連合大学設立運動と明治学院  大西 晴樹


キリスト教学校教育同盟百年史の編纂委員をしている関係上、最近本業を離れて、連合大学設立運動について論文をものす機会が与えられた。『明治学院百年史』を紐解くと、明治学院は関東学院、聖学院と一緒に「大正学院」を設立する予定であったと述べられている。いわば「老舗」である明治学院が大学令による「大学」に昇格しなかったのは何故かと常々疑問を抱いてきたが、ようやく氷解した。

というのは、キリスト教学校でも規模の大きい同志社・立教は過重な供託金を用意して「大学」に昇格したが、明治学院は、青山学院と連合して高等部を連合大学に統合する道を模索し続けたからである。この方策が成功していれば、学問的レヴェルと設備において申し分のないキリスト教大学が東京において誕生したことであろう。しかし、青山学院の反対や、資金源であるアメリカとの植民地争奪戦争のせいで、夢破れた。

高等教育機関の大競争時代を迎えている今日、旧帝大は大学院大学と称し、大手私大は専門職大学院をいくつも設立している。明治学院は、どのような道を選択するのであろうか。

(おおにし はるき 所員・経済学部教授)


新生「賀川豊彦学会」のことなど    加山 久夫


賀川豊彦学会第16回大会が去る7月5(土)、本学にて開催されました。同学会は専務理事として学会運営の要であった本学の田村剛先生が病没されたこともあり、運営上さまざまの困難を強いられていましたが、新たに、会長として古屋安雄氏(聖学院大学大学院教授・国際基督教大学名誉教授)、専務理事として石部公男氏(聖学院大学教授)のリーダーシップのもとに再出発する運びとなりました。これとは別に、田村先生はまた、本キリスト教研究所の賀川豊彦研究プロジェクトの責任をもっておられましたので、これまた停滞し、開店休業を余儀なくされました。明治学院と賀川豊彦の深い関わりを考えるにつけ、このような状態を残念に思っていましたが、私自身はすでに、1988年の賀川生誕百年の頃から、故小野忠信先生より賀川豊彦記念講座委員会の事務局を引継ぎ、お世話してきましたので、これ以上の負担を担うことは困難な状態でした。そこで考えたのが、これら三つの活動をいわば「三位一体」的に担ってゆくことが出来ないかということでした。幸い、私の提案は関係の方々のご賛同をいただき、約1年の準備期間を経て、今年度から新たな共同の歩みを始めることができることとなり、大変喜ばしく思っています。
 
今春より、賀川豊彦研究プロジェクトに播本秀史所員、永野茂洋所員が新たに参加してくださることになり、2003年度最初の公開研究会では、福元真由美協力研究員(東京学芸大学専任講師)が「賀川豊彦と〈児童の世紀〉の時代」をテーマに大変充実した研究発表をしてくださいました。 後期には、12月6日(土)14時―16時、雨宮栄一氏による公開研究会(「賀川豊彦と大杉栄――初期日本労働運動をめぐって――」)が予定されています。これらの研究会が賀川豊彦学会との共同研究会として執り行われることが同学会および本研究所所員会議で了承されており、今後とも、賀川豊彦研究プロジェクトの研究会はこのような両者の協力方式で進められる予定です。

他方、賀川豊彦記念講座委員会は今秋10月25日(土)14時―16時、富士見町教会において、第25回賀川豊彦記念講演会(河上民雄氏「20世紀とは何であったか― 一つの試論―」)の開催を予定していますが、今回から賀川豊彦学会との共同開催ということになりました。因みに、今回の講演会には、賀川豊彦記念・松沢資料館、本所賀川記念館、イエス友の会、(財)生協総合研究所、東京YMCA,東京YWCAなど、賀川にゆかりのある多くの団体が後援団体として参加しています。

上記第16回賀川豊彦学会の午前には、西村虔氏「賀川豊彦の贖罪観」、鳥飼慶陽氏「賀川豊彦没後の四十余年」、小澤温氏「社会福祉基礎構造改革と賀川豊彦の先駆性」、篠崎恭久氏「高校日本史から見た賀川豊彦」、鈴木武仁氏「賀川豊彦における伝道の神学」など、賀川研究の多面性を表すさまざまの研究発表が行われ、午後には、賀川純基氏による講演「賀川豊彦の視野」がありました。この講演は賀川豊彦について、研究すべきさまざまなテーマを示唆するとともに、賀川豊彦が、考え、志向したさまざまの分野において、われわれがこれから取り組むべき多くの課題を提言する、きわめて示唆深いものでした。氏によれば、前者は基本的には賀川豊彦学会の課題であり、後者は、賀川豊彦記念講座委員会がこれまで、賀川が思想し、実践したさまざまの分野で優れた働きをしてきた方々を講師としてお招きし、発言していただいてきたように、主として、賀川豊彦記念講座委員会によって担われてきました。賀川豊彦の人と思想を考え、それを現代に意義あらしめるためには、これら二つのことを自覚的に受けとめ、取り組んでゆく必要があることを、改めて考えさせられたしだいです。

(かやま ひさお 所員・文学部教授)


2003年6月28日(土)開催公開講演会報告
「カトリックにおける
キリスト教教育のあり方について」
講演者;イシドロ・リバス/イエズス会司祭       手塚 奈々子


                 
キリスト教研究所では、キリスト教主義教育を数年に渡って共に研究し話し合ってきたが、今回はカトリック教会のイエズス会司祭イシドロ・リバス氏をお迎えして、「カトリックにおけるキリスト教教育のあり方について」を講演して頂いた。

講演者の紹介であるが、イシドロ・リバス神父は、1929年スペインのバルセロナに生まれ、1946年イエズス会に入会、バルセロナのサン・フランシスコ大学で古典文学、哲学両修士号を受ける。1954年来日。上智大学で神学修士号を受ける。その後37年間上智大学で宗教学とラテン語を教える。この間ザビエル寮寮長、CLCとMEの代表責任者、聖イグナチオ教会助任司祭を歴任。現在、イエズス会霊性センターにて執筆活動、黙想指導の仕事を中心に活動する司祭である。リバス神父の著書は、「日本の大学生」読売新聞社、「日本人とのおつきあい」コルベ出版社、「二人の自分」女子パウロ会、「孤独を生きぬく」講談社現代新書、「ミサ 神の愛の確認―不安から希望へー」新世社、「傷ついた家庭こそ神の愛の中に」新世社、「祈りを深めるために(その1)―自分の人生の中でー」新世社、「祈りを深めるために(その2)―愛された罪人―」新世社、「祈りを深めるために(その3)―我が主イエス・キリストの内的認識―」新世社、「祈りを深めるために(その4)―現代人の苦しみとキリストの受難―」新世社他、また、論文は、「上智のルーツの根底にある聖イグナチオの霊操」『イエズス会教育のこころ』みくに書房所集他、なお解放の神学を研究しておられ、編著「現代世界と暴力革命」中央新書がある。

 当日10数名の出席の中、所長の挨拶と講演者紹介の後、リバス神父の講演が始まった。リバス神父が宣教師として来日された時からの日本人との関わり、宣教における困難及び喜び、そして37年間上智大学でラテン語と宗教学を教えてきたその教育方針及び経験がまず話された。そして20世紀の第2ヴァティカン公会議の方針(「御言葉と聖霊は宣教師より先に来ている。」「皆キリストを必要とする。」「キリストは人間の憧れそして元型である。」日本人の良い所を殺すどころか、「浄め、引き上げ、完成させる。」「キリスト教信仰は、外からのものではなく、中から生かしていくものである」)及びパウロ6世の回勅(「御言葉を現代人のメンタリティー、感受性と文化に合わせて適応することが福音宣教者の責任である」)が紹介された。大学教育については、リバス神父の上智大学での宗教学の授業のシラバスが配布され具体的に話された。リバス神父は、授業の初めに前の授業のリアクション・ペーパーをまとめて伝え、テーマ(キリストに至る道等。リバス神父は、孤独、不安、空しさ、罪悪感、大自然の神秘等の具体的な諸問題からキリスト教の諸テーマに導く)を発展させて講義する。その後小グループで話し合いをさせ、その日のテーマに関する聖書及び参考文献を紹介し、10分間音楽を聞かせ説明しながら黙想させる。最後にその授業のリアクション・ペーパーを書かせる。この宗教学の授業内容が話された時、実際に講演会でも音楽を流し、解説をつけながら黙想させるというリバス神父の方法が具体的に実施された。参加者の中から多々質問が出されたが、イエズス会という修道会の「それぞれの個性を生かして授業に望ませる」という方針も話された。講演会終了後も、参加者数人とお茶を飲みながら、日本のキリシタン時代の宣教師等の話を交えたカトリックにおけるキリスト教教育について意見交換され、有意義な時間を持つことができた。


(てづか ななこ 所員・社会学部助教授)


この頃思うこと      佐藤 寧


 テレビでニュースを見ていると、気が滅入るような報道が多く、閉口することがある。北朝鮮の核開発や拉致問題もその例外ではない。今日の世界で、自分の国を良くしようと思わない指導者などいるはずもないし、好んで戦争を始める指導者も考えられない。なのにどうしてこれほどまでに話がこじれ、解決の糸口を見い出せないのか。

 「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエスの言葉を思い出す。イエスが名指した「敵」とは、考えを異にして彼らを迫害するファリサイ派の人々や律法学者のことであろうか。異なる思考の持ち主が「敵」の正体であるとすれば、世間は敵でいっぱいになる。よく考えてみると、そのような自分も相手から見ると敵になるのであろう。あのパウロは、かつてキリスト教徒を迫害した「敵」にほかならなかった。パウロは滅ぼそうとしていた信仰を、後に福音として告げ知らせるようになるのである。つまりかれの生き方、すなわち思考と行動が180度転換したのである。彼はイエスの教えに敷衍して、「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と、愛の必要性を説いている。

 他人との共存には忍耐が必要であり、そしてさらに理解と愛が必要になろう。このごろ忍耐の足りない人、いわゆるキレル人が増えてきたと言われている。それは人と人の触れ合いが欠如してきたことを物語っているのではないだろうか。物質的な豊かさや自由を追求するあまり、人の触れ合う場所としての地域社会や家庭が崩壊しつつあることに危惧する。人間は、書いて字のごとく他人がいて成り立つ存在である。そして、国際政治の場においても他人(他国)の存在にたいしては忍耐と理解が先行すべきであろう。

 1年以上も前の話になるが、ニューヨークで起きたあの9:11テロ事件の直後に、炭素菌事件がアメリカで発生した。その時、なんとなく嫌な予感がした。アフガニスタンでの開戦に向けて一般市民の支持を得るために、アメリカの政府機関が意図的に発生させた事件ではないのか、と考えたからである。10年前に起きた湾岸戦争の時に、アメリカ政府は意図的に情報操作をして一般市民の支持をうまく取りつけた経緯があるからである。そこで、ある新聞の読者欄に炭素菌事件はアメリカ政府による意図的な企みの懸念がある、との趣旨の手紙を送った。勿論、この手紙は新聞に載ることがなかった。

 思うに、昔からこのような事件がなかったわけではない。私が生まれる前に起きた太平洋戦争はどのような憎しみの結果だったのか。反省さえすれば、将来、あのような悲惨な戦禍が避けられるのだろうか。私はこの頃、先に引用したイエスやパウロの言葉を思い出すたびに、不思議と、他人にやさしくなれるような気がする。

(さとう やすし   所員・教養教育センター教授) 


所員就任に当たって     永野 茂洋


 4月より、本学のキリスト教関連科目(全学必修の「キリスト教の基礎」と選択科目である「キリスト教の諸相」)の担当教員として本学院に奉職することとなり、それと同時に、キリスト教研究所のメンバーとして、当研究所主催の「キリスト教主義教育研究」プロジェクトの活動に加えて頂くことになった。このような恵まれた研究と交流の機会を与えられたことに、まず心より感謝をしたいと思う。

 私は、明治学院大学に来る前は、敬和学園大学という12年前に新潟県新発田市に設立された人文学部のみの単科大学で、主に「比較文化論」、「キリスト教史」、「旧約聖書学」の講義とゼミを担当していた。この大学は、新潟県内の日本基督教団傘下の諸教会がバックとなって発足した大学で、日本では最も若いキリスト教主義大学の一つである。大学院を出てすぐの赴任であったが、設立の最初からのメンバーということもあって、キリスト教主義大学の土台をまさにゼロから一つひとつ造り上げていくという大変貴重な経験をさせて頂いた。

 明治学院大学は、既に130年の歴史を持つ、日本では最古級のキリスト教主義大学である。歴史の厚みという点でも、また、学生数の規模という点でも、敬和学園大学とは全く対照的であるが、そのような二つの(出身校である国際基督教大学も入れると三つの)キリスト教主義大学に関わることになったということもあって、最近は、自分の専門である旧約聖書学以外に、日本のキリスト教大学の歴史、いわゆる大学史に若干関心を持ち始めている。

 当研究所での私の所属プロジェクトは「キリスト教主義教育研究」のプロジェクトであるが、今述べたような事情から、同じく当研究所主催の「賀川豊彦研究」や「宣教師研究」プロジェクトの研究報告会にも、4月以来顔を出させて頂いている。「賀川豊彦研究」にしても、また「宣教師研究」にしても、私自身は全くの門外漢であるが、いずれの分野も明治学院大学と深いつながりがあるだけでなく、近代日本の社会形成と社会変革、そして福音伝道と市民教育に大変大きな、そして、多様な影響を残した分野についての研究であり、興味は尽きない。当研究所を通して、この二分野の最新の研究成果に触れ、刺激を受けることができるというのは、私にとっては誠に望外の喜びである。特に「賀川豊彦研究」に関しては、これを機縁に、今年活動が再開された「賀川豊彦学会」に入会させて頂くことになった。少しずつではあるが、後学の徒として、専門の研究員の方々の教えを受けつつ、これから自分なりの「賀川豊彦像」、「宣教師像」をつくり上げて行くことができればと願っている。

 私の専門である聖書学分野での研究については、現在のところ何をどのようにするのが当研究所の研究プロジェクトとしてふさわしいのか、また、何が可能なのか、まだ見極めがついていない状態であるが、せっかく貴重な場と機会を与えられたのであるから、この分野でもいつか機を見て独自のプロジェクトを立ち上げていくことができればと、ひそかに夢を膨らませているところである。


ながの しげひろ(所員・教養教育センター教授)


椎名麟三アルバム・寄贈までの経緯     杉山 恵子


 大坪真美子さん、作家椎名麟三のご長女である。椎名の古い読者なら、あるいは玉電のカーブした線路の脇で、椎名夫妻の間に手を引かれた少女の写真をご記憶かもしれない。椎名は単の着物姿、夫人は半袖の簡単なワンピース、彼女は白っぽいジャンパースカート、そして3人とも下駄を履いている。少しだけ椎名の側によりそって両足を揃えて立っているこの少女が、真美子さんその人で、写真が撮影されてから55年後の現在、椎名の著作権継承者である。

 私が冬樹社の椎名麟三全集のために、資料集めの仕事を手伝うことになったのは72年の終わりの頃からで、始めて数ヶ月もしないうちに椎名氏は亡くなられた。その後、全集、創作ノート等の仕事を通して、夫人や真美子さんと少しずつ顔見知りになっていったのは、自然の成り行きだった。

 今回、当研究所の椎名研究の一員として仕事を始めたとき、頭を過ぎったのは、まだ創作ノートで扱い切れなかった椎名の直筆資料がお宅にあるはずだということだった。さっそく真美子さんに打診して、椎名のメモ類のコピーをいただくことができた。いまや、真美子さんが主となった椎名の書斎に私たちは座っていた。

 「私、父の写真を全部自分で整理したのよ、いろいろな文学館の方たちがきていうの、こんなに整理されているのは珍しいですって」

 彼女は、書棚の下の扉を開けてずらっと並んだアルバムの背表紙を見せてくれた。全部見たい、そして、それを全部コピーしたい。こんなチャンスに遭遇して、そう思わない人間はめったにいないだろう。問題はそれを直に口に出すか、手順を踏んで入手するかである。その日は時間がなかったので、見たい、欲しい、を連発して私は下高井戸のお宅を辞去した。行き違いはこの辺から起こっていたのである。

 その後、電話で日を改めて会う約束をしたとき、彼女の口ぶりは心なしか憂鬱そうだった。私の要求は確かに不躾すぎたのだ。大坪家から10冊以上に上るアルバムを一々借り受け、それをどうやってコピーしたらいいのか。現在彼女は、千葉の方に住んでいるので、その写真を見るためにはいちいち下高井戸の家の方に上京してもらわなければならない。明治学院大学の情報センターに問い合わせてみても、これはそう簡単にいかないのがわかるだけだった。再度会う約束をしたにも関わらず、突然彼女の方から日時の延期を通知する葉書が届いた。やっぱり、言い出してはみたものの、もう少し期間を置かなければ、無理なのだ、私は一方的にあきらめの境地に陥っていた。

 その日、はっきりいえば6月17日のことである。どんよりとした曇り空で、ときどき雨が降っていた。写真を見せていただくだけでいい。あまり不躾すぎたのを謝ってこの件は先に延ばそう。そう思って再び下高井戸のお宅を訪ねた。

 「上にあがって」と彼女はさりげなく、二階の書斎に案内してくれた。そして、そこにあったのが、一冊のアルバムだったのである。そのとき初めて、最近では街の写真店で古い写真をそのままコピーする機械があるということを私は知った。彼女は、自分の整理したアルバムの写真にすべて番号を振り、一冊のアルバムに収まるように多少の縮小をかけながら、256枚に渡る椎名の生涯の折々を写した写真集を整えてくれていたのだった。日程の延期は10回以上渡るも写真店通いが必要だったためだった。雨にあたらないようにと、東京都指定の新しい半透明芥用ビニール袋に包まれて、クリーム色の大判のアルバムが研究所にやってきたのは、その翌日のことである。

 その後の経過に関しては、所長の中山先生が真っ先にその価値を認めて、あらゆることにご尽力下さった。これだけの写真があるのは現在、大坪家と明治学院大学キリスト教研究所だけである。今後、アルバムのなかの場所・時間・人物等、調査できるものはできるかぎり特定して、以後の研究に役に立てる所存である。

 それにしても、ちょうど一ヶ月後の7月16日、研究所に挨拶に見えられた後、真美子さんの漏らした最後の一言は、なかなかのものだった。

 「もう、これ以上、あなたの言葉には乗せられないから、そのつもりでね」

 二人のちょっとした行き違いが、キリスト教研究所にすばらしい研究資料をもたらしたのである。行き違いや思い込みが、思いがけない成果をもたらした一事件だった。

(すぎやま けいこ    キリスト教研究所客員研究員)


最近の出来事から     辻 直人


 まずは個人的な出来事から綴らせていただくことをお許し願いたい。

 私の通う教会のH姉が今壮絶な癌闘病生活を送っている。もう末期の状況で、自分の意思で動くことはほとんど出来ない。ただ病院の一室で、ひたすら治療を受けている。

 先日、私は病院にお見舞いに行ってきた。口には酸素マスクを付け、大きく呼吸を続けていたが、話しかけると息を静めて聞いてくれているようだった。時に痛みに顔を歪めながらも、しかし痛みの治まった時にはとても穏やかな顔をする。看護師もその表情が「本当におだやかで珍しい」と話していた。私には、H 姉は近付きつつある終わりの時を平安のうちに迎えようとしているように見えた。やはり、そこには信仰による死後の約束があるからであろう。私は、パウロの「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」(テモテU4:7)という言葉を思い出した。そして、その姿からひどく考えさせられた。果たして自分が終わりの時を迎える時、このような姿でいられるだろうか、と。

 あるいは、こうも言えるだろう。私は日々主から与えられた職分を果たしているのだろうか。H姉の姿を見ていて、「しっかり研究しなさい」と声をかけられた気がした。

 今までの私の人生を振り返ってみると、何度も研究生活を止めるべきかどうか、岐路に立たされた経験があった。しかし、不思議にもその時々において、研究の出来る環境が整えられ、今に至っている。今こうして歴史資料館で研究調査員をさせていただいているのも、全く持って自分の意思ではなく、何かそこに備えられていた道であったように思えるのである。今年の3月にはキリ研研究員(当時)の中島耕二氏及び所員の大西晴樹教授と共に『長老・改革教会来日宣教師事典』を刊行させていただけたことは、本当に貴重な経験であったし、かつて学生として在籍していた明治学院の歴史を多少でも明らかにすることが出来たことは、幸いなことであった。今まではとかく日々の生計を立てることに気持ちが向かいがちで、研究者としての自覚がなえてしまうことも時にはあったが、今改めて研究を続けていく思いを確かにした次第である。

 現在手掛けている研究テーマの一つは、基督教教育同盟会(現・キリスト教学校教育同盟、以下「教育同盟」と略す)の歴史である。私本来の専攻である日本教育史において、キリスト教教育についてはまだまだ研究されていない部分が多い。特に、1910年に結成され、プロテスタント・キリスト教主義学校の抱える諸問題を協同して話し合う場であった教育同盟は、教育史においてはほとんど扱われてこなかった。しかし、教育同盟の創設はそもそもは井深梶之助の尽力するところが大きいし、その後も田川大吉郎、矢野貫城、村田四郎といった明治学院関係者の活躍は見逃せない。すなわち、教育同盟と明治学院は深い関係にあると言えるのである。今後、歴史資料館所蔵の史料も十分に活用しながら、研究を進めていきたいと考えている。


追記 H姉はこの原稿を書き終わった後の9月14日、安らかに天に召された。

(つじ なおと 歴史資料館研究調査員)


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