表紙メッセージ  橋本 茂


座右の銘

 日々の生活で一番多く思い起こし、その意味を反芻することの多い言葉を、私は座右の銘と定義している。したがって、ある言葉が、座右の銘になるにはそれ相当の年月を必要とする。それはまた、座右の銘を云々するのは、年を取った証拠にもなろう。

 私の座右の銘は、「あなたは義に過ぎてはならない。また、賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか」(コヘレトの言葉 7章16節)という旧約聖書の一節である。

 この言葉と関連して、私はいつもビロード革命の指導者であったチェコの大統領ハベルの演説を思い出す。彼は現代世界が直面している脅威の根本原因の一つとして人間の「自惚れた精神」を挙げる。「自ら自然を全体的に理解し、好きなように操作できる」という自惚れ。「自己の歴史を総体的に理解でき、それゆえに万人にとって幸福な生を設計でき、……それに賛同しないものは皆、掃討する権利さえ与えられている」という自惚れ。この自惚れこそが自然を破壊し、自分のみならず多くの人々を不幸におとしめたと、彼は言う。

 こんな人間に、聖書は繰り返し、正しきに過ぎるな、賢きに過ぎるな、お前は神ではない、一介の人間に過ぎなしのだと、語りかけている。

橋本 茂(はしもと しげる 所長)


わかったようでわからないキリスト教主義教育

鵜殿 博喜


 言葉というのは悩ましい。言葉を使わなければ意を伝達できないのが人間の宿命と言えるなら、言葉を使っても意を伝達できないのも人間の宿命だからである。ましてその当の言葉を厳密に定義するのがむずかしいとなれば、なおさらである。

 キリスト教主義教育、この言葉を聞いてわれわれは何を想起するだろうか。キリスト教教育ではなくてキリスト教主義教育である。キリスト教教育ならば、キリスト教を、すなわちキリスト教という宗教を多面的に教える教育であると、わりあい素直に理解できるであろう。考え方としては、文部科学省が学校教育に導入しようとしている宗教教育と同じである。宗教教育と宗教主義教育というふうに並べてみると、宗教主義教育の方が怖い感じがする。なにか原理主義的なにおいがするのである。ところが、キリスト教教育とキリスト教主義教育となると、キリスト教教育の方がストレートな印象で、キリスト教主義教育の方は受ける印象があいまいである。

 むかし読んだので記憶が定かではないが、漱石は「イズムについて」というエッセーのなかで、イズムとは整理された引出しのように便利なもので、それができあがるまでの苦労の過程は消えているというようなことを書いている。カルヴァン主義とかルター主義という場合はこの漱石のイズム観があてはまるように思われるが、キリスト教主義の場合の主義はどうも違う。社会言語学者の田中克彦氏は、古いエッセーを集めたエッセー集のなかで、「主義と訳される西洋語のもとはイスムス、イズムだが、そこには、かならずしも<主義主張>という意味はない。アルコホリズムのように、望んでなったのではない一定の症状をさすこともあるから、マスクス主義がどうしてもきらいな人は、これを語源にしたがってマスクス症と解釈してがまんする手もあるのだ。じじつ主義にはかならず症状的なものが伴っている。」(『法廷にたつ言語』 岩波現代文庫 229ページ)と言っている。この伝でいくと、キリスト教主義教育とはキリスト教的な病に犯された教育、あるいはキリスト教がなくては寝ても覚めてもいられない中毒症状の教育ということになり、おかしなことになってしまう。それともキリスト教の「主義主張」を教える教育なのか。そうするとキリスト教教育よりもキリスト教主義教育の方がより宗教的に硬直した教育になってしまう。しかし大学で正規の科目として設置されている「キリスト教の基礎」の趣旨とはどうも違うようである。

 本学で一般に使われているキリスト教主義とは、おそらくキリスト教的価値観ということなのであろう。あるいはキリスト教的文化というべきか。キリスト教に内在している考え方、あるいはキリスト教という宗教が生み出してきた文化を総称してキリスト教主義といっているのか。

 それにしてもキリスト教主義とはあいまいな言葉である。このようなあいまいな言葉のもとでキリスト教主義教育の主翼を担っておられる先生方のご苦労は並大抵のことではあるまい。明治学院大学のキリスト教主義教育がその教育の果実を味わえるとすれば、それは絶えざる内省と試行を積み重ねながら教育がなされる場合のみであろう。その意味するところは教養教育と同じである。

(うどの ひろよし 所員・経済学部教授)


『現代の世界経済』のこと       中山 弘正


 今日は「米国の対イラク先制攻撃に反対します。日本のイラク攻撃加担に反対します」という「社会科学者は訴える」という意見広告(『朝日新聞』2.27.予定とのこと)に賛同の意志表示をしたところである。この原稿が活字になるよりも早いだろうが、アメリカの好戦的姿勢から見ると広告じたいも事態に追い越されるかもしれない。

 時を与えられた今年度の私の主な仕事は『現代の世界経済』の執筆であった。実際ひたすら書いていたのは、02年4月〜8月であるが、6月の上海と9月のロシア・ドイツ・チェコの旅はこの小さい作品の役にも立った。実はこの本のことは経済学部の紀要『経済研究』第126号(03年3月)にも「ノート」を書いているのであるが、とにかく、私としては、ロシア・ソ連からとび出して「世界経済」そのものを自著のタイトルにするのは全く初めてなので、大冒険なのであった(共著はあるが単著は初めて)。それで、こんなところにもその興奮をぶちまけてご声援を乞うという次第なのである(岩波書店、03年4月末刊行予定、3800円)。「ノート」の段階では書店名も定価も出していないし、そこでは「地球帝国アメリカの興亡」というサブタイトルを考えていると書いた。しかし、結果的にはサブタイトルは全く無しとした。たしかに「亡」は今の段階ではまだ言えない。近未来のことである。しかし、イラクに先制攻撃を加えたならば、「亡」のはじまりになろう。昨今のロシアの新聞『イズヴェスチヤ』に、イラク副首相が「アメリカのイラク戦争は、スターリングラードになろう」(ナチスの敗北の開始になぞらえている)と述べているが、アラブ諸国の動きがどうなっていくか、何が起こるかわからない。一時的に軍事的勝利があったとしても、チャルマーズ・ジョンソン『アメリカ帝国への報復』(集英社、訳2000年6月、「9.11.」のような出来事も予言したもの)の述べる対米報復は強まる一方であろう。経済ではいつものように、当面、戦争景気でアメリカの失業者は減り、軍需産業が活気づくとしても、国家財政の赤字は一層増え、貿易赤字は増えて、1990年代の日本のような長期大型の不況が、「亡」国のはじまりを告げることになるのではなかろうか。グローバリズムと市場原理主義ではもうこの国の「過剰富裕」と巨大な格差を正すことはできない…。

 といった思いを込めて、ファンダメンタル(原理主義)なキリスト教の悪しき自己義認に陥っている地球帝国アメリカを見据えて分析したものである。冒頭に聖句「剣をとる者は剣で滅びる」(マタイ第26章)を揚げた。

 むろん、アメリカは一つの焦点であるが、「世界経済」はアジアもヨーロッパも途上諸国も含めて成立しており、旧ソ連・東欧など「市場移行」地域も含んでいる。アメリカ帝国が滅びても「世界経済」はしばらくは残るであろう。ちょうど経済学科で「世界経済」というコースを立ち上げた(02年度から)ので、本書は私なりのそのことへの問題提起的なかかわりの表現でもあるつもりなのである。EUのところでは、根底にキリスト教があることが強調されている。最後は、ヨハネ黙示録(第8章)の「第七の封印」の引用で締めくくっている。地球帝国アメリカが亡びて、その後の「世界経済」に与えられるわずかの「時」を指し示したつもりなのである。聖句に始まり聖句に終わる、そんな『現代の世界経済』とともに歩んだ年度だったのである。諸兄姉に感謝しつつ。

(AD2003.2.11.)

(なかやま ひろまさ 所員・経済学部教授)


「神とともにあること」を学び続けて…     山崎 美貴子


 20世紀における地球上の私たちの生活は戦争などの暴力に支配され、多くの人々の命が其の犠牲となってしまうことが絶えることなく続きました。

「どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。」(テサロニケの信徒への手紙 二 3.16)とパウロは祈り続けたように、長い時代を経て、21世紀初頭に入っても、相変わらず、戦争が継続し、パウロの祈りに合わせて、祈らずにおれないような想いになります。

何よりも貴ばれなければならないのは人の命の尊厳でありましょう。その命が一度に、しかも大量に奪われてしまう原因となるのが戦争です。国と国との利害の対立によって生じる戦争の犠牲を強いられるのは弱い子どもたち、女性達であることは間違いのない事実でしょう。

その国が平和である時代状況で生活をしているときは平和のありがたさを当たり前として受けとめ、他の国の子どもたちや高齢者等が戦火によって、痛ましい死を遂げていたり、親やきょうだい、親族が散り散りになり、家や家財、国を奪われ、難民として暮らす人々のことに想いが至らないことは少なくないのではないでしょうか。

今、この日本で暮らしている私たちの日常はかつてのように戦火に見舞われる日々ではなく、一見、平和そのものである為に、国を追われたり、目の前で大量に人が殺戮を繰り返している姿に触れることがない為に、実感を持ってそうした事態を理解し、受け止める事ができないのは当然のことかもしれません。

昨年は国連が定めたボランティア国際年でした。国連に対して2002年を「ボランティア国際年」と定めることを提案したのは日本でした。日本が提案国となった理由は一人の大学生が大学4年次、卒業を控えていたときにカンボジヤで国連の監視下によって国政選挙を行うこととなり、志願して国連のボランティアとして現地で働くことを決意したのでした。それまで、圧政により、国内で大量の殺戮が繰り返されていたのですが、その事態に終止符を打ち、平和を取り戻すための努力が開始され、その青年はその支援のために現地に滞在していたのですが、残念ながら、テロの銃弾により若い命を失ってしまいました。その彼の死を無駄にしないために、その青年のお父さんが日本政府に対して、国連にボランティア国際年を設定するように働きかけました。その結果、世界104カ国の賛同を得て、国連により、「ボランティア国際年」の活動が世界各地で進められ、この地球上の105カ国の活動報告が国連でなされました。我が国でも全国各地で百万枚を超える、平和を願うメッセージカードが書かれ、様々なアクションプランが展開されました。

 平和を願う人々がこの地球上にたくさんいるのに、人間の心貧しさによる争いは絶えることなく続くのでしょうか。

「神はまた、人の心に永遠の想いを与えられた。しかし、人は神の行われるみわざを初めから終わりまで見極めることはできない」とあるように神様は途切れることなく、終わることのない永遠の想いを与えてくださっているのに、私たち人間は神様がなさっている大きなみわざを見極めることさえできないままに、争いや人への憎しみをぶつけ合っている事を率直に認めないわけにはいかないのです。

 これから、明治学院大学を卒業してゆく学生のひとりひとりが、自分自身を顧みて、神様を仰ぎ、祈り、「神とともにあること」を心から信じて卒業してほしいと願っています。

 神は時間を超えて共にいてくださる存在であることを胸に刻んで、神とともに歩む事ができる学生たちであることを心から念じています。

(やまざき みきこ 所員・社会学部教授)


Harold W. Attridge教授の学術講演会について

久山 道彦


 2002年11月9日に、Harold W. Attridge教授を本学に迎え、「20世紀のグノーシス主義研究」と題して学術講演を開催できたことは、日本で新約聖書学や古代キリスト教思想を研究するものにとり大きな喜びであった。Attridge教授は、ナグ・ハマディ写本の校訂者の一人で、ヨセフス研究やヘブル書の注解など、古代キリスト教全般にわたり精力的に研究を続けている世界的な学者であり、現在は、Society of Biblical Literature会長、Yale大学神学部の学部長という要職にある。したがって、日本にいながら、最新の研究動向をAttridge教授から直接伺い、かつまた討論を行えることは、大変貴重な機会であったといえよう。会場となった白金校舎本館92会議室では、関東近辺は言うに及ばず、遠方より参集した専門研究者30名ほどが、1時間以上にわたる英語の講演に熱心に聞き入り、その後の質疑応答に活発に加わった。以下は、Attridge教授の講演要旨である。

グノーシスに関する学問的研究は、エイレナイオス、殉教者ユスティノス、ヒッポリュトスなどの教父(古代キリスト教思想家)たちが、「キリスト教の異端」として言及していることに始まる。このような見方は19世紀に至るまで続き、教会史家として名高いA. von ハルナックがグノーシス主義を「キリスト教の急性的ギリシア化」と解したように、古典的な見解となったのである。

 だが、20世紀にかけて、W.ブッセやR.ライツェンシュタインといった宗教史学派と呼ばれる学者たちにより、新しい解釈がなされ、W.ヴレーデやA.シュヴァイツァーによるイエス伝研究にも影響を与えた。すなわち、宗教史学派は、グノーシス主義をキリスト教の異端というよりも、現在の南イラク地方起源の原初的神話の翻案と看做したのであった。これにより、R.ブルトマンのように、グノーシス主義の伝統がキリスト教の登場を可能にしたという説を唱える者や、H.ヨナスのように、グノーシス主義は現存在の不安という古代末期の精神を表現していると主張する者も現れたのである。

 しかし、1945年のナグ・ハマディ写本発見は、グノーシス主義研究を劇的に変えてしまった。約52の文書を含むおよそ13の写本からなるナグ・ハマディの資料は、ヴァレンティノス派に関するものと、セツ派に関するものに大別されるが、これらのテキストを丁寧に分析し、グノーシス主義に関する教父たちの証言を再吟味することにより、研究は大きく進展したのである。

 従来の研究によれば、創造主である神からの離反の神話における創造と救済の分離、さらには人間の自由意志を認めない、善悪の本性決定論というグノーシス主義の考え方を、教父たちは「異端」として斥けたのだった。しかし、『三部の教え』のようなヴァレンティノス派に関する文書の中にも、始源の原理としての単一性を強調し、善悪「二元論」の導入に抵抗するテキストが見られるし、創造主の救済への意志を肯定し、人間の自由なる意志決定力を尊重しているテキストもある。また、『真理の福音』という文書では、きわめてミドラシュ的な解釈がなされており、ギリシア的というよりもユダヤ教的な色彩が強いのである。したがって、グノーシス主義についての古典的見解とは異なった側面を、第一次資料であるナグ・ハマディ写本は我々に示している。厳密な文献学的分析で知られるC.マルクシィーズによれば、ヴァレンティノス自身は異端というよりも、信仰とその時代の文化の架橋を試みた、想像力溢れる詩的な神学者であったという。

 加えて、ナグ・ハマディ(写本発見)以降のグノーシス主義研究においては、『ヨハネのアポクリュフォン』や『アルコーンの本質』といったセツ派に関する文書(H.M.シェンケによれば「集成」)の分析から、これらのテキストはラディカルなユダヤ教の伝統に多くをおっており、その教えを発達させた構造は釈義的であることが指摘された。これにより、宗教史学派による南イラク起源説も覆された。現在の研究は、古典的グノーシス主義の「脱構築」が継続され、グノーシス的現象の通時的発展に関してより慎重に微妙な差異を解明しようとしている。

『「グノーシス主義」再考』の著者M.ウイリアムズは、H.ヨナスの時代以来用いられてきたほとんどのグノーシス主義の特徴が、ナグ・ハマディの諸文書と批判的に吟味された教父文書によって明らかにされた事実からは支持されないことを示した。グノーシス主義は、果たして二元論であるのか?物質的世界への嫌悪は反宇宙的と言えるのか?セツ派のテキストは、嫌悪と同じくらい隣人への関心を示しているではないか。グノーシス主義は自由放恣であるのか?テキストは、少なくとも今日の敬虔なキリスト教徒と同じくらい禁欲的性格を示しているではないか。ウイリアムズは、「グノーシス的」とされた特徴を悉く破棄しようとしているかに見える。

我々は、まだグノーシス主義に関して多くの疑問を持っている。グノーシス的「セクト」というなら、そのセクトとは何か?それは教会というよりも、シナゴーグの共同体から派生した勉強会ないし知的なサロンのような小グループだったのではないか。セツ派の文書に関しても、2世紀後半には同人サークルのような形で聖書的伝統からのラディカルな反抗が始まっていたという点では、多くの学者の見解は一致している。そのような人々がヴァレンティノス派を生み出す素地となったのではないか。

 結論として、20世紀のグノーシス主義研究は、様々な面で発展を遂げたと言える。新たに発見されたナグ・ハマディの諸文書は、古い諸問題に対する解答を期待されたが、さらに新しい疑問を幾つも生み出した。グノーシス主義の全体像は、かえって以前よりも不透明になってしまったかもしれない。しかし、グノーシス主義という言葉で示される文学的かつ宗教的諸現象は、依然として我々を惹きつけてやまず、初期キリスト教をつき動かしたものへの重要な洞察を提供しているのである。

(くやま みちひこ 所員・文学部教授)


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