表紙メッセージ 山崎 美貴子
在宅で末期ケアのあり方について学ぶ機会が与えられ、その研究のために、この夏、スェーデン、デンマークにおける実践について学ぶために小さな旅をした。
ホスピスケ病棟でのチーム・ケア、在宅での末期ケア、それを支えるスェーデン、デンマークでのさまざまな在宅ケアシステムが地方自治体単位で実践されていた。
特にスェーデンにおける地方都市でのエーデル改革以降の変化はその前に進められているイギリスでのコミュニティ。ケア改革法と対比しながら考えるべき課題が山積していた。
ところで、死を目前にしてホスピス病棟で毎日毎日をかけがえのない1日として過ごす病棟での一人一人の姿は、余りにも「静か」であった。静かに、まるで時間がとまっているかと思うように淡々と過ぎているかに見えた。花に水を細い手で注いでいる人、静かに祈りをささげている人に手を重ねて、共に祈っている姿は余りにも静かであった。
病棟内でスタッフとの介護を持たせていただいたとき、この「静かさ」について討議することとなったのである。
どんなに医学・福祉が進んでも、「祈る」こと、「癒される」こととそして「深く沈む死への準備」への支援がその中に含まれ、中核にすえられていることの大切さを学ぶ機会であった。
(やまざき みきこ 所員・社会学部教授)
K.D.ブラウン氏講演会
「北アイルランド問題」について 大西 晴樹
北アイルランド問題といえば、われわれ日本人にとってはるか彼方の、キリスト教の不寛容さを代表する出来事としてしばしば引き合いにだされる。「キリスト教が「愛」を説くのだったら、どうして、北アイルランドのカトリックとプロテスタントはいまなお互いに血を流し合っているのでしょうか」といった具合である。この問題は、社会科学者として植民政策論の研究に励んだ矢内原忠雄がイギリスとアイルランドの関係を日本と朝鮮の関係にたとえたように、宗派抗争だけでなく、植民地問題としても説明されるべき問題である。ところが、近年あまりにもテロが横行(1969年以来テロによる犠牲者は3,000人を越え、何と3日に一人の割合で殺害されている計算になる)し、その犠牲者の数の前にキリスト教不寛容論はますます説得力をもっているのである。
このようなとき、信仰者でありながら、社会科学者であるブラウン氏がこの問題を取り上げたことは実に有益なことであった。ブラウン氏は、北アイルランドのベルファスト市にある名門クィーンズ大学社会経済学部教授で、20世紀イギリス労働運動史に関して幾多の業績を持つ著名な学者であり、日本学術振興会招聘研究員として初来日された。今回の受け入れ機関は本学経済学部であり、5月18日に本学キリスト教研究所と国際平和研究所共催で「北アイルランド問題」を論じていただいたのである。氏はまた、熱心なキリスト者として、ベルファレスト市のご自宅の家庭集会から始まった教会の牧師の一人であり、その教会には、長年にわたる憎悪をイエス・キリストの福音によって和解すべく、プロテスタント、カトリックの双方から人々が集っている。したがってこの講演は、歴史・社会・党派の冷徹な分析のなかにも和解をのぞむキリスト者の心情が見え隠れしたものであった。
われわれ日本人にとって、直面する問題にはかならず解決の道が用意されていると考えるのはごく自然の思考習慣である。解決されないのは、問題のたてかたが悪いか、有効な手立てが提供されていないかのいずれかであると考えがちである。私の観察では、当日の出席者は全員その解決の道が講演の中で示されることを期待して参加したのではなかったか。ところが、ブラウン氏の講演は、現在の北アイルランド社会を分析すればするほど、そのような楽観的な見通しから遠ざかっていくことを教えた。
この夏、カトリックの非合法組織IRAは、非暴力平和宣言を出した。まったく予断を許さないが、その推移を見守りたいものである。
なお、この講演は、10月に刊行予定の『明治学院大学キリスト教研究所紀要』第27号に掲載される。
(おおにし はるき 所員・経済学部教授)
公開講演会
「現代科学とキリスト教−科学は価値中立的でありうるかー」(要旨)
講師 隅谷三喜男氏(東京大学名誉教授・日本学士院会員) 加山 久夫
現代科学が合理性と客観性を二つの柱として今日に至る発展を遂げてきたことは確かである。具体的には、近代科学はドイツを中心とする西欧、特にプロテスタント文化圏において発展をみたが、それは聖書の創造物語に基づく創造者/被造物信仰に大きく起因しているといえよう。それがすべてのものを神の被造物とすることにより被呪術化、合理的対象化したからである。しかし、皮肉なことに、そのようにして生まれた地動説や進化論は教会の指導者たちとの間に摩擦を生じるところとなった。
明治期にキリスト教が日本に入って徐々に広がり始めた明治30年代、特に知識人にとって大きい問題は、キリスト教と進化論の問題であった。キリスト教は近代科学思想と矛盾するというキリスト教批判のために進化論を引き合いにだす向きもあった。
しかし、科学はつねにある仮説のうえに立って理論を組み立てる。時代と共にその仮説では説明できない事柄が現れると、新たな理論を必要とする。科学、ことに社会科学は仮説性を免れない。歴史家は、歴史を書く際、何が重要かについて判断し、歴史像や、価値と関わっている。専門分野である労働経済において、労働も一つの商品とされてきたが、それはそれとして正しいとしても、労働は労働者と分離しえないものである点で他の商品とは異なる。今日、学問は客観的な価値大系だけで構築できるのか、再検討がせまられているのではないか。
学生時代に、マルティン・ブーバーの著書『我と汝』に出会って深く示唆を受けた。現代社会はしかし、洪水のように情報を提供し、「我とそれ」のなかに埋没しているのではないか。現代科学も同様ではないか。教育の場で、人格的な「我と汝」が強く要請されている。
われわれが<生>を考えるとき、ヨコ軸とタテ軸が必要である。対象を客観化するヨコ軸の世界(学問、科学)と共に、価値を問い真理を問うタテ軸の世界が求められる。自然科学とキリスト教の衝突というとき、それはヨコ軸の中で生じたのである。しかし、キリスト教は本質的にタテ軸の世界を提供している。「現代科学とキリスト教」という場合、タテ軸とヨコ軸の関係をさし示すのである。
以上が、隅谷三喜男氏の講演の要旨(文責筆者)ですが、学内外の多数の聴衆に深い感銘と刺激を与えるものでした。数名の方から、主として氏のヨコ軸とタテ軸の関係づけに質問があり、お答えいただけたことは幸いでした。この講演のテーマは、本研究所の共同研究プロジェクト「キリスト教主義教育」での論議から新たに提起され問われてきた問題です。近い将来、「学問・人間・キリスト教」というより包括的な主題のもとに本講演の内容も活字にして、より広く読んでいただきたくねがっています。
(かやま ひさお 所長・一般教育部教授)
<キリスト教研究所7月一泊研究会 発表要旨>
キリスト教概説の多様化について 橋本 茂
学長のクリスチャン・コードの撤廃運動の次は、各学部のカリキュラムの再編成と連動した「キリスト教専門科目」や「キリスト教概説」の選択科目化であろう。これにどう対処するかが、我々クリスチャン教師の課題であろう。キリスト教関連科目の必修をキリスト教主義が保持されているかどうかの重要な指標と考えるなら、これらの科目の必修は守るべきということになろう。しかし、ここでは必修か選択かという問題に直接関わる前に、日頃一人のクリスチャンとして「キリスト教概説」について考えていることを述べてみたい。
(1)現在専任の教師は7名いるが、そのうち6名は、神学、宗教学、哲学の出身である。また多くの非常勤講師も同じような出身の方々である。もちろん、学生に聖書を中心としたきリスト教理解を得させるという教育方針からそのような人選がなされていると思う。
(2)しかし、学生のキリスト教理解への道は多くあっていいのではないか。キリスト教は長い歴史を通して、その信仰の果実としての多くの諸文化を残してきた。そうした文化への理解を通して、キリスト教理解へと向かう方法があるのではなかろうか。私自身が一人のキリスト者の小説を通してキリスト教の信仰を得たものであるから、特にそう感じるのかもしれない。
(3)従って、キリスト教概説という科目の中に、例えば、次のような講義があっていいのではないか。
@キリスト教の歴史−特にキリスト教と日本−
この講義の担当者はクリスチャンで歴史学畑の出身者が望ましい。
Aキリスト教と文学−西洋文学の場合と日本文学の場合−
対象としてドストウエフスキーや、トルストイ、また椎名麟三や遠藤周作などを取り上げて文学と信仰について講義する。 担当者は文学畑出身ということになる。
Bキリスト教と音楽−宗教音楽ー
バッハなどの音楽を取り上げ、時にはチャペルのパイプオルガンなどを使用して授業する。もちろん担当者は音楽畑の出 身ということになる。
Cキリスト教と絵画
Dキリスト教と社会事業
E聖書の歴史
F聖書と人間 等等
ということは、キリスト教関連科目の担当者はもっと多様な畑の出身者によって構成されていいのではないかという主張にもなる。
(4)現在の授業でもこれらのテーマは断片的には取り上げられていると思う。しかし、ここでは、そのテーマを年間を通して講義することになる。
(5)このような内容の講義を専任教授、非常勤講師によって学生に提供する。学生はこれらの講義の中から最低一つを選択必修として選択する。
以上が日頃考えていたことをあまり整理しないままに書いたものである。もちろん、キリスト教関連科目担当の先生方によって、これと似た案が出されているようであるので、私の案も大きくは間違っていないものと安心している。ただ、私の提案は、キリスト教への理解への道を多様化し、その選択を学生に任せた点にあると思う。
(はしもと しげる 所員・社会学部長)