「新しい公共」の精神 鍛治智也
大志と責務を担った特別な人々が「公」に貢献すべし,と考えた伝統的な価値体系が崩れ,対等な者同士の横の?がりを利用しながら,ささやかな志と分担できる責任で「良き社会」を構築すべきとする「新しい公共の哲学」が,社会的に共有されつつある。
しかし,そうした人間像の基盤となる精神はまだ模索段階のように思える。伝統的な諸制度が機能障碍に陥り,その構造的な改革の必要性は広く認識されているが,同時に物質的な「成長」だけでは,もはや人々は幸福にはならないことも常識となっている。にもかかわらず「構造改革なくして,成長なし」という,いわば「古い革袋に新しい酒」を入れて満足している。
新たな社会的な目標には,それを支える精神的な基盤の醸成が必要なのだが,「精神なき専門人」の象徴である大学もひとごとではない。
「42.195kmにかけた愛」 石本 東生
この夏は近代五輪が108年ぶりに故郷のギリシャに帰り、8月13日から29日まで行なわれたアテネ五輪の競技観戦では、興奮と寝不足の日々が続いた。私自身がギリシャの政府機関に勤務することから、特別の思いでテレビに釘付けにされたが、私の感動が最高潮に達したのは、やはり女子マラソンの野口みずき選手の金メダル獲得であった。150センチの小柄な体格ながら、飛び跳ねるような走法で他の有力選手らを突き放していった。彼女は尊敬していた監督が所属していた実業団を退職せねばならない折、自分自身も監督を追って辞め、失業保険で食い繋ぎながら小さなアパートで共同生活、そして練習に励んだという。その野口選手は三重県伊勢市の貧しい家庭に育ち、陸上に心燃やした彼女のために兄や姉が中学卒業後働きはじめ、彼女の高校進学を支援してくれたそうだ。苦労に苦労を重ねて勝ち取ったマラソンの女王の笑顔と涙は今も私の胸に焼きついている。
ところで、マラソン競技の起源は、前5世紀初頭のペルシャ戦争にまで遡る。当時東方世界に大帝国を築いていたペルシャは、前490年エーゲ海を越えてアテネの北東40キロ程に位置するマラトンの浜に大群をもって押し寄せてきた。小国アテネの軍隊はそれを迎え撃ち、勇敢に戦って奇跡的な勝利を収めた(マラトンの戦い)。その時アテネの将軍であったミルティアディスは、戦勝の喜びをいち早くアテネ市民に知らせるため、1人の伝令を走らせた。その兵士は傷ついた身体を1度も休めることなくアテネまで走り抜き、そして市民の前で「我が軍勝てり!」と叫んだ。ところが彼はその直後、極度の疲労のためか地に倒れ、人びとの歓声を聞きながら、幸せを噛みしめるように息を引き取ったという。この感動的な故事をきっかけに始まったのが、近代の「マラトン」、マラソン競技である。勇敢な伝令が走りぬいたマラトン−アテネ間の道のり42.195kmを、世界中のアスリートたちが各地で走破している。そして今夏のアテネ五輪では、先の故事におけるオリジナル・コースで執り行われた。
また、1896年アテネにおける近代五輪第1回大会のマラソン競技においては、とりわけロマンティックな実話が残っている。同競技で優勝したのは、スピロス・ルイスというギリシャ人男性であった。彼はとくに五輪参加を熱望していたわけではなかった。しかし当時、彼は非常に貧しく、愛する恋人の両親から結婚の許可を得ることができなかった。ある日、新聞広告で五輪マラソン競技の選手募集を目にし、藁をもすがる思いで参加を申し込んだ。そして世界の強豪を相手にコースを走り抜き、先頭でゴールイン。晴れて近代五輪第1回大会のマラソン金メダルを勝ち得た。
その後、ギリシャ国王は国民的英雄となったルイスに対し、「何でも望む物を、褒美としてあげよう!」と希望を尋ねたが、ルイスは仕事で使う荷車1つしか願い出なかった。そのとき、ルイスはマラソン金メダリストの栄誉により、愛する恋人の両親にも結婚を許されていた。本当ならばもっと大金持ちか大地主にでもなれたかもしれないが、「愛」のためにマラソンを走り抜いたルイスは、オリンピックによって人生で最も大切なものを得たのである。
この3つの「マラソン劇」に共通するものは「純粋な愛」ということであろう。走ることをとことん愛し続けた野口選手、そして彼女を支えた周囲の慈しみ。アテネの人々とその都市国家を熱愛するがゆえに命を捧げるまでに闘い、走り切った伝令の兵士。そして金銀よりも最愛の伴侶を得ることをこの上ない喜びとした、近代五輪最初のマラソンゴールドメダリスト。アテネ五輪は、私の心にもう一度大切な愛の灯をともしてくれた貴重な2週間であった。
(いしもと とうせい 協力研究員)
「介護帰省」 橋本 茂
一昨年8月、88歳の母が癌で急逝した後、介護1の認定を受けていた93歳の父を高知より千葉に引き取り、介護してきた。93年間住み慣れた郷里から離され、千葉のマンションでの生活を強いられた父の様子は、見るにしのび難いものであった。
幸い、昨年の4月より、私にとっては最後の特別研究休暇が与えられた。私は、4月早々、郷里で父の介護をするために一緒に帰省した。ゆっくりと、高知の四季を味わえる生活は、1959年に東京に出て来て以来、45年ぶりのことであった。
父の家は、別荘地として造成された横浪三里県立公園という景勝の地にあった。周りには、十戸ほどの別荘があるが、ほとんど戸締りされたままであり、ここで生活していたのは私の両親だけであり、多くの人は、私の両親を別荘の管理人と思っていたようだ。すばらしい自然環境の中にあったが、ここは生活に不便であり、自動車が必要であった。父は1934年に運転免許を取った運転の大ベテランであり、毎日、自宅から下の港町まで、往復、40分かけて日常の食事の材料などの買出し行っていた。両親は、南国の太陽をいっぱい浴び、海から来るオゾンいっぱいの新鮮な空気を吸いながら、庭つくり、畑仕事で、毎日を過ごしていた。
一昨年、8月、私たち夫婦は、両親の住む市の高齢者介護担当の方からの要請で、足腰の弱った父の介護のことを相談するために高知に行った。そのとき母のことは心配していなかった。ところが、私たちが到着して二日後、深夜、母がひどい腹痛を訴えた。救急車を呼び病院に行った。診断の結果、母は即入院し、即手術となり、開腹したが、すべて手遅れの状態で、手の施しようがなく、そのままお腹を閉じた。母は意識を取り戻すことなく、一週間後に、天に召された。私の母教会の牧師の司式で、母の葬儀をしていただいた。母の死は私たちの予想もしなかったことであった。一人になった父を置いて帰ることもできず、結局、渋る父を千葉のマンションに連れて帰り、そこで、介護することになった。
こうして、ふるさと高知での父の介護生活が始まった。炊事洗濯すべて私の仕事であった。買出しはマイカーで下の街まで行った。一汁一菜を原則と決め、食事つくりをした。ご飯と、アサリやシジミの味噌汁、それに刺身や焼き魚、そして、食後の果物。洗濯は、自動洗濯機で行い、二階のベランダに干した。夕方には、父を風呂に入れ、背を洗ってやった。寝ている事の多い父にとっては、背中をごしごし洗ってくれることは気持がいいらしく、「おおきに、おおきに」と礼を言った。父から解放されると、二階の私の部屋に行き、部屋いっぱいに広げられた大学から運んだ20冊のアメリカの社会学の教科書から、使用頻度のおおい社会学用語を1000個ほど選び出し、それぞれの用語の意味を簡単に解説するという仕事を行った。こんな生活が繰り返された。
もちろん、父の介護については、父のケア・マネージャーさんといろいろと相談した。父の生活が安全かつ快適に行えるために、手すりの取り付け、風呂の改造、電動ベッドや電動車椅子の借り入れ、それから、ヘルパーさんの手配などについて相談した。こうして、父の介護もだんだん軌道に乗り、私にもふるさと高知をエンジョイする余裕が生まれてきた。あちこちの教会を訪ね、懐かしい方々と再会した。
時間の経つのは早く、10月、大学からは次年度の講義の時間割の希望を聞いてきた。父を再び千葉に連れて行くことは、父の気持を思うととてもできないことであった。そこで、私が高知から大学に通う方法を考えた。火曜日の早朝高知を飛行機でたち、火・水・木と授業し、木曜日の最終便か、金曜日の朝に高知に帰るという時間割を作ってみた。もちろん、それにかかる費用問題や、私の健康問題が解決されたわけではなかった。また、私の留守中の父の介護をどうするかという問題もあった。しかし、やるしかないであろうと悲壮な決心をしていた。
ケア・マネージャーさんにこの計画を話すが、彼女は、たくさんの問題を感じ、私の考えに賛成することに躊躇した。その代わり、地域に根付いたネットワークを持つ彼女は、親しい仲間が作ったばかりのグループホームを紹介してくれた。善は急げ、さっそく、彼女の案内で、できたばかりのグループホームを見学した。責任者は元看護師で、母親の介護を経験して、グループホーム建設を決意したとの話を聞いた。収容人数9人の小さいホームであり、居間と食堂を挟んで両側に五つの個室があり、高齢者の自立と共同をともに満たすレイアウトになっていた。責任者の介護への熱情と人となりに、また、施設のすばらしさに感動して、父親の入居をすぐに決めた。
11月末、少し抵抗を見せたが、父がグループホームに入所した。それから3ケ月、心配しながら、見守っていたが、父は施設に適応し、楽しく生活をしていることを確認し、心配もなくなった。
介護から解放された私は、2月中旬、高知教会で「椎名麟三と現代社会」というタイトルで講演し、2月下旬には、NHKの釣りの番組のロケの下見に来た教え子のディレクターと一緒に、足摺岬沖30キロの漁場での「いしなぎ」釣りに同行し、体重50キロ、体調150センチのイシナギ2匹、40キロのマグロ1匹、20キロのカンパチ1匹を釣り上げるという、最初にして最後の経験をした。その数日後、家を厳重に戸締りして、安心して、帰京した。
(はしもと しげる 所員・社会学部教授)
キリスト教主義教育研究プロジェクト研究会
「GPとキリスト教主義リベラル・アーツ教育」(2004年6月12日開催)報告 永野 茂洋
キリスト教主義教育研究プロジェクトは、ここ数年間、学外からゲストスピーカーをお招きして、大学におけるキリスト教主義教育のあり方に関する研究会を断続的に開催してきた。今年度の春学期はその一環として、新潟の敬和学園大学から、キリスト教学の担当教授であり、また、教務部長として大学改革全般に重責を担って来られた山田耕太先生(専門は新約聖書学)をお招きして、2003年度から敬和学園大学が全学を上げて取り組まれている「チャペル・アッセンブリー・アワーの単位化」の試みについて、貴重なお話をうかがうことができた。
敬和学園大学は明治学院とも関係の深い、開学14年目の人文系単科大学であるが、開学以来、全学必修の「キリスト教学」(4単位)を中心とするキリスト教の知識・価値観に関わる教室での教育と、その実践的教育プログラムとして学内外でのボランティア活動を単位化した「ボランティア論」(全学必修2単位)・「ボランティアA〜D」(自由選択各2単位、以上最大10単位)、それに、毎週1回金曜日の3限目に行われる学外講師の講演と礼拝を組み合わせた「チャペル・アッセンブリー・アワー」の3つを、キリスト教主義教育の3本柱として連動させてきた。
2番目のボランティア教育は、ボランティア・センターと教務課とが全面的にタイアップして取り組んでおり、学生だけでなく、全教員がボランティア活動に参加する大変ユニークなものである。その中心を担っているのがボランティア・センターで、これは明治学院大学のボランティア・センターのモデルのひとつとなったものであるが、ボランティア教育を学生時代に学んでおくべき現代教養のひとつとし、そのうちの2単位を全学必修としている点等は、明治学院大学の取り組み方とは多少異なる。
今回の話題の中心であった3番目の「チャペル・アッセンブリー・アワー」の「単位化」(自由選択科目で、前後期各1単位)は、ボランティア活動の単位化以上に大胆な試みであり、刺激的な試みである。この種の科目の単位化は全国でも類例はない。
研究会参加者の関心もこの第3点に集中して、活発な意見交換が行われた。その中で最も印象づけられたのは、第一に従来の「チャペル・アッセンブリー・アワー」を課外プログラムから正規の教育課程の中に位置づけるに際しての、礼拝についての考え方の大胆な変更であろう。もともとキリスト教の礼拝には教育的な側面が認められるが、教育機関においてはそれをより前面に出してよいのではないかという考え方である。大学で初めてキリスト教を学ぶ学生たちは、チャペルで実際に祈りの言葉や証しを聴き、また、讃美歌や教会音楽に接して、教室での理解とは全く異なるキリスト教についての理解を体験的に深めていく。そのような生きたキリスト教理解にとって、礼拝は不可欠の教育機会であり、また、キリスト教教育がこれからの社会を担う学生たちに真に必要なものであると考えるならば、むしろ、大学礼拝をもっと積極的にカリキュラムの中に位置づけるべきではないか、というのが敬和学園大学の主張である。
ところで、この科目の単位修得のためには、7割以上の出席と、毎回のミニッツペーパーの提出、それに学期末にエッセイの提出が必要となる。提出物は4人の専任教員が合議制によって評価し、成績をつける。教員は相当数の時間をこの科目のために費やすことになるが、教員がその種の負担を負担としないという姿勢がなければ、この種の単位化はなかなか実現することはないであろう。印象深かったことの第二点目である。
第三点目は、この科目を全学必修の「キリスト教学」とリンクさせて、上記の3本柱の有機的な連関のさらなる強化を図っていることである。これによって「キリスト教学」の履修者には最低3割の「チャペル・アッセンブリー・アワー」への出席が義務づけられ、3割に達しない場合には「キリスト教学」の単位取得ができなくなった。しかし、学生たちは、それによってキリスト教を強制されているという感じは抱いていないという。むしろ、これはキリスト教主義大学としては当然のことと受け止めているらしいとのことである。
そのことは統計上の数字にも表れている。2003年度の統計では、「キリスト教学」の履修者の約半数が同時に「チャペル・アッセンブリー・アワー」を履修しており、そのほとんどが7割以上出席し、無事「チャペル・アッセンブリー・アワー」の単位を修得している。しかし、興味深いのは、残り半分の学生
であって、彼らは「キリスト教学」の修得のために「チャペル・アッセンブリー・アワー」へは3割出席すればいいのにもかかわらず、2003年度の場合、彼らの出席率は平均して7割(すなわち、1人が通年26回のうち18回出席)にまで達しているという。1年間に18回前後、本格的な礼拝説教や講演に耳を傾けるという経験は、単位のための科目という枠を越えて学生たちに大きな感化を及ぼさずにはおかないだろうと思える。この制度を導入する以前の、空席だらけの「チャペル・アッセンブリー・アワー」に比して、毎回の平均出席者数は約7倍にまで増加しており、しかも、その中には単位修得を目的とせずに、ただ説教や講話のみを聞きに来るという学生の数がかなり増えているとのことである。
明治学院大学がこのような試みを導入するのは、学生数や規模の大きさから言っても相当の困難が伴うことは明らかである。しかし、同様の試みは、敬和学園大学に続いてすでに四国学院大学でも始まっており、規模の小さな大学から徐々に全国に広まっていく可能性は十分にあろう。
チャペルでの礼拝は、それが礼拝である以上、たとえ少数であっても、そこに集う者一人ひとりの信実が常に問われるのであって、その意味では量的な事柄は常に二義的である。しかし、他方には、圧倒的多数の学生が在学中一度も礼拝に参加せずに卒業していくという現実がある。現在のキリスト教主義大学の中で、チャペルアワーがうまく機能して活発に行われており、また、学生の出席も多いというところは、残念ながらほぼ皆無に近いと言っていい。敬和学園大学の試みは、そのように一度遠のいた学生の足を、少なくとも再度チャペルに向かわせ、彼らにキリスト教についての体験教育の機会を大変うまく提供しているという意味で、真剣に検討してみる価値はあるように思われる。明治学院大学も長く同じ問題を抱えており、また、キリスト教主義大学として現状のままでよいと考えている関係者も多くはないであろう。大学礼拝を含めて本学のキリスト教主義教育の将来像をどのように思い描いたらよいのか。明治学院大学においても「単位化」が現状に対する対応策として適当であるのかどうか。これらの問題を含めて、できるだけ広範な議論と検討を当プロジェクトでも引き続き行っていきたいと考えている。広く積極的な提言を寄せていただければ幸いである。
(ながの しげひろ 所員・教養教育センター教授)
「キリスト教研究所協力研究員として」 瀬川 和雄
昨年秋、中山弘正教授よりお電話を頂き、明年4月より現在先生が所長をなさって居られるキリスト教研究所の協力研究員になるようにとのお薦めを頂いた。私がかつて法人の常任理事在任中に関心を持ち、折に触れて資料を集めておった「明治学院卒業生献身者調査」を纏めてみるようにとのことであった。しかも、研究・教育にご多忙な中山先生ご自身が責任者となってご指導くださることを知り恐縮している。
私自身教会の一牧者として生涯を送った者であり、研究生活の経験を持たない者なので、かつて収集した資料を今回整理することが出来る喜びを持つと同時に、研究員として責任を果たすことが出来るのかという危惧を持たざるを得なかった。しかし、中山教授を始めとして諸先生とのお交わりの中に研究方法についてご教示頂きつつ努力したいと願う次第である。
研究所としては今回のテーマは主として戦後の卒業生を中心として考えておられるかと推察している。常任理事在任中に、戦後の大学・高校及び中学校の卒業生の中から多くの献身者が出ていることに気付いた。その後、最近の卒業生がどのような傾向か今後の調査で判明することであるが、やはり継続していることを願ってやまない。
しかし、私はこの時期の卒業生の中から献身者が誕生していることについて検討するためには、明治学院の創立の時期に溯り、@東京一致神学校より明治学院神学部廃止までの時代(1877-1930)、A1930年に神学部と東京神学社神学校との合同により、明治学院が組織上では神学部を持たなくなったが、所謂、十五年戦争の時代であったにも関わらず基督教主義学校としてその存続を守り通した時代(1930-1945)を抜きにしては今回のテーマは考えられないのである。
明治学院五十年史は山本秀煌著『日本基督教会略史』に記述されている「此の合同の一結果として協力ミッションは東京に一致神学校なるものを設立して教職者の養成をなすに至れり」の一文を引用している。(この合同とは、1877年の日本基督公会と長老教会との合同を指す)
又、1886年に作成された「明治学院創立案」の第一項に「現在の一致英和学校及び一致神学校は今後単一の組織と為す。その学府は完全なる基督教育を授け、特に青年をして基督教教師として訓育するを以て目的とす。」とある。そして1878年、東京一致神学校が第一回の卒業生を出して以来、1930年3月、明治学院神学部が最後の卒業生を出すまでの間に335名の卒業生があった。
この建学の事情と今日の献身者との間にどのような関連があるか、なんとかして戦前、戦中の学院を背景としつつ今日の状況を分析してみたい、もし許されるならば、「明治学院教育に於ける信仰の伝承」という見地から今回のテーマを取り上げて行きたく思う。
現在の進歩状況は、@関係者のご協力により戦後の学生・生徒のうち献身した者約150名が判明し、その所属教派、現任地等を中心とした教師歴がほぼ整理され、A明治学院神学部卒業生のうち約40名の小伝が整理された程度である。
許されるならば、今回の研究と並行して将来の問題になるが、創立以来の献身者の信仰・教師歴を中心とした人物記を出来得る限り多人数分取り纏め、且つ、献身者の赴任先の教会を知ることが必要かと思っている。健康に留意し、基礎的資料の収集に務める所存である。
末筆になったが、研究所を始め学院関係者のご理解あるご指導を願いつつ筆を擱くこととする。
(せがわ かずお 協力研究員)
<『あんげろす』トップに戻る> <Menuに戻る>