天使は歌ったか  斉藤 栄一


 天使が歌を歌ったなどとは聖書のどこにも書いてない。しかし中世以来、ヴィオールやリュートを手にし、あるいはオルガンに合わせて歌う天使の姿が数限りなく描かれ続けてきた。今でも、子どもが澄み切った声で歌うと「天使のような歌声だ」と言う。『ファウスト』の中で主人公が、「永遠に女性的なるもの」を褒め称えながら昇天してゆくとき、そのまわりで賛美の歌を歌うのも天使たちである。天使たちの歌声とは畢境、いかなる神学的な思念によっても、いかなる深甚な祈りによってさえも表せないような、私たちの奥深いところにひそむある純粋なものへの憧憬を、私たちが無意識のうちに託したものなのかもしれない。

(さいとう えいいち 所員)


「明治学院の将来像を考える21世紀フォーラム」と共生    三浦 恵次


 わたくしは最近、「戦争と宣伝」の問題に少し興味をもっていますので、明治学院国際平和研究所発行の「平和研レポート」を楽しみにまっております。いま読んでいる第三号には坂本義和先生の「民主主義の地球化」という論説(神奈川新聞、1993年4月30日付)が添付されています。これを読んで、民主主義の地球化のための『共生』の原理を教わりました。坂本先生はこう述べています。「・・・国連も民族の『自決』というだけでなく、民族の『共生』という観点から、民族差別による人権侵害への国際的な批判と介入という役割を増やしつつある」と。場違いの発想とは承知の上で、こう言い換えさせていただきます。「明治学院は、大学、高校、中学の『自決』というだけでなく、それぞれの発展を促す役割を増やしつつある」と。

 ところで、明治学院の現状はどうでしょうか。結論的に言いますとわたくしは明治学院がこのような役割を充分に果たしているとは思いません。この結論を検証する前に、まず1993年度明治学院勤務員研修会の記録により、中学・高校の各種の教育実践を簡単に要約してみます。

(1)中学・高校は大学の制約が大きくとも、教育のアイデンティティの樹立に努めてきた。

(2)そのアイデンティティさえも失いかける重大な試練の中で人格教育を模索してきた。

(3)「入試のない教育」をスローガンに掲げつつ、選別教育や差別教育を廃止してきた。

(4)いくつかの地域や団体との協調・連帯を通して、歴史教育、平和教育、福祉教育などに取り組んできた。

 大学は以上の中学・高校の教育実践を、どのように理解しているのでしょうか。案外、理解がすくないのではないでしょうか。ましてや、各種の教育実践の中で優秀な生徒や功労のある生徒たちを大学が受け入れることなど、大変難しいようです。はっきりいいますと、大学のこのような理解には、それこそ『共生』の原理が欠落していること。たしかに、明治学院には大学と中学・高校との一方的な関係があります。『共生』の原理に立つと、その関係を中学・高校から見なければなりません。ひとつの貴重な例を挙げさせていただきます。明治学院にも身を粉にして『共生』の原理を実践した先生がおります。敬虔なクリスチャンで、社会学部教授、東村山中学・高校の人格教育の基礎をつくり、その意味合いを大学に理解してもらうよう努力されました。

 明治学院にはいまや、この『共生』の原理の実践に共鳴できる勤務員の輩出が期待されています。『共生』の原理から、多くの勤務員が議論し、理解しあう場として、「明治学院の将来像を考える21世紀フォーラム=学院勤務員代表者会議」の構想の実現を願うのは、わたくしだけではないと思います。

(みうら しげじ 社会学部教授)


共同研究「ヒューマニズムとキリスト教」に参加して    川島 賢二


 このプロジェクトの研究テーマは、私が神学校在学時より、ルターとエラスムスの自由意志論争、バルトとブルンナーの自然神学論争の主題として、また信仰と理性、自然と恩寵、特殊啓示と一般啓示との関係の問題として関心を寄せてきたテーマであった。ルソー『エミール』の「サヴォワ助祭司の信仰告白」で少し大げさな言い方をするならば、最初の回心を経験した私にとって、自然神学とヒューマニズムの問題は、切実な課題でもあった。2年間、恵まれた研究環境を整えられて、このテーマに没頭できたことは、感謝にたえない。

 研究成果の詳細は、この2年間に発表した2つの論文(『日本の神学』32号とキリ研の紀要26号所収)を見ていただくとして、これで研究員に採用される際、審査の対象となった論文と合わせて、初期シュライエルマッハーに関する三部作を公にすることができた。その意味では、今後の研究生活の基礎作りをさせていただいた2年間でもあった。

 プロジェクトとして心残りは、同じテーマですでに研究成果を発表している上智大学のグループとの交流など、個人の枠を超えた活動へ展開できなかったことだが、今後の発展に期待したい。

 所長の中山先生、プロジェクトの長として様々な研究の便をはかってくださった吉田先生、澁谷先生はじめ所員の諸先生方のご指導に心より感謝いたします。

(かわしま けんじ キリスト教研究所研究員)


2年間に感謝して  長村亮介


 私がキリ研の研究員として学ばせていただいたテーマは「キリスト教主義教育研究」でした。私は実際には学校教育の経験はありませんので、教会の一牧師としての立場で、これからのキリスト教学校教育に教会からの期待を込めて、今日の「キリスト教主義教育」を考えさせていただきました。

 「キリスト教主義教育」を「キリスト教そのものではないキリスト教の立場からの教育」と定義させていただきますと、その始まりは、キリスト教が禁止されていた明治初期に行われた、ヘボンら宣教師たちの英語教育を思い出すことができます。

 「キリスト教主義教育」ということばから様々な理解があると思いますが、この教育の本来の意味は、「キリスト教そのもの」を伝え教育する上で、キリスト教そのものでない諸学科をキリスト教の立場から教育する可能性を拓くものであったはずですが、今日、このことばは、ただ、「キリスト教そのもの」を伝えないことを言っているようで残念です。

 「キリスト教」そのものの教育の目的は、「神の前に立つ人間」の形成にあります。「キリスト教主義」ということばから「キリスト教」が一つのイデオロギーと誤解されがちですが、「神の前に立つ人間」は、様々なイデオロギーを受け止めつつ、しかも絶対化することのない人格を保証するもので、この保証があってはじめて、普遍的な真理追究が可能となるのです。

 私達は、この「キリスト教教育」を維持発展させるところに、まもなく訪れる21世紀への希望が約束されていると信じます。

(おさむら りょうすけ キリスト教研究所研究員)


*川島・長村両研究員には、92・93年度の2年間にわたって、研究所のプロジェクトに参加・ご協力いただきました。ここにお二人の働きに感謝するとともに、今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。


キリスト者なきキリスト教主義教育は可能か    中山 弘正


 学長クリスチャンコード撤廃は、キリスト教人格教育という建学の精神を捨てるものではなくむしろ一層活発化させるものだ、と主張されていた。しかし今回の学長選挙の状況は「キリスト教主義教育」の問題はまるで存在しなかったかの如きではなかったか。

 「キリスト教主義教育」−この表現は公式にはどこにもないが、「キリスト教による人格教育」という本学院大学の理念(学則第一条)の実現をめざす教育を意味することにするーについては多様な回答がなされうる。しかし今の私にとり唯一確信をもっていえることがある。それは「キリスト教者教員が全くいないではキリスト教主義教育とは何かと問うことすら出来ない」ということである。キリスト教主義教育とは、それが何かと問うことのできる場を出発点とするものであろう。このことを最重要のこととし、さらに1992年1月の有志声明(12月14日の連合教授会における福田学長の要請に対する私達の提言)を加味し、私は学長クリスチャンコード問題解決への7条件を提案したい。

 @専任教員中のキリスト者の比率をこれ以上減らさずにイジするため、各学部(一般教育部も含む)とも教員任用の少なくとも5人に1人は必ずキリスト者とする(5・1クリスチャンコード)。

 Aキリスト教学教員(この教員グループは当然皆キリスト者であるべきであり、先の5・1クリスチャンコードの計算には算入されるべきではない)及びキリスト教学カリキュラムの少なくとも現状規模の維持。

 B学長がキリスト教主義教育の尊重・継承・発展を誓約する儀式を学院チャペルで全学院的に行う。

 C「キリスト教主義教育委員会」(仮称)を常設し、全学でキリスト教教育カリキュラムの充実・発展に努力する。

 D従来のキリスト教式の諸行事・催しごとの維持・発展をはかる。

 E宗教部を拡大し、宗教活動を強化する。例えば、チャプレン制を導入し、大学チャペルでの聖日礼拝を発足させ、維持する。また、宗教部長は理事会に陪席し、学内のキリスト教活動について理事会との意思の疎通をはかる。

 F副学長の一人をキリスト者教員から選び、Cの委員会の主催者とし、理事会構成員に加える。

 以上の全てが制度化されれば、私は学長のクリスチャンコード撤廃の環境は一応整うと考えたい。むろん制度はそこに盛られる精神によって意味を持つ。しかし、人間の弱さは制度による保障も必要とする。そうして、私たちは大学の全構成員で協力してキリスト教大学の新たな創造に歩を進めることが出来るのではなかろうか。そのときには、真に高い意味で「割礼(洗礼、と呼んでよかろう)のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」(ガラテア書6−15)という状況に接近することが出来るかもしれない、人間的努力によってではなく、ひたすら主イエス・キリストの力によって。

(なかやま ひろまさ 所長・経済学部教授)



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