なるロシア》

たとえわずかでも、郊外の畑や牧草地、森に出るとやはりホッとする。この広さ。ここにロシアを感じる。パステルナークの家(ペレデェルキノ)もそのようなホッとした場所であった。緑の畑、森、そしてロシア正教のあの金色のネギ坊主屋根と独特の十字架。

 モスクワ都心のキリスト救世主教会堂は、2年前にもう入れたが、マネージナヤ広場から赤の広場に入るところにまで正教の大小会堂が復活していたのは驚きであった。90年代の後半に正教は国家との癒着を強めつつ、その力を伸ばしたが、消費の嵐の中で人々の心は「聖なるロシア」に向かっているだろうか。ブルガーコフが『巨匠とマルガリータ』で、モスクワに降り立たせた悪魔は、まだ始まったばかりの共産主義をあざ笑ったが、この消費の嵐はひょっとしてその仕業ではなかろうか。「キリストの荒野での試みは、この世の栄華と交換に悪魔を拝めというものでしたね。」ソ連邦期からの筋金入りのプロテスタントの友人が、今やモスクワ市北部に自分達の手で建て上げつつある巨大な「ゴルゴタ教会」を背景にそう語る。解き放たれた人間の欲望、消費の嵐と「聖なるロシア」「聖貧こそ魂の富」というロシアのせめぎ合い、そこには闘いが、今日も、ある。(モスクワにて)

(なかやま ひろまさ 所員・経済学部教授)

追記:2001年11月6日『朝日新聞』(夕刊)テーブルトーク欄にも、同趣旨で登場。


フリードリヒ二世の十字軍  花田 宇秋


 昨年のアメリカブッシュ大統領による「十字軍」発言で「十字軍」は不死鳥のように蘇った感がある。ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世が、過去の「十字軍」を自省し、イスラム側との対話を呼びかけ自らもダマスクスのウマイヤ・モスクを表敬訪問したことが、まだ私たちの記憶に鮮やかであったというのに。西欧キリスト教世界の“負”の遺産「十字軍」が清算されるのはいつの日になるのだろうか。おそらくその日はパレスティナ問題が解決される時であろう。

 ところで、そのパレスティナ問題が難問である所以の一つは、周知のようにエルサレムにユダヤ教・キリスト教・イスラム教の各聖地が混在していることである。三宗教が共存共栄していくためにはエルサレムがいずれの宗教の政権下にあろうとも、それぞれの宗徒による各聖地の管理と訪問の自由が保障されなくてはならないであろう。この聖地問題を含むパレスティナ問題を考えるとき、一際光彩を放つのが約八百年前のフリードリヒ二世による第五回十字軍と彼のエルサレム滞在時の言行である。

 神聖ローマ皇帝にしてシチリア王フリードリヒ(フェデリーコ)二世(1195−1250)は、ハインリヒ六世を父に、ノルマン・シチリア王ロジェ(ルッジェーロ)二世の息女コンスタンツァを母としてイスラム文明の花の香り漂うシチリアに生を享けた。幼時よりイスラムに接していたため西欧キリスト教徒のようにイスラムとの違和感を強く意識することはなかった。アラビア語を自由に話し、イスラムの学芸万般に造詣が深かった。

 その彼が教皇グレゴリウス九世により破門されながら敢行したのが有名な第五回十字軍(1228−29年)である。1228年6月28日、アドリア海に臨む南イタリアの港湾都市ブリンデシを出船した彼は、波静かな地中海を南東に進み、クレタ島及びロードス島を経由した後、シリアの港はアッコン(アークル)に11月に到着上陸した。エルサレム入城に関して敵王アイユーブ朝スルタン・カーミルと再三の交渉の末、翌29年3月同市に無血入城した。以下がイスラムの歴史家イブン・ワースィル(1298年没)が伝える(『アイユーブ朝史』)フリードリヒ二世の言行の一つである。

  皇帝はエルサレム内の様々の聖地を訪れた後、アクサー・モスク(イスラムの聖域の一つ)に到り、このモスクを(キリスト教徒であるにもかかわらず)嘆賞した。ミフラーブ(壁がん)の美を誉めそやし、ミナレット(尖塔)に上ってやがて降りた。その時アクサー・モスクに新約聖書を小脇にはさんで入って行く(キリスト教徒の)神父をみとめるや、これを呼んで次のように叱った。「神かけて何を汝は持ってこのイスラムの聖殿に入ろうとするのか!汝らが(主権者がキリスト教徒の余であることをいいことに、イスラム教徒の)許可なくこれに入らんとするなら、余はその者の眼をくりぬくぞ!我らはこの地ではスルタン・カーミル殿の僕にして奴隷である!」(中略)

  また皇帝の滞留中、当地の法官は皇帝がキリスト教徒であるのを慮ってアザーンの中止を命じた。翌日この法官に皇帝は言った。「夕べはアザーンが聞こえなかったようだが?」法官は答えた。「陛下にはお耳ざわりと思ったものですから。」
   すると皇帝は次のように返した。

「貴殿は誤っている。余のために貴殿は自分たちの儀礼や法や信仰を変えようとするのか!?もし貴殿が余の国に滞在したとしても、余は貴殿のために教会の鐘を鳴らすな」と命じはしない。

「郷に入っては郷に従へ」のフリードリヒによる異文化理解であった。

 皇帝フリードリヒはスルタン・カーミルと次のような条約を結んだ。一つ、皇帝はエルサレムを保持するが城壁を再建しないこと。一つ、城壁外の所物はフランク人(キリスト教徒)には所属せずムスリム(イスラム教徒)の領主がそれらを管轄すること。一つ、エルサレムのイスラムの聖域(岩のドーム、アクサー・モスク)はムスリムの手に帰すこと及びエルサレムでのムスリムの信仰は保障されること、これらであった。

 皇帝フリードリヒによる八百年前のエルサレムの国際都市化であった。フリードリヒのこのようなイスラムとムスリムへの寛容の故にムスリムは彼を《アルアンバラートル》(ジ・エンペラー)との尊称で呼んだ。


注 イスラムの礼拝時にモスクのミナレットから周囲になされる人声による招呼。その内容が以下である。
  アッラーは偉大なり(四回)
  私はアッラーの他に神なしと証言する(二回)
  私はムハンマドが神の使徒であることを証言する(二回)
  いざや礼拝に来たれ(二回)
  いざや安きに来たれ(二回)
  アッラーは偉大なり(二回)
  アッラーの他に神はない(一回)
この時のアザーンには「イエスはマリアの子にすぎない」との文言が付加されていたという。

(はなだ なりあき 所員・一般教育部教授)


29回目の邂逅忌を前に  小林 孝吉


戦後の廃墟に『深夜の酒宴』でデビューし、『永遠なる序章』『邂逅』『美しい女』『懲役人の告発』などを書いたプロテスタントの作家・椎名麟三を偲ぶ邂逅忌は、今年で29回目を迎える。生前は毎年埴谷雄高も参加して、椎名麟三や戦後文学について語り、また椎名麟三の短編をミニドラマにして上演したり、批評家による椎名麟三論の発表があったり―そんな邂逅忌は、いつも椎名麟三の命日である3月28日に渋谷駅前の東急ゴールデンホールで行われていた。

 これまでは、埴谷雄高、高堂要、森禮子、高橋正嗣、それを引き継ぎ、上総英郎、本多秋五、富岡幸一郎、津川泉の諸氏、そして私が世話人として邂逅忌を主催した。それが昨年からは、橋本茂キリスト教研究所所長にも加わっていただき、邂逅忌はキリスト教研究所の共催となった。そのことは30年近く同じ場所で行ってきた会の会場変更ばかりでなく、すでに文庫本でも手に入りにくくなった椎名麟三の文学を、これまでの文学、宗教などの身近にいた関係者を中心にした会から、もっと広く、若い学生たちへと精神と信仰のリレーをすることを意味するものである。それはやがては、椎名麟三研究の拠点をもつことにもつながっていくのかもしれない。中学2年のときに家出し、不良少年、非合法運動、転向、文学との出会い、洗礼、復活のイエスとの邂逅など、生涯およそ大学とは無縁な作家であった椎名麟三は、それをどう思うだろうか……。

 私が第1回目の邂逅忌(そのときはまだ名前もなかった)に参加したのは、明学の4年目を休学中のときであった。私はその2,3年前に、椎名麟三の『永遠なる序章』と衝撃的に出会い、彼の文学、砂川安太という主人公の青年にひかれていたのである。――数ヶ月後の死を宣告された主人公が、生きていることの激情と自由に震撼され、人類はこうして一瞬一瞬、永遠なる序章の人生を生きてきたのではなかったのか、と。当時、存在の深い空虚のなかにあった私は、そんな椎名麟三の文学に、一条の希望の光を感じたのだ。それから28年後、邂逅忌が私の母校でもあるこの明治学院で開催されるようになったことはなんと感慨深いことだろう。

 邂逅忌は、埴谷雄高、寺田透、秋山駿などの文学者、プロテスタント文学集団「たねの会」などのキリスト教関係者、それに私のような直接には椎名麟三を知らない世代の批評家も加わり、これまで一度も途切れることなく続いてきた。そこで発表された椎名麟三論や、多くの芝居、スピーチ、椎名麟三原作の映画など、どれもが私には自分の椎名文学の格闘とともに印象に残っている。しかも、昨年記念館で上演された、万引きという罪しか神にささげるもののない女の物語である『半端者の反抗』(原作津川泉、演出明石健、出演明石健・徳永街子)は、キリスト教作家・椎名麟三の最高傑作の一つであった。今年は、私電の車掌を主人公とした椎名麟三の初期作品『鞄』が上演されることになっている。

 29回目の邂逅忌を前に、いま私は読まれることのなくなった椎名麟三の文学が、その光源としての「ほんとうの自由」=「復活のイエス」が未来の見えない日本社会とこの空白の時代を照らす光となることをひそかに、つよく信じている。邂逅忌は、そんな文学と人との出会いの場なのである。

(こばやし たかよし  キリスト教研究所協力研究員)


椎名麟三のキリストへの想いが甦る対談集  丸山 義王


「キリスト教文化研究」のオケイジョナル・ペーパーとして、『椎名麟三対談集―信仰編―』を出版することになりました。

 椎名麟三は、戦後初めて、キリスト教と文学を本格的に結びつけた作家でした。亀井勝一郎氏は、昭和27年の臼井吉見氏との対談(現代作家論2「椎名麟三」『文学界』8月)で、キリスト教は明治からあったけれども、日本の文学者がキリスト教とまともに取り組んで、信じて作品化した例はほとんどなく、外国の文学はキリスト教との対決から来たもので、日本の作家は、この根本の点を学ばなかったとして、さらに「椎名君のところに来て、一つの決定的な、真正面から、そういう問題に対決したことは、意味深いことだと僕は思う」と語り、信仰生活からキリスト教を作品化したという椎名文学の意義を指摘しています。

 明治学院は、夙に、キリスト教を受容しての小説「桜の実の熟する時」を書いた島崎藤村の母校であり、これは、キリスト教研究所の事業ですので、キリスト教の信仰が受容されそれが主題形成を通して形象化されているという椎名文学の特色を大切にして、今度の対談集ではキリスト関係の対談とインタビューの11篇をまず、考察することにしました。

 ここでの対談では、キリスト教と椎名文学の関係が、作者の肉声をもって語られているのでそれらの逸話や挿話を通して、作品を読み解く、新しい発見や新しい角度からの知見をうる可能性があります。また、対談等は、文学全集の「月報」や新聞、雑誌に掲載されているために散逸の可能性があり、しかも、そこに研究上にも大事なことが語られているので、できうる限り収集・編集をしておく必要があり、没後30年に至ろうとする現在、この企画の持つ意義は重要です。この対談では、神の存在に対する考えや、生と死の問題、異常性に対する日常性の意味などが自在に語られており、異常なことが横行する2002年の今日、椎名文学の持つ価値は、さらに輝きを増しつつ甦るものと思われるのです。

 小林孝吉協力研究員(文芸評論家・著書『椎名麟三 回心の瞬間』菁柿堂1992年3月)によると、椎名麟三の対談・座談は、文学論、映画及び演劇、キリスト教関係の多岐なジャンルにおいて、1947年頃から1973年の死去の年までの26年間にわたって、その文学的業績にそって行われており、その総数は120篇余にのぼるとされています。
 
今回のプロジェクトの責任者である橋本茂キリスト教研究所所長により、明治学院大学図書館を通して、全国の図書館から、83篇の対談等が収集されました。すべてを網羅することは、困難でしたが、その大半である約70%が収集され、その内訳は次のようです。

@文学論関係    65篇中で44篇収集
 
A映画・演劇関係  29篇中で23篇収集

Bキリスト教関係  26篇中で16篇収集

 (16篇中で11篇を対談集で収録)

 なお、この収集に際し、元明治学院大学図書館員であった、瀧本清明氏より椎名麟三の資料267部の寄贈があり、これには、初版本、研究所、作品等の掲載誌・新聞記事・追悼に関する雑誌、週刊誌が含まれています。この資料を年代順、ジャンル別に整理をして感じたことは、作家を中心に、当時の時代性を照射しての文学観、文学史観、作品の解釈や評価などの現代文学の反応が、如実に看取できるということです。このコレクションは、椎名麟三が生きた昭和の激動の社会と椎名文学を結びつける手がかりを与えるものと言え、椎名文学を研究する者への恩寵として、関係者一同、深く感謝を申し上げたいのです。

(まるやま ぎおう キリスト教研究所協力研究員)


書評"Pioneering on the Pinda−The Story of Indian Missionaries RAC Paul & Iris Paul"
(1998年、Evangelical Literature Service社発行、インドマドラス市)  大島 純


 1998年5月、核実験に成功したインドは「ヒンドゥ至上主義」を掲げる右派BJP(インド人民党)政権のもと、「国民の多くも歓喜の声を挙げた」と報じられた。1991年以降の市場開放の後、外資系企業の参入、民間企業の増加等が目立ち、社会主義政策から脱皮してきたインドは、確かに90年代に成長率平均6%という高い発展を維持した。しかし10億人以上の人口を抱えるインドには、1947年の英国からの独立後も、政府が実行してきた諸開発政策の恩恵を受けられず、未だに絶対的貧困といわれる人々が多数存在する。今後のインドの発展において、このような貧困層の人々が確実に減少していくかどうかは、注意深く見守られなければならない。

 インドの「国民」ではあるはずだが、常に「カースト制」の「外」におかれ、国家の諸政策の主対象とはされてこなかった人々が、インド憲法で「指定カースト」、「指定部族」と規定される人々である。本書はその指定部族、インドで「アディバシ」と呼ばれる先住民の人々のために、生涯を通じて活動してきたインド人宣教師夫妻の活動の記録である。Dr.RACポールもアイリス・ポールも共にキリスト教の宣教師、また医師としてインドのオリッサ州南部の「辺境の地」と呼ばれるマルカンギリで農村伝道のために働いてきた。マルカンギリは森林に囲まれた山岳地帯で多数の先住民が暮らしているが、彼らの生活指標は非常に低く、基本的なニーズ(衣・食・住・教育等)さえ十分満たされているとは言えない。彼らの経済、社会、文化的状況は開発政策において様々な点で改善、または保持される必要があった。マルカンギリはインドでもヒンドゥ教の原理主義的な考え方が根強く、キリスト者への迫害や嫌がらせなどが頻繁にある地域であったが、ポール夫妻はそのようなで地域で、先住民へ福音を伝えることから活動を始めたのである。夫妻はやがて、先住民の「全人的な開発」(Holistic Development)のためにはキリスト教伝道だけではなく、コミュニティ開発が重要であることに気付き、のちに開発のためのNGO、RHS(Reaching Hand Society)の設立へと至った。キリストの愛を宣べ伝えつつ、彼らの生活状況を改善していくために、識字教育、水資源開発、医療活動等を実施していったのである。
 
 多宗教が混在し、キリスト教徒への迫害や差別がある地で、異なる文化や社会状況のなかに生きる人々にいかに伝道していくことができるのか。ポール夫妻は先住民の人々の生活の中の出来事を、聖書のイエスのたとえ話に結び付けて分かりやすく説教をしていった。アニミズムを信奉する彼らにキリスト教を押し付けることは決してしなかった。しかし、道すらない、奥まった僻地の村に住む人々を定期的に歩いて訪ね、彼らの生活を案じ、彼らの「生」に関わり続けてきた。必要ならば病気治療のための薬を手に、良い栄養を採るために農作物の種を手に、識字の能力を得ることができるようにペンとノートを手に、貧しい人々の所へ、今も訪ね続けるDr.ポールの存在1は、その存在そのものが何よりも先住民に「真実の愛」を伝えてきたのではないだろうか。それはひとえに「人々と共に生きる」姿である。

 「宣教師」とはいつの時代、どのような場所でも「人々と共に生きる」ことでキリスト教を伝えてきた人々のことと言えるであろうが、本書には肩肘を張らない等身大の「社会でかえりみられない人々と共に生きる」地道なインド人宣教師夫妻の姿勢が鮮やかに描かれている。
 
(評者は明治学院大学国際学部4年在籍時の1995年に、開発途上国の現地NGOの活動を調査するために初めてマルカンギリを訪ねた際、Dr.アイリス・ポールと出会いました。それ以降、彼女と親交を保ち続けてきていますが、2000年にマルカンギリを再訪の際、本書の日本での紹介を彼女から依頼されました。本書の要約書を日本語で作成したので、興味のある方は是非お申し出ください2。)


1 Dr.RACポールは残念ながら病のために1986年に45歳という若さで召天されたが、その後も今日に至るまでDr.アイリス・ポールはマルカンギリで活動を続けてきている。

2 連絡先は国際平和研究所(白金) пF03-5421-5652かFax:03-5421-5653
  E-mail:oshima@prime.meijigakuin.ac.jp

(おおしま じゅん 国際平和研究所教学事務アシスタント)


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