不思議人 (ふしぎびと          深谷 美枝

私はとうとう、一年間聴講していた日本基督教団の認可神学校(夜間)の神学生になった。学問のコツが分かっているので、苦もなく一年間過ぎたが、それでもよく勉強した。入学に際して「実態として牧師をしている」ことをはっきりと神学校の側に伝えた。それが入れられて、我ながら快哉を感じている。今のところ何年かかっても、学ぶこと自体が目的である。キリスト教の集会を始めてもう四年になった。開始の順序が普通でないので、いろいろ言われもした。「新興宗教の教祖になるの?」「終末論とか、怪しい聖書の読み方をしているの?」それらの人々にとって私は「不思議人」だろうから、やむをえないが、心が痛まなかったわけではない。その意味では「不思議人」はもうこれで、卒業。しかし、こんな得にもならない人生の逆走こそが「不思議人」を一層証明していくだけで、私はどこまでも「不思議人」であり続けるのだろうか。


こんなひとがいたんだ            遠藤 興一

昨年12月、「書誌 田川大吉郎」という冊子を上梓しました。とても研究などといえるシロモノではありませんが、ともかく手探りで掻き集めたら3090点の著作目録になった。古い雑誌のバックナンバーを毎号めくっては、該当箇所を書き抜く、コピーをするだけの作業をやって数年経ちました。ヒマつぶしにはもってこいの作業でしたね。何しろタガワ・ダイキチローという人物は、ほとんど知られていない、勿も明治学院にとっては第三代院長ですから、本当は知る人ぞ知る、というべきなのでしょうが。しかし、世間の通り相場からいえば、ほとんど無名の人物です。NHKが所蔵しているフィルム・ライブラリーに、この人が昭和12年、選挙演説をしている短い映像が残っています。同じく永井柳太郎が堂々とした役者まがいの風貌であるのに比べて、誠に貧相な顔つきです。ところが、著作一覧を並べて眺めると、どんなテーマでも薬籠中の記事にしてしまう。外見とは大違いの華麗な文章の世界を構築している。ジャーナリストとしては間違いなく第1級、中島誠之助風に言えば“実にいいシゴトをしていますね”。で、もうひとつ、この人はクリスチャンなわけですが、その信仰は真面目で嘘をつかない誠実さに裏付けられていたかというと、その辺がよくわかりません。ことわっておきますが、「飲む・打つ・買う」たぐいの不真面目さではない。私がいうのは道徳倫理のことではなく、政治倫理の世界です。嘘も方便というのは仏教用語ですが、そういう嘘をつくのです。それも大きな嘘をつく。こういうのを別名、戦略的、政略的ウソといいます。加えて大見栄を張るのです。例えば元老、山県有朋に向かって“あんた、それ間違っとるよ”と雑誌上で喧嘩を売る。勿論、勝負になりませんから、逆に訴えられて、牢屋に入れられてしまいます。こんな話もあります。日中戦争下の南京虐殺事件という問題、中国に詳しい人なら知らなかったわけはない。報道関係者も蚊帳の外にいたわけではない、記事にしなかった(できなかった)だけです。ところが田川さんは戦争のさなか、中国を何度も訪れて日本軍の蛮行を見て帰国し、それを話す。勿論、比較的小さな集まりであるとか、或る程度分かり合える人びとを前にして語った。ところが治安当局から監視されていますから、すぐにバレる。そして憲兵隊に引っ張られます。お前は非戦的で反国家的な奴だと追及され、そういう場面で彼は大嘘をつくのです。私ほどの愛国者はいない、私ほどの天皇崇拝者はいない。そこで、結局放免される。つまり。シッポをつかまえさせない。それは見事なものです。しかし、こういう人物は戦後の平和な時代になると、どうしても戦時中の行動が糺されます。獄中何年という抵抗派は、評判がよく、尊敬もされる。私の恩師、天達忠雄先生などはそうした一人でした。それに比べると田川さんのような人は誤解されます。例えば日本基督教団史資料集をみても天皇制に妥協した人物、靖国神社の参拝を勧めた人物。確かにそういう一面はあるわけです、否定するわけにはいかない。しかしもうひとつ、山県有朋を叱り、日本軍の中国での行動を心ある日本人に―聖戦を行なう皇軍がそんなことをする筈がない、と教え込まれている―事実を事実として伝えようとした。伝えたために捕まってしまった。いよいよ悪名高い治安維持法違反で捕まるかな、というところまできて、ぎりぎりのところで上海に亡命します。私などは、どうしてこういう行動がとれたのだろうかと考えてしまいます。まぁ、本当のところはわかりません。あの危機の時代を生き抜いた、その生き様の“本当のところ”なんて、そう簡単に分かる筈がない。それでもなお、最後に残るひとつのこと、ほかに、いくらでも楽な生き方、安全な生き方があったのに、なぜ亡命までしてやらなければならない生き方を「選びとった」のかという問題。私は、ここに田川の信仰をかいま見ます。生命を賭けても悔いのない人生の選択には、きっと、合理的だとか、常識では推しはかることのできない何か(エトバス)があると思うから。


ロンドンと新宿で考えたこと         斉藤 栄一

1994年の4月から1年間、在外研究制度の適用を受けて、家族とともにロンドンに滞在した。BBCのテレビのニュースからふた言めに聞こえてくるのは“recession”(景気後退)という言葉であったが、当時のメージャー首相の首切り政策に反対する炭坑労働者たちが掲げる“Sack Major, Not the Miners”という文章が記されたプラカードが放映されるのを眼にするたびに、政治的な問題もジョークでしゃれのめす伝統を持つとかねて聞いていた人々の国に来たのだなとあらためて実感した。

 それから10年あまりがたった2005年の暮から正月にかけて、家族でふたたびロンドンへの小旅行を行なった。かつて住んでいた、その時点で築70年と聞かされていた家も、娘たちが通っていた学校もまったく変っていなかったが、地下鉄などの交通機関は機能面でかなり向上していたし、おもな美術館や劇場なども、外見はそのままでありながら内装は見ちがえるようになっているものが多かった。じっさい、現在のイギリスは好況に涌いていて、物価も10年前にくらべてかなり上がっており、たとえば美術展の入場料も10年前は高くても5ポンド(当時は円高だったので800円ほど)だったのが、今回は10ポンド(今のレートで2100円)するところさえあった。

 その好況にささえられてか、ロンドン市内で働く人たちに、往時にくらべて外国人が目立った。ホテルのメイドや飲食店の従業員が仲間どうしでしゃべっているときの言語が、かならずといってよいくらい英語ではなかったのである。イギリスという国家が、いわゆる本来のイギリス人だけではすでに成り立たなくなっているということはかねてより耳にしていたが、今回の小旅行はそれを肌で知る機会となった。

 話は変わって、先日、新宿の紀伊國屋ホールで井上ひさしの「兄おとうと」という芝居を見た。民本主義を唱道した、大正デモクラシーを代表する政治学者である吉野作造と、その10歳下の弟でのちに大臣を2度まで務めた信次の兄弟を中心に話は展開する。そのなかで、作造と彼の刺客として登場する右翼の学生とのあいだで国家存立の基盤とは何かということについての議論がくり広げられる場面がある。国家存立の基盤とは何か。「民族」か、「言語」か、「宗教」か、「文化」か、「文明」か。それらのすべてに作造は否と答える。では作造が考える国家存立の基盤とは何か。この芝居をこれから見る方のために、ここで彼の答を明かすのはつつしんでおこう。

 イギリスやフランスが最近になって多民族国家としてのさまざまな問題に直面していることはよく知られているところであるが、日本にはそういう問題はまったくないと言い切れるだろうか。たとえば、かねてから言われている「在日」の人々の選挙権の問題がいっこうに進展を見せないのはなぜか。つい最近解決されたとはいえ、長いあいだ外国人が国立大学の教官になれなかったのはなぜか。いまだに温存しているのは韓国と日本ぐらいだと言われている戸籍制度がなくならないのはなぜか。天皇の継承問題で、天皇制それ自体の是非についてはまったく論じられることなく、ただ男が継ぐか女でも継げるかということだけに強い関心が示されるのはなぜか。

 家、民族、国家といった既成概念に、井上ひさしがその戯曲のなかで作造にさかんに発せしめていた「なぜ?」という言葉を意識的に、積極的に投げつけていかないかぎり、この国は、イギリスやフランスがいま体験しつつある社会の変革を対岸の火事のようにみなして、それに学ぶこともなければ、作造がいまから70年も前に提案していた社会のあり方を、ひとつのモデルとして真摯に受けとめることもできないであろう。 


ヘボンさん その後         村上 文昭

ヘボン塾が開かれてから140周年を迎える明治学院は記念出版を考えた。大西先生の推せんで私が執筆することになった。脱稿までは短い期間しかなかったが、『ヘボン物語―明治文化の中のヘボン像』として刊行された。平成15年(2003)10月の記念式典には、何とか間に合わすことができたのである。評価のほうも及第点がもらえたものとおもっている。 

しかし、止むなく組み置きにしたものや原稿のままのものがある。およそ100頁余にはなるだろう。また原稿を起すための材料のあれこれが、いくつもの袋に入ったままになっている。

 本書刊行から2年半たつが、この間ヘボンとヘボン関連の事項は、数多く拾うことができる。捨ててしまうのはまことに惜しい。ヘボンの著者としては、その後も博士への責任があるとおもっている。このため100余頁の分と併せて、1年かそこらの間にぜひ1本にまとめたくおもっている。

 本誌から与えられたせっかくの誌面、めぼしい事柄の2,3を取り上げることにした。

 最初の口火は、ことし2006年がヘボン夫人クララ没後100周年にあたることをあげたい。ヘボン塾はヘボン夫人が男子女子の1人か2人に英語を教えたのがはじめ。明治学院はこの塾を源流として140余年を数えていることを思えば、これを機に夫人にスポットをあて、評価を掘り下げていってほしいところである。

 二つ目は、昨年11月下旬の朝日新聞の日光金谷ホテルの記事。それによると足利銀行が日本でもっとも古い洋風ホテルの日光金谷ホテルに対する債権を放棄するというものだった。なお同紙は日光を訪れたヘボン博士が、これからは外国人でも泊れるようなホテルをと勧めたのが同ホテルのはじまりと書いていた。

 ヘボン夫妻が日光を訪れたのは明治6年6月で、金谷家に投宿したことにはじまる。夫妻はその後も泊ったし、多くの外国人に金谷家の宿を紹介した。その一人がイザベラ・バードだった。バードは女性旅行家で、東北地方への旅を予定していた。紀行通信の第6〜8信では日光の美しさと荘厳さ、泊った金谷家とその主人のことを書き残した。今日、『日本奥地紀行』として読むことができる。もちろん、ヘボン博士と夫人も登場する。

 ホテルに入って正面のフロントに立つと、ヘボン博士の大きな写眞が飛びこんでくる。ヘボン夫妻との縁(ゆか)りが今につづくものとして飾ってあるのだ。

 2005年12月も20日すぎ、敬愛するK先生が、ヘボンの著者だからと私に数枚のコピーを送ってくださった。それは「ヘボンさん」という詩で、出所を示す奥付もあって『鈴木亨詩集』(土曜美術社刊)からだった。発行は2005年12月15日、つまり出たてのほやほや詩集からのコピーとわかった。

 題がいい、「ヘボンさん」と。こんな詩もあったと知って、うれしくなった。十数年も前の1992年の詩集が初出なのだから、拙著で気付くべきだった。しかしこの詩人について、はじめて目にするお名前である。

 「ヘボンさん」はB6判の2段5頁と長いから、ところどころを引用しよう。しかし引用はヨコ組になるので、いくぶんか味わいが薄れるかもしれない。

 まず題一連から。

  

ヘボンさんは 医者で宣教師

  長身の偉丈夫で また 夫人クララも

  すらりとした麗姿のひとだった

     

(中略)

 

  ヘボンさんは 学校と教会の

  創立・経営にも尽した

  ヘボン塾は 最初の英学校

  男女共学の嚆矢でもあった

 

     (中略)

 

  ヘボンさんは 帰国すると

  ニューヨーク市郊外の イーストオレンヂに隠退し

  十四年目に 八十八歳の夫人クララを失う

  そして そのあと独居五年

 明治四十四年九月二十一日の 早朝五時に

  九十六歳の高齢で 無私・献身の生涯を終える

 

     (中略)

 

  何と 白金台の広壮なヘボン館が

  原因不明の失火で またたくまに焼け落ちた―

 

  ヘボンさんは やはり 日本で亡くなったのだ

 

 末尾には読者のため和英語林集成、新約聖書、桜の実の熟する時などの書名に注をつけてある。末尾の一行、「日本で亡くなったのだ」が効いている。ところどころに間違いが見られるものの、詩人は詩材を選んではよく調べて読んで、実に長い詩にまとめたものである。


ちょんまげ                   司馬 純詩

神は「すべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。」(使徒言行録17章26−27節)アテネでパウロは異邦人(Gentile)にこう伝えた。

 国家(State)イデオロギーが民族

(Nation)性を規定する傾向がつよい現代。生活環境の中で、人はともすると「歴史と伝統の民族文化」という陥穽に落ち入る。井の中の蛙になると、人は異文化への寛容性を失う。すると異民族(Alian)に対して、国力の対決によって問題を解決しようとする。

話は飛びますが、たとえば江戸期のちょんまげ。

時代劇に慣れ親しんでいる日本人には何の違和感もないが、これは相当に奇妙奇天烈な髪型です。頭頂部を剃り、側頭部の伸ばした髪をポニーテールに結んで、油で固めて頭上に曲げて結び、剃った月代に乗せるのである。これを奇妙と感じる感覚を麻痺させるのが、民族文化の陥穽です。わたしたちの異文化に対する驚きは、すべてこれに起因する。辮髪も纏足も、あのどじょうヒゲも中国ではちょんまげ並みに当たり前だったのです。

文化の陥穽の中で構築された民族感情が、「寛容できない」異文化と対峙したとき、国力に頼って解決しようとする。中国のことを馬鹿にする国は、敵対国である。日本のいうことを聞かない国は、とんでもない国である。だから、何とかしろ、となるのです。

日本と中国は72年の国交正常化以来、過剰に「友好」が強調される国家関係でした。中国投資、中国への支店・事務所や工場開設などもまず日中友好ありき。一時は役所さえも民間に身をやつして友好団体として交流したものです。ネットを開いたら、個人のサイトに今だに「・・君の日中友好サイト」とありました。

 友好が強調されるのは「侵略の謝罪」や「中国蔑視」がわだかまりとして残るからでしょうか。が、いずれも多分に両国国民の「文化の陥穽」からの思い込みという面もあるようです。が、いずれの政府もこれを国力対決で解決しようとするのです。

暴虐の限りを尽くした日本軍兵士を神様とする靖国神社に、首相が参拝する。これに中国では政府のトップが抗議をし、国家機関が交流をドタキャンし、政府が理念的リーダーを担って反日運動が起こる。それでいて中国政府は歴史的遺物で構築される中華思想と大国意識の上に、建前とかけ離れたえげつない経済優先主義に突き進み、対して日本は侵略の歴史を覆い隠して、天皇制神道国家体制・アメリカとその軍事に依存・経済優先構造を維持しています。

靖国という象徴は問題ですが、日本軍兵士も戦争の被害者だったことは中国人には理解されません。

死者を一切合財神社に祭り、首相が参拝する。これを奇妙と思わない日本人の従順さ。これはキリスト教会の活動を制約し、国際交流を阻む中国の状況とは、鏡写しのように見えます。中国13億と日本1億3千の民。民間が心を開いて、対等に付き合えば、状況のいびつさと政府の理不尽さが見えるのではないでしょうか。

キリストは人々の「平和であり」、自らの身をもって「敵意という隔ての壁を取り壊し」た。(エフェソの信徒への手紙2章14節)日本人も中国人も、民族の歴史や文化に自負を抱きすぎ、国家に依存しすぎるように思えます。友好さえも日本では「日中」友好、中国では「中日」友好なのです。

 

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