地上の必要な天使 新倉 俊一
18世紀末のスゥエ−デンボリーやブレイクたちを最後に、超自然の天使たちの姿は歴史から消え去ってしまったかのように見える。しかし、20世紀の文学には新たに実存的な装いを借りて、天子は再び甦った。たたとえばリルケの「ドゥイノの悲歌」に歌い上げられている構図が典型的である。「たとえ、私が叫びを上げたとて、天使たちの序列のうちだれが、聴いてくれるだろうか」(第一歌冒頭)と、反問の形でリルケは人間の天使に代わる役割を描き出している。アメリカの実用主義的な風土の詩人スティーヴンズは、さらにこれを「地上の必要な天使」と明確に位置付けた。
形こそちがえ、いつの時代でも「天使」が和解の使者の比喩であることには変わりない。
(にいくら としかず 所員)
所長就任にあたって 加山久夫
明治学院大学キリスト教研究所は1984年に機構改革を行い、それまでキリスト教学教員のみが所員として所属・運営していた状態から、全学(部)的なものになりました。この間に所員は30名を数えるようになり当然のことながらその専攻分野も実に多岐にわたることになりました。また、それぞれが学内外での多忙の仕事を抱えた上での兼務であることでもあり、「広くキリスト教を学問的に研究し、学内におけるキリスト教精神の振興に寄与すること」を目的とする研究所の活動はなかなか容易ではありません。しかし、これまで所長・主任を務めてこられた諸先生方の指導のもとに、所員の専攻分野の多様性が研究所の大きい資産となって、学内外に少なからざる寄与ができるかたちになりつつあるのではないかと思います。殊に過ぐる2ヵ年の間、中山弘正所長の有能かつ献身的なご努力によって研究所の活動は一段と活発なものとなりました。私ども一同、中山先生の労に心から感謝いたします。
この度、はからずも不肖私が所長の任を引き継ぐことになりましたがこれまでの方向を継承しつつ、研究所に付託されたはたらきのために微力をつくしたく存じます。所員はじめ関係の方がたのご協力を切にお願い申し上げます。私見では、研究所としての重要な課題の一つは、現在進められている5つの研究プロジェクト(「キリスト教主義教育研究」、「古代キリスト教とヘレニズム思潮」、「賀川豊彦研究」、「東アジアにおけるキリスト教」)を中心とする研究活動の充実した展開です。このような共同研究方式が新たなテーマを掲げてますます盛んになるよう期待しています。つぎに、毎年数度の公開講演会を開催していますが、これまでテーマによっては国際平和研究所その他との共催の形で行ってきました。このような協力関係は学内活動をより有機的に進めるうえで今後ますます積極的な意味をもつのではないかと考えます。さらにまた、本学におけるキリスト教主義教育や明治学院の将来像などについて研究所外からも貴重な提言をいただいてきましたが、このようなコミュニケーションが今後ますます広がり深められてゆくために、本研究所がそのためのひとつの開かれた場としての機能を果たすことができることを望んでいます。本学においてキリスト教がさまざまの面から問われている状況において、キリスト教研究所に期待されている役割はますます重要になってきているのではないかと思います。皆様のご支援を心からお願い申し上げます。
(かやま ひさお 所長・一般教育部教授)
ナルニアよ、目覚めよ、愛せ! 中山 弘正
2年間のキリスト教研究所の活動を振り返ると様々のことが想いだされてくる。宋富子さんの一人芝居、弓削達先生のローマ史研究についての講演や森井眞先生の学徒出陣50周年記念講演といった行事、また研究員の方々を交えての合宿研究会がすぐ想いだされる。とくにマリンズ所員が熱心にリードしてこられた「東アジアにおけるキリスト教」の合宿研究会の最中に、マイケル氏(聖学院)が突然倒れられ、そのまま召天されてしまった悲しい出来事はとうてい忘れることができない。
川島、長村両研究員の報告をはじめ、毎回の研究発表は本当に充実したもので、いろいろと広い勉強ができて嬉しかった。川島氏がこの春からある大学に専任のポストを得られたことも研究員制度のメリットをしみじみと感じさせるものであった。因みに以前研究員をしておられた高橋涼子氏もこの春ある大学に専任で迎えられている。
長村研究員が加わって下さった「キリスト教主義教育研究」のプロジェクトは、数年来のこの問題をめぐる学内の激しい論争に建設的な提言をすることを願いつつ発足したものである。少人数のチームで、いまだ本格的な提言ができるほどの成果をあげたとはいえないが、このプロジェクトとも関係しつつ、合宿研究会のたびに、この問題をめぐっていろいろの方々のざっくばらんな提言を中心に率直な討論をしあえたことは、私自身、本学院の今後とるべき方針について考えをまとめる機会ともなったのである。「キリスト者なきキリスト教主義教育は可能か」(『あんげろす』第6号)もそのひとつである。
理事会の中に「キリスト教主義教育検討に関する委員会」という諮問委員会があるが、これを「キリスト教主義教育推進委員会」として、常設委員会にし、いろいろの政策を立案し推進する拠点にしたいと考えている。その一つには横浜チャペルの「教会化」(日曜日に教会活動を営む)、そのための専任牧師を法人としてポストをつくり、大高中の宗教部の統括もしていただく、また、卒業生や教職員関係者の結婚式、葬式なども司式していただく、といった方針を樹てている。こういったことをはじめとして、キリスト教主義教育を推進していく環境が充分整っていくことがわかれば、理事会と大学との間のトゲのようになっていた学長クリスチャンコード問題も自ずと解決の見通しがついてくるであろう。
水落・畠山両主任、槌谷副手という方々には本当にいろいろとお世話になった。加山所長のもとで研究所が一層大きな発展をとげることを心から願っている。
ナルニア、ナルニア、ナルニアよ。目覚めよ、愛せ。
(なかやま ひろまさ 明治学院学院長・キリスト教研究所前所長)
研究員としての抱負・自己紹介 ラルフ・ジルケ
去年の9月に明治学院大学で研究するために来日しました。ハンブルク大学で日本学科の勉強をして、去年7月に卒業しました。
修士論文を書いた後でもっと深い研究をしたくなったので今は博士論文を書こうと思っています。テーマは「賀川豊彦と労働運動・組合運動−キリスト者としての視点から−」です。
賀川豊彦は農民運動・労働組合運動・消費者運動・共同組合運動などの色々な社会運動に参加しました。キリスト教の影響が強かったです。賀川豊彦を批判できる面もあるのは言うまでもないけれども、かれ は理論的に防貧について話したり、書いたりするだけでなくて理想を実現するために実践しました。
博士論文を書くことについての計画は3年間以上論文を書くことです。そのために詳しく資料を捜したり、本を読んだり、文責をしたりしなければなりません。そしてこの研究の結果はどういうふうになるのかもちろん今のところはわかりません。けれども研究の条件にもよります。私にとっては、賀川豊彦自身が勉強した明治学院大学に特にいい条件があると思っています。今までも大変お世話になりました。
(らるふ じるけ 経済学部特別研究員・キリスト教研究所研究員)
ギリシア思想とキリスト教−研究員就任の挨拶に代えて−
今井正浩
ギリシア思想といっても、その内実は多様なパラダイムが交錯する複雑な構造をもっている。単一に見える問題も、思想しのどの局面に定位するかによって、当然異なった様相を呈してくる。ここ数年来、古代ギリシア医学を当時の思想史展開の全体的文脈の中に構造的に位置付けるという視点から考察を進めてきた。初期以来、ギリシアの哲学者・思想家たちの重要な関心事のひとつに、「人間の本性(フュシス)」に対してどのような原理的説明を与えるかという問題が存在した。「人間の本性」について語ることは必然的に魂(プシュケー)について問うことを意味し、さらに魂についての問いは身体についての問いをおのずと合意している。ここに、医学思想と哲学的探求とが接近する重要局面が存在する。
身体と魂をめぐる問題はそのままキリスト教思想へと受け継がれ、複雑な自己発展のプロセスの中でさまざまな問題を生んだ。とくに初期キリスト教思想の問題場面に定位していて、身体の問題がどのような局面において浮上してくるか、また当時の医学的身体論との関係について検証を行いたい。これによって、たとえばガレノス医学が中世キリスト教思想への展開の中で公認の医学的教説とされていく思想史的プロセスに、何らかの手がかりを得ることになろう。
(いまい ひろまさ キリスト教研究所研究員)
『大学の神学−明日の大学を目指して−』(古屋安雄著、ヨルダン社、1993年)
大西 晴樹
青年人口の減少と設置審の大網化をうけて、今日ほど大学改革が議論される時代はないであろう。本学においても、学長のクリスチャン・コード問題、教学改革の問題を抱え、新しい時代にふさわしい大学つくりに生みの苦しみが続いている。ICUの教授・チャプレインである著書による本書は、「明日の大学を目指して」という副題をもち、その出口を模索する点で、同じキリスト教大学に勤務するものとして心よりその出版を喜びたい。
本書は3つの主要な部分からなる。第一に、著者の母校であり、本学にとっては学祖のひとりヘボン博士の母校であるプリンストン大学の学校史。第二に、アラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』に触発されて、現代の学問における危機的状況を指摘した部分。第三に、著者の主張である「大学の神学」に言及した部分である。他に、最初の章において現代の大学の危機を一般的に論じ、最終章で、アジアのキリスト教大学との連携の強化を訴えているが、これらは、あくまでも本論にとって補佐的な役割を果たすにすぎない。
第一のプリンストン大学史であるが、もっとも読み応えのある箇所であった。アメリカの「大学らしい大学」であるプリンストンを、著者は、母校愛に掻きたてられながら見事な筆致で描きだしている。歴代学長の息遣いすら伝わってくるといっても過言ではない。それとは対照的に論理的に無理があると思われたのが、ブルームに乗じる形で、アメリカの大学に浸透した「ウェーバー、ハイデッカー)をナチズムを助長した歴史的相対主義、価値的相対主義として断罪し、他方で、ナチズムに抵抗したテイリッヒ、バルトの神学を称揚する。そのうえ、高坂正顕まで持ち出してきて、「哲学」はもはや行き詰まっており、大学の「神学」の必要性を訴えるのである。しかし、ドイツのイデオロギーだけが、ブルームのいう「学問の危機」の元凶なのであろうか。むしろ英米の伝統にある功利主義、快楽原則主義はどうなのか。日本における天皇制への対峠を考えるなら、獄死した三木清や河上肇の「哲学」を称揚することはできても、アジア侵略に手をかした当時のキリスト教学校の指導者の「神学」を批判的に吟味することなしに、このような結論を下すわけにはいかないのである。
第三の議論は、トレルチの神学による「文化統合」に示唆を受けながら、著者みずから大学批判と同時に大学形成としての「大学の神学」を展開している。筆者には、学問批判としての神学の役割は理解できても、創造、若い、救贖の三位一体論を自然、人文、社会科学に当てはめることには納得がいかなかった。キリスト教大学においては、真理探究の基にイエス・キリストが捉えられていることが肝心なのであって、神学が学問領域を包摂することはできないように思われるからである。
(おおにし はるき 所員・経済学部教授)