「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使の真似をしようと思うと、獣になってしまう。」(『パンセ』358)
「人間に対して、彼の偉大さを示さないで、彼がどんなに獣に等しいかをあまり見せるのは危険である。卑しさ抜きに彼の偉大さをあまり見せるのもまた危険である。どちらも知らせないのは、またさらにもっと危険である。だが、どちらをも提示してやるのはきわめて有益である。――人間が獣と等しいと信じてもいけないし、天使と等しいと信じてもいけないし、どちらをも知らないでいてもいけない。そうではなく、どちらをも知るべきである。」(『パンセ』418)
クリスチャンであることを誇りながら、同僚の心を深く傷つけても平然としている人。クリスチャンでないことを誇りながら、キリスト教について無知であっても平然と発言する人。このパスカルの言葉は、誰の胸に響くのであろうか。
ロシアの巡礼物語 小田島 太郎
十数年も前のことだが、ロシアの巡礼物語をドイツである知人が私にくれた。読み出すと心を捉えられ、あっという間に読み通した。帰国後、横浜チャペルの奨励でこの本に触れ、「誰か邦訳を出してくれると良いのだが…」と話したところ、ハリスト正教会の信徒であるS君が、邦訳が既にあるのではないか、と私に教えてくれた。その通りであった。すぐ買って読んだ。これは英語訳からの重訳ではあるが、やはり日本語のほうがわかりやすい。ロ−テル・斉田共訳、『無名の順礼者 あるロシア人順礼者の手記』、エンデルレ書店、1995年、であった。私は、順礼がロシアの大地をあちこち経巡るので「巡礼」の字を使うが、この翻訳は「順礼」を用いる。
さて、春学期にこの本をまた読んた。といっても今回読んだのは、1998年の第2刷で、増補版である。これは、私が買った同じ本の3冊目だ。最初に買ったのは、戻ってこなかった。私の「ロシア宗教史」を聞いてくれたある学生が、就職活動のため授業への出席もままならず(という自己申告で)、期末試験のほかにレポート提出となった。そのときに貸したのが、最初の1冊である。彼は食品関連の会社に就職できた。その後結婚して、ある日、新妻が彼のもつ数少ない書籍のなかにこの本を見つけ、何か夫とそぐわないと奇異の感に打たれたことや、筋肉マンみたいに屈強な彼がその後、本の影響を受けて妻を捨て、順礼になっている、などと想像を楽しむこともある。勿論この本がそこまでの効果をあげないように願うが、あの本がどうなっているか、彼は今頃どうしているだろう、と考えないわけではない。
私が買った2冊目はどこへ行ったか。これも学生の手に渡った。当時は100人を越えるような「ロシア宗教史」の授業で、勿論この本を取り上げたが、今どきの学生は、ちょっとやそっと薦めたくらいでは本を読まない。そこで「この本を読んで、5章までの内容を要約すれば、努力点を出すし、記念にこの本も贈呈する」と約束した。私の魂胆は、要約を教材プリントに刷り込み、授業で配布することだった。自分でする労を省く算段である。このT君が、なぜこの課題を引き受けたのか、ついぞ聞かなかったが、読んでみて、どうやら何の感興も覚えなかったようだ。彼の要約から、そう感じられる。勿論、そのような要約は授業で一度使ったきり、止めてしまった。その後T君はこの本を抱え、どうしているだろうか。あの本を捨ててしまったかもしれない。それから時が流れて数年後、私は今手元にある3冊目を買った。絶版になっては困ると気づいたからだ。これを今回読み直した。読むと生き返るような思いがする。
これも私の知人だが、熟年の謹厳実直なドイツ婦人が、ドイツ語版を読んで、この巡礼者の「寄生虫のような生き方」をいたく批判した。彼女は熱心なプロテスタント信者である。一方アメリカのJ.D.サリンジャ−に「フラニ−とゾ−イ−」があるが、このユダヤ人作家もこの小品のなかで、わざわざこの物語を取り上げ、わが巡礼者に厳しい批判を投げつけている。だが私は、この二つの事例の一致に、ほくそ笑んだ。プロテスタント・キリスト教とユダヤ思想はどこか陰でしっかりと手を繋いでいる、という私のテーゼがここでも証明されたからだ(これぞ正真正銘の「洞窟のイドラ」か)。皆さんはこの本を読んでみたいと思われませんか。
第4回東北アジアキリスト教歴史協議会に参加して 大西 晴樹
8月25日から27日まで、韓国ソウルのレキシントンホテルで開催された第4回東北アジアキリスト教歴史協議会に参加しました。この会議には日本・中国・韓国のキリスト教史家が集まり、「キリスト教の世界化と地域化」を主題に研究発表がなされました。
参加者は日本14名、中国(香港)1名、韓国23名が参加し、専門がイギリスの私は、この会議の重要性を感じながらもこれまで参加してこなかったのですが、今回日本側代表荒井献先生(新約学)や中国キリスト教史が専門の渡辺祐子さん(本研究所協力研究員)に促される形でエントリーし、挙句の果てにセッションの司会まで担当する羽目に陥りました。期待された中国からの参加者が少なかった背景には、たとえ学会であろうと中国人がキリスト教の会議に参加するのは、ビザの取得等難しい問題があるようです。しかしながら中国では、有名な大学といえども、かつて宣教師が設立した大学に淵源するものが多いわけですから、大学においてキリスト教史を研究する学者が近年増えており、今後なんとしても中国からの参加者を増やしていく事がこの国際会議の将来を左右しそうです。
ホテルでの会議ですが、主催国韓国キリスト教の敬虔さを映し出して、朝7時の祈祷集会からはじまります。たとえ夜半まで起きていたとしても7時には会議場にいなくてはなりません。ホテルは国会議事堂の建っているヨイド地区にあり、目の前は70万人の教会員を擁するといわれるヨイドの純福音教会です。このホテルは韓国のアパレルメーカーの所有者によって経営されているとのことですが、その篤信の経営者は、アンダーウッド、ハントなど、かつてこの国で伝道した宣教師の名前をブランド名にして成功しており、韓国キリスト教界の多様な面を教えてくれています。そういえば、この国際会議のために、教会の牧師であり実業家である人が祈り、相当な献金をしてくれていることも付け加えておかなければなりません。
さて、肝心の会議ですが、私が司会をしたセッションは2日目の午前中でした。韓国側から2本、日本側から2本の計4本のペーパーが読まれました。韓国側からは、@李象奎高神大学教授「政治と宗教:神社参拝問題とオーストラリア長老派宣教団」、A金興洙牧園大学教授「向こう側からの声:WCC(世界キリスト教教会協議会)と朝鮮戦争」。日本側からは、B李省展恵泉女学園大学教授「帝国内部の帝国:日帝とアメリカ宣教師の関係」、C辻直人明治学院大学歴史資料館研究調査員・本研究所協力研究員「日本における基督教教育同盟会の活動:第10代理事長田川大吉郎の思想について」。@にかんして、日本の植民地統治期に神社参拝に反対した韓国のキリスト者のうち、2000人が投獄、50名が獄中死、200教会が力ずくで解散させられたということはすでに承知の事実ですが、この報告では、オーストラリア長老教会の事例が取り上げられました。韓国は長老派伝道の盛んな所で、他にもアメリカ北長老教会、同南長老教会、カナダ長老教会の各宣教団が伝道していましたが、それぞれの宣教団の神社参拝に対する態度や、韓国のキリスト教徒が迫害をつうじて独立を求める愛国心をいかに深めていったのか改めて考えさせられました。Aは微妙な問題を含んでいます。それは、韓国キリスト教が共産主義をどのように認識しているかという点です。この点をめぐって、韓国側内部で意見の相違があり、国連軍の朝鮮戦争参加に反対する共産主義を研究課題に取り上げること自体に対する警戒心が表明されたりしました。日本側のペーパーですが、Bは、アメリカ人宣教師は当時、日本の植民地政府と韓国人信徒の間で動揺を示していましたが、植民地支配がいわゆる「武断政治」から「文治政治」に転換するに及んで、植民地政府の宗教政策に期待する文書があったという刺激的なものでした。韓国側から「チャレンジング」という反応以外、司会者の力量のせいか、それ以上突っ込んだ議論にはなりませんでした。Cは、明治学院の総理でもあった田川大吉郎が15年戦争下で中国人の大量留学生受け入れ計画を練りあげ、上海亡命後は国際大学を構想した点について、韓国側から、それはクリスチャン・ヒューマニズムではなく、日本の植民地化政策と連動していたのでないかという鋭い質問が出されました。
2日目の午後から夜にかけて水源近くの民俗村を訪ねたり、大きな教会のホールで教会青年によるアリランなど韓国民俗舞踊やゲームを楽しんだりした以外、ホテルで3日間缶詰の国際学会でした。閉会礼拝において、本大会委員長で韓国教会史の権威である閔庚培延世大学名誉教授が「会議の終わりは征服の始まりである」という国際エキュメニカル運動の父J.R.モットの有名な言葉を引用していましたが、今後中国も含めて、キリスト教という共有する人間理解をもつ東アジアの歴史研究の推進が、国家の利害やナショナリズムに囚われがちな東アジアの現在を解きほぐす解熱剤になるのではないかと感じながら、羽田に戻ってきました。
タルハの墓 花田 宇秋
1970年の8月、その日も朝からかんかん照りだった。私はイラク第2の都市バスラの名所旧跡を巡るべく旅装をととのへホテルを出た。当時は観光案内・地図などなく、しかも限られた時間、仕方なく玄関前に屯するタクシーを利用することにした。
バスラは、638年アラブ・イスラム軍の基地として建設された最初のイスラム都市である。以来今日に至るまでイラクの海港都市として繁栄してきた。
しかし1970年当時のバスラには観光客の目を楽しませるようなものは殆どなかった。でも、今にして思えば、当時この町でイラン・イスラム革命の元勲ホメイニー師が亡命の日々を過ごしていた。歴史を予知できないのが残念である。
スーフィー(イスラム“神秘主義者”)の元祖と目されるハサン・アルバスリー(728年没)の墓廟を訪れた後、運転手に案内されたのは、とある墓廟だった。墓廟といっても縦横5米、高さが約3米くらいの赤茶けた煉瓦づくりの立方体(正面に内部への入口らしきものがある)が黄褐色の砂漠を背景に坐っている代物にすぎない。「何んでこんな墓を見せるために!」と心の中で言うと、「タルハ(656年没)の墓です」との運転手の言があった。「それがどうした!」とムスリム以外の観光客だったら憤慨したに違いない。それほど観光の対象としてはお粗末なものだった。
しかし、それでも私は初期イスラム史を専攻する学徒。「タルハの墓」と聞いて、「あのタルハか」との思いを新たにした。
かれ、タルハ・ブン・ウバイドッラーは、アブー・バクル(初代カリフ、預言者ムハンマドの代理/633年没)と同じ家柄の出で原初期ムスリムであった。迫害を逃れメッカからムハンマド一行とともにメディナに移住してからのかれは、ムハンマドの耳目となってこれに献身的につくした。メッカ方とのウフドの戦い(625年)でイスラム方が苦戦した際、退却を余儀なくされたムハンマドを自らの体を楯として敵の攻撃からかれを防ぎ護った。そのため体中に数十箇所の傷を負ったという。それもあってか、かれはムハンマドにより死後の天国行を保証された十人のうちの一人(ムバッシャラ)であった。ムハンマドの死後タルハはイスラム国家の重鎮であり続けたが、政柄を握ることはできなかった。
だから、かれもまた権力の座につきたかったのかも知れない。すなわち656年、第三代カリフ‐ウスマーン(のちのスンナ派的現実主義者)がメディナの私邸で暴徒(過激原理主義者)に
変じたエジプトからの直訴団に殺害され、これらを含む反ウスマーン派の面々の推戴によりアリー(ムハンマドの従兄弟にしてその娘婿及びのちのシーア派初代イマーム)がカリフに就くや、タルハはこれに異を唱えた。志を同じくする教友でこれまた原初期ムスリムのズバイル(ムハンマドとは母方の従兄弟で、ムハンマドの最初の妻ハーディージャの甥)と歩調を揃えたタルハは、メディナを発しメッカにいたムハンマドの未亡人アーイシャを巻き込んで公然と新カリフに反旗を翻した。かれら“三者連合”軍はタルハが大農場を経営するバスラを根拠地にしようと当地に向けて軍を進めた。一方カリフ‐アリーは、反乱軍を討伐すべくこれを追ってバスラ近郊に宿陣した。
656年12月、両軍によるイスラム最初の本格的内戦は、アリー軍の圧勝に終わった。この戦いが《駱駝の戦い》と呼ばれるのは、齢すでに四十歳を越えていたアーイシャが女だてらに自軍兵士を一頭の駱駝の上から叱咤激励していたからである。タルハとズバイルの二人は野望空しく相次いで乱刃の中で散った。アーイシャは捕縛されたが、丁重にメディナに送りとどけられた。以後かの女は《信者の母》としてムハンマドに関する夥しい数の逸話(ハディース)を伝えて22年後に亡じた。
《駱駝の戦い》の主役の一人のタルハの墓がこれであった。この墓廟の姿を今も記憶しているのは、バスラ滞在時に撮った写真数枚中の一葉であるからである。当時貴重だったフィルムをこの貧相な墓廟のために費やしたことを今にして誇りに思う。しかしごく最近に至るまでこの墓廟の存在自体を何ら不思議に思うことはなかった。ムハンマドの高弟にして原初期ムスリムの重鎮タルハへの古今のムスリムの敬愛の情がその墓廟の現出に到ったのだろう、こう漠然と考えてきた。
ところがある論文を最近読んでこの青天の認識に霹靂がとどろいた。思えばタルハに限らず原初期ムスリムには数多くの“聖人”がいるではないか。タルハだけが墓廟に祀られる道理はない。しかもかれは逆賊として果てた人物ではなかったか。このように考えた時心に閃いたのは、正にかれが“逆賊”だったからこそ祀られることになったのだということである。イスラム独特の歴史がこの墓廟を生んだのだ。決して「死ねばみな仏」の日本的情念の産物ではない。
すなわち680年、ムハンマドの愛孫でアリーの第二子フサインは、クーファで自らのシーア派政権を樹立すべくメッカから一族郎党を率いて長躯クーファ入城を目指した。ところがこの動きを逸早く知ったウマイヤ朝のクーファ総督は、大軍を派遣してこれを阻止、フサイン一行はカルバラーの地で女子供を除いて全滅した。世に言う《カルバラーの惨劇》(アーシューラー)である。
ムハンマドの愛孫の惨死は、以後総てのムスリムの永続的悔恨として今もある。特にシーア派(アリー家の者が唯一イスラム国家の長たる者と見なす)民衆にとって、カルバラーにあるフサインの墓廟への巡礼・参詣は初期から慣例化し自らのアイデンティティーのよすがともなっていた。これへの対抗としてスンナ派民衆はムスアブ・ブン・ズバイルの墓を参詣の対象とした。ムスアブとは《駱駝の戦い》のもう一人の主役ズバイルの子である。ムスアブはウマイヤ朝に対抗してメッカでカリフを宣した異母兄アブドッラーのバスラ総督であった。かれは、フサインの復讐をスローガンに短期間(685−87年)ではあったがクーファにシーア派独裁政権を樹立したムフタールを撃破して、これを殺した。
このズバイルの子ムスアブの墓廟がスンナ派民衆の参詣となるに至った過程を論証したのが先の論文であった。確かにそうなのだ。タルハの墓廟がなぜあるのか。それは、シーア派初代イマームにして第四代カリフ−アリーに反旗を翻した“逆賊”タルハだったればこそ、おそらくスンナ派宗徒によってその墓廟が造られたのだろう。写真にあるタルハの墓はその粗末な造りからして近現代のものであろうが、その思想的歴史はスンナ派とシーア派の千数百年にわたる対立・抗争に始まり今に至っている古さである。過激シーア派は、初代イマーム−アリーに弓を引いた“無信仰者(タルハ)への呪い”を未だに撤回しないという。
この拙文を記してから5年が経過した。今日のイラクではスンナ派の独裁者フサインがアメリカによって打倒されてなお、容易に“民主政体”が実現されそうにないようである。その底流にはスンナ派とシーア派の払拭し得ない歴史の相克が横たわっているに違いない。
シーア派の復権が実現する時、《タルハの墓》の運命や如何に?それとも墓は今はすでにないのだろうか。
(この文は『よこはま茶話』<明治学院大学一般教育学部付属研究所通信−第20号2000年2月2日>記載の「マホメットはテノールだったか−10−《タルハの墓》」を一部訂正・削除したものである。)
森井先生のこと (その2) 真崎 隆治
森井先生のお蔭をいかに多く蒙ってきたかは前回に書いたことでも明かだが、まだまだそれくらいでは終わらない。しかしここでは先生がふだんにはお見せにならない面をいくつか思い出すままに書いてみたい。
先生が49歳という記憶があるので、私が明学に来る以前、バッハ合唱団の合宿でのことだと思うが、豊かな自然のなかで若い団員たちと缶蹴りに興じている先生の姿を目にしたことがある。当時30歳の私からみれば、49歳というのは十分に「年寄り」といってよく、その年寄りが嬉々として、「疾風のごとく」とは言わぬまでも、脱兎のごとく駆け出すのに唖然としたことがあった。もし謹厳実直な研究者としての姿ばかり見ていたとしたら、尊敬はしても、いまあるほどの親しみは抱けなかったであろう。人間とは面白いものだ。表に見えるものがいかに偉大でも、それだけでは面白くなく、その裏にそれとはまったく異質なものを隠し持っていると、その人の存在が豊かなものに感じられるのである。つい先日お会いする機会があり、缶蹴りの思い出話をしたところ、「(八ヶ岳の麓にある別荘で散歩していて)今でも道に石ころが落ちていると蹴飛ばしているんですよ」といわれた。ものを蹴飛ばす習性があって缶蹴りがお好きだったのか、それとも、缶蹴り好きが習い性となっていまだに石を蹴飛ばしておられるのかと、おかしくなった。先生はこの10月で86歳になられた。正真正銘の年寄りである。しかし、心はいまだに若い。
森井先生はアメリカ嫌いである。もっともフランスの文学や思想に触れている者はおおかたアメリカ嫌いなのだが、先生のは筋金入りである。ある夜中、お宅に泥棒が侵入した。それに気づいて、声をかけて話しあっているうちに意気投合し、夜を徹して語りあかすことになった。なぜ意気投合したかというと、この泥棒氏がアメリカ嫌いなのであった。しかしこの話は何度も聞かされているうちに、作り話であることが分かってきた。なぜなら、話のたびに細部が付け加わり、「見てきたような嘘」であることが歴然としてきたからである。後に、なぜあんな話をされたのですかとうかがうと、答えは「なにしろあのころは閑でしたからねえ」であった。泥棒もアメリカ嫌いにしてしまう先生である、アメリカの象徴のようなコカ・コーラを飲まないのは当然であった。ところがある日、ファンタ・グレープをおいしそうに飲んでおられたので、「先生それコカ・コーラの会社のです」とお教えしたら、「いけねぇ」といわれて、以後ファンタも飲むことがなくなった。なんだか余計なことをしてしまった気がしている。
アメリカ嫌いといっても、もちろんアメリカのすべてが嫌いというのではない。アメリカにもすぐれた人々がおり、すぐれた文学や音楽があり、大きな自然がある。しかし、自らを民主主義のチャンピオンとし、世界の正義をただひとり体現しているかのごときの姿勢を容認されないのである。過去にヴェトナム戦争があり、今にイラク戦争がある。正義の名のもとに行われる不正義を先生はもっとも憎まれる。いつの時代にもそうしたことはあるが、とりわけ先生が専門になさっている宗教改革の時代には、正義の名による不寛容が支配的であった。ジャン・カルヴァンの研究家でありながら、どこかカルヴァンを疎ましく感じておられるのも、カルヴァンが語る神の正義が人間に不寛容を強制しているとお考えになってのことではないかと思う。ほんとうのところはどうなのか?この問いにたいする先生の出された答えが近著『ジャン・カルヴァン ある運命』であるといえよう。(続)