ヘボンをメタファーとしてよむ 加山久夫
ユニヴァーシティ・アイデンティティがますます重要になりつつある状況において、明治学院大学がその出発点にヘボン博士夫妻をもつことは、まことに大きな歴史的・精神的財産である。この国と学院への奉仕のためにその生涯をささげたへボン夫妻の生きかたは、われわれのこころに深く刻まれ、これからも本学の歩みへの道しるべでありつづけるにちがいない。
だが、その際、私たちはまた、ヘボン夫妻に内的促しをあたえ、かれらへの道しるべとなった存在のあったことを忘れないようにしたいと思う。ヘボンをよむ座標軸といったものがあるとすれば、他者への奉仕というヨコ軸とともに、それをささえるタテ軸があったのである。それは人間をこえた超越者へのかれらの信仰であり、ヘボン夫妻の人格と生における深みの次元でもあった。つまり、ヘボンをヘボンたらしめた秘密である。
「第三十一回邂逅忌」 杉山恵子
「椎名先生について」を語る女優の東恵美子さんは、白の上下のパンツルックで、会場に到着なさった。今年の邂逅忌は椎名麟三の命日の三月二十八日が日曜日と重なり、参加者の出足は今少し。しかし、会場の記念館小講堂は、東さんの直接一人ひとりに語りかけるような親しい語り口で、すっかり暖かな雰囲気につつまれていた。
「青年座は今年、創立五十周年を迎えます。・・・それまで翻訳劇ばかりだった俳優座で、私たちは日本の創作劇をやりたいと毎晩のように議論を重ねておりました。ある日、こうした若手俳優二十数名が、千田是也先生、青山杉作先生はじめ俳優座のお偉方の前に呼ばれて『あなたがたはここをやめても、俳優として日本の創作劇をやっていきますか?』と問い質されたのです。それでも、『はい』と答えたのが男性五人、女性五人で、それが青年座の創立メンバーとなりました。旗上げ公演にどなたに書いていただこうかと相談したとき椎名先生を推薦してくださったのが、作家の三島由紀夫さんでした」
こうして青年座は椎名麟三の初めての多幕ものである『第三の証言』でそのスタートを切ることになったのだった。この芝居は製菓工場が舞台であるが、そこにはどこからか毒入りの粉が届けられ、毎度のことのようにネズミが死ぬ。「椎名先生は、この製菓工場が日本なのだとおっしゃって、それまで私たちが千田先生のところで学んできたスタニスラフスキーシステムの演技とは、全く違った質の演技を要求なさったのです」
昭和29年当時のことである。登場人物は、人間であるけれども同時に観念でもある。毒入りの粉とは実は占領軍から送られてくる粉であり、日本はそれをビスケットに加工しているという寓意も同時にこの芝居にはこめられていた。劇団員たちは実際の製菓工場に出向いて仕事に加えてもらい、現実の菓子作りがいかに重労働であるかをも体験したという。この芝居の終わったあと、椎名は青年座の文芸部員となり劇団のために『タンタロスの踊り』『蠍を飼う女』『天国への遠征』などにつぎつぎと戯曲作品を提供していった。東さんは、今になってなぜ椎名麟三が、若手俳優の集団であった青年座の座員に名前をつらねたかを尋ねなかったことが気になっているといわれた。
「先生はなかなかイジワルな方で、次の『タンタロスの踊り』のときには、舞台に生きた仔ブタを登場させたのです」
最初のうちは公演旅行へこの仔ブタをつれていっていたが、筵で囲った籠のなかで、ブタが鳴くたびに劇団員たちは、歌をうたってわからないように装っていた。評判のいい芝居で地方公演の回数も多かったが、ブタはすぐに大きくなってしまい何度か取り替えなくてはならなかった。現地で調達したブタもさまざまの大きさで、俳優たちはその都度ブタにふりまわされていたという。
そんないくつかの思い出話のあとで、東さんは「これは、偶然昨夜みつけたのですが」と前置きして、青年座十周年のパンフでの椎名の短い文章を読み上げられた。
誰もがただ「十周年おめでとう」という文章を寄せるなかで椎名だけが、「青年座十周年と聞いて、あれからもう十年たったのかという実感を覚える。喜んでいるのではない。慈しんでいるのである」と愛情をこめた皮肉な語り口で、本音を吐露している。
「・・・少なくとも青年座としては成熟というものはあるだろう。だが、まだ演劇の世界において、革命的な仕事をしていないという点においては、私と同罪である。・・・(青年座)は、『第三の証言』という処女戯曲に似た三幕を書かせることによって、頭のはげた五十男になった今も、その傷口から血を流させ続けている。この五十男はなんとかして青年座に復讐をとげたいと考えているのである。もちろん50名も60名もの座員を相手にしては、素手で孤独の私に勝ち目はないことはあきらかである。まだ長い準備がいるだろう。なぜならテーマの解決、実在に対するテーマの解決しか、復讐の刃がないからだ。実存主義的な演技方法によって、舞台の上でリアリズムの彼らをうんと苦しめ、しかも成功した舞台とする(これが肝腎だ)そのことによってしか、ざまあみろ、と彼らにいえないだろう。・・・青年座の諸君よ、ゆめゆめ油断めさるな」
「ほんとうに、先生って面白い方ですね」といいながら、今まで尋ねたことはなかったけれど、なぜ椎名麟三が青年座の文芸部員となったかの答えがここにあるのではないかと気がついたと、東さんは話を結ばれたのだった。
この後、青年座の賀茂美保子さんによる『永遠なる序章』の冒頭部分の朗読をもって一部を終了。二部では、斎藤末広西南学院大教授、建築家の稲富昭氏をはじめとして、各界からの7名の方のスピーチで、なごやかな歓談のときが持たれた。
(すぎやま けいこ 客員研究員)
「理由(わけ)」 深谷美枝
ご存知の方はいらっしゃると思うが、私は月に一度自宅でキリスト教の集会をしている。もう二年半になるだろうか。内村鑑三張りの「無教会的伝道者」ともいえるし、洗礼と聖餐をするから「単立教会の牧師によって按手された単立教会牧師」ともいえなくはない。ややこしいし、説明するのも面倒くさいから、やや自嘲気味に「ニセ牧師」と称している。(当時の学生にはよく「先生は嵯峨野で出家しました」と言っていた。)
日本基督教団の教会で二十七年過ごしたが、「理由(わけ)」あって自ら落ちこぼれることとなった。以前から所属教会問題で悩み、手塚先生からカトリックに改宗してはとも勧められていた。バプテストや福音派、聖霊派の教会もニ三ヶ月単位で巡り歩いたが、教会とは恐ろしいもので、神学が異なればそれに付随して集団の文化や行動規範も全く異なる。ある教会で否定された行動が、他では推奨される。それによってメンバーは信仰に燃えて生きられたり、生きられなかったり、QOL全般が違ってしまう。それが相対化されて見えてくると、新しい集団に加入して一喜一憂してみようか、という気持ちが薄れた。
また私の中に形をなしている「個性的な信仰」はどこからも見事に、無様な格好ではみ出し、押し込めようとするとキーキーガタガタきしむことがわかってきた。聖霊派の教会は若者の多い、週日の祈祷会出席率がメンバーの八割という「理想的な教会」であったが、具体的に転籍を考えると、はみ出た部分がどうにも痛くて、門前にうずくまってしまう。
そうこうしているうちに、ある日突然、ゼミの学生が自殺する。明治学院に来てようやくやっと一年過ぎ、まだ学生になじめないでいる時に起きた事件であった。
この学生の死、それ自体に何か出来たかといえばそうではなかったろう。しかし、教員として担当科目以外に何かを伝えようとしてきたか?所属教会問題でエネルギーを費やしている間にすべきことはなかったか?すでに与えられているものを分かつべきではなかったのか?という問いが一気呵成に押し寄せてきた。残されたゼミ生たちと共に祈っているうちに、教団の教会学校で中高生相手に十年間していたことをここでもやりたい、すなわち福音を伝えたいという気持ちにさせられていた。しかし、どうやって?
通信でも夜間でも神学校に入って、とも考えなくはなかった。しかし、今、ここで、この文脈状況でということに結びつかない。思案に暮れつつ祈っていると、不思議なメールが、とある関西の大学の先生から突然やって来る。若い時から四十年間、大学の教員の傍ら伝道者として活動している方である。「アナタ、どうも伝道者として召されていない?」そんな話はついぞしたことがないのに、どうしてわかったのだろう?不思議である。不気味でさえあった。そして彼に祝福され、彼に送り出されて、彼の衣鉢を継いで?ニセ牧師になることになった。と同時に無様にはみだす「個性的な信仰」は自分で引き取ることにもなったのである。
「理由(わけ)」は無数の綾なす糸に彩られている。教会問題、無様に個性的な信仰、学生の自殺、突然来たメール。そしてその中心にはそれを操る蜘蛛のような神の相(すがた)がある。否、私の「理由(わけ)」は神ご自身であるのである。
(ふかや みき 所員・社会学部助教授)
寛容と不寛容 丸山直起
ここ5年ほど私の国際政治の演習では「寛容と不寛容」をメインテーマに勉強している。寛容はもちろん宗教的含意のあることばであるが、今日の社会状況や国際政治情勢を表現するのにもっともふさわしい概念であろう。
私がこのテーマを思いついたのは、10年以上前のことになるが、ロサンゼルスの「寛容の博物館(Museum of Tolerance)」を訪問したのがきっかけである。多民族、多人種、多宗教が共生するアメリカでは「寛容と不寛容」はきわめて重いテーマである。とくに多様性に富むロサンゼルスでは、1992年に白人警官によるロドニー・キング殴打事件を発端とする空前の大暴動が発生したこともあり、市民はこの問題とどう向き合ったらよいのか思い悩んでいたときであったから、その翌年にオープンした寛容の博物館は大きな関心を集めることになった。この博物館は簡単にいうと差別・迫害のテーマ・パークである。メインはユダヤ人600万人が死んだホロコーストで、そのための資料、当時のベルリンの様子やナチ収容所を再現したレプリカ、写真などが展示される。なぜ世界文明に大いなる貢献をしてきたドイツがユダヤ人の追放、虐殺を実行したのであろうかという根本的な問いかけに目をつぶることなく、正面から向き合っている。他愛のないうわさ話から始まって、これまた日常生活にみられるイジメがだんだんエスカレートして、やがて差別・迫害が組織的に行われ、ついにはジェノサイド(民族虐殺)にまで発展する。しかし、これは1930年代のドイツに限らずどこにでもみられる現象ではないか。
学校などで問題となるイジメは同質性を求めて異質のひとびとを排除する行為である。言葉遣いや髪の毛の色、動作が鈍いなどが理由でクラスメートが特定の児童をターゲットにイジメが繰り返される。演習では身近な問題から始まって国際的な民族浄化やホロコーストなどに関心をもってもらい、イジメを放置することがより大きな差別、迫害をまねく恐れがあるというメカニズムを知ってもらうことにしている。こうして学生は身近なイジメとホロコーストの間に相関関係があることに気づくのである。グローバル化が急速に進展するにつれ不寛容さも目だってふえている。これをどう寛容に転じることができるか。多様性、異質性という環境のなかでどう共存することができるか。
イラク戦争などで一国行動主義をとるアメリカに対する批判や風あたりが厳しい。だが私はアメリカのもつ再生機能のすばらしさにはすなおに感嘆するし、アメリカの民主主義や自由はやはり最高だと思う。マイケル・ムーア監督のような人物がブッシュ批判の映画を作ってしまう国なのだ。ロスの博物館もそのひとつだが、重い気分で見学を終えて抜けるような青空と肌につきささるような日差しにくらくらしながら外に出ると、おそらくは全米からやって来ると思われる観光バスからはき出されたたくさんの小学生や主婦が行列をなして寛容の博物館に入っていくのを見ると、あらためてアメリカの偉大さを感じてしまう。
ひるがえってわが国を眺めると、たぶん寛容の博物館など夢であろうし、国旗を前に起立をせねば職を失うことになりかねないこの国の現状との落差の大きさに呆然としつつ、小泉批判の映画を製作することなどとても想像できないであろうと考えて気がめいってしまうのである。
(まるやま なおき 所員・法学部教授)
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