我信ず。信なき我を助けたまえ。(Mk9,24.Vgl.Par.)    吉田 泰


 てんかん症状の子どもの治癒を主イエスに懇願した父親は「できるなら私どもを憐れんで助けて下さい」といった。主イエスは「できればと言うか。信じる者は、何でもできる」といわれた。そこで父親は、我信ずと信仰の告白を吐露した。

 さて、二つのことを黙想としたい。父親の信仰告白は論理的に矛盾しているが、これこそ我らの信仰である。内省して信なき我を自覚し、我が信仰を常に人間の業として相対化する勇気と謙虚を身に帯び、主の前にあっては我信ずと告白しうる天来の真実に生かされるのである。だが、主イエスの信仰思考は全く異なっている。主の信仰には限界がない。Mt20,29が「からし種一粒の信仰が山を動かす」(Mk10,27;11,23f参照)という有名な主の言葉を物語の結語にした解釈は、それをあらわしている。またMk9,29は「祈りによらなければ」と弟子たちに告げた主の言葉を結語として人間の相対的信仰に点に通ずる「ヤコブの梯子」(Gen28,12)を架けられた。

(よしだ ひろし 所員)


在外研究雑感   大西 晴樹


 私の在外研究もすでに2年目に入り、帰国の日が近づいてきました。「ピューリタン革命と宗教的セクト運動」という研究テーマを掲げる私にとって、イギリスは史料の宝庫、いわば「約束の地」ともいうべきところなのでしょうが、逆に史料の豊かさに圧倒され、いまにも史料の海で溺死しはまいかと恐れている次第です。

 プロテスタント・メインライン諸教会の母体であるイギリス非国教主義の文書館には、マンチェスタの紡績工場の経営に成功し、自らも敬虔なキリスト者であったジョン・ライラン寄贈なるジョン・ライランズ・ライブラリ(現在マンチェスタ大学図書館が管理)、ロンドンにあるウィリアム博士記念ライブラリなどがあります。私はオックスフォード大学のリ−ジェンツパーク・コレッジの客員研究員として、コレッジが所蔵する案アンガス・ライブラリの文献を主に利用しています。このライブラリには、バプテスト派関係の資料が収められており、家への持ち帰りこそ禁じられていますが、いつでも自由に読むことができます。それから、大学図書館として有名なボウドリアン図書館(この図書館が購入する日本関係の文献はなぜか創価学会が寄贈しているとのこと)を利用したり、さらに事足りないときはには、大英博物館のブリティッシュ・ライブラリやパブリック・レコード・オフィスに足をのばしたりしています。

 これらの図書館を利用していえることは、総じて専門職のライブラリアンが親切なことです。関連文献はもちろんのこと、手書き文献まの解読が難解な場合、その読み方まで教えてくれます。ただ、私にとっての問題は、文献をコピーして持ち帰ることに逡巡せざるをえないことです。第二次文献については、イギリスは著作権保護の確立した国であり、(ボウドリアン図書館では、冊子まるごとのコピーは歓迎されません)、また古い史料もその保存状態からしてコピーには相応しくないのです。そのような訳で、私の史料の海、漂流の旅は当分続きそうです。

(おおにし はるき 所員・経済学部助教授)


賀川豊彦の「労力全酬」論   田村 剛


 賀川の膨大な著作の中に、『主観経済の原理』(大正9年6月発行 福永書店X+pp.398)という彼の経済観を展開した論稿がある。これは大部な上に、彼の著作の中でも難解なものの一つといわれるものである。

 そこには商品の価値を規定するのは労働(「労力」)であること、「資本主義の経済」における「搾取」や「階級闘争」は当然のこととして前提され、「資本家の利己心」からくる「剰余価値」、「利潤」のもたらす「危険」を回避するには、「大資本の社会化則公有」が必要であると指摘されている。このように、賀川の経済理論の筋道はマルクスの経済理論に多くを負うている。

 賀川のマルクス理解の当否は別として、彼はマルクスの一般範式を問題にして「一次方程式の常数敵函和で機械的に解釈できたら、生命そのものも、唯物史観的運命説で解釈できたと思うのは大いなる誤解であって、わたくしがマルクスの労働哲学に反対するのはその理由である」と批判する。つまり「『全世界を得るともその生命を失わば何の益あらんや』とも云はるる生命が、その日生きていけるだけの飯代の価格で値づけられる」とする賃金の「再生産費説」を否定する。賀川のいう「主観」を理解するには、労働力に関する彼の「倫理的」、「宗教的」、「芸術的」、等の諸側面の理解が不可欠だが、それは経済学の範疇を越える。ただし、彼がマルクスの一般範式について「どうせ経済学も人間の行動であるから、心理的函数を加えなくしてどうして、完全な方程式ができるであろうか?」と問題にしているが、これなどは有効函数に関する賀川独特の見解ないし解釈であったのかもしれない。

 さて、「多くの価値は需要供給によって定められて居る。然し是れは客観の価値であって、主観的に言えば、価値は矢張り労力が決定しているのである」。しかし、「今日の処では、資本家は一種の保健業のようなことをして居て、労働者の賃金は先に支払ってしまって、そして、労働者の生活を保証し製品が出来上がって損をしてもそれは黙っているというのが、資本家の保険的要素となっている。その代わり、利得があってもそれは保険屋の利益としるというのが今日の資本主義経済学の保険的要素である。」そこで、労働者がこの保険屋の昨日を担うとき、労働者がの経済的貢献に等しい賃金すなわち「労力全酬」が実現する。つまり、「保険は、矢張り、労働者が多数を占める社会における相互扶助に待つより仕方がない。そして、労働者が自己の相互扶助によって生活と社会秩序の保管を腑する様になると、そのとき初めて労力価値説は十分に認められてくるのである」。

 ここにも、賀川の世界観の核である生命体の「相互扶助」作用が登場していることに注目したい。

 本文は、賀川の経済に関する論稿の第一章を中心に彼の労働観の一部を概観したにすぎない。この著作は、彼が32歳の時に出版され、同年10月には『死線を越えて』を発表している。

(たむら ごう 所員・経済学部教授)


キリスト教に於けるフマニテートの問題    川島 堅二


 一般にフマニテート(人間性)に対する関心が明白な形をとって現れるのは、古代ローマのストア派の思想家キケロやセネカにおいてであると云われる。それは、英語のhumanity,独語のhumanitatが、「完全な発達をとげた高貴な人間の本性」を意味するラテン語のhumanitasに由来することからも明らかである。

 このhumanitasの理想は、ルネサンスの思想家たちによって新たな息吹を与えられ、やがて18世紀ドイツのフマニスムス特にヘルダーやフンボルトによって決定的な意味を与えられるに至った。ヘルダーはフマニテートを宗教性、国民性、個性、歴史性の総合であると考え、人間は国家と個性と歴史によって規定された個体としてはじめて現実の存在となると主張した。


 このおうなフマニテートの理念は、ゲーテ、シラー、レッシングらによって継承、拡充され、19世紀に至るまで文化、教育など、全ての人間的営みの中核をなすものと考えられた。しかし、二度の世界大戦を経て、一切の人間的価値が同様し、戦後現在にいたるまで人間性の本質そのものが根本的に問い直されている。その主要な試みとしては、イェーガ−やシュプランガーによる伝統的人間性擁護、バルトやブルンナーによる弁証法神学、マリタンやムーニェの新トマス派、ハイデガー、ヤスパース、サルトル、マルセルらの実存哲学があげられる。

 以上のようなフマニテートの思想史を顧慮しつつ、この度の合宿では、18世紀から19世紀初頭にのドイツ・フマニスムス、特にヘルダーと初期シュライエルマッハーにおけるフマニテートもしくはメンシュハイトの慨念に注目してみたい。上述したごとく、ヘルダーは近代的な意味でのフマニテート慨念の確立者であるし、シュライエルマッハーは、その強い影響の下で、自らの宗教思想を深化させたと考えられるからである。また両者が共に生涯にわたってキリスト教の説教者、牧師であったことも、共同研究のテーマ「ヒューマニズムとキリスト教」に相応しい研究対象であると思う。

(かわしま けんじ キリスト教研究所研究員)


キリスト教主義教育−学校におけるキリスト教教育−    長村 亮介


☆第一章 「キリスト教教育」と「キリスト教主義教育」

 今日あるキリスト教主義の呼称は、第二次大戦下につくられたMission Schoolからの「キリスト教主義」を、更にChristian Schoolからの「キリスト教主義」に読みなおし、「キリスト教教育」を「キリスト教そのものではないキリスト教の立場からの教育」への変容に対応させたものとなっている。しかし、そこで用いられている呼称とその内容は、日本の「キリスト教(主義)教育史」のなかで、どのような意味をもつのであろうか。

*1節「キリスト教教育」の目的

 「教育」とは「人間形成」であるということは一般に認められている。従って「キリスト教教育」の目的は「キリスト教的な人間を形成すること」である。この場合「キリスト教主義教育」は「キリスト教学校」の目指す「教育」であり、「キリスト教主義教育」は「キリスト教教育」の範疇に位置付けられる。

*2節「キリスト教教育」の現状

 キリスト教学校にとっての戦後の復興に、戦前の「キリスト教教育」の反省や展望を考える余裕はなかった。結局時勢に追われ、新しい学制改革に即応しての組織形態の再編成とその拡充のみが先行する結果となった。その中で、当初より「キリスト教信仰理解」の道徳的・理想主義的傾向の強かった「キリスト教教育」は、その人格性慨念の非聖書的認識、また「キリスト教教育」としての「使命」の不明瞭さによって、その独自性(聖書の使信ー福音)を改めて問われるという事態になった。

*3節 現状認識からの2つの理解

 2節に述べた現状認識の視点から二つの方向性に向かう理解が現れた。一方は「キリスト教学校」の教会における神学的基礎づけ」の論議が高まり、他方は「学校教育」の固有性と自立性を主張する立場である。

a.「キリスト教学校」(高崎毅)

 教会とキリスト教学校は、この世の問題に向けて積極的に発言できる人間の形成に、領域を異にしつつ等しく関与しているのであり、「キリスト教学校」はそういう意味で教会の宣教行為によって支持されなければならない。

b.「キリスト教学校教育」(松村克巳)

 キリスト教主義とは、キリスト教そのものとも違うし、また福音そのもの、信仰そのものでもなく、しかもそれらと切り離しえない関係にある。しかし、ここでは学校教育の場に身をおいて、学校教育を可能にする諸条件、諸原理を基礎にしつつ、キリスト教諸原理の主体的内在化を意識するものである。

予定

 第二章 キリスト教学校のキリスト教教育

 第三章 「建学の精神」に問われたもの−学生運動から−

(おさむら りょうすけ キリスト教研究所研究員)


『あんげろす』9-1号に戻る>  <Menuに戻る