表紙メッセージ  宮田 加久子 


守るべき大切なものを見極める

 私の机の上には1枚のコピーが貼ってあります。「神よ、変えるべきことに対してはこれを変える勇気を、変え得ないことに対してはこれを受け容れる安らかな心をおあたえください。そして、そのいずれであるかを見分ける知恵をどうぞお与えください」。これは、現代アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの祈りの一節です。この数年、大きな社会改革の波の中で、大学も個人もいろいろな意味での自己改革が求められています。ついつい「変えること」が「進歩」と思いがちな私にとって、この言葉は新しいものを創造し、チャレンジしていく精神の必要性だけではなく、時には撤退する勇気、そして本当に守るべき大切なものを見極めることの重要性をおもいおこさせてくれます。そして、だれにとっても意思決定に悩むとき、原点に帰って考えることを促してくれる言葉だと思います。


宮田 加久子(所員・社会学部教授)


2003年5月9日 キリスト教研究所主催 公開講演会

「アメリカのキリスト教原理主義とイラク戦争」の報告


中山 弘正


 5月9日の6時から白金礼拝堂に於て、上記の講演会が開催された。参加者約120名。

 アメリカ・イギリス軍のイラク侵攻は少し前にほぼ「終了」し、復興とか新政権づくりが問題となっている時期ではあるが、企画の準備そのものは、3月末から始められていた。2人の講師は、たまたま、「1942年生れ、早稲田大学卒」という共通点もおありであったが、2人ともに実に良く準備され、まとまったお話で大いに勉強になった。

(1) 油井義昭氏(長津田キリスト教会)は、「アメリカを動かすキリスト教原理主義とは何か」と題して、米国では「英独などと比較してもキリスト教的観念が政治の舞台に多く現れる」のは何故か、を序として「アメリカのキリスト教原理主義の起源と変遷」を3つの時期に分けて話された。第1期は、1920年代。20世紀の初め頃から「社会的福音」を唱えるリベラル派の方が多かったが、5分の1程度のキリスト者は「聖書全体を神の言葉」とする「原理主義」の立場をとった。第2期は、1970年代頃までで、この間に1940年代から原理主義のグループが「戦闘的分離主義グループ」と「穏健なグループ」に分かれた。後者が「福音派(エバンジェリカル)」で、前者が強烈な反共産主義、対話拒否を特徴としているのと比較すると、後者は対話を拒まず、リベラルとの対話もしなくはなかった。1970年代頃にはこの福音派も政治に進出し、公立学校での祈りを支援したりもした。第3期は1980年代でモラル・マジョリティというグループの形成、テレビ伝道師による活発化などがあり、原理主義の力はソ連のアフガン侵攻を反共主義の立場から非難するレーガン大統領を押し出した。

 続いて、父・子ブッシュ大統領とキリスト教原理主義の親密な関係にふれ、彼らの「選民思想は第2時世界大戦に突き進んだドイツ的キリスト者(ユダヤ人排斥)と似て」いて、危険だ、とし、氏自身の属する「福音同盟(エバンジェリカル)」などはこれらを否定し、イラク戦争にも反対している、と結ばれた。

(2) 丸山直起氏(本学法学部教授)は、「ネオ・コン」などのアプローチがいわゆるユダヤ人差別を強めてはならぬ、と前置きした上で、アメリカ・ユダヤ人社会の変容―伝統的に民主党支持が圧倒的であったのに、近年急速に保守化・共和党寄りが強まっている―の原因を語られた。2001年現在、アメリカのユダヤ人人口は約615万人とされる。ところが、1965年から見ると、ニューヨーク州では彼らの他都市・郊外移住などで250万人から160万人に減り、逆にフロリダ州などでは13万から62万人に急増した。これは、彼らが全体として富裕化したことの結果でもあると見られる。在米ユダヤ人にとり「イスラエル」国家の存在は「絶対的に重要」で、強く支持しており、「アメリカ=イスラエル同盟」が在り、また「9.11」以後、「アメリカはイスラエルとなった」(パレスチナのテロがアメリカでも現実となった)とさえ感じられている。ただしブッシュ大統領らはイラク戦争の後は、イスラエルに圧力をかけ、パレスチナへの譲歩を迫るだろうからそのことで、米国ユダヤ人との対立が発生する可能性がある。2004年11月の大統領選での動きが注目される、と結ばれた。
 
講演後、30分ほど質疑応答があった。講演はテープに記録されており、油井氏のレジュメなど希望者はキリ研まで。秋学期には、イスラム原理主義についての似た形の学びを企画したいと考えている。   (AD2003.5.21.)


(なかやま ひろまさ キリスト教研究所所長)


夢と希望
――所員就任にあたって――
     司馬 純詩


 「キューポラのある街」という映画があった。

浜田光男と吉永小百合の、「輝かしき日活」映画である。川口か川崎かの工業地帯で、工員として生きる若い人たちの喜怒哀楽を描いた映画だった。

 一九六〇年代。人々は、高度成長期にあって希望に燃えていた。歌さえも「美しい十代」といった、明るいさわやかな歌が流行っていたのである。

 その同じ世代の人たちはいま、五〇代。打ち続く不況の中で、かつてない苦境に立たされている。この数年で、自殺者が急増した。
そして、私たちの明治学院大学では、若い人の自死が類ないほどに多い。
夢や希望が与えられない、そんな大学って一体何なのだろう。近年の事態を考えるにあたって、そのような思いがつのる。

 一九四五年八月。侵略戦争に敗北した日本は、六百万人からの満州移民を引き揚げさせることになる。

 庶民の敗走行は悲惨なものである。以下は朝日新聞に掲載された実話である。

実質的に日本の支配下にあったソ満国境「陳巴爾虎旗」の旗公署警察官の一団七〇人は八月九日未明、ソ連軍や中国人の襲撃を受けて二千メートル級の山々が連なる大興安嶺へ逃げ込む。夜、焚き火を囲んで幹部七・八人が協議した結果、「足手まといの子供全員に死んでもらって、大人は敵と最後まで戦おう」と決心する。

 死への旅立ちを前にと、子供たちの手に砂糖がスプーン一杯ずつ配られ、中隊長から自分の三才の一人娘のこめかみにピストルを当て、発射した。中隊副隊長もそれに続いて、子を「始末」した。

「僕だって歩けるよ。殺さないでよ」という男の子のわめき声も聞こえたと言う。

記事によると、岩手県の藤本さんはそれでもためらっていたという。

そこへ副隊長が「まだですか」とやってきた。

傍らの妻を見つめると、「父さん、やむをえないね」とうなずいたという。

一才半の長女は、母に抱かれたまま、額に銃口が当てられた。
妻は瞬間、目をそむけたという。

アブラハムの子イサクは、父にいけにえにされようとするその瞬間に主に止められ、救われる。この時は、赤ん坊から七才までの子供二十四人全員が、殺されたという。

 遺体は二列に並べられ、母親たちは髪やつめを切り、すがりついて泣いた。


幼女の母はいつかこの地に来る事があるのではないかと、木に娘「洋子臨終の地」とナイフで彫りつづけたという

「殺さないでよ」と叫んだ男の子は、一体どんな思いで、銃を向ける父を見たのだろうか。

大人たちは長い逃避行を続け、翌年の十一月に日本に引き揚げる。

(一九八七年二月一七日朝日新聞コラム「語り尽くされたか」第二部の5より)

私は、戦後生まれであるが、旧満州のハルビンに生を享けた。

物心ついたころ、無くなった祖母を弔うために、国交のない中国から母は私以下四人のおさな子を引き連れて、引き揚げ船「興安丸」で帰ってきたのである。父はその後、間をおかず秘密裏に渡ってきた。その後、私の末妹が成人するまで、私たち一家は日本で「戦い」のような貧しい、不安定な生活をしのぐことになる。

「足手まとい」と、自らの子を殺した人たちと、無鉄砲にも乳飲み子を含めた四人の子供を引き連れてきた私の親とは、どこに一線が画されていたのであろうか。「民族と国家」を盲信するかどうかに、それはかかっているように思う。

ともかく私たち兄弟は生き延びている。当時の無知な庶民の差別の中で、家族は悲惨な生活にあっても、明るい未来を夢見て生き延びてきたのである。

「失われた十年」に続くこの不況の中で、二万人で安定していた自殺者数はいまや三万二千人だという。うち中・高年の犠牲は一万四千人あまりの増加と言うから、増えた分はほとんどこの世代である。「キューポラのある街」を見て育った人たちは、かつてないつらい中・高年期を迎えている。

しかし、若い人たちの自殺は実は、増えているわけではない。

翻ってみるに、明治学院大学生の自死数は残念ながら、異常な高数値である。

私にはどうしてもこれが見過ごせない。

若い人たちの死には、胸が痛む。

すでに学内の各部署は連携を保って対策に奔走している。

考えてみるに、夢と希望が与えられないとしたら、私たちの大学は一体何なのだろうか。思いは晴れない。

若い人たちに、明るい未来を見せて上げられないとしたら、私たちの大学は、一体何なのだろう。

(しば じゅんじ 国際学部教授)


客員研究員就任にあたって         渡辺 祐子


 思えば私のこれまでの研究生活は、いくら勉強から逃れようとしても、神様がそれを許してくださらないことの繰り返しだった。

 学部学生当時、一般教養で東洋史の授業の面白さに魅せられ、特にキリスト教の影響を受けたといわれる太平天国に興味があった私は、義和団研究で知られる佐藤公彦先生のご指導のもと、現代中国語より遥かに難しい漢文資料に苦しみながら、どうにか太平天国の宗教に関する卒業論文をまとめた。卒業後結婚し、間もなく大学院に進学したが、同時に妊娠。長女出産後復学したのもつかの間、第2子を妊娠。修士だけは何とか終えようと、先生の呆れ顔に小さくなりながら5年かけてようやく修論―近代中国における反キリスト教運動―を書き上げた。

 さあ、これでもう研究はいい、専業主婦になって子どもたちとたくさん遊ぼう。私はそう心に決めていた。しかしいざとなると、なぜか踏ん切りがつかない。祈った末、結局そのまま博士課程に進むことに決めた。

 ドクター在学中、第3子を出産した。ふたりも三人も同じだと、出産直後は研究の継続に迷いはなかったのだが、実際育ててみると大違いなのである。すっかり参ってしまった私は、幾度となくもう研究をやめようと思った。子どもとじっくり付き合うのも面白い。母親は私一人だが、私のやろうとしていることは他の人でもできることではないか。

 今から5ヶ月前、所属するキリスト教史学会のクリスマス祝会で大西先生に初めてお会いした頃も、実はそんな思いに強くとらわれていた。あの時、大西先生にお声をかけていただかなかったら、今ごろ非常勤のコマ数を少しずつ減らして、研究生活にけりをつけようとしていたかもしれない。そう思うと、今回客員研究員というポストを与えていただいたことは、まさに主のお導きだとしか考えられないのである。

 今回「宣教師研究」プロジェクトの一員として、私は手始めに20世紀初頭の中国におけるキリスト教主義大学(中国語では教会大学)の設立と統合について調査している。1900年以降からすでに動きがあったミッションを横断する高等教育機関の設立は、1910年以降さらに本格化し、1920年代に13の連合大学(University)が開設される。国際的なエキュメニカル運動と、国民革命という政治的な動きが、中国のキリスト教主義大学統合と如何なるかかわりを持っているのかが当面のテーマである。幸い、この時代の中国語は清末のそれよりもまだ読みやすい。欧文資料だけでなく、可能な限り中国語の1次資料に当たりながら、当時の生の声を拾い上げていきたいと思う。


(わたなべ ゆうこ キリスト教研究所客員研究員)


言葉と肉、あるいは石     杉山 恵子


 かつて(正確にいえば、私にとっては、1963年から73年までの間)、たねの会で椎名さんの言葉を何度も聞いた。たねの会は、初め銀座教文館九階の遺愛室でもたれていたが、後に青山学院のウェスレーホールに移った時期もあった。月一回の例会、その他、小説部会、演劇部会、評論部会という分科会が毎月行なわれていた。

 すでに心筋梗塞の持病が悪化した状態であったにもかかわらず、椎名さんは時間と体力の許すかぎり積極的に会にでてこられた。小説部会は実践の場で、十枚原稿と称する短編を各自が持ちより、みんなの前で自作を朗読するという形式がとられていた。ここで語られた創作に関する批評は厳しかった。何よりも作者のモチーフの強さ、深さが問われていた。

 例会では、当時話題になっていた出版物や上演された演劇などがとりあげられることが多かった。そんなときみんなの語る言葉のなかに、私はいつもある種の違和感を感じていた。それは椎名さんの語る言葉を、みんながそのまま踏襲して使うときに起こるのだった。椎名さんが語るときには、たしかに彼の語る言葉なのである。しかし、「二重性」「絶対化」などという言葉がそれぞれの舌で語られると、なんだかみんな似合わない衣服を着せられたようなぎこちない語りに陥ってしまうのだ。なぜ、同じ言葉であるにも関らずこれほど重さが違うのか、それは私にとって長いこと謎だった。

 今回、客員研究員の仕事をお引き受けするにあたって、自分の研究として私は二つのテーマを提出した。それは、椎名文学の現代性を世界文学のなかで問うことと、もう一つ、たねの会当時の椎名さんに関する資料収集の一環として、自分の当時のノートから、椎名さんの語った言葉を取り出してみようと考えたことだった。いわば、当時のたねの会の会員の方々をも網羅して、後期の椎名さんの言行録のようなものが作れないだろうかと考えたのである。後者の案に関しては、椎名研究のグループの方々も大いに乗り気になってくださった。

 研究所の席に坐るようになって一ヶ月余り、当時の他のたねの会の会員の方々のその後の文章を読むようになってから、私は今度はまた妙な戸惑いを覚えるようになった。多くの方々が、椎名さんの語った言葉を引用して書いておられる。そうした言葉は、多くの場合私も同時にその場にいたことがあるから、聞き覚えている言葉である。ところが、あのときあれほど身に添わないと思われていた言葉が、今度はすっかりそれぞれの着丈にあう言葉に変ってしまっているのである。たしかに、椎名さんの語った言葉でありながら、そうではない、同時に、今それを書いている方の言葉となってしまっているのである。

 もし、その言葉をそこから外して言葉だけを独立させようとしても、そんなことはもうできない。

 ふとそれは、私に石に描かれた絵を思いださせた。(なぜ、カンバスではなくて石なのかは問わないでほしい)この石から描かれた絵を剥がそうとしても、その絵は損なわれてしまうだろう。たとえその石が今の自分自身でしかないとしても、描かれた石であるよりほかに、その存在価値はないのかもしれないのだ。語られた言葉とは、一体何だったのだろうか。かつて傲慢だった私にとって、この謎は逆にいっそう深まるばかりなのである。

(すぎやま けいこ キリスト教研究所客員研究員)



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