ミルトン『失楽園』の研究から 大西晴樹
ジョン・ミルトンといえば17世紀イギリス革命期のピューリタン詩人として、思想史、英文学史において欠くことのできない存在である。ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に移動する経済のグローバル化が進行しつつある現在、ミルトンの作品に対する帝国論的解釈が盛んである。とりわけ晩年の大作『失楽園』(1667年初版)をめぐっては枚挙に暇がない。ミルトンは、サタンを「冒険商人」として描き、新しく作られた世界を「新世界」という言葉で表現し、人間の堕落をサタンによる「購入」という商業用語を用いて説明しているではないか、等々。この作品の白眉は、第12巻において、アダムとイーブが楽園を喪失し、二人だけの寂しい路を辿っていく箇所にあることはいうまでもない。そこで、ミルトンは、プロテスタントの勤勉によって繁栄をもたらしているオランダを「マモン」として批判し、アダムをして、マモンのように「小事」から「大事」へと発展するのではなく、「小事」をもって「大事」をなすことを説いている(556行)。オランダやイギリス帝国のように「小事」から「大事」へと発展する際には、勤勉による労働や科学技術が用いられるが、それは人間の能力を重視するために人間の「思い上がり」を生む。それに対して「小事」をもって「大事」なすということは、「一見弱そうに思えるものをもってこの世の強大なものを世俗的な知恵を破るといった風に」「お前の知識に、それにふさわしい行為を加え、信仰を加え、美徳と忍耐と節制を加え」ることであると述べられている。
「小事」をもって「大事」なすというミルトンの命題こそ、熾烈な世界経済競争のなかで科学技術立国を標榜するわが国の教育に、キリスト教教育が付け加える事のできる「大事」なのではないだろうか。
(おおにし はるき 経済学部教授)
「教会史の編纂について」 岡部一興
今日沢山の教会史が編纂されている。記念誌的な教会史、略史的な教会史、本格的な教会史など様々な教会史が出版されている。どの教会史をみてもその教会の変遷を垣間見ることが出来て読者を楽しませてくれる。2004年4月筆者の属する教会で『横浜指路教会百二十五年史』(2冊本)を発行した。そこで編纂に関わった経験を踏まえて考えるところを述べてみたい。
まず教会史はそもそもどのような視点で書くべきなのか、また何を目指すべきなのかを考えてみたい。教会史は一般の歴史叙述とは異なると思われる。教会史は神の民の歴史を叙述するもので救済史を指し示すものでなければならないと考える。教会は十字架と復活を信じる群れである。また教会は罪人の集りであり、同時に罪許された群れでもある。教会史はそのキリストを信じる群れが主から託されたわざをどのように行なって来たかを顧みることにあり、同時にその教会が将来どのような教会を目指すべきかを指し示すことにある。そのような意味で教会史は救済史をめざすものとなる。筆者は教会史の出発点は過去を顧みる時にどのような説教が語られ、どのような信者がどのような形で信仰を守ってきたかに注目し、一人一人の信者の名前を明らかにする作業から入ることが大切と考える。
教会史を編纂する場合、必ずといってよいほど教会の中に編纂委員会が作られて作業に当っている。記念誌的な教会史を編纂する時には、基本線を決めてから教会の古老的な人から始まって様々な会員にそれぞれの時代の教会の思い出を書いてもらってまとめる形を取る。この場合は、教会員の各層から原稿を依頼するので極めて身近な教会の歩みとそれぞれの時代の思い出が叙述されて信徒の信仰生活が描かれて身近なものとなる。
略史的な教会史をみると、編纂委員はいるが大抵まとめる教会員がいてその人が書きあげている場合が多いようだ。本格的な教会史になると、この作業は何年も掛かることになる。編纂の方法としては、編纂委員が分担して書きあげれば比較的早く作り上げることができる。この場合には、どういう視点で編纂するかを徹底的に議論しないとばらばらな統一性のない教会史に陥る危険がある。また専門の方に執筆を依頼して資料を渡して書いてもらうこともある。この場合には、依頼する側はすっかり専門家に任せるのでなく、自分たちが教会史を書きあげるような気持ちになって依頼しないと真の意味での教会史にならないという欠陥が現れてしまう。
いずれにしても教会史を編纂する場合、基本線をおさえると同時に教会史を作る視点を明らかにして、教会員が納得できるような教会史にしなければ意味がなくなるのである。教会史を編纂する場合、略史的な教会史にせよ本格的な教会史にせよ、教会の役員会がどこまでその教会史に関わっているかによって教会史編纂の基本線や視点が微妙に異なってくるのである。教会史編纂委員会が基本線や視点を出してそれを役員会にかけて承認してもらうわけだが、分担して書くにせよ、一人の人間が叙述するにせよ、教会史編纂員会の中でどれだけ協議検討できるかにある。と同時に役員会とのやり取りがどれだけできるかによって、その教会史がその教会のものになっていくかが変わってくるのである。
教会史は、教会史編纂委員会でこの箇所あの箇所をどう書くか、委員会の中で執筆者が発表し、批判を受けること、そして役員会にも原稿を出して一人一人が責任を持って読むことがなければならないと思っている。なぜなら執筆者が編纂委員会で発表し批判を受けなければ、真にその教会の教会史にはならないと考えるからである。また教会の執行部的な重要な役割を果している役員が書きあげたものを具体的に読んでこの教会にふさわしい教会史になっているかの検証をすることが大切と思っている。もしそういう作業を飛ばして執筆者の思うままに叙述するならば、それはその執筆者が考える教会史となり、その人の論文になってしまいその教会の教会史にならないことが起こってくるのではないかと思うからである。
(おかべ かずおき 協力研究員)
キリスト教研究所の客員研究員を2005年3月に退任してから1年後、まさか専任教員として再び明治学院に戻ってくることになろうとは夢にも思っていませんでした。
ご存知のように私は国立大学で学びましたから、学生時代にキリスト教関連科目を自由に選択できるような環境にはありませんでしたが、当時毎週土曜日の2限目に「キリスト教史」という授業が設けられていました。講師は非常勤の先生で、ナザレン教団神学校の教員をされていた方だったと記憶しています。その頃大学では、「キャンパスクルセード」という保守的な学生クリスチャングループが活発に活動していて、そのうちの何人かもこの授業にも出席していましたが、彼らは口々に「あの先生はリベラルだ」と批判していました。でも私は、教会で毎週聞く説教や聖書研究とは異なる学問的なアプローチが新鮮でとても面白く、土曜日にもかかわらずこの授業だけは毎回必ず出席していました。必修の語学やゼミはともかく、一般科目の授業はサボれるだけサボっていた(今こんなことを学生には言えません!)私が皆勤だった、数少ない授業のひとつでした。今のように教員がレジュメを作ってくれるような時代ではありませんでしたし、教科書も指定されていない授業で、板書も最小限、先生は淡々と講義をされ、それを一生懸命ノートしたことを覚えています。
もちろんその授業の方法が現在の大学に最早通用しないことは言うまでもありませんが、講義に対して常に誠実に取り組まれていたその先生の姿勢は、今の私のお手本です。
客員研究員から所員というより責任の重い立場に置かれ、今自分に何ができるだろうとしきりに考えています。さしあたり従来どおり宣教師プロジェクトに参加し、現在最も関心を持っている日中キリスト教関係史(こういう言い方はまだほとんど聞きませんが)、具体的には在日及び在華宣教師と日中キリスト教教育家の交流に関する研究を続け、プロジェクトの活性化に貢献できればと願っています。
(わたなべ ゆうこ 所員・教養教育センター助教授)
文学部長の時代か、もうすでに学長になられてからのことか、私のお粗末な記憶装置ではいずれとも判然としないのであるが、ともあれ連合教授会で森井先生が発議されたことなので、学長になられてからのことであろう。当時、学長選挙は教職員全員の投票により行なわれていた。それを、学長選挙は大学の教育理念に関わる事柄であるから投票権を教員に限定しよう、という提案である。もちろん反論が出た。職員だから大学の理念形成に参画できないというのはおかしい、とはもっともな意見である。教職員全員が明学の教育理念について考え続け、意見を交わし、深めていくことは理想である。しかし現実は必ずしもそうではない。教員と職員の票をまったく同質のものとして扱うには無理があろう。もちろん教員のなかにも教育の理念をさして考えない人がいるであろうし、職員のなかにもそれを真剣に考える人がいるであろう。しかし職分の相違はそうしたことを越えて大きい。森井先生の提案は、70年前後の大学紛争時に妥協的につくられた選挙制度を原点に引き戻そうとのするものであった。結果として原案に多少の修正を加えたものが可決されたのであるが、形だけみれば職員の既得権を奪うことになるから、勇気のある提案といえた。
それはよかったのだが、森井先生はその中でいわば勇み足発言をなさった。教員と職員の職分の違いということを比喩的に語ろうとして、教員が運転手なら、職員は切符切りだと言われたのである。電車を動かすのは運転手であるというのだ。これはちょっとした物議をかもした。私にしてももう少し穏当な言い方があろうとは思った。しかしよく考えてみれば、「切符切り」といわれて色をなした人は、現実に働いている切符切りの人を軽視していたことになるのではないか。森井先生は職分の違いという事実を語られたのであり、人格が違うということは言われていないのである。「盆のような月」というのを、球である月を二次元化したといって怒る者がいようか。比喩は一面しか語らないとはかつて北森嘉蔵先生に教えていただいたことであるが、森井先生は比喩をもって事の本質にずばりと切り込み、論は明快であった。
ところで、「ゆうべはぜんぜん寝なかったのです」とは、森井先生からいくどとなくお聞きした言葉である。翌日の会議などでどのように相手を説得しようかと寝もやらで考えるからである。誤解しないでいただきたいが、森井流の言葉遣いでいうと、「どうしてやっつけてやろうか」である。ここには真剣さが遊びの精神のなかではつらつと息づいている。ホモ・ルーデンスというのは私の好きな思想だが、これまで先生について書かせていただいたエピソードのどれもが、この精神をまさに具現化したものといえよう。この余裕ある真剣さがすばらしい。そして、「やっつけ」ようとする思いは、権威ならざる権威によって人間の尊厳とか人間への愛が踏みにじられようとするとき、先生の内面からむらむらと立ちのぼってくるのである。先生が専門とされたフランスのルネサンスは、「神にとってなにであるのか」という問いから、「人間にとってなにであるのか」という問いへの転換の時代であった。それは神の名を出せばいかなる無理もまかりとおる時代から、事柄を人間の問題として捉えなおして考えようとする時代への転換であった。天動説から地動説へ、形而上学から自然科学的思考へと、近代の合理的精神がそこに誕生しようとしていた。こうした時代の流れを汲んだフランス・ユマニスムの精神を深く学ばれた先生であれば、権威の名を騙って権力をほしいままにするもの、当時でいえば「教皇主義」で代表されるようなものを憎まれるのは当然であった。そして教皇主義は16世紀ヨーロッパにかぎらず、いつの時代、どこの土地にも、姿かたちを変え、名を変えて存在しているのである。森井先生の戦いはこうした現代風に身をやつした教皇主義をやっつけることであった。そのハイライトとも言えるものが大木英夫氏との論争である。(続く)
(まざき たかはる 所員・教養教育センター教授)
2002年8月、母が88歳で、2005年9月、父が96歳で、天国に召されました。瞬く間に去って行ったというのが、私の実感です。しかし、二人とも私の夏期休暇中に亡くなり、二人の最後を看取ることができたこと、そして、景勝地にある二人の建てた家で葬式を挙げることができたことは、私にとっては不幸中の幸いでした。
母は手術のため開腹をしましたが、癌の転移がひどく、手の施しようがなく、そのままお腹を縫い合わせて、病院のベッドに戻り、そして、一週間、医療器械に取り囲まれ、酸素吸入器や点滴などの、たくさんの管を体につけ、ベッドに縛り付けられたまま、意識は戻ることなく亡くなりました。結局、手術室に行く母と目と目を合わせて別れたのが最後でした。
母が亡くなった後、父は半年ほど、私たちの千葉のマンションで生活しました。この生活は父にとってはつらかったようです。翌年2003年、私の特別休暇を利用し、私と父は、高知の父の家に帰り、一緒に生活をしました。私の休暇も少なくなり、帰京せざるを得なくなり、父は新築のグループホームに入り、高知に残ることになりました。
父をホームに入所させることになったとき、その責任者と私は面接しました。その時、もと看護師であった彼女は、「私は病院で最後を迎える人を多く見てきました。私としては入所者がこのホームの自分の部屋の自分のベッドの上で最後を迎えるようにしたいと考えていますが、いかがでしょうか」と問いかけてきました。母の病院での最後を見てきた私にとっては、「ホームの自分のベッドで最後を迎えることは父の本望であると思う」と答えました。父は2003年11月、そのホームに入所しました。
2005年の春頃、96歳になった父が元気でなくなったとの連絡を受けました。私は、夏期休暇にはいると、すぐに高知に飛びました。主治医は末期の肝管癌と診断しました。そして、入院を勧めました。ホーム長の彼女と私は、医者の勧めに従って、一時は父の入院を決めました。しかし、しばらくして、ほぼ同時に、彼女と私は入院したらどうなるか、96歳の老人を手術してどうなるかを考えました。手術して長生きするわけではない。沢山の医療機器に取りかもまれ、体には沢山の管をつけられ、痛い思いをしながら、病院の無機的なベッドに縛り付けられ、最後を迎えるだけでないだろうか。父も、私たちの動きを察知して、ホーム長の彼女に、「おんちゃんを、このベッドの上で死なせてや」と懇願していました。同じ思いを共有する私たちは父の気持ちをも尊重し入院させないことにしました。その決定に医者は反対しましたが、私の意志が固いことを確かめた後、入院をあきらめてくれました。明治生まれで、戦争で九死に一生を得た父は徹底していました。ホーム長の進める注射も点滴も拒否しました。そこで、主治医は癌の痛みを和らげるためにモルヒネを含む薬を調合してくれました。
父は見舞いに来てくれた人たちに、病人とは思えない明るさで対応していました。誰も余命1ヶ月の末期癌患者とは思わなかったようです。
父の最後は、私たち夫婦と私の従姉弟がホームの父を見舞った直後でした。見舞った時は、父は多少の痛さを訴えていましたが、意識もはっきりし話もしていました。私たちは、午後、主治医に会って話を聞くことにし、昼食のために、いったん帰宅しました。食事中、父の様態が急変したとの電話が入り、急行しましたが、着いたときには亡くなったばかりの時でした。私たちは臨終には間に合いませんでしたが、父は多くの親しかったホームの人々に取り囲まれて、自分のベッドで、天に召されました。
私は父の死を、明治男の見事な往生であったと、悲しいけど、誇りに思っています。父の葬儀は、彼が精魂込めて作った太平洋を見渡せる自宅で、多くの親しい人々にとりかこまれ、私の母教会の牧師の司式で行われました。そして今、父母は、太平洋を眼下に見る墓所に眠っています。
今度は、私たちの番です。どのような死に方をすることになるのでしょうか。
(はしもと しげる 所長・社会学部教授)
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