大学のゼミ仲間の一人ががんで入院加療することになり、先は長くないことを宣告された。その彼から私に、「これまで死と真剣に向き合うことは無かったので、心の平静を保ってその時を迎えるためにはどうしたら良いか、智慧を貸してほしい」との頼みがあった。
また最近小学校以来の友達グループの一人がやはりがんを宣告されたので激励のためにと集まったものの、多くは「死への心備えは出来ていない」と深刻な表情だった。
死こそ生にとっての根本的な事実であり、真剣に死と向き合うことなしに自覚的に生きることは出来ないはずなのだが、高い教育を受け社会的な地位もある人々も、多くは死と向き合うことを避けて漫然と日々を過ごしてきているのだ。日本社会が「死に打ち勝つ」希望の福音といかに縁遠いかを改めて思い知らされている。
「思い出のアルバムから」 加山 久夫
もう五十年以上も前のことになりますが、ある日、ルーテル・アワーと呼ばれるラジオ放送が私の耳に飛び込んできました。その始めと終わりには実に美しい讃美歌の合唱が流れ、もっぱらそれを聴くのが楽しみで、すっかりこの番組の愛聴者となりました。そして、毎回の明治学院大学合唱団の紹介で、明治学院大学の名は、遠く関西の地にいた少年時代の私の脳裡に深く刻まれたのでした。この明治学院大学合唱団は後にグリークラブと改称されることになりますが、将来この大学に勤務するようになり、しかも、グリークラブの顧問を務めることになるなどといったことは、もちろん夢にも思いませんでし
た。人生の不思議な出会いを思います。
私は来る三月末をもって定年により退職、本学専任教員としての24年間の勤めを終えます。専任になる前の非常勤講師の2年間を加えると四半世紀ということもできるでしょうか。それ以前から、今は亡き秋元徹先生とキリスト教学校教育同盟の会合などでしばしばご一緒し、親しくお付き合いをいただいていましたが、当時の勤務校で盲人に入学試験の受験資格を与えるかどうかについて検討中であり、すでに盲人に門戸を開いていた本学に秋元先生をお訪ねし、関係の方々をご紹介いただいたり、さまざまの参考資料をいただいたことがありました。障害者への木目細かい配慮に深い感銘を受け、さすがに社会福祉学科をもつ明治学院大学だなと 思ったことでした。
24年間の大半は旧一般教育部に所属していましたが、さまざまの異なる研究分野の同僚との交流はとても刺激的で楽しいものでした。その意味で、キリスト教研究所においても、学部横断的に、さまざまの専門領域の先生方との共同研究に参加し、語り合えたことは大変幸せでした。また、制度的観点からも、神学部やキリスト教学科といったものを持たない本学において、キリスト教研究所の存在は大きいというのが、私の実感です。学内的のみならず、対外的にも、数多くあるキリスト教関係大学との交流の窓口としての役割も決して小さくありません。その点で、わが国においてもっとも古い歴史をもつキリスト教学校の一つとして、その貢献を期待されているところ決して少なくないのです。キリスト者であると否を問わず、さまざまの学問領域でキリスト教的価値や文化と接点をもつ方々に、一人でも多く参加していただける開かれた活動の場として、キリスト教研究所がさらに発展することをこころから期待しています。
もちろん、このような共同の営みはいつでも、どこでも起こり得ることであり、中山弘正学院長時代の敗戦五十年の一連のプログラムや明治学院120周年を記念する一連のプロジェクトには、生き生きとしたムーブメントとしての息吹を感じさせるものがありました。その意味では、久世了学院長のもとで続けられてきた明治学院バッハアカデミーもその一つだと思います。もう6年前のことになりますが、その日のチャペル・アワーはオルガニスト長谷川美保さんによる音楽礼拝でした。出席者はごく少数でしたが、その中に樋口隆一先生が来ておられて、礼拝後の立ち話のなかで、明治学院バッハアカデミーの構想を熱い思いをもって語られました。そこにいた橋本茂、金井創、長谷川美保諸氏らとともに、私もこれに大賛成し、〈作戦会議〉の後、久世学院長と大場学長に会いにゆき、協力を要請したのでした。多少の紆余曲折はあったものの、結局、「学院長プロジェクト」として、樋口先生のすぐれた指導と献身的な働きのもとに、いまでは明治学院の誇るべき文化的発信基地になっています。本学には、このような潜在的可能性が豊かにあり、これからもますますそれらが顕在化してゆきますよう、私は、本学に関わる機会を与えられたことに感謝するとともに、これからも一人のOBとしてエールを送り続けたいと思っています。
(かやま ひさお 文学部教授)
「『悪霊』ドラマ・リーディング」 杉山 恵子
椎名麟三研究会では、昨年12月18日、92会議室を使用してドストエフスキー原作・椎名麟三脚色の「悪霊」ドラマ・リーディングを開催した。出演者その他を合わせると参加者は総勢30名以上、研究会としては異例の活気ある会となった。
もともとドスエフスキーの「悪霊」は、文庫本でも分厚い上下二巻からなり通読するだけでも数日はゆうにかかる厖大な作品である。名前のある主な登場人物だけでも60余名、短時間でどれだけのことがドラマとして表現できるのか、ドストエフスキーの作品を知るものであれば、まずそのことだけでも疑問に思われるはずである。
椎名麟三はその最晩年にこの「悪霊」の脚色に情熱を傾けた。そのきっかけは「俳優小劇場」が当時創立10周年の記念公演として、アルベール・カミュの脚色の上演権を得たことにある。カミュの脚色は、実際に上演すると3日間もかかるため、それを一日の公演にしてほしいというのが、椎名に対する依頼であった。しかし、ドストエフスキーの作品のなかでも「悪霊」こそが、自分の文学にとって一番影響を与えた作品であると考えていた椎名は椎名独自の思想的解釈によって、よりコンパクトな芝居としての「悪霊」を作り上げた。ただ、残念なことは、この脚色が椎名の生前には上演される機会がなかったことである。この作品は椎名没後一年目の昭和49年2月、青年座を中心とした新劇合同の椎名麟三追悼公演として、新宿の紀伊国屋ホールで上演された。以後、その上演に関する記録はない。
この作品は、一日で上演可能な長さであるとはいえ、登場人物は17名に及び、上演時間3時間はかかる。ドラマ・リーディングでは、そのなかから椎名が思想的な核としてあげた、スタヴローギンを中心に、キリーロフ、シャートフ、ピョートルの三人の登場人物との対話の場面だけを読んでもらうことにした。演出をお願いしたのは、俳優座演出家の内田透氏であ
る。内田氏はかつて千田是也演出の椎名の戯曲「不安な結婚」では主役を務められたこともあり、椎名麟三との交流の深い方である。内田氏の子弟筋にあたるジョイント・オフィイス所属の田崎正太郎氏が中心となり、小川絵莉(新派)、萩田博之(フリー)、中村文平(ジョイント・オフィイス)の諸氏がその役者としても大役を果たしてくださった。
たった一回の上演のために、これらの方々は週2回合計7回も、6時限からの演習室に集合して稽古を積んでいただい
た。ある意味でこれほど贅沢な企画は考えられないことであった。
椎名麟三は、キリーロフ、シャートフ、ピョートルの三人の人物にそれぞれ、同じ時期に別の思想を吹き込んだのは、スタヴローギンであるとしながらも、そのスタヴローギンの根源には、虚無が横たわっているだけだったことを示唆している。リーディングの後でではさまざまな討論が行われたが、なかでも公演してくださった役者の方々が、短い部分なりに最大限の肉付けをされたその苦心のほどが語られたのは、興味のつきないことだった。またこの会のために、新任早々にもかかわらず、多大な協力をしてくださった事務の竹野美保子さんにもお礼を申し上げ
たい。
ドストエフスキーの「悪霊」は作品が書かれてからほぼ一世紀以上を通して、予言の書としての意味を深めてきた。混迷を極めるこの今にこそ、この作品はますますその上演の価値がある。今回のドラマ・リーディングをきっかけとして、椎名麟三の「悪霊」の本格的な上演を望んでやまない。
(すぎやま けいこ 客員研究員)
「『同行ニ人』ということ」 辻 泰一郎
四国の遍路道は、約1200キロ、弘法大師との「同行二人」のゆうに40日以上かけて歩き通す巡礼道であることは良く知られている。もっとも最近では、バスを利用した簡単な巡礼もあるようで、忙しい人にはこの方が手ごろなのかもしれない。四国88ヶ所めぐりは、癒しと再生の旅でもあり、金剛杖を手に白装束を着て回るのが慣わしで、行き倒れになる場合それはそのまま墓標と死に装束ともなる。ひとり死を覚悟して回る場合にも、いつも弘法大師と一緒ということである。
癒しと再生、あるいは自分のアイデンティティ(信仰を含む)の確認、さらにまた自他の霊魂の救済のため、人はあえて霊場ないし聖地の巡礼という艱難を行うということだろうか。チベット仏教の聖地カイラス(カン・リンボチェ)山(ヒンドゥー教やボン教、ジャイナ教の聖地でもある)への五体投地の巡礼業は、とりわけその厳しい自然環境のゆえにそこに見られる巡礼者の篤い信仰心に私たちは心を打たれる。
ムスリムにとってのメッカやメディナへの巡礼、キリスト教徒にとってのエルサレムやローマへの巡礼も昔は当然様々な危険と隣り合わせのものであったろう。現在は良く知られているフランスのルルドからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラまでの900キロの巡礼の道は、道しるべも整い多くの人が余り危険を感じずに歩けるらしいが、それでも歩き通すとなると、1ヶ月近くはかかるピレネー越えの難行の旅であることは間違いない。
巡礼は、勿論、旅仲間とともにということもあるが、ひとりで行われる場合もある。ひとりでの巡礼は、恐らく、孤独と心細さの中で自分の信仰心だけを頼りにいわば「同行二人」の気持ちで行なわれることであるだろう。
「同行二人」ということは、別言すれば、自分を見守ってくれている<大いなる存在>がいつも自分とともにあるということ
で、だからこそ危険で艱難な旅にも耐えていけるのである。
人生もまた、艱難な旅である。孤独な巡礼者にとって自分を見守ってくれる<大いなる存在>がそうあるように、人は、その人生を見守ってくれる人を必要とする。あるいは、寄り添ってくれる人といっても良い。特にいま、孤独のなかに置かれた子どもたち、老人ばかりでなく、仕事や社会からはみ出されて孤独感を味わっている人々を見守り、寄り添ってくれる存在がどんなに望まれているか、と私は思うのである。練炭ストーブで見知らぬ同士が車のなかで一緒に自殺し、駅構内で日常的に人身事故が起きているのを聞くのは本当に痛ましい。人は、自分を知ってくれている人、自分の存在を認めてくれる人をもつだけでも、心強く生きることができる。それが<大いなる存在>であればなお心強い。
ある夏、家族で過ごした東北の温泉での湯治の最中、足を伸ばして、尾去沢鉱山(鹿角市)を見学したことが
ある。思いもかけず、坑道の奥まった所に十字の印が残されており、説明によれば、そこは坑夫となった隠れキリシタンの秘密の祈る場所だったという。棄教するかどうか追い詰められていたキリシタンたちが坑夫となり地底の暗闇のなかで祈りを捧げていたことを想像すると、彼らの殉教への旅もまた私には「同行二人」であったように思えるのである。
(つじ たいいちろう 法学部教授)