表紙メッセージ 播本秀史
生きる
ながく生きてきたけれど
おほく生きたわけじゃない
このとき生きていることと
あのとき死んでいることと
かわらないのか
かわるのか
風がいふ
あなたは死んで
あなたは生まれた
あなたはひとりの
あなたではない
(はりもと ひでし 所員・文学部助教授)
「明治学院学」ヴィジョン 真崎 隆治
言語コミュニケーション学部の新設がとりざたされていた頃、設立準備委員であった当時一般教育部の嶋田教授あたりを中心にして、全学共通科目に明治学院に関わる科目をおくことが検討されていた。それは単なるアイデアの段階にとどまらず、新設学部の全学共通科目カリキュラム4本柱の1本として、かなり具体的な輪郭をもって描かれていた。全学共通科目には、一般教育科目とちがい、他大学には見られない本学ならではの科目群として、明学生のアイデンティティーを形成する要素も必要であると考えていたので、この実現を楽しみにしていたが、同学部構想挫折とともに、明治学院学の原型ともいうべきこの着想も絵に描いた餅に終わった。
しかしながら、希望は途絶えなかった。全学共通科目をはじめとする本学の教養教育について検討し実践を提唱してい役割を担う教養教育センターが設立されたのである。ここに明治学院に関する科目群構想が再浮上したのは当然である。
その一方において、橋本茂教授から、キリスト教研究所で明治学院学を構想しているとの話を伺った。お互いに無関係に発想されたものであっても、いやむしろそれだからこそ、今日の明学学生に何か意味あるものを提供しようという思いが同じところに至ったのが面白かった。なお、「明治学院学」なる呼称は橋本教授の命名である。
7月のキリスト教研究所一泊研究会で明治学院学がとりあげられ、すでに『あんげろす』第28号に示されていた橋本構想の説明を受け、それが現実感をもって語られるようになったのは一つの前進であったが、まだとりたてて目新しい議論にはならなかった。この場で私の述べたことは、キリ研プログラムは、将来的にはともかく、現段階では履修単位にはならないことと、センターとしてはカリキュラムが総花的なものになるのは好ましくないと考えていることであった。
こうしてみると、キリスト教研究所で構想しているものと、教養教育センターで検討中のものとは、一見道筋を異にしているようだが、実は対立するものでないばかりか、補完的に関わりあえることが明らかになったと思われる。すなわち、学生への啓蒙的な色彩と学外の人々への働きかけの可能性を持つ研究所プログラムと、全学共通科目としてより専門的な視野から各論的に構築されていくであろうセンター・カリキュラムとにひとまず弁別したうえで、担当者の相互乗り入れや各年度のそれぞれの内容の有機的な関係の検討など、綿密に協力しあうことによって、個別には獲得できない広がりと豊かさを展開していくことができるであろう。
いま「明治学院学」が必要であるとの共通認識にたつこの両者の関係からよき実が産みだされ、10年後、明治学院について喜びをこめて語る卒業生たちが巷に満ちていることを、私は今から夢見ているのである。
(まさき たかはる 所員・教養教育センター教授)
マイケルさんのこと 加山 久夫
本研究所が共同研究プロジェクトを活動の柱とするようになったいきさつについては、「研究所35年の歩み」(『紀要』35号所収)に触れておきましたが、その一つとして「日韓のキリスト教の比較研究」という興味深いテーマを取りあげたことがありました。研究所からM.マリンズ、R.ヤング、渋谷浩、畠山保男、加山久夫の5名、他に韓国人とアメリカ人研究者5名による約3年間のプロジェクトでした。
その共同研究もほぼまとめの段階に入った1993年の正月明け、横浜校舎のブラウン舘に合宿し、それぞれの論文を披露、共同討議を進めていました。その二日目の午後、アメリカから教育宣教師として来日しておられたダグラス・マイケルさん(聖学院大学助教授)がご自分の論文を読み出されて30分ほど過ぎたとき、その大きな体が突然平衡を失い、フロアに崩れてしまいました。テーブルをはさんで丁度向かい側にいた私にはいったい何が起こったのか一瞬理解できませんでしが、とにかく健康相談所に連絡。看護婦の成沢さんがすぐに駆けつけてくださり、人口呼吸をしてくださいましたが、なんの反応もありませんでした。間もなく到着した救急車に私が同乗し、近くの病院に搬送しましたが、そのときには既に亡くなっていたようです。42歳の若さでした。ご家族への連絡、検死のための遺体の解剖、葬送のあれこれ、ほんとうに嵐のようなそれからの数日でした。そのなかでなによりも辛かったことは、突然愛する者を失った若い夫人とまだ十分に事態を理解できない小さなお嬢さんへの思いでした。また、その直前まで元気に論文を朗読していた方が突然亡くなるのを目の当たりにして、人の命のはかなさを改めて深く実感したのでした。
私が本学に就職し、研究所に関わるようになって21年の過程で、マイケルさんのことはもっとも忘れられないことの一つであり、あのときの一こま一こまが鮮明に思い出されます。幸い、研究成果は1995年、Perspectives
on Christianity in Korea and Japan. The Gospel and Culture in East Asia
として米国のEdwin Mellen社から出版されました。この本には、遺稿なったマイケルさんの論文("Contemporary
Christian Responses to Japanese Nationalism")が収められ、また、同書はマイケルさんに献呈されています。
(かやま ひさお 所員・文学部教授)
カトリック教会のエキュメニズムについて 手塚 奈々子
第2ヴァティカン公会議(1962-65)以来、カトリック教会ではエキュメニズムが盛んに推進されている。近代の諸教会対立の歴史を振り返れば、この公会議の意義は大きい。カトリック教会はこの第2ヴァティカン公会議での決定に基づき活動しているので、この公会議で教皇パウルス6世のもとに出された「エキュメニズムに関する教令」(南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』中央出版社、1986年p.111-127)を簡単に振り返る。
その序において「すべてのキリスト者の間の一致再建を促進することは、聖なる第2バチカン公会議のおもな目的の一つである(p.113)」と公言される。エキュメニズムについては、「4『エキュメニカル運動』とは、教会の種々の必要と時宜に応じて、キリスト者の一致を促進するために奨励され組織される活動と企てである。まず第一に、分かれた兄弟の状態に公正と真理に基づいて対応していないため、彼らとの相互関係を困難にしている言葉、判断、行動を根絶するためのあらゆる努力である。次に、異なる諸教会や諸教団に属するキリスト者が宗教的精神のもとに企画した会議において、相応の準備のある有識経験者の間で行われる『対話』である。この対話において、各々が自分の教団の教義をより深く説明し、その特徴を明らかに示すのである。この対話によってすべての人は相互の教団の教義と生活について、より真実な知識とより公正な評価を得る。またそれらの教団は、すべてのキリスト教的良心が共通善のために要求するあらゆる義務においても、もっと広く協力し合うようになり、なおゆるされた範囲内で、心を一つにして祈るために集まる。
その上、すべての人は教会に関するキリストの意志に対する自分の忠実さを反省し、そして当然、刷新と改革の事業に熱心に従事する。(p.116)」このように研究と対話により相互に深く理解し合うようになることが求められている。また互いの相違を認識しながらも、隣人愛の業として特に社会的事柄に関して協力し合い、世界に対して福音を証ししながら教会一致のために対話することが勧められている。
「19啓示された真理の解釈に関して、著しい相違があることを認めなければならない。(p.125)」「22主の晩餐、他の諸秘跡、礼拝、教会の職務に関する教義を対話の題材としなければならない。(p.126)」「23教会一致のための対話は福音の道徳的適用から始めることができる。(p.126)」
パウルス6世はコンスタンティノポリス総主教アテナゴラスと共に、1054年に互いを分裂に導いた相互の破門宣告を取り消したり、キリスト教徒一致推進事務局を通してエキュメニズムを正しく推進させ、諸教会との協力関係を今後も促進させるためにキリスト者の一致のための秘書局を公会議後に聖座の永続期間として残した。
その後もカトリック教会は諸教会と様々な対話を行っていることは周知の通りである。エキュメニズムの目的は、様々な教会を合成してキリストの教会を新しく組織的に1つにすることではない。様々な異なった礼拝形式を互いに理解し、尊重しながらも、各教会の独自性を生かし、同じ唯一のキリストを信じるのだから互いに協力し合うという聖霊における多様性の一致が説かれているのである。現在日本での身近な例で言えば、神学研究の他に共に集まり祈祷することが行われている。礼拝合同ミサが行われたりもする。また、毎年1月18日から25日まで「キリスト教一致祈祷週間」が特別に設けられ、すべてのキリスト者が共に心を合わせることができるよう祈っている。同じキリストを信じる者として、キリストの愛と平和に基づき、相互の立場を尊重しながら協力し続けることを願う。
(てづか ななこ 所員・社会学部助教授)
2002年3月22日、29日「越後タイムス」
1面掲載
作家椎名麟三と柏崎−油田地帯を背景に映画製作−
田靡 新
―今日から柏崎へ参ります。10日くらいの予定で。映画の方で、僕をなかなかはなしてくれず、「愛と死の谷間」の次の作品をかかなければならぬことになり、柏崎の油田地帯を背景にしようか、と考えたからです。題名はもうきまっていて、「鶏はふたたび鳴く」です。書写(椎名生家の裏山・編集部註)を背景に、何か映画にしたいものですね。では、お元気で。24日−
椎名麟三(1911〜73)と文通をはじめて1ヶ月目の昭和29年8月の手紙である。椎名さんはその年に、最初の自伝小説ともいわれる「自由の彼方で」を出版され、芝居演劇にも盛んに興味を抱いていたころだった。
わたしがはじめて椎名さんのことを知ったのも「終電車脱線す」という一幕物の芝居の案内ビラであった。大阪の郊外にある大学4回生でアパート暮らしをやめ、故郷の姫路から通学に切り替えた5月。卒業単位も残り少なくしていたから、2時間余りの通学も苦にならない。最後の学生生活を満喫しようと映画演劇、歌舞伎と時間のある限り鑑賞することにしていた。
大阪中之島公会堂で講演会か映画を観たあと、出口で手渡された一枚の芝居ビラに吸い寄せられたのだ。原作者の略歴を読み、椎名さんがわたしと同じ小学校の先輩であることを知る。ビラを持つ手がふるえたのを覚えている。これがわたしと椎名さんとの運命の出会いになるとは、そのときは感じなかったが、それ以後文通はなくなるまで続き、その年の暮れには椎名さんを28年ぶりに古里へ案内している。
前置きが長くなるが、戦後文学の第一の新人グループ「あさって会」でもっとも親しかった中村真一郎の弁を借りると「椎名麟三は戦後日本を代表する作家のひとりであり、特に無神論的マルクス主義の歴史的必然の考え方から、実存主義的キリスト教の自由の世界へと、劇的な展開を行ったことで、現代の思想界のもっとも重要な課題に対する、ひとつの解答を求めて、生活をそれに捧げた殉教者として、忘れられない人物である」。この文章は拙著『椎名麟三管見』)神文書院1991.3.)の序文にいただいたもの。その後中村真一郎の「小さな噴水の思い出」(筑摩書房、1993.9.)にも収録された。
その稀有の作家とであったわたしは、一枚の芝居ビラをたよりに椎名さんの本名大坪名の村落が分からないので問い合わせの手紙を出したら、打って返すがごとくに冒頭のような返事が届いたのだ。
ここで椎名さんの略歴に触れざるを得ないが、未婚の母のもとに生まれたことから私生児のイメージを生涯もちつづけていて、別離した父親の長い不在、それに伴う貧困と母親のスキャンダラスな生活から逃れての家出など、古里への苦い思い出は椎名さんの心に鋭い刺のように突き刺さっていた。その古里の青年からの手紙にタイムスリップさせられる。そのころ大阪から転校した小学校での陰湿なイジメもあったが、父親からの仕送りが途絶えた母子家庭の暮らしは余りにも悲惨であった。さらに当時の村長がわたしの縁者だったこと。そして小学校の同級生の中にいた村長の娘に、椎名さんは「淡い恋心を感じていた」と最初の返信の葉書に書いてきたのだ。
椎名さんにしてみると、親類縁者に対する不義理の清算もあったかもしれない。30年近く音信普通どころか生死さえ不明だったことへの釈明が作家になった証しにかわる。
しかし、その再会は、果たして椎名さんにとって、幸せだったかどうか。周囲からも椎名さんには古里がない方がふさわしいとまでいわれていたし、事実、本人もその気になっていたふしがある。このあとは、失った義理を埋め合わせる余りに、親類縁者との付き合いが重なり心筋梗塞で倒れるという最悪の結果を招くことになるのである。
前文の手紙にあるのは、いずれも五所平之助監督作品で、その前作は「煙突の見える場所」だった。戦前の名画「愛染かつら」の名コンビ、上原謙と田中絹代が、この映画では下町の夫婦役に。同作はベルリン映画祭国際平和賞を受賞し、その年のキネマ旬報ベスト4に挙げられている。原作が椎名さんの短編「無邪気な人々」である。
椎名さんはこのころからラジオ、テレビのシナリオを書き始める。「煙突の−」の映画化では主張したい思想が十分に表現できなかったとして、次回の「鶏―」のシナリオを自ら担当する。そのために、柏崎の撮影現場に何度も出掛ける熱の入れようであった。
物語は、自殺同盟を結んだこの世で一番不幸な三人の乙女と柏崎での石油発掘で幸せを掴もうと夢見る5人の男たちが織り成す人間模様。当時の新聞記事によると、文学と映画の接近だとして、同期の野間宏、武田泰淳、大岡昇平、花田清輝らがこの映画への期待を寄せている。椎名さんは、生涯、映画は3本に終わったが、戯曲が18本、ラジオ台本が17本、テレビ台ホンが6本にも及び、それらのすべてが、生前親交のあった和田勉(NHK)演出である。椎名さんの描く小説が暗くて重いというイメージに比べて、ドラマ化されたときの頂上人物は哀歓に満ち、常に戯画化されていて滑稽であった。
その没後、7回忌に向け、ほとんど私的な発送のまま椎名麟三文学部碑を古里の山頂(書写)に建立したいと走り回る。姫路市民にとって椎名さんのイメージは、その当時ですら共産党員のかげを背負っていて、結局募金集めに2年余りを費やした。
そののちわたしの家族と椎名さんの家族が姻戚関係にあることが分かる。わたしの祖父の妹(大叔母)の嫁ぎ先、その家から嫁いだ長女が椎名さんの母(次女みす)を生んでいる。この不思議な地縁に椎名さんとの関わりあいが一層深まるのだ。
なお椎名さんは今年で生誕90年、没後からその命日(3月28日)「邂逅忌」(東京)、古里姫路では「自由忌」を開催している。わたしは去る年の「邂逅忌」のあと、新潟の巷町に近い弥彦村の「ロマンの泉美術館」に出掛けた。六日町に住む画家外山康雄氏の案内で。ちょうどお昼時ということもあって、その美術館に併設されたフランス料理のレストランは賑わって
いた。
19世紀末期の画家フランツ・フォン・パイロス(1866〜1924)の個性的な作品そっちのけの、食欲旺盛な人々を迎えるこの国の美術館のありようをのぞいた気がした。日常の暮らしの中で、それでもゆっくりと文化が根付いていく過程において美術館の役割は大きい。
(たなびき しん・作家)
*田靡氏より寄贈されましたので今回ご紹介しました。田靡氏には、この場を借りてお礼申し上げます。