田川大吉郎と上海   渡辺 祐子


去る1月19日、上海で幼少期を過ごされた古屋安雄氏を講師にお迎えし、「上海時代の田川大吉郎」をテーマにお話していただいた。古屋氏とともに、田川大吉郎のお孫さん、高橋恭子さんをお迎えできたことも幸いであった。チラシの宣伝文句とは裏腹に「実は田川との面識はない」という古屋氏だったが、ご自身の記憶にある上海租界の姿を、時にはお腹を抱えてわらってしまうようなユーモアを交えながら生き生きと再現してくださった。これまで写真集や映画でしか見たことのない、いわば静止画面のような私の上海租界のイメージは、古屋氏のお話や、「祖父はいつも古新聞に毛筆で漢詩を書いたおりました。」と仰る高橋さんの思いでによって、息を吹き込まれ、突然動き出されたような気さえした。

 多くの課題が与えられた講演会だった。田川と上海との関わりは、ここ数年来きわめて盛んになっている上海史研究からのアプローチも欠かせないのではないかとも思わされた。2時間たっぷりお話くださった古屋先生、田川大吉郎にまつわる様々な思いでをお教えくださった高橋さんに、この場を借りて心から感謝申し上げたい。

(わたなべ ゆうこ  客員研究員)


「近代日本と明治学院」開講に向けて  播本 秀史


2004年4月より、「近代日本と明治学院」が開講されます。それに因んで、開講の主旨と経過について記しておきます。

2001年5月23日のキリスト教研究所所員会議において、橋本茂所長より、「建学の精神、明治学院の歴史、歴代人物などを中心とした単位制の総合講座を開講したらどうか」という提案がなされた。審議の結果、研究所内にプロジェクトチームを結成し、2003年開講を目指して活動してゆくこととなった。

 2002年5月30日発行「あんげろす」28号に、橋本茂所長のシラバスが提示された。また、同年9月30日発行「あんげろす」29号には真崎隆治所員(教養教育センター教授)による「『明治学院学』ヴィジョン」が掲載された。その間の7月には、キリスト教研究所一泊研究会で「明治学院学」が取り上げられ議論されている。

 2003年度に入り、橋本茂社会学部教授がサバティカルで、中山弘正経済学部教授が新所長となった。2003年4月の所員会議で中山所長より「明治学院学」(仮称)の開講に向けて本格的に動いて行こうという呼びかけがあった。それを受けて、開講のためのカリキュラム内容その他についての打ち合わせ会(第一回目)が5月14日に開催された。出席メンバーは、中山弘正所長、遠藤興一主任(社会学部教授)、加山久夫文学部教授、大西晴樹経済学部教授、播本秀史文学部助教授であった。この「仮称『明治学院学』企画運営委員会」制作の案が所員会議の了承を得て、「全学共通科目」へ科目提供された。

 遠藤主任原案の「新設科目設置趣旨」には「キリスト教主義教育の充実、発展とともに、より広い大学教育という見地から明治学院教育全体の充実、発展をめざして、新たな科目を設置し、教育的な側面から、"明治学院"大学としてのアイデンティティを、より一層広く育てたいと思う」と記されている。

 2004年度は春学期、金曜5限横浜で開講される。2005年度は春学期、金曜6限白金で開講される。1年次から4年次まで学部所属を問わず自由に履修できる。11名の先生がそれぞれ、明治学院に関係する人物・思想・事件を取り上げ講義する(講義概要のブックレットあり)。また、オプションとして、横浜、築地のゆかりの地を訪ねる催しも用意されている。

 明治学院を研究することを通して、同時に近代日本の歴史も照射されることであろう。

また、人間の生き方、在り方もおのずと問われてくるものと思われる。

 この授業がより実りあるものとなるよう、多くの皆様方のご助言、ご協力をお願い申し上げます。

(執筆にあたり、教学事務アシスタント白岩真理さんより会議記録等の資料提供でお世話になりました。
感謝して記します。)


(はりもと ひでし  所員・文学部助教授)


2003年12月20日 キリスト教研究所/明治学院歴史資料館共催
公開シンポジウム  「ヘボン・シンポジウム」


中島 耕二


 クリスマスも近い2003年12月20日(土)午前10時から午後2時まで、白金校舎92会議室で頭書のシンポジウムが開催された。参加者は30名。

 今回のシンポジウムは、2003年のヘボン塾開設140周年に因んで出版された、原豊氏の『ヘボン塾につらなる人々』(明治学院サービス)と村上文昭氏の『ヘボン物語』(教文館)を取り上げ、大西晴樹経済学部教授の司会により、第1部及び第2部として、それぞれの著者をパネリストに、コメンテーターに筆者及び佐々木晃氏(キリスト教研究所協力研究員)、更に第3部として出席者を交えての質疑応答という形式で行われた。特に第3部ではヘボンの広範にわたる宣教活動に対し、それぞれの専門分野からの質疑応答が交わされ、参加者全員が新たな「ヘボン」を知る良い機会となった。

第1部の原豊氏(明治学院歴史資料館)は、「ヘボン塾について言及するためには、ヘボンその人を語らなくてはならない」として、著書『ヘボン塾につらなる人々』の「序章 ヘボン塾の成り立ち ヘボン博士夫妻の生涯とヘボン塾」のコピーをテキストに、ヘボンの生い立ちから、夫妻の結婚、東洋伝道、アメリカ帰国後の病院経営、日本の神奈川上陸、ヘボン塾の開始そして1887(明治20)年の明治学院成立までを、ヘボンの一途なまでの奉仕の精神を中心に発表された。1875(明治8)年にヘボン塾はジョン・C.バラに引き継がれたが、バラも良くヘボン夫妻の精神を受け継ぎ、ヘボン塾・バラ学校として一貫した教育が見られた。その後、バラ学校は築地に移転し築地大学校、東京一致英和学校更に白金に移り明治学院の普通学部へと拡張、発展を遂げたが、ヘボンの精神は伝統として引き継がれた。それは原氏が発表の最後及び著書の中で述べた、次の言葉から証明されよう。 ―『ヘボン塾につらなる人々』の登場人物は、同窓生の島崎藤村が作詞した『明治学院校歌』の中に、もろともに遠く望みておのがじし道を開かむ、霄あらば霄を窮めむ壌あらば壌にも活きむ とあるように、逆境にも負けず、おのがじし道を開拓して行った人々である。そして、どこかしらキリスト教精神を身に付け、他人に対する思いやりのある人々だったといえよう。―

第2部の村上文昭氏(関東学院大学教授)は従来の賛美一辺倒のヘボン像に対して、今回の著作を執筆する過程で発見できた「人間ヘボン」を、多くの事例とエピソードを交えて発表された。中でも英字紙「ノース・チャイナ・ヘラルド」(1897年3月19日付)の記事発見が、著者の本書執筆を励ましたという言葉は大いに出席者の共感を得た。ヘボンは33年の宣教師活動を終え日本を去るにあたって、親しい友人に次のように漏らしたという。

「人々の助けになろうと努め、私財と、生涯で最良の時期を費やしたあげく、私はアメリカに帰ろうとしています。だがその人々の間に真の誠実な友人をほとんど得ることができなかったという悲しい気持ちを抱いたまま、私は去るのです」。

 また村上氏はヘボンの教育者としての姿勢にも触れ、夫妻が静養のための旅行や『和英語林集成』の印刷のため、たびたび日本を離れ、その都度ヘボン塾の授業を中断したり或いは他の宣教師に任せたりしていたことは、ある意味で教育に無責任であったと指摘された。もう一点、ヘボンの召天の日、明治学院寄宿舎のヘボン館が同時刻に炎上したという「神秘」も、実際には日時にズレがあったことを史料によって証明された。これらは村上氏が君子ヘボンを「人間ヘボン」として捉え直し、かつその必要性を我々に示唆されたものと受け止められた。
  
第3部では中国におけるミッション系私塾の誕生の経緯、日本の長老教会の伝統、ヘボンの『和英語林集成』に関連し岸田吟香の役割、その他それぞれを専門として研究されている出席者から質疑及び意見を戴き熱い討議が交わされた。

ヘボン研究はグリフィスや高谷道男の著作によって、今後の研究に余地なしとの感を一般に与えてきたが、今回のヘボン・シンポジウムを通じて「まだまだ裾野は広い」という印象を強く受けた。今後も、キリスト教研究所や明治学院歴史資料館が今回のようなヘボン研究の機会を提供し、一人でも多くのヘボン研究家をうんでいくことが、これからの「明治学院」のアイデンティティーを増すことにつながって行くことと思う。

(なかじま こうじ  キリスト教研究所協力研究員)


2003年12月5日 キリスト教研究所主催公開講演会
「イラク戦争とイスラーム」 


中山 弘正


2003年の世界で最大事件が米英軍のイラク侵略であったが、本研究所は5月の「アメリカのキリスト教原理主義とイラク戦争」に続いて、12月5日「イラク戦争とイスラーム」と題し公開講演会を催した(於 白金チャペル)。

 登家勝也氏(日本キリスト教会横浜長老教会牧師)は、11月上旬10日間ほど数名でイラクを訪問された時の事を話して下さった。米英軍の爆撃に抗して「人間の盾」として3月にイラクにいかれた木村公一牧師が、現地の少年にサッカーボールを贈りにいくことを知り、ご一緒されたという。日本などでのセンセーショナルな報道と現地の庶民の心情との大きなずれ、「過激派」報道の一面性なども含め、人々の普通の生活レベルでの交流の大切さ、また現地のキリスト者たちとの出会いなどが淡々と語られた。NGOとしてでもなく、ということも教えられた。それはえてして、こちら側の見方考え方を押し付けがちである。

 このサッカーボールの話は、木村公一牧師の帰国報告をきいた明治学院高校の小暮修也先生の周辺のボランティアグループの、品川駅頭カンパということとも連なっていて、ちょうど5日後の朝日新聞「天声人語」がそのことを取り上げていた。この記事の最後は、少年たちの「ボールを贈ってくれてありがとう。でも軍隊はいりません」という言葉でしめくくられている。登家牧師も、「自衛隊が安全なところを探していく、というが、鉄砲をもっていけば、そこが戦場になる」と明言されていた。けだし名言であろう。

 次いで花田宇秋氏(本学教授、歴史学)は、シーア派とスンニ派というイスラームの2大教派の形成の歴史とその特徴などを詳しく話された。この2派の話をききながら、私は、キリスト教でいうファンダメンタルとリベラルという2つの流れと、何か共通するものを感じていた。より原理主義的なものを強調する流れと近代化の中で外的状況にもコミットしていこうとする動き。しかし、花田氏は、これらの2教派がかなり早くから分裂することとともに、いわゆる「過激派」もこれらとは異なる運動として早くからあった、ということ、すなわち、いわば、3つ巴の形の歴史が意外に長いことを示された。しかも、イラクの地域では、近代国家形成はたかだか100年ぐらいのことで、それまでの長い期間は、絶えざる支配勢力の交代していた地域であり、無政府状態(アナーキー)か独裁かしかこの地域には存在してこなかったことを示され、こうした歴史の中から、今日の米英の無謀さの一面も明らかにされたように思われる。

 現状と歴史と。何が何でも自衛隊を出そうとする勢力は、これらの何分の1かでも事柄を知っているであろうか。

 学外からの参加者もかなり居られるようであった。

(なかやま ひろまさ  所長・経済学部教授) 


私にとっての「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」

松本 曜


この3月をもって、明治学院大学から神戸大学へ移ることになった。この明治学院に在職させていただいた9年間を振り返り、一番思い出すことといえば、やはり、最初の年、1995年の6月10日にあった、中山弘正学院長(当時)による、「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」である。

 6月のその週は戦争を考える一週間として様々な行事が行われ、授業でも日本の戦争と戦後の問題を取り上げるという試みがなされた。残念ながら、私はそれには参加しなかった。それは、ちょうどその週、神戸大学での集中講義に出かけたために一週間授業を休講にしたからだ。といっても、その年に教えていた英語の授業(あるいは専門の言語学の授業)でどのように日本の戦争の問題を取り上げればいいのか、すぐには考えがなかったので、たとえ授業があったにしても特に何かをすることはなかったかも知れない。

 そういうわけでその週日の諸行事などには参加できなかったが、土曜日の午後に行われた「戦争責任・戦後責任の告白」には出ようと、土曜の朝、急いで新幹線に乗り、荷物を持ったままチャペルに駆けつけて、何とか出席することができた。

 「私は、日本国の敗戦50周年にあたり、明治学院が先の戦争に荷担したことの罪を、主よ、何よりもあなたの前に告白し、同時に朝鮮・中国をはじめ諸外国の人々の前に謝罪します。…」聞いていて、なぜか涙が止まらなかった。日本が何を行い、その中での明治学院はどのようにしたのか、また、それをキリスト者としてどのように受け止めればよいのか―告白文に表れた罪を見る目の真剣さと、生きて働く神にあくまで従う態度には襟を正さずにはいられなかった。それと同時に、心の中にあることを愛の神に告白することができるキリスト者であるということのすばらしさ、また、その信仰に立つ教育機関のすばらしさを覚えずにいられなかった。

 さて、その年の夏、敗戦50周年の8月15日を、私はかつての占領地でアジア諸国の人たちに囲まれて過ごすことになった。私はウィクリフ聖書翻訳協会という団体の活動に多少関わってきたが、そのアジア地区夏季言語学講座の中で授業を担当するために、一カ月シンガポールに滞在したのだった。この講座は、将来アジア諸地域の諸部族の言語に聖書を翻訳する者が、その準備の為に言語の分析方法を学ぶ講座である。私が担当したのは「意味論」だった。受講生は、モンゴル、韓国、日本、台湾、香港、フィリピン、シンガポール、インドネシアから集まっていた。そこで迎えた8月15日は、昼のチャペルの時間にアジアの過去、現在、未来について祈る時を持った。

 その次の日曜日のこと、シンガポールの日系教会の礼拝に参加し、そこで会った人から、予期せぬことを耳にした。私が明治学院大学の者だと言うと、「明治学院ですか。こちらの新聞にも載りましたよ」と言って、「告白」に関するシンガポール誌の記事を見せてくれたのだ。そして、いわく「すばらしい。私はこの記事を読んで心の中にもやもやしていたものがすっかり晴れた。このことを学院長さんに伝えてほしい。」そして、さらに勧めてくれたのが、滞在中に戦争記念館などを回ってみてはどうかということ、そして、シンガポールの歴史の教科書に日本の占領時代のことが詳しく書かれているので、読んでみたらどうかということだった。

 その時、一つのアイディアが浮かんだ。シンガポールの歴史の教科書は英語で書かれている。英語の授業でテキストとして使えるのではないか…。そこでいろいろな書店回って教科書を探したが、どうしても見つからない。帰国直前に、シンガポールの出版社に直接連絡して、なんとか一部手に入れた。入手したのはHistory of Modern Singapore (Longman Singapore)で、全体約180ぺージのうちの1/4ほどが日本の侵略と占領に当てられていた。

 その翌年以来、英語のリーディングの授業を担当した際、5つのクラスでこの歴史教科書をテキストとして使った。結果は非常に好評だった。かつての私と同じように、日本がシンガポールを占領していたという事実すら知らない学生がほとんどだったので、視野が広がったという感想が多かった。英語の授業としても、「興味を持って英語で読書する」ということができた授業であった。今までいくつもの授業に関して学生による授業評価を受けてきたが、英語の授業の中では、このテキストを用いた授業が今までで一番評価が高かった。

 この執筆をしている2004年1月、日本の自衛隊は武器を持って戦争状態にあるイラクに入国した。神と人の前に、日本の国が正しく歩んでいくことを祈らずにいられない。

 (まつもと よう 所員・文学部教授)


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