5年前、特別研究休暇中、5ヶ月ほど南西ドイツのシュウ゛ァーベン地方にあるゴーマリンゲンという村に住んだことがある。この村がおもいがけずシュウ゛ァーベン敬虔主義の中心地だということはほどなくわかった。
牧師の紹介でマンツさんという元ギムナジウムの教師夫妻と親しくなり,ゴーマリンゲン村の宗教的風土や教会の活動についていろいろと教えてもらうことができた。この村の教会は教会を維持発展させるためにじつにさまざまな試みをしている。たとえば青年の青年による青年のための礼拝もそのひとつだ。この礼拝では牧師もGパンで説教をする。
ドイツでおそらくもっとも保守的な地域のひとつであるこの村でさえもこれほどの努力をしているのである。旧来のスタイルを変えられない教会が閉鎖されていくのはあたりまえと言えるのかもしれない。
明治学院にかかわる人々のなかで、もっとも長く、また深くおつきあいいただいている方は森井先生である。先生の名をはじめて知ったのは1960年ごろ、ブノワの『ジャン・カルヴァン』の翻訳者としてであった。魅力的な原文と明快な訳文に惹かれて、これは学生時代の愛読書のひとつとなり、ついに訳者に手紙を出すまでになった。ファン・レターは後にも先にもこれ一つである。ただ、内容は覚えていない。なにやら夢中になって感激を語ったのだと思う。そんな無責任な手紙にたいして、森井先生はなんと返事をくださった。まったく期待していないことだったので、またまた感激した。それははがきにびっしり文字の並ぶ丁重なもので、万年筆で書かれたブルーの太い文字は、今にいたるも変わらない森井先生の文字のトレード・マークである。
大学卒業後、神学を学び伝道者になろうと、東京神学大学に入った。森井先生は当時この大学で非常勤講師として西洋史を教えておられた。ぼくは学士入学なので一般教育科目をとる必要がなく、先生の授業にふれることもなかった。その2年目の夏のことである。事務室から呼ばれて行ってみると、森井先生からの推薦だが、インド人の神学者が論文に使用している英語版『キリスト教綱要』その他の引用箇所が原典のどこにあるかを調べるアルバイトをしないか、ということであった。森井先生は例のファン・レターによってぼくが仏文科の学生だったことを覚えていてくださったのだろう。もちろん二つ返事でお受けした。真夏の東神大の冷房などあるわけもない図書館にこもり、インド神学者の強烈な体臭と、ドンガラガッダ・ドンガラガッダと聞こえてくる英語や、分厚いカルヴァン全集と格闘した思い出は懐かしい。
ところで、これほど森井先生との関わりがありながら、実はまだお目にかかったことがなかったのは、どなたもなかなか信じてくださらないが、ぼくがひどく人見知りする質だからである。したがって、先生との出会いは思いがけない方向からおこるのである。
音楽が好きで、なにか自分にもできることをと思っていたところ、バッハ合唱団というのがあると聞き、家内と一緒に練習を見学に行った。あとで分かったことなのだが、この合唱団の主宰者が森井先生の元奥様で、先生も当然ながら団員として歌っておられたのである。「森井です」といわれたときにはほんとうに驚いた。頭が真っ白になり、あとがどうなったのかまったく記憶にない。
合唱団での週1回のおつきあいがつづくあいだに、ぼくのほうはまた仏文の世界に舞い戻り、やがて獨協大学のフランス語科に就職していたのだが、そこでまた驚天動地の出来事が森井先生によってもたらされた。2月のある日、突然先生が「明治学院に来ませんか」と、まるで映画見に行きませんかといった口調で電話してこられたのである。2月ともなれば教師の異動は大学からきらわれる話なのだが、森井先生は遠くまで足を運んで説得にあたってくださり、かくして1971年4月から、森井先生の同僚として明治学院大学の一員になれたのは晴れがましいことであった。
それだけではない。獨協大学もなかなか楽しい世界で、それなりに十分満足していたのであるが、ただそこはキリスト教主義の学校ではなかった。神学大学から逃げ出したヨナのごとき者が明治学院に連れ戻されたについては、逃れようもない神のみ心を感じざるを得ないのである。(続)
在外研究を終えて―根付いたキリスト教とイタリア人の気質について― 手塚奈々子
在外研究制度によりイタリアのパドヴァで、パドヴァのアントニオ研究をしてきました。彼は、13世紀のフランチェスコ会士で司祭・説教者・同会初の神学教師、そして聖人とされ教会博士ともされています。彼は日本ではほとんど知られていませんが、ヨーロッパと中南米ではフランチェスコ以上に知られています。その研究の中心地・パドヴァで研究でき、イタリア語で雑誌に論文を投稿できたことは、私にとって本当に恵みでした。
さて、今は私が体験した「根付いたキリスト教」の有様と「イタリア人の気質」について書きます。パドヴァはイタリアでは中堅都市です。紀元前からある古い街で、パドヴァ大学は13世紀に創立され、大学と聖アントニオ大聖堂とジオットによるキリストの生涯が描かれたスクロヴェンニ礼拝堂で知られる街です。パドヴァに日本人は住んでいません。
パドヴァの聖アントニオ大聖堂には、毎年500万人の巡礼者が来て、聖アントニオの棺に触り(棺桶が祭壇になっており、それに触って祈ると願いがかないます)、腐らない舌を見ます。(1231年に死んだアントニオの舌が残っています。説教者としてその舌で神を讃えたから舌が腐らないと言われています。他に声帯も残っています。)ミサは平日で9回、祝日で11回あります。巡礼者だけでなく、一般の町の人も、朝6時半のミサにでもよく参加しています。(他の町ではそんなに多くの人はミサに来ません。)そして大聖堂ではたくさんの典礼行事があります。ノヴェナ(ある祈願を込めて9日間祈る)を祝日の前に皆で祈ったり、皆でロザリオを唱えながら回廊を歩いたり、大祝日には御聖体や像を担ぐ御神輿のようなものが出ます。町の人々にとってキリスト教は日常のことで、他の教会も100メートル毎位にあります。文化全体にキリスト教が根付いていると感じました。
また、私が体験して感じたイタリア人の気質は、一言で言って“Va bene”(ま、いいでしょう)の言葉に尽きます。イタリア人は、よく会話の中で“Va bene”と言い、彼らが日常一番使う言葉だと思います。驚いたのは、約束事が実行されていない事態の折でも“Va bene”と言うのです。例えば、電車の故障で特急が来ない時でも、お客も車掌も“Va bene”でした。日本でしたら、駅員はお客にあやまり、当然料金の差額分は払い戻しされるのに。また、電車が遅れるのは当たり前です。(日本では90秒遅れただけでも事故が起きるくらい、「遅れてはならない」という強迫観念があります。)イタリアにあるこの“Va bene”は、日本の神経質な社会(決められていたことを必ずきちんと敏速に実行しなければ変な人に思われ非難されるから、必死に時間やいろいろな約束事に従って生きている社会だと思います)に慣れていた私にとっては、最初大きなカルチャーショックでした。でもすぐに“Va bene”はとても良いなあと思いました。この何でも“Va bene”で通ってしまう社会において、誰かに怒られるとか失敗したらどうしよう等の恐怖はありません。さすが、シエスタ(昼寝)のある国だと思いました。私は実感したのですが、この“Va bene”の良いところは、自分の力に頼らず、すべてを神様にお委ねするという気質が育つということです。自分で何とかしようと思っても、それは無駄な努力、その人だけの問題であって、この“Va bene”のまかり通るところでは成り行きに任せるしかありません。こちらも“Va bene”で生きていく他ありません。しかし、それはとても楽でした。一生イタリアにいたいと思えるくらい、気を使わないで生きていくのは、楽でした。私は日本の社会の方が生きるのに苦しいと思いました。日本でももう少し気楽に生きたいものです。
この4月からキリスト教研究所の客員研究員としてお世話になっております。
アンネのバラが美しく咲く白金台のキャンパスを歩くと、プロテスタント・キリスト教の伝道と教育活動に尽くしたヘボンやフルベッキたちの面影がしのばれます。
小学生の頃、『きりしたん算用記』や『米沢英和女学校』など子ども向けの本を通して宣教師と出会いました。大学生の頃、宣教師は、そんなにしてまで、何を伝えたかったのか知りたいと強く思うようになりました。現在では1910年にエディンバラで開催された世界宣教会議に始まる20世紀のエキュメニカル運動と、主に日本の教育との関連に着目して研究を進めています。この研究を通して近代日本の教育に宣教師たちがどのような足跡をのこしたかを明らかにできればと考えております。2年間、どうぞよろしくお願い申し上げます。
私は、明学学生時代にとりつかれた書誌学を仕事に、その後他大学図書館司書勤務を経て、賀川豊彦資料館研究員として
15年間勤務した。その間、賀川の仕事で、明治学院に幾度か足を運ぶことを余儀なくされたのである。
そして今年、積年の賀川の取材成果をまとめる詰めの作業を、米国で開始しようとしていた。それが、どうしてまた明治学院に通うはめになったのか。それは、今春明治学院を定年になったK教授との昨秋の話にある。K教授が言うのは、積年の賀川取材の成果を、明治学院で発表してはどうか、とのことであった。もともと、海外は別にして、日本で賀川をやるのに、協力的なところは皆無であった。それを考えれば願ってもない機会であった。
それ故、欧米での収集資料の『賀川豊彦世界書誌』群データベース化作業を、日本で完全に終了させ、行動記録を含む幾つかの基本ツールを発表後、Collectionとしての資料整理の為の米国行きへと予定を変更したのである。これが明治学院へ、また通うはめになった経過である。こうした経過から、今後明治学院で行うことは、K教授の現在の立場とも密接に関係する。しかしそれは賀川を、前職の顕彰の場とは異なる手法で、K教授とは別の立場からの検証で光を当て直すことになるだろう。“忘れられた存在”となった感のある賀川に、今一度光を当てる決断をしたのである。
“賀川は神様になっちまった”(大宅壮一)賀川亡き後のNHK放送でのこの言葉は、神様にされることに、生前無策であった賀川を言い当てている至言でもあろう。同様に、賀川を知るアカデミズムの碩学からの至言を、私の明学時代の思い出の中から回記したい。
かつてまだ嘴の黄色い明学の学生だった頃、総合社会学の泰斗S教授に、賀川との大阪労働学校時代の関係を質問した後、教授の総合社会学体系に欠落している部門との関係はないのですか、と質問したことがある。その時それに対する答えはなかった。今考えてなんと向こう見ずなと思うが、その教授の眠る墓所には“偉大な真理は批判されることを欲し、偶像化されることを望まない”とあるという。
形式社会学のK教授との思い出もある。講義のなかの、リーダーシップ論のときだった。“指導者というのは、精神的に慕われて後の真価にあるのであって、いわんや最初からグレートマンである必要はない”教授独特のレトリックで語った言葉は、今も私の脳裏にある。K教授の師戸田貞三と、東大セッツルメントとの関係から、当時まだ全くわかっていなかった賀川と東大セッツルメントとの関係を聞いた、そのすぐ後の講義での言葉であった。K教授の賀川観も、他同様に、当時私が想像していたより、はるかに低い評価だった。
米国でSocial Worker、欧州でSocial Reformerと呼称されていることを知った今。社会事業家としての働きが、影響受容はともかく、その割に研究が乏しいのはなぜかと、ある時聞いた相手は、職業指導の遊佐敏彦講師であった。
私の明学でのかけがえのない財産は、賀川という人物を、当時誰彼となく聞いてまわったこうした向こう見ずな記憶にある。同時にそれは、個人的な生い立ちから、賀川という名前を知った上で入学しながら、その後他大学で図書館学を受講し、卒業せず明学を去った。そうした若き日の思い出と重なる。そして歳月を経た遥かな旅路の果てに、また舞い戻った明治学院で、再び賀川豊彦の何を、どう伝えてゆくかに、取り組むことになったのだが!